殺到する召命
1972年から1973年までの間、聖ピオ十世会にとって唯一の使徒職はイギリスとカルフォルニアだけであった。ただし、フランスのマルヴィエールにあるリュス・クネット(Luce Quenette)女史経営の女学校のためにオラニエ神父は慎ましい指導司祭の任務を担当していた。マルヴィエールは、冬のある日には、スキーを使わなければこの学校付指導司祭も辿り着くことができない程の人里離れた村である。
しかしながら、エコンでは召命が殺到し始めた。ある者は増大する評判によって引き付けられて来たり、又ある者は(当時フランス国内には依然として数百名いた)叙階当時のミサに忠実であり、教義的に信頼の出来る司祭たちによって送られてきたりした。
1971年10月には、27名の新入生が入学し、その中の大多数はフランス人であった。例えば、ピエール・アルマン・ダルジャンソン(Pierre Armand d’Argenson)、ディディエ・ボンテール(Didier Bonneterre)、ルイ・ポール・デュブル-ク(Louis-Paul Dubroeucq)、そしてモーリス・モニエ(Maurice Monier)などである。またスイスからは、ジュネーヴ出身で、プロテスタント牧師の息子ドゥニ・ロックと、さらにニューヨークからは既に述べた私たちの友人3名がいた。
1972年収穫の“製造酒”を受け入れるために、エコンでは十分な場所がないだろうと心配したルフェーブル大司教は、しばらくの間ヴァル・ダオスト(Val d’Aoste)での霊性学年度設立について思索した。彼はオヴィディオ・ラリ(Ovidio Lari)司教からそのための認可を受けたが、それにも拘らず、1972年10月に入学した35名の新入生たちは霊的生活入門をエコンで開始した。彼らは、イギリスや、ベルギー、フランス(ドゥニー・クワッフェ [Denis Coiffet]、ジャン・ミシェル・フォール [Jean-Michel Faure],フィリップ・ル・ピヴェン [Philippe Le Pivain] など)、イタリア、スイス、そしてドイツというヨーロッパの六カ国から来た。
ドイツではカトリック教会内の革命に対する抵抗は、1965年の降誕祭の少し前、ミュンヘン大学のラインハルト・ラウト(Reinhard Lauth)教授による超越哲学の講義の一つから始まった。そのとき以来、数を増す学生のグループはカトリック教会における危機について研究する為この教授の下に集まり、聖伝のミサの存続を支持した。このグループの中には、シュヴァ-ベン(ドイツ南西部地方)人で数学科の学生であるフランツ・シュミットバーガー(Franz Schmidberger)と、プロイセン出身の哲学生クラウス・ヴォッザック(Klaus Wodsack)がいた。
1972年、この2名はエコンに入学した。スイス連邦評議会の議長であるロジェ・ボンヴァン(Roger Bonvin)氏は、教室などに使う部屋がある新築の「聖ピオ十世の棟(ウィング)」を視る為に、神学校を訪問していた。二番目の宿泊用ウィングが1973年に増築された。スイス(中北部)のツーク州から来たジョゼフ・ビズィーク(Josef Bisig)を含む、ドイツ語を話す新入生たちが、ますますはるか遠方に旅する大司教の為に、ドイツやドイツ語圏のスイスを開拓することになる。
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
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1972年から1973年までの間、聖ピオ十世会にとって唯一の使徒職はイギリスとカルフォルニアだけであった。ただし、フランスのマルヴィエールにあるリュス・クネット(Luce Quenette)女史経営の女学校のためにオラニエ神父は慎ましい指導司祭の任務を担当していた。マルヴィエールは、冬のある日には、スキーを使わなければこの学校付指導司祭も辿り着くことができない程の人里離れた村である。
しかしながら、エコンでは召命が殺到し始めた。ある者は増大する評判によって引き付けられて来たり、又ある者は(当時フランス国内には依然として数百名いた)叙階当時のミサに忠実であり、教義的に信頼の出来る司祭たちによって送られてきたりした。
1971年10月には、27名の新入生が入学し、その中の大多数はフランス人であった。例えば、ピエール・アルマン・ダルジャンソン(Pierre Armand d’Argenson)、ディディエ・ボンテール(Didier Bonneterre)、ルイ・ポール・デュブル-ク(Louis-Paul Dubroeucq)、そしてモーリス・モニエ(Maurice Monier)などである。またスイスからは、ジュネーヴ出身で、プロテスタント牧師の息子ドゥニ・ロックと、さらにニューヨークからは既に述べた私たちの友人3名がいた。
1972年収穫の“製造酒”を受け入れるために、エコンでは十分な場所がないだろうと心配したルフェーブル大司教は、しばらくの間ヴァル・ダオスト(Val d’Aoste)での霊性学年度設立について思索した。彼はオヴィディオ・ラリ(Ovidio Lari)司教からそのための認可を受けたが、それにも拘らず、1972年10月に入学した35名の新入生たちは霊的生活入門をエコンで開始した。彼らは、イギリスや、ベルギー、フランス(ドゥニー・クワッフェ [Denis Coiffet]、ジャン・ミシェル・フォール [Jean-Michel Faure],フィリップ・ル・ピヴェン [Philippe Le Pivain] など)、イタリア、スイス、そしてドイツというヨーロッパの六カ国から来た。
ドイツではカトリック教会内の革命に対する抵抗は、1965年の降誕祭の少し前、ミュンヘン大学のラインハルト・ラウト(Reinhard Lauth)教授による超越哲学の講義の一つから始まった。そのとき以来、数を増す学生のグループはカトリック教会における危機について研究する為この教授の下に集まり、聖伝のミサの存続を支持した。このグループの中には、シュヴァ-ベン(ドイツ南西部地方)人で数学科の学生であるフランツ・シュミットバーガー(Franz Schmidberger)と、プロイセン出身の哲学生クラウス・ヴォッザック(Klaus Wodsack)がいた。
1972年、この2名はエコンに入学した。スイス連邦評議会の議長であるロジェ・ボンヴァン(Roger Bonvin)氏は、教室などに使う部屋がある新築の「聖ピオ十世の棟(ウィング)」を視る為に、神学校を訪問していた。二番目の宿泊用ウィングが1973年に増築された。スイス(中北部)のツーク州から来たジョゼフ・ビズィーク(Josef Bisig)を含む、ドイツ語を話す新入生たちが、ますますはるか遠方に旅する大司教の為に、ドイツやドイツ語圏のスイスを開拓することになる。
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