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聖木曜日:最も熱心で最も敬虔な聖体拝領をするために:四つの心構え

2023年12月11日 | お説教・霊的講話

2023年4月6日(聖木曜日)大阪でのミサの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖木曜日です。
私たちの主は今日、ミサ聖祭と御聖体・カトリック司祭職を制定されました。
二千年前の初ミサが終わった後、イエズス様は使徒たちとゲッセマニの園に向かいました。祈るためです。主の御受難が始まります。そこで教会はそのことを象徴するために、このミサが終わった後、御聖体を仮祭壇に移し、祭壇の布を取り外して、そして祭壇を裸にします。これは私たちの主がご人性だけですべての苦しみをお受けになる、ということを意味しています。
教会の意向によれば今日は12時まで御聖体を礼拝することができます。それでもしも聖体礼拝されたいという方は、12時まで礼拝することができます。

今日は、特に御聖体が制定された日ですから、今日の御聖体拝領は最も熱心で最も敬虔な聖体拝領になることを祈っています。いったいどうしたらよいでしょうか。

私たちの主は、使徒たちに御聖体をお授けになる前に、もう使徒たちが清かったにもかかわらず、使徒たちの足を洗いました。洗足式です。これは主が、御聖体拝領をする前には霊魂の最高の完全さ・最高の清らかさを求めておられる、ということを教えようとされたのです。

もしも私たちが、よく準備された心で御聖体を拝領するならば、聖寵の豊かな恵みをいただくことができます。しかしもしも準備無しに、主をわきまえずに受けると、御聖体拝領の効果がないばかりか、最大の不幸・損害を受けることになってしまいます。イエズス様からの最も尊い賜物は、よく準備された霊魂にとっては天国の栄光を勝ち取るための最も素晴らしい助けになります。しかし、そうでない心で受けるとそれは、永遠の死をもたらす原因となってしまいます。

旧約時代にはその前兆がありました。それは契約の櫃と呼ばれているものです。天主の十戒・マンナそしてアアロンの杖が入っていた契約の櫃です。これはイスラエルの民にとっては最も貴重で、主の無数の敵を倒し、数多くのお恵みをいただく源となっていました。しかし異邦のペリシテ人たちがこの契約を奪い取った時、実はこの契約の櫃はペリシテ人たちにとってめぐみをもたらすかわりに屈辱的な病気や災害をもたらすもととなりました。ですから、これをもうユダヤ人たちのもとに返す、と突き返して来ました。

私たちは自然界でも同じことを体験しています。脂ののったビフテキやあるいは繊維のたくさんついた野菜も胃が丈夫な健康な人にとっては体のために役に立ちますけれども、胃の調子が悪い病弱な人にとっては、却ってこれで病気になってしまいます。

では、いったい私たちは今日どのようにして、御聖体拝領を準備したらよいでしょうか。
トリエント公会議の公教要理によると、四つ挙げています。

一つは、今日聖パウロが言ったように主の御体をわきまえるということです。これは何を意味するかというと、天国のパンと普通のパンを、区別することです。つまり、私たちが受ける御聖体は天使たちが天において賛美している全知全能の天主イエズス・キリストの御体・御血それ自身ということを深く知り、これを信じることです。そして礼拝して、そのものとして拝領することです。

第二の心構えは、やはりトリエント公会議によると、私たち一人一人が本当に真実に真心から隣人を愛しているかどうかを自問することです。主はこう言われたからです、「だからあなたが祭壇に供え物を捧げようとする時兄弟があなたに何か含むところがあるのを思い出したら、供え物をそこ祭壇の前において、先ず兄弟のところに行って、和睦し、それから帰って捧げ物を捧げよ」。

第三には、私たちが、大罪の状態にいるのではないか、成聖の恩寵を失ってはいないかということを吟味して、もしも不幸にしてそうであったとすれば、痛悔の心を持って告白して罪の赦しを得ることです。なぜかというと、天主イエズスも、婚礼の服をつけずに主の婚礼の席に出る人は暗い牢獄に投げ入れられ永遠の罰に処せられることを、教えているからです。

第四にトリエント公会議の公教要理が教えていることは、私たちが沈黙のうちに祈って、主のこれほどの大きなお恵みを受けるのに自分はどれほどふさわしくないか、ということを黙想することです。そして、百部長が言った言葉を、私たちも心から言わなければなりません。なぜかというとこの言葉を聞いた主は、イスラエルの内にも私は誰にもこれほどの信仰を見たことがないと、主をして言わしめたからです。この百部長の言った言葉というのは、「主よ、私はあなたを私の内に迎えうる値打ちの無いものです。ただひと言宣(のたま)い給え。さればわが霊魂は癒される。」

このうち特に今日は、私たちは主の御前に近づくために私たちがどれほどふさわしくなかったのか、どれほど値打ちがないのか、ということを黙想致しましょう。

私たちはいつも心に痛悔の念を持っていなければなりません。痛悔というのは、犯した罪を心から悔やんで、忌み嫌い、そしてもう決して罪を犯すまいと、決心することです。ちょうど石が粉々に砕かれたように、私たちの心も粉々に砕かれた状態のことです。痛悔というのは、あるいは悔悛というのは、ただ罪を犯さないとか新しい生活を送るというだけではなくて、特に過去の罪を憎んでこれに対して償いを果たすということにあります。傲慢によって固くなった私たちの心が痛悔によって打ち砕かれなければならないということを意味しています。

良い痛悔のためには公教要理によると、四つのことが必要です。
痛悔は内的で、心の底からのものでなければならない。
痛悔は超自然のものでなければならない。
また痛悔は最高の極度のものでなければならない。
痛悔は普遍的でなければならない、といいます。

痛悔が心からのものというのは簡単に理解ができるかもしれません。

痛悔が超自然というのは、信仰に動かされて罪を悔やむということだからです。ただ自分が失敗したから、この世で恥を受けた、ということで後悔するという意味ではなくて、愛すべき主を悲しませてしまった、あるいは罪を犯したために天国の栄光あるいは超自然のいのちを失ってしまったということを悔やむ、という超自然の動機によるものです。

この痛悔は最高でなければなりません。極度でなければなりません。なぜかというと罪が最高の善である天主への侮辱であるからです。私たちは主を全てに超えて愛さなければならないにもかかわらず、その天主を犯してしまったので、天主から私たちを離させてしまう罪を極度に最高に忌み嫌わなければならないからです。最高度・極度に罪を悔やむというのは、私たちがこの地上で受ける不幸・嫌なこと・辛いこと・悲しいこと・家を失ってしまった・健康を失ってしまった・病気になってしまったということよりも、さらに、主を犯してしまった等々を悲しむことです。

また痛悔が普遍的であるということは、私たちの罪すべてについてこれを悔やむということです。

特に今日は御聖体をいただくにあたって、心からの痛悔を、心の内からの深い痛悔を、超自然の痛悔を、最高度の痛悔を、そして普遍的なすべての罪について痛悔の念を請い求めましょう。

主は私たちに、父のように、あるいは母親のように、ご自分のお持ちの物をすべて与えて、ご自分の御体さえも与えようとされます。私たちは放蕩息子がその父親のもとに帰ることにした時のような心で、御聖体に近づきましょう。私は主の子と言われる価値のないものです。僕(しもべ)のもっとも下の者として扱ってください。主は私たちにご自分の御体をお与えになられるに違いありません。私たちを母のように愛してくださる主に、心から子供の念をもって御聖体に近寄るようにいたしましょう。最後に、マリア様に、心からの痛悔の念を持って御聖体拝領を、愛をこめて御聖体拝領をすることができるように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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