アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「共贖者である聖母について」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「イエズスの十字架のかたわらには、イエズスの母と、母の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアが立っていた」(ヨハネ19章25節)。これほど苦しむとは、彼らは何をしたというのでしょうか。こんなことが起こるのは、不正義ではないのでしょうか。
しかし、十字架そのものを見上げるならば、さらに驚くべき情景が見えます。キリストは罪のない小羊であり、「聖霊によって、汚れのないご自分を天主に捧げた」(ヘブライ9章14節)のです。
ここに偉大な神秘があります。罪の無い者が苦しむこと。天主はなぜ、罪の無い者を苦しませられたのでしょうか。天主は不正義なのでしょうか。決してそうではありません。それどころか、天主は正義なるがゆえに、罪なき者を苦しませられたのは、その代償として素晴らしい偉大な報酬を与えるためだったのです。すなわち、世の救いです。これは、聖アウグスチヌスによる贖いの神秘の説明です。キリストがご受難と十字架上の死によって獲得した代償です。
これが、私たちの主イエズス・キリストにとって真実であり、童貞聖マリアにとっても真実なのです。マリア様もまた完全に罪がなく、そのため、天主がマリア様を苦しませられたのは、マリア様に素晴らしい報酬、共贖者となる報酬を与えるためだったのです。
実際、聖書で「汚れなき(罪のない)」の言葉が使われているのを調べると、驚くべき答えが出ます。汚れない者であるということは、犠牲のいけにえのために必要な条件なのです。小羊は汚れない(傷のない)ものでなければならないし、子牛もその他の動物も神殿で捧げられるものは汚れないものでなければなりません。このことは、贖いの完全な犠牲のいけにえ、すなわち私たちの主イエズス・キリストが完全に汚れのない小羊であるということの前表であるのは確実です。しかしながら、このことは、汚れなき(無原罪の)御宿りがいけにえの光であることをも示しています。教会は、御託身の神秘の観点から、御言葉の器にふさわしくなるために、聖母が無原罪であると教えています。これは真実ですが、さらに加えて、聖母は贖いの神秘の観点からも無原罪であると言わなければなりません。聖母は、十字架につけられたイエズスとともに、いけにえになるために、つまり共贖者となるために無原罪なのです。
(聖母が共贖者であることは)私たちにとって、一つで二重の意味を持つ教訓です。第一に、童貞聖マリアの御取り次ぎに大きな確信が与えられます。実際、聖母は、その祈りがかなえられるべき確かな権利をお持ちです。聖母は、キリストとともに(贖うことで)私たちを「買い取って」くださったので、私たちは聖母の所有物なのです。聖母はいつも完全に天主の御意思を行っておられます。聖母の全生涯は、ご託身から十字架の下まで、すべて「フィアット=天主に、はい」でした。その見返りに、善き主は聖母のお願いになることは何も拒否なさいません。
第二に、聖母は、苦しみが私たちを襲うとき、大きな励ましになります。
カルワリオには三つの十字架がありました。私たちの主イエズス・キリストの十字架と、悔い改めた盗賊の十字架、悔い改めなかった盗賊の十字架の三つです。ここには三種類の苦しみがあります。地獄行きの者の苦しみ、悔い改める者の苦しみ、そして罪の無い者の苦しみです。
地獄行きの者の苦しみは、私たちの反逆によって無駄になってしまう苦しみです。なぜなら、自分の罪によって私たちがその苦しみにふさわしいということだけでなく、罪を知ることを拒否するという傲慢から苦しみが来るときに、それを拒絶するからです。苦しみのために天主を冒涜さえする者もいます。そうすると、逆に苦しみが減ることはありません。彼らには、これは地獄の始まりに過ぎません。中には自殺する人もいます。でもこれはこの世で最もばかげたことです。なぜなら、地上の苦しみから永遠の苦しみに移るのですから。天主に対して反逆し、天主の御意思を拒否し、天主に従わないという究極の結果なのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちは苦しみをそんなふうに無駄にしないようにしましょう。
悔い改める者の苦しみは、もっと良いものです。悔い改めた盗賊をお赦しになったキリストの寛大さを見てください。この盗賊は自分に罪があることを知りました。そして痛悔を行いました。公に王たるキリストへの信仰告白をし、哀れみをこい求めたのです。彼は、生命の終わりに煉獄にとどまる準備ができました(「あなたが王国へ入られるとき、私を哀れんでください」、王国へ入られるときとは、すなわち世の終わりのことです)。しかし、私たちの主イエズス・キリストは、すぐに彼に報酬を与えました。「きょう、あなたは私とともに天国にいるであろう」。その後、彼はキリストのそばで、脚を折られるまで忍耐強く苦しみを捧げました。そして直接天国に行きました。このように、私たちが苦しむとき、いつもまず自分を告発すべきです。私たちは罪なき者ではありません。キリストの苦しみと一致するならば、私たちの苦しみは罪を償う価値があるのです。過去において、私たちが天主に不従順だったのなら、天主が送ってくださる十字架を従順に受け入れることで、私たちは贖いの犠牲と一致し、過去の不従順を償うことができます。悔い改める者の苦しみは、霊魂の贖いにとって実り多いのです。
さて、聖トマス・アクィナスの教えによれば、天主は私たちに十分な苦しみの機会をお与えになります。それは、私たちが苦しみを受け入れる従順さをもって、「悔い改める者の苦しみ」として苦しみを捧げるならば、私たちは罪という負債を返すことができ、この苦しみが罪なき者の苦しみの価値を得る始まりになりうるからです。たとえば、幼きイエズスの聖テレジアは、ただ一つの大罪も犯さず、小罪はすぐに償いました。その後、結核の苦しみはすべて、キリストのあわれみ深い愛に対するいけにえとして自分を捧げたとき、罪なき者の苦しみとなり、降り注ぐような大きな御恵みを得ました。ですから、彼女は宣教者の保護聖人となったのです。
罪なき者の苦しみは、さらに称賛に値します(利益があります)。キリストと一致することで、他の多くの霊魂の贖いに実りあるものとなります。聖テレジアのように罪なき者であればあるほど、多くの霊魂がそのいけにえから利益を得ます。聖母は完全に罪のない方で、小罪さえありませんでしたから、聖母の苦しみは私たちの主イエズス・キリストのいけにえと完全に一致しており、共贖者としてすべての人にとって実りあるものです。聖母はまことに新しいエバであり、まことの「生きている者の母」(創世記3章20節)です。キリストの命、永遠の命に生きる者です。「御言葉に命があり、この命は世の光であった」(ヨハネ1章4節)。
私たちの主イエズス・キリストは、30年間隠れた人生を送られ、3年半の間、公の生活をなさいましたが、十字架の上には3時間おられただけでした。しかし、この3時間がキリストの全生涯の中で最も実り多いものでした。なぜなら、3時間のいけにえにより、世を贖われたからです。しばしば、人の最後の時期は、年齢や病気で苦しみの時期になりますし、十字架のキリストと一致するという真のキリスト教的精神で過ごすとき、そのような期間は人生で最も実り多いものとなります。十字架のいけにえと一致して苦しみを忠実に捧げることによって、自分の過去の罪を償うだけでなく、家族や子どもたち、孫たち、友人たちや親せき、そして多くの他の霊魂のとっても、多くの恵みを得ることになります。
私たちがミサに出席するとき、いつも思い起こしましょう。私たちは十字架の下にいるように、祭壇の下にいることを。キリストは、私たちの救いのために、ご自分を御父にお捧げになります。私たちは自分を十字架の下におられる聖母と一致させ、キリストのいけにえとともに捧げるいけにえとして、苦しみを受け入れ、お捧げしましょう。そうすれば、キリストのいけにえにおいて、キリストとともにいけにえになるのです。「キリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しむ」(ローマ8章17節)。共贖者である無原罪の童貞が、力強い御取り次ぎによって、私たちをお助けくださいますように。 アーメン
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「共贖者である聖母について」の日本語訳をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2013年3月23日 大阪でのお説教
「共贖者である聖母について」
「共贖者である聖母について」
「イエズスの十字架のかたわらには、イエズスの母と、母の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアが立っていた」(ヨハネ19章25節)。これほど苦しむとは、彼らは何をしたというのでしょうか。こんなことが起こるのは、不正義ではないのでしょうか。
しかし、十字架そのものを見上げるならば、さらに驚くべき情景が見えます。キリストは罪のない小羊であり、「聖霊によって、汚れのないご自分を天主に捧げた」(ヘブライ9章14節)のです。
ここに偉大な神秘があります。罪の無い者が苦しむこと。天主はなぜ、罪の無い者を苦しませられたのでしょうか。天主は不正義なのでしょうか。決してそうではありません。それどころか、天主は正義なるがゆえに、罪なき者を苦しませられたのは、その代償として素晴らしい偉大な報酬を与えるためだったのです。すなわち、世の救いです。これは、聖アウグスチヌスによる贖いの神秘の説明です。キリストがご受難と十字架上の死によって獲得した代償です。
これが、私たちの主イエズス・キリストにとって真実であり、童貞聖マリアにとっても真実なのです。マリア様もまた完全に罪がなく、そのため、天主がマリア様を苦しませられたのは、マリア様に素晴らしい報酬、共贖者となる報酬を与えるためだったのです。
実際、聖書で「汚れなき(罪のない)」の言葉が使われているのを調べると、驚くべき答えが出ます。汚れない者であるということは、犠牲のいけにえのために必要な条件なのです。小羊は汚れない(傷のない)ものでなければならないし、子牛もその他の動物も神殿で捧げられるものは汚れないものでなければなりません。このことは、贖いの完全な犠牲のいけにえ、すなわち私たちの主イエズス・キリストが完全に汚れのない小羊であるということの前表であるのは確実です。しかしながら、このことは、汚れなき(無原罪の)御宿りがいけにえの光であることをも示しています。教会は、御託身の神秘の観点から、御言葉の器にふさわしくなるために、聖母が無原罪であると教えています。これは真実ですが、さらに加えて、聖母は贖いの神秘の観点からも無原罪であると言わなければなりません。聖母は、十字架につけられたイエズスとともに、いけにえになるために、つまり共贖者となるために無原罪なのです。
(聖母が共贖者であることは)私たちにとって、一つで二重の意味を持つ教訓です。第一に、童貞聖マリアの御取り次ぎに大きな確信が与えられます。実際、聖母は、その祈りがかなえられるべき確かな権利をお持ちです。聖母は、キリストとともに(贖うことで)私たちを「買い取って」くださったので、私たちは聖母の所有物なのです。聖母はいつも完全に天主の御意思を行っておられます。聖母の全生涯は、ご託身から十字架の下まで、すべて「フィアット=天主に、はい」でした。その見返りに、善き主は聖母のお願いになることは何も拒否なさいません。
第二に、聖母は、苦しみが私たちを襲うとき、大きな励ましになります。
カルワリオには三つの十字架がありました。私たちの主イエズス・キリストの十字架と、悔い改めた盗賊の十字架、悔い改めなかった盗賊の十字架の三つです。ここには三種類の苦しみがあります。地獄行きの者の苦しみ、悔い改める者の苦しみ、そして罪の無い者の苦しみです。
地獄行きの者の苦しみは、私たちの反逆によって無駄になってしまう苦しみです。なぜなら、自分の罪によって私たちがその苦しみにふさわしいということだけでなく、罪を知ることを拒否するという傲慢から苦しみが来るときに、それを拒絶するからです。苦しみのために天主を冒涜さえする者もいます。そうすると、逆に苦しみが減ることはありません。彼らには、これは地獄の始まりに過ぎません。中には自殺する人もいます。でもこれはこの世で最もばかげたことです。なぜなら、地上の苦しみから永遠の苦しみに移るのですから。天主に対して反逆し、天主の御意思を拒否し、天主に従わないという究極の結果なのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちは苦しみをそんなふうに無駄にしないようにしましょう。
悔い改める者の苦しみは、もっと良いものです。悔い改めた盗賊をお赦しになったキリストの寛大さを見てください。この盗賊は自分に罪があることを知りました。そして痛悔を行いました。公に王たるキリストへの信仰告白をし、哀れみをこい求めたのです。彼は、生命の終わりに煉獄にとどまる準備ができました(「あなたが王国へ入られるとき、私を哀れんでください」、王国へ入られるときとは、すなわち世の終わりのことです)。しかし、私たちの主イエズス・キリストは、すぐに彼に報酬を与えました。「きょう、あなたは私とともに天国にいるであろう」。その後、彼はキリストのそばで、脚を折られるまで忍耐強く苦しみを捧げました。そして直接天国に行きました。このように、私たちが苦しむとき、いつもまず自分を告発すべきです。私たちは罪なき者ではありません。キリストの苦しみと一致するならば、私たちの苦しみは罪を償う価値があるのです。過去において、私たちが天主に不従順だったのなら、天主が送ってくださる十字架を従順に受け入れることで、私たちは贖いの犠牲と一致し、過去の不従順を償うことができます。悔い改める者の苦しみは、霊魂の贖いにとって実り多いのです。
さて、聖トマス・アクィナスの教えによれば、天主は私たちに十分な苦しみの機会をお与えになります。それは、私たちが苦しみを受け入れる従順さをもって、「悔い改める者の苦しみ」として苦しみを捧げるならば、私たちは罪という負債を返すことができ、この苦しみが罪なき者の苦しみの価値を得る始まりになりうるからです。たとえば、幼きイエズスの聖テレジアは、ただ一つの大罪も犯さず、小罪はすぐに償いました。その後、結核の苦しみはすべて、キリストのあわれみ深い愛に対するいけにえとして自分を捧げたとき、罪なき者の苦しみとなり、降り注ぐような大きな御恵みを得ました。ですから、彼女は宣教者の保護聖人となったのです。
罪なき者の苦しみは、さらに称賛に値します(利益があります)。キリストと一致することで、他の多くの霊魂の贖いに実りあるものとなります。聖テレジアのように罪なき者であればあるほど、多くの霊魂がそのいけにえから利益を得ます。聖母は完全に罪のない方で、小罪さえありませんでしたから、聖母の苦しみは私たちの主イエズス・キリストのいけにえと完全に一致しており、共贖者としてすべての人にとって実りあるものです。聖母はまことに新しいエバであり、まことの「生きている者の母」(創世記3章20節)です。キリストの命、永遠の命に生きる者です。「御言葉に命があり、この命は世の光であった」(ヨハネ1章4節)。
私たちの主イエズス・キリストは、30年間隠れた人生を送られ、3年半の間、公の生活をなさいましたが、十字架の上には3時間おられただけでした。しかし、この3時間がキリストの全生涯の中で最も実り多いものでした。なぜなら、3時間のいけにえにより、世を贖われたからです。しばしば、人の最後の時期は、年齢や病気で苦しみの時期になりますし、十字架のキリストと一致するという真のキリスト教的精神で過ごすとき、そのような期間は人生で最も実り多いものとなります。十字架のいけにえと一致して苦しみを忠実に捧げることによって、自分の過去の罪を償うだけでなく、家族や子どもたち、孫たち、友人たちや親せき、そして多くの他の霊魂のとっても、多くの恵みを得ることになります。
私たちがミサに出席するとき、いつも思い起こしましょう。私たちは十字架の下にいるように、祭壇の下にいることを。キリストは、私たちの救いのために、ご自分を御父にお捧げになります。私たちは自分を十字架の下におられる聖母と一致させ、キリストのいけにえとともに捧げるいけにえとして、苦しみを受け入れ、お捧げしましょう。そうすれば、キリストのいけにえにおいて、キリストとともにいけにえになるのです。「キリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しむ」(ローマ8章17節)。共贖者である無原罪の童貞が、力強い御取り次ぎによって、私たちをお助けくださいますように。 アーメン