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御変容で、天から聖父が「これこそ、私の愛する子。彼の言う事を聞け」と命令する、この意味は何か?

2020年03月25日 | お説教・霊的講話

2020年3月8日(主日)四旬節第2主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父様御説教

“Ipsum audite.”彼を言うことを聞け。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は色々な儀式が詰まっているので、手短に、イエズス様の御変容の神秘を一緒に黙想する事に致しましょう。

⑴まず第1に、この変容の意義は何だったのか?なぜイエズス様は弟子たちの前で変容されたのか?そして、何故一体、四旬節の中に、その変容の話が既に出てくるのか?

⑵そしてなぜ、このエリアとモーゼが現れたのか?あるいはなぜ、この聖父の声が聞こえたのか?等を見て、

⑶次に、では一体それが私たちに、2020年の私たちにどんな意味があるのか?特に聖ペトロの言葉から、私たちは何か、私たちに教えるものがあるのではないかと黙想を続けていきましょう。


⑴では、皆さんもよくご存知の、このイエズス様の御変容。これは、この目的はまさに、「私たちが将来受けるべき栄光、イエズス様が受けるべき栄光はどのようなものであるか、どれほど素晴らしいものであるかを、私たちに既に教える為」でした。

私たちが行く道のりが険しければ険しいほど、遠ければ遠いほど、その遂に到達する目的地の素晴らしさを知る必要があります。

見て下さい。オリンピックの選手たちも、金メダルを夢見て、厳しいトレーニングをしているではありませんか。あるいは子供が、サッカー選手のかっこいいプレーを見て、あるいは野球の選手のホームランを見て、「あぁ、僕もこのようになりたい。」「あぁ、将来はプロ野球の選手だ」と思うではないでしょうか。

イエズス様も、その地上の栄光と美しさをはるかに超えた御姿を弟子たちに見せる事によって、「どのような事があっても、これから目を離してはいけない。究極の目的はこれだ」と私たちに教えて下さっています。


⑵なぜ、エリアとモーゼが出たのでしょうか?聖トマス・アクィナスによると、色々な理由があります。

なぜかというと、エリアは火の馬車によって天に上げられて、まだ生きている、そして世の終わりに戻ってくる方ですから、預言者の代表ですから、生きる者の代表として、天から預言者の第一任者として、イエズス様を証言した、承認した。

モーゼは亡くなって地に葬られて、そして律法を私たちに伝えた者ですけれども、律法の第一任者として、「イエズス様こそメシアである」と、告げ知らせた。

当時イエズス様は弟子たちに聞いた事があります、「人々は私の事を何と言うか?」「ある人はエリア、ある人はエレミア、ある人は預言者の一人だ、と言っています。」

エリアがここに出る事によって、「イエズス様はエリアよりももっと、エリアの預言したその方である」と証明しています。

イエズス様が生きておられた時、ファリザイ人や律法学士たちはイエズス様の事を、「モーゼの律法に反する者だ」と言っていました。「安息日は破るし、手は洗わないで食事をするし」等々。しかし、そのモーゼ自身が、「イエズス様こそが、その律法の完成だ」と証明する為に現れたのです。

イエズス様はこうする事によって、生きる者と死せる者の審判者として、御自分をお示しになりました。モーゼも、ファラオの迫害を耐えた者でした。エリアも、王アカブの迫害を耐え忍んだ者です。イエズス様も、これから受難に向かいます。

実に、聖ルカの福音によると、エリアとモーゼとイエズス様の三人が話したのは、この「御受難」の事でした。聖父も、「これこそ私の愛する子。彼の言う事を聞け」と仰います。

これは聖ペトロが、イエズス様のその御変容の美しい、その燦然と輝く輝きを見て、その御顔の美しさ、服が雪のように真っ白になり、「あぁ、何と美しい。あぁ、何と幸福な瞬間だろうか。これがもっと続いてくれると良いなぁ。」「イエズス様、これがもっともっと続きますように、あなたの為にここに幕屋を作ります。あなたの為に一つ、そして、モーゼに一つ、そしてエリアに一つ。あぁ、これをもっと楽しみたい。嬉しい。」

すると、それをかき消すかのように、ものすごい権威のある声で、天から聖父が、「これこそ、私の愛する子。彼の言う事を聞け」と命令します。その声の、権威のある声に、力強さに、弟子たちは、死んだように気絶してしまいます。

モーゼも、天主の御顔を見る事が、あまりにも見れずに、その天主を見て、その恐ろ恐ろしさを私たちに伝えていますけれども、弟子たちもおそらく、その声を聞いただけで、恐怖と畏れの念に囚われたのでしょう。

天主聖父の声は、洗礼の時に、イエズス様が洗礼を受けた時と全く同じ言葉が繰り返されます、「これこそ、私の愛する子。」

聖トマス・アクィナスによると、「洗礼によって私たちは、天主の子供となる。そして私たちが復活する時に、イエズス様のような輝きをもって復活する。そしてこの事が約束として与えられたので、聖父は『彼に聞け』と、この言葉を付けた」と言います。

洗礼の時には、聖父の声と、イエズス様の肉体と、そして鳩のような形が現れましたが、御変容の時には聖父と、イエズス様の輝くような肉体と栄光の体と、そして聖霊が雲の形をとって現れました。「これはまさに、私たちの復活する時の事を意味している」と言います。


⑶では私たちは今回、この御変容の神秘を見て、どのような決心を取ったら良いでしょうか?

特に聖ペトロの言葉に、今回は注目したいと思っています。なぜかというと教父たちが、あるいは霊的な著者が、「聖ペトロは実は、イエズス様から受けた慰めを見て、それに留まろうとしてしまった。よく私たちに有りがちな欠点を、ペトロが私たちの代わりに見せてくれた」と言います。

これはどういう事かというと、私たちはともすると、天主様が下さる慰めの方を愛着を持ってしまって、慰めを下さる「天主」よりも、天主の「慰め」の方に、その方に気をとらわれてしまう欠点があるからです。

これはどういう事かというと、私たちはともすると、やりたい事が全て出来て、収入もたくさん入って、あるいは健康で、人気があって、そして名声があって、権力があって、スポーツも良いし、運も付いてるし、お祈りをすればお祈りもたくさんできるし、霊的読書をすれば、「あぁ、何と甘美な思いがするだろうか」という、その「全てうまくいく、成功している」という事が、私たちの信仰の一番大切なものであるかのように、もしかしたら誤解するかもしれないからです。

そうではなくて、聖父は、そのような「もっとこのまま留まりたい」という時に、聖父は、「そうではない。イエズス・キリストに聞け」と言います。

つまり、「イエズス・キリストに聞く、イエズス・キリストの言う事を聞く、イエズス・キリストに従う」という事は、「十字架に従う」という事です。なぜかというと、「もしも私に従いたいならば、自分の十字架を取って、私に付いて来い」と仰ったからです。

皆さんの中にはもしかしたら、お祈りをすると脱魂状態になって、そしてイエズス様と直接にお話をなさって、お祈りをするのがとても好きで、もう何時間でも1日中でもお祈りができる、という方がいらっしゃるかもしれません。でもそれは特別の御恵みであって、私たちにとって一番大切なわけではありません。

もしかしたら、私たちのお祈りは雑念ばかりで、それで、お祈りをしている時間に「あぁ」もしかしたら、「携帯でニュースを見た方が面白いかもしれない」等と誘惑を受けるかもしれません。
あるいは電話が鳴った、あるいは霊的な本を読んでもあまり分からない、黙想してもよくできない、あるいは友達からは、親切をしたのに感謝をされない、あるいは何もうまくいかない、病気にかかった、試験が失敗した、これもダメだ、あれもダメだ、あぁ、嫌がらせをされる、見捨てられた、裏切られた、「あぁ、一体何なんだ」と、そして私たちはもしかしたら、これはもしかしたら私たちはそれで失望してしまうかもしれません、落胆してしまうかもしれません。

しかしその時に私たちが「イエズス様だけを見るように」しましょう。

聖父は私たちに命令しています。「彼の言う事を聞け。彼に従え」と。イエズスは私たちに何を言うのでしょうか?「自分の十字架を取って、私に従え」と言われます。

イエズス様自身には、一体何がこれからあるのでしょうか?

タボル山から降りて、カルワリオに行きます。つまり、弟子たちから見捨てられ、嘘の懺悔の告発を受けて、死刑を受け、鞭で打たれ、体はボロボロになり、茨の冠をかぶせられて、そして奇跡を行なって病気を治して、善を施した人からは、「十字架に付けよ!」と叫ばれ、イエズス様の受けたものは、十字架と殉教でした。

「しかし、ここにこそ復活への道があるのだ、変容への唯一の王なる王道があるのだ」と私たちに教えています。

そこで今日、是非、どのような辛い事があっても、四旬節の断食や、あるいは四旬節の犠牲が辛く思われても、あるいは私たちに嫌な事、面白くない事が起こっても、御変容されたイエズス様を決して見失う事がないように、お祈り致しましょう。

実に、福音によると、そのイエズス様から、「さぁ、起き上がって、何も恐れるな」と言われた後で見ると、イエズス様だけしかいなかった、とあります。

私たちも、この地上の事が全て消えて、イエズス様だけを見る事ができますように、イエズス様だけに従って行く事ができますように、お祈り致しましょう。マリア様に是非、その事ができますようにお祈り致しましょう。

“Ipsum audite.”彼を言うことを聞け。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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