アヴェ・マリア!
金田さんが疑問点等を呈示してくれている。いま少し説明したい。
願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!
「教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”の違い」にはこうある。
【引用】
「護教の盾」氏自身は多くを語っていないが、
教皇”その人”=不可謬的ではない=従わなくてもよい
教皇”役職”=(信仰と道徳に関することにおいて)不可謬=従わなければならない
という二分法でものを考えているようだ。
【コメント】
教皇における「その人」と「役職(教皇としての教皇)」と区別は、「護教の盾」さんが、引用した「離教にあらず、破門にあらず」にある。
「護教の盾」さんが多くを語っておらず、どのような二分法でものを考えているのかを知るには「離教にあらず、破門にあらず」を読むべきではないだろうか。
教皇は、「その人」と「役職(教皇としての教皇)」と区別されると言うことは、カトリック神学の古典的な区別だ。
私は次のように書いたことがある。
【引用開始】
弱い人間性をおびた教導権
私たちがカトリック信徒であるのは、教会がまとっている不完全な人間的な衣装の裏にキリストを認めたからです。私たちが教皇様の前に跪き、教皇様の教えに従うのは、教導権がキリストの御旨を代表する限りにおいてなのです。教導権を行使した命令が、聖人によって私たちにまで伝達されようと、小人によって伝えられようと、私たちにはあえて問うところではありません。 カトリック教会の過去の教皇様たちを見ても、私たちは、人間的な、不完全な要素があることを知っています。私たちはしかしながら、その人間的な弱さを通して、キリストの代理者を見ているのです。教導権がキリストを代表しなくなったその瞬間にそれは教導権ではなくなります。 ・・・
岩下神父はこう書いています。「彼(=カトリック信徒)は目に見えるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(『カトリックの信仰』第十四章 聖霊)
岩下神父と共に私たちは更にこうも言います。私たちカトリック信徒は、教皇の聖座の前に跪くのではありません。私たちの信仰は「教皇において全体の頭たるキリストを見る」のです。「もしも教皇がキリストの目に見える代理者でないのならば、彼は何ものでもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していても、彼は一介の平信者と撰ぶところがないのである。・・・ カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信ずるキリストの権威に服するのである。」 これが私たちのカトリック信仰です。
「マニラの eそよ風」より
【引用終わり】
私たちカトリック信徒は、何故教皇様に従うのか? この中核を見失っては第一バチカン公会議の意味が歪められてしまう。私たちは、教皇様において天主イエズス・キリストの代理者を見るのだ。イエズス・キリストに従うために、教皇様に従うのだ。
だから、私たちは教皇様に個人としても集団としても、聖職位階に心から服従しなければならならない。この服従は、信仰と道徳に関することがらだけでなく、全世界の教会の規律と統治においても示されなければならない。
ただし、教皇様がなさること、言うこと、全てが全て不可謬的であるとは限らない。明らかに罪であることを要求することがあり得る。残念なことに、そして不幸なことに、教皇様がイエズス・キリストの明らかな命令と反することを命じることがあり得る。教皇様の不可謬権には限界があるからだ。
もしも、不幸にして、万が一、教皇様が私たちに信仰を失わせるようなことを命じた時、私たちはそれに従う義務はない。
「教権は・・・彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のもの」だからだ。
中世に「悪しき教皇」をどう考えたらよいか、という問題について神学者たちは良心の問題に悩んだ。中世の神学者たちは、教皇様のペルソナと職務とを区別することで、「弱い人間性をおびた教導権」の限界を説明したのだ。
教皇”その人”は、金田さんが言う通り、「不可謬ではないからといって不従順であってもいいというわけではない。そうだ。不可謬的ではないが従わなければならない。しかし、もしも不幸にして、それが教皇であったとしても、教皇様が、正しき良心に、或いは自然法を、或いは聖伝に反することを命じ教える時には、従う義務がない。
そして、現代、カトリック信徒は、良心上の問題に悩んでいる。教皇様が不可謬権を行使せずに、エキュメニズム運動を私たちに命じているからだ。天主の十戒の一戒に背き、カトリック信仰を棄てさせることを要求しているからだ。
私たちは教皇様に従ってカトリック信仰を棄てるべきなのか? 新しいエキュメニカルな信仰を受け入れるべきなのか? 教皇様と共にいるために教皇様に「従順」であるために、イエズス・キリストに背くべきなのか? 歴代の教皇様の不可謬の教えと矛盾する行動・言動を見聞きする時、私たちはどちらを取るべきなのか? 不可謬の教えか、それとも新しい言動か? 信仰を失う以外に何も残っていないのか。
いや、私たちには、そうする権利はない。聖パウロはこう言った。
「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)
* * *
繰り返して言えば、私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切だ。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだ。
しかし、私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている。
私たちは、私たちの信仰を守り擁護すべき牧者たちが、信仰の迫害者となっている現実に直面している。前代未聞の状況が現実に私たちの目の前にあるのだ。
聖伝のミサは、永久に有効なものとして荘厳に法定化された。その大勅令は全く無視されている。聖伝のミサは事実上「禁止」されている。法令によって廃止されたことも禁止されたこともないのにもかかわらず。
2003年にメディナ枢機卿(当時、典礼秘跡聖省長官)は『自分はこのミサが禁止されたとはどこにも見たことがない』と記事(ラテン・ミサ誌2003年 春号の記事)を書いて、それを再確認しているにもかかわらず。
2005年9月、カストゥリヨン・オヨス枢機卿は、トレンタ・ジョルニ誌に「聖ピオ五世のミサは廃止されたことがない」と宣言しているにもかかわらず。
1986年、ヨハネ・パウロ二世は9名の枢機卿たちを招集し特別委員会を作り調べさせたがその結論も同じだった。(このことについては、1995年、シュティックラー枢機卿が私たちに語っている。)9名中8名が、新しい典礼様式を発布することによって聖伝のミサを法的に廃止したことはない、と結論した。この委員会は全員一致で、全ての司祭は自由に聖伝のミサを捧げることができること、いかなる司教も禁止できないことを認めているにもかかわらず。
(「スティックラー枢機卿は語る」を参照のこと
カトリック信徒が、聖伝のミサを教会当局に望むと、当局は第二バチカン公会議の新しい教え(エキュメニズム運動など)を押しつけてくる。
緊急状態とは、生存するために生き残るために、通常のやり方を外れた手段に訴えることを止むおえなくさせられている状況のことだ。それ以外になすすべがないのだ。だからといって、私たちがこのような状況を望んでいるわけではない。その反対だ。私たちは法の外にいるのを望んでいるわけではない。しかし、生き延びるためには、そうせざるを得ない状況におかれている。
しかし、教会当局が現状を変えようと望まない限り、私たちは霊的に窒息して死んでしまう。緊急状態に居続けることになってしまう。カトリック教会が常にしてきたように天主に奉仕しようとすることを望む忠実な霊魂は、カトリック信仰に反するものを「従順」に受け入れて、イエズス・キリストに不従順であるか、或いは「その中には不可謬的なものと不可謬的でないものがあるが、不可謬ではないから」、イエズス・キリストに中人であるために見かけ上の「不従順」を取らざるを得なくなっているのだ。
だから、ルフェーブル大司教は、こう書いた。
「教会の中はどこでも無規律が幅をきかせ、司祭委員会は司教たちに要求状を送り、司教たちは教皇の訓戒を無視してこれに挑戦し、第二バチカン公会議の勧告や決定事項さえ尊重されていません。しかしながらこのようなことが起こっていても、私たちは決して彼らが不従順だという言葉を聞いたことがありません。ただしこの不従順という言葉は、聖伝に忠実に止まろうとするカトリック信者たち、つまりただ単に信仰を守りたいと望むカトリック信者たちだけについて言われるだけです。
従順と言うことは、重大なテーマです。教会の教導職との一致、特に教皇様との一致に留まることは救霊の諸条件の一つだからです。私たちはそのことを深く自覚しています。そしてまた、今日教会を統治しているペトロの後継者に対して、私たちがその前任者たちに対してそうであったように同じく執着しているのは私たち以上にありません。私はここで自分自身について語っているのであり、自分の小教区の教会から棄てられた多くの信者さんたち、フランス革命の時のように倉庫や納屋でミサ聖祭を捧げなければならなくなってしまった司祭たち、また町や村で聖伝の公教要理を(公式の教会の要理の授業とは)また別に教えている司祭たちについて語っています。
教皇様が使徒継承の聖伝と自分の全前任者教皇たちの教えとをこだまのようにそのまま繰り返して語る時、私たちは教皇に固執します。正に、ペトロの後継者の定義それ自体が、この信仰の遺産を守ることにあるからです。ピオ9世教皇は、(第一バチカン公会議の決議書である)『パストル・エテルヌス』の中で私たちにこう教えています。
「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」
私たちの主イエズス・キリストが教皇様や司教たちそして司祭職一般に委ねた権威は、信仰に奉仕するためです。教会法や教会組織また権威を、カトリック信仰を無きものとするために使うこと、それらを命を伝えるために使わないこと、それは霊的な堕胎行為であり霊的な避妊行為です。
だからこそ、二千年の間たゆまなく教えられてきたそのままの私たちのカトリック信仰と合致することを全て受け入れることに対して、私たちは服従しますし、その準備が整っています。ただし私たちはこれに対立することは全て拒否します。
何故なら、パウロ6世の教皇統治の間、全てのカトリック信者たちにとって良心と信仰との重大な問題が生じてしまったからです。それはペトロの真の後継者である教皇様が、聖霊の援助を約束された教皇様が、ほんのわずかな間に、教会史上もっとも深くまたもっとも広大な教会の崩壊、いかなる異端者といえどもこれ程の破壊を成功させることができなかったほどのことを主導することができたのか? という問題です。この問題に、将来、正しく答えを出さなければならないことでしょう。」
詳しくは、「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 第18章 本当の従順と偽物の従順」をご覧戴きたい。
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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