Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

本の紹介と宣伝:ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿著(ベネディクト十六世)『典礼の精神』(濱田了訳 サンパウロ2004年 現代カトリック思想叢書21)

2020年10月27日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は本の宣伝をします。

今日取り上げる書籍は、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿著(ベネディクト十六世)『典礼の精神』(濱田了訳 サンパウロ2004年 現代カトリック思想叢書21)です。内容に賛成する方も、同意しない方も、一読するに値すると思います。

この本の一部を(第四部 典礼の組成から)引用してみます。きっともっとお読みになりたいと思われることでしょう。

読みやすくするために、段落を付け加えたり、一部、訳語や漢数字を算用数字に置き換えたりしてあります。濱田了神父様の訳されたものの完全なコピペではありません。ご了承ください。

『典礼の精神』(ヨゼフ・ラッツィンガー著)
第四部 典礼の組成
三 体の構え

「ひざまずく」「ひれ伏す」

 

【問題提起:ひざまずき】
少なからぬ影響力を持つグループが、私たちに「ひざまずく」ことを止めさせようと試みてきます。「私たちの文化に合わない」と言います(一体、どの文化に?)。「まっすぐに立って、神に向かって歩く成人には似つかわしくない」あるいは、「救われた人はキリストによって自由となり、もはやひざまずく必要がないので、ふさわしくない」と言います。

【ギリシア人もローマ人も、異教の神々には「ひざまずき」をしなかった】
もし私たちが歴史を一瞥するならば、ギリシア人もローマ人も、「ひざまずき」を受け入れなかったことが確かに分かります。神話に物語られた、党派的で争い好きの神々という理解からは、このような立場がまさに正当化されます。このような神々は、たとえ人が彼らの気まぐれな力に左右されたとしても、また彼らの好意をできるかぎり確かめなければならなかったとしても、天主ではないことがあまりに明白でした。そこで人は、自由人にとって「ひざまずく」ことは品位を汚すことだ、ギリシアの文化にふさわしくなく、野蛮人のすることだと言っていました。プルタルコスとテオフラストスは、「ひざまずき」を迷信の表現だと見なしました。アリストテレスは野蛮人の行動様式だとしました(「修辞学」、1361, a36)。

アウグスティヌスは、アリストテレスがある面では正しいとしました。偽りの神々は、人間を金銭崇拝と利己主義の支配下に置く、悪魔の仮面にしかすぎず、人をそのようにして「奴隷」にし、迷信の闇に引き込みます。十字架に至るまでのキリストの謙遜と愛は、私たちをこれらの諸力から解放し、この謙遜に対して私たちは「ひざまずく」のだと、アウグスティヌスは言います。

【キリスト者の「ひざまずき」は、キリスト教文化の表現】
実際、キリスト者の「ひざまずき」は、すでに成立していた何らかの慣習を文化受容した一形式ではなく、それとは全く反対に、キリスト教文化の表現であり、それまでの文化を、天主についての新しく深い認識と体験によって変容させるものです。

「ひざまずく」ことは、どこかの文化から由来したものではありません。それは聖書と聖書が伝える天主の認識からきたものです。聖書における「ひざまずき」の中心的な意味は、次のことから具体的に知ることできます。つまり、「プロスキネイン」(προσκυνείν proskynein = 伏し拝む)の語が新約聖書だけでも59回も使われていて、そのうち24回が黙示録に出ます。黙示録は、教会の典礼にとっての基準となる、天上の典礼を記す書です。詳細に見てみると、三種の互いに関連する姿勢を識別することができます。

第一に「プロストラツィオ」(prostratio = ひれ伏す)があります。これは、天主の圧倒的な力の前に、「地面にうつ伏す」ことです。
次に新約聖書に特に見られる「ひざを屈する」こと、
そして最後に「ひざまずく」ことです。

厳密にはもちろん、言語学上も、三つの姿勢が常に互いに明確に区別されていたのではありません。これらは互いに結びつき、入り混じっています。

【「プロストラツィオ」:ヨシュアとイエズス】
簡潔にするために、「プロストラツィオ」について、旧約と新約から一カ所ずつ取り上げたいと思います。
旧約聖書の中で、エリコ征服の前に、天主がヨシュアに出現する個所があります。これは、モーセに対して天主が燃える柴に現れたという個所と並行するように、聖書記者によって全く意図的に形成されたものです。
ヨシュアは「主の軍隊の長」と出会い、彼がそれと分かると、地にひれ伏します。するとこのときヨシュアは、かつてモーセに語られたのと同じことばを聞きます。「あなたの足の履き物を脱ぎなさい。あなたが立っているのは、聖なる場所である」(ヨシュ5・14以下)。「主の軍隊の長」という神秘に満ちた姿において、隠れておられる天主ご自身がヨシュアに語り、そしてヨシュアはその前に身を投げ出したのです。オリゲネスはこの個所に素晴らしい注釈を付けています。「私たちの主イエズス・キリストの他に、主の軍隊の長がいるのでしょうか?」ヨシュアはそれ故、来るべき方、来るべきキリストを拝んだのです。

新約聖書については、教父時代以来のキリスト教信心にとって、オリーブ山でのイエズスの祈りが特別の重要性を持ってきました。マテオ福音書(マタ26・39)、とマルコ福音書(マコ14・35)によれば、イエズスは身を投げ出し、まさに、「地にひれ伏して」(マコ14・35)祈ったのです。
ルカはこれに対して、福音書と使徒行録の全体において、ひざまずいて祈ることの神学を独特な方法で表して、イエズスがひざまずいて祈ったことを記録しています。受難の初めとしてのこの祈りは、所作としても内容としても模範となるものです。所作として、イエズスは、言わば人間の宿命を身に負い、人間の下落に陥ることを耐え忍び、人間的孤独と苦悩の最下層の深みから御父に祈ります。

【「ひれ伏し」を行いつつ、主の御旨がなされることを祈ったキリスト】
イエズスは自分の望みを御父の御旨の中に入れます。「わたしの望みではなく、あなたの望みが行われますように」(ルカ22・42)。イエズスは人間的意思を天主の意思の中に入れます。イエズスは人間的な拒みの心を余すところなく理解し、それを耐え抜きます。人間的な心が天主の御心に重ね合わされるという、まさにこの点に、救済の核心があります。なぜなら人間の下落は、人間の意思を天主の意思に対置させようとする、意思の矛盾に由来するものであり、それは「惑わす者」が人間に、自由への条件であると思い込ませたものです。「惑わす者」は、ほかのだれの意思にも服従しない自分固有の自立した意思だけが、自由であるかのように思い込ませたのです。「わたしの望みではなく、あなたの望みが行われますように」。これが真理のことばです。なぜなら、天主の意思は私たちの願いと対立する意思ではなく、私たちの願いの土台であり、それを可能とする条件だからです。天主の御心にとどまるとき、私たちの意思は本当の意思となり、自由となります。オリーブ山での苦悩と葛藤は、この救済の真理のため、分裂したものを結び合わすため、天主との交わりに結び入れるための苦闘なのです。

こう考えてくると、私たちはこの個所に、御父に対する御子の親愛の情からの呼びかけ「アッバ」(マコ14・36)のことばが置かれているのを理解できます。パウロはこの呼びかけに祈りを見ています。それは聖霊が私たちの舌の上に置き(ロマ8・15、ガラ4・6参照)、私たちの霊からの祈りを主のオリーブ山での祈りにつなぎ留めるものです。

【教会の典礼における「プロストラツィオ」】
教会の典礼において、「プロストラツィオ」は今日、二つの場合に行われます。聖金曜日と聖職叙階式です。【聖伝の洗礼式において、成人が受洗するときも「ひれ伏し」を行う。】

「プロストラツィオ」は、主が十字架につけられた日である聖金曜日に、私たちの罪科を通してキリストの十字架刑死に共同責任があることを知って、衝撃を受けたことをふさわしく表現します。私たちは身をうつ伏せ、キリストが受けた痛手、キリストが沈み込んだ苦悩の深みにあずかります。私たちは身を地にひれ伏し、そのことによって、私たちがどこにいるのか、そして、私たちが何者であるのかを確認します。私たちは倒れてしまった者であり、キリストだけが私たちを起き上がらせることができます。十字架が真の燃える柴であり、燃え上がりながらも破壊することのない、天主の愛の炎の場所であることを知って、イエズスが天主の現前する力の神秘の前に行ったように、私たちも身をうつ伏せます。

叙階式においては、イエズス・キリストの司祭的任務を代行すること、つまり、キリストの代わりに「わたし」と話すことが、私たち自身の力では絶対に不可能だということを知っているからです。叙階候補者たちが身を地にひれ伏している間、集まった全会衆は、諸聖人への連願を歌います。私も司祭叙階と司教叙階に際して、地にひれ伏したことを忘れることができません。私が司教に聖別されたとき、自分の力不足への焼き付くような感覚、責務の大きさを前にした自分の無力感が、司祭叙階のときよりもなお強く押し迫りました。そのとき、祈る教会によって諸聖人が呼び寄せられたこと、つまり、教会の祈りが文字通り私に注ぎ込まれ、私を包み込んだことは、素晴らしい慰めとなりました。身を地にひれ伏してまで表現しなければならない自分の無力さにおいて、このような祈り、この諸聖人たちの臨在感、生きている者も死んだ者も不可思議な力を与え、その力だけが私を助け起こすことができ、その力が共にあることによって、私の前にある道を進むことを可能にしたのです。

【「ゴニュペテイン」ひざをかがめる】
二番目に「ひざを屈する」姿勢に言及しなければなりません。福音書の中には「ゴニュペテイン」(γενυπετείν gonupetein)の語で4回出てきます(マコ1・40, 10・17、マタ17・14, 27・29)。

マルコ福音書1章40節から見てみましょう。一人の「重い皮膚病 λεπρός」を患っている人がイエズスのもとに来て助けを求めます。彼はイエズスの前に「ひざまずき γονυπετών」、こう言います。「お望みならば、わたしを清くすることがおできになります εάν θέλης δύνασαί με καθαρίσαι」。この姿勢が示すところを推し測るのは難しいことです。これが本来の崇拝行為を言っているのではないことは確かです。むしろ熱情を込めて身体で表現した願望であり、同時に単に人間的なものを超える力への信頼が言葉になっています。

【「プロスキネイン」跪いて礼拝する:霊的な意味と身体的な意味】
ひざまずいて崇拝することを示す古典的な語「プロスキネイン」(προσκυνείν, proskynein)が使用される場合とは異なる状況があります。これについて翻訳家が直面している問題を明らかにするために、二つの例を選びましょう。

まずパンを増やす奇跡の後、山上で御父のもとにとどまるイエズスが物語られ、その間、弟子たちは湖の上で風と波にさえぎられて漕ぎ悩んでいます。イエズスは弟子たちの方へと水の上を歩いて行きます。ペトロはイエズスのもとに歩いて行こうとして沈みかけ、主に助けてもらいます。イエズスが舟に乗り込むと風はおさまります。本文は続いてこう述べます。「舟の中にいた弟子たちは、あなたはまことに天主の子ですと言って『イエズスの前にひれ伏した』」(マタ14・33)。以前の翻訳では、次のようになっていました。「舟の中にいた弟子たちは、本当にあなたは天主の子ですといって『イエズスを拝んだ』」。両方の翻訳とも正しく、両方とも出来事の一側面を押さえています。新しい翻訳は身体的な表現であり、以前のものは内的な事象を表しています。物語の構成から、イエズスを天主の子と認めて礼拝する態度が明らかとなります。

これと同様な問題がヨハネ福音書の、生まれつき目の見えない人を癒す記述に見られます。このまさに、「神劇的」に構成された物語は、イエズスと癒された人との間の対話で終了します。その対話は、回心の対話にとって原型となるものであり、物語全体もまた、洗礼の実存的・神学的意味を心の動きから解明するものとして理解されなければなりません。この対話においてイエズスは、その人に人の子を信じるかと尋ねます。それに対して、生まれつき目の見えない人はこう答えます。「主よ、いったいその方はどなたですか」。イエズスが「あなたと現に話しているのが、正にその人である」と答えると、彼は「主よ、信じます」と言って、イエズスを伏し拝んだのです(ヨハ9・35~38)。以前の翻訳では、「イエズスを拝んだ」となっていました。実際、情景全体は、信仰の行為とそこから生じるイエズスへの崇拝に向けられています。今や身体の目だけでなく、心の眼が開かれたのです。その人は本当に見えるようになったのです。

ヨハネ福音書では「προσκυνείν プロスキネイン」の語が11回使われていて、そのうち9回がヤコブの井戸におけるサマリアの女との問答(ヨハ4・19~24)に表れていることは、この聖書個所の釈義にとって重要です。この問答全体が崇拝のテーマに終始しており、ヨハネ福音書全体におけるようにここでも、この語が「崇拝」を常に意味することには異論がありません。この問答もまた、癒された目の見えない人との会話と同じように、イエズスの自己啓示で終わっています。「あなたと話しているこのわたしがそうだ」。

私はこれらの聖書個所を長く論じていますが、その中から何か重要なものが現れるからです。詳細に見た二カ所において、「プロスキネイン」の語がもつ霊的な意味と身体的な意味は分かつことができません。身体的な動作は霊的な意識を有する者としてのものであり、ほかならぬ崇拝であり、それなしには無意味な動作となります。そして、霊的な行為はまた、その本質からして、人間の身体と霊魂との一致を土台として、身体の動作に表現されなければなりません。両側面が一つの語に合一します。なぜならそれらは非常に深く互いに依存しているからです。

ひざまずくことが単に外的行為であり、単に身体的行為となるなら、それは無意味な行為となります。しかし、また反対に、崇拝を単に霊的な範囲に引き留め、身体に表すことをさせないのであれば、崇拝の行為は消滅します。なぜなら、純粋に霊的なものは人間の本性に合致しないからです。崇拝は、人間全体に関するような根源的な行為なのです。その理由により、生ける天主の臨在を前にしては、ひざを屈するのを放棄することができないのです。

【ひざまずきの姿勢について】
ここにおいて私たちは、片膝あるいは両膝をつく、典型的なひざまずきの姿勢について論じることになります。旧約聖書のヘブライ語において、動詞「バラク」(barak = ひざまずく)は、「ベレク」(berek = ひざ)の語に対応しています。「ひざ」はヘブライ人にとって力の象徴と見なされていました。ひざを屈することは、生きている天主の前に私たちの力を屈することであり、私たちが、私たちのものすべてを天主から受けていることを認めることです。この姿勢は、旧約聖書の主要な個所において、崇拝の表現として現れます。

ソロモンは神殿の献堂において、「イスラエルの全会衆の前でひざまずいた」(歴代下6・13)のです。
バビロン捕囚後、帰還したイスラエルが苦境にあったので、エズラは夕べの献げ物のときにこの所作を繰り返しました。「わたしは意気消沈から立ち上がり、引き裂いた着物とマントのままひざまずき、わたしの天主、主に向かって手を差し伸べて祈った」(エズ9・5)。
偉大なる受難の詩編22(「わが天主よ、わが天主よ。なぜわたしを見捨てたのですか」)は、次の約束で結ばれています。「まことに地の中に眠っている者もみな、主を拝み、ちりの中に倒れている者もすべて、み前に身をかがめるでしょう」(22・30)。同じようなイザヤ書45章23節の個所も、新約聖書との関係の中で考察しなければならないでしょう。
使徒行録は、ひざまずいて祈る聖ペトロ(9・40)や聖パウロ(20・36)、そしてキリスト信者全体(21・5)を記しています。

私たちの問題にとって特に重要なのは、聖ステファノの殉教の記述です。最初の血による証しは、その苦難においてキリストの完全な模写と評されました。キリストの受難は、証し人の殉教において細部に至るまで繰り返されるのです。十字架につけられたキリストに対して、ステファノがひざまずいて祈ったのはこの一例です。「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないでください」(使7・60)。

これについて私たちはルカが、マテオやマルコとは異なり、主がオリーブ山でひざまずいて祈ったことを語っているのを思い起こします。すなわちルカは、最初の殉教者がひざまずいたことを、イエズスの祈りに入っていくこととして理解してほしいことが示されます。

【ひざまずくことは、十字架につけられたキリストに対する姿勢】
ひざまずくことは単にキリスト教的な所作なのではなく、キリスト論的な所作なのです。ひざまずきの神学にとって最も重要であり、私にとって常に偉大なキリスト賛歌であり続けるのは、フィリピ書2章6~11節です。バウロ以前からのこの賛歌に、私たちは使徒時代の教会の祈りを聞き、理解し、そしてキリストへの信仰告白を認知します。私たちはまた、この祈りに入り込んで私たちに伝えた、使徒たちの声も聞きます。そしてついには旧約聖書と新約聖書の非常に深い一致と、キリスト教信仰の宇宙的広がりに気付きます。

この賛歌はキリストを第一のアダムの好対照として示しています。第一のアダムが、高慢にも天主としての存在を手に入れようとしたのに反して、キリストは本性として天主であったのに、天主としての存在を「利得のように」固執しようとはせず、かえって十字架の死に至るまで自分を低くされたのです。

まさに愛からくるこの謙遜は、真に天主としての存在であり、彼の「名をすべての名に優るもの」とし、「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものはすべて、イエズスの名においてひざをかがめる」(フィリ2・10)のです。

使徒時代の教会の賛歌は、イザヤ書45章23節の約束の言葉を受け継ぎます。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがむ」。

まさしく十字架につけられた者としてのイエズスが「すべての名に優る名」、つまり至高者の名を持ち、天主の本質を備えていることが、旧約聖書と新約聖書の相関関係において明らかになります。十字架につけられた方を通して、旧い契約の荒削りの約束が成就したのです。すべての者はイエズスの前に、降りて来られた方の前にひざをかがめ、そのことによって、すべての神々に優る真の天主の前に身をかがめるのです。

十字架は天主の現存についての世界を包含するしるしとなりました。そして、かつて歴史的・宇宙的十字架について聞いてきたすべての事柄は、ここにおいて意味を見いだすのです。キリスト教典礼は、十字架につけられ、高められた主の前にひざをかがめることによって、まさしく宇宙的典礼となるのです。これが本当の「文化」、真理の文化の核心なのです。私たちが主の足元にひれ伏すという謙遜の姿勢は、私たちを宇宙の真の生命軌道の中に組み入れます。

【初代教会の実践】
もっとたくさんのことを付け加えることができるかもしれません。例えば、カイサレイアのエウセビオス(340年頃没)が、その「教会史」の中で、ヘゲシップス(Hegesippus)(二世紀の教父)にまでさかのぼる伝承として記述している感動的な話があります。それは、「主の兄弟」であり、エルサレムの最初の司教、ユダヤ人キリスト教会の「首長」であるヤコブが、ひざにラクダの皮革を当てていたそうです。それはヤコブが天主を礼拝し、彼の民のために赦しを嘆願するために、いつもひざまずいていたからです(23・6)。

また、砂漠の教父たちの教えに由来する物語があります。それによると、アポロンという修道院長の前に、悪魔が天主に強いられて姿を現したとき、その容姿は黒く、おぞましく見え、恐ろしいほどやせた肢体を持ち、そしてとりわけ悪魔にはひざがなかったのです。ひざまずくことができないのは、あからさまに悪魔の本性として著されています。

しかし、あまりに詳しく論じるつもりはありません。ただもう一点だけ指摘しておきたいと思います。ルカがキリスト者のひざまずきを述べた表現「セイス・タ・ゴナタ」(θείς τα γόνατα, theis ta gonata)は、古典ギリシア語には見られないものです。それはキリスト教独特の語なのです。【注:使徒行録20:36にはこうある。και ταυτα ειπων θεις τα γονατα αυτου συν πασιν αυτοις προσηυξατο, [パウロは]こういい終って跪き、みなとともに祈った。】この指摘をもって私たちの考察はその出発点に戻る円環を描き上げます。

【結論:ひざまずきにより、使徒たちや殉教者たちや宇宙全体と共に、イエズス・キリストとの一致にとどまる】
ひざまずくことは現代文化にとり、異質なものでありうるかもしれません。その文化というのは、つまり、信仰から遠ざかってしまい、その方の前ではひざまずくことが正しく、それどころか、本来的に必要な態度であるような方を知らないのです。信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう。ひざまずくことが失われたところでは、再び学ばなければなりません。それによって私たちは使徒たちや殉教者たちと共に、宇宙全体と共に、イエズス・キリストご自身との一致のうちにとどまるのです。



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