アヴェ・マリア!
【質問】松浦悟郎司教さまが呼びかけ人になってこう言うことをいっているそうです。どう思いますか。
生徒のみなさんへ
みなさんの良心の自由は、憲法と子どもの権利条約で守られています
みなさんの参加する卒業式・入学式では、壇上に「日の丸」がかかげられ、「君が代」斉唱が行われようとしています。
でも、もし、あなたがいやだと思うなら、歌わなければならない義務はありません。
無理矢理立たせたり、歌わせたりすることは誰にもできないのです。
あなたの心の中のことは、あなた自身が決めることで、卒業式・入学式は、みなさんのためにあります。
何をして、何をしないか、自分たちで決めることができるのです。
卒業式・入学式に「日の丸」「君が代」が必要かどうか、これらは、皆さんに関わる大切な問題です。
どうしたいか、自分たちの権利として学校に意見を言うことができます。
むしろ学校は、皆さんの意見を聞く機会を作らなければならないし、そこで出された意見を十分大切にしなければならないのです。
これは、子どもの権利条約第12条に決められた、みなさんの大切な権利です。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/zikosyoukai.htm
【答え】 「良心の自由」について、私たちは歴代の教皇様たちが思っていたように思い、考えていたように考えます。私たちはカトリック教会の変わらない教えを信じます。歴代の教皇様たちの一貫した教えを信じます。つまり、客観的な真理と善には自由があり、客観的な誤りと罪には自由がない、ということです。
「主観的なイヤだと思う」という「良心の自由」などありません。
もしも、国旗を掲げたり国歌を歌うことが罪であれば、罪は犯してはなりません。しかし、国旗を掲げたり国歌を歌うことは、それ自体で天主に背く罪ではありません。それが罪でないなら、ましてや国を大切に思う、天主の第四戒に関することであれば、天主に従うために、私たちは従わなければなりません。
つまり、客観的な善のためであれば、権威は私たちを「無理矢理立たせたり、歌わせたりすること」ができます。客観的な善を命じられる時、私たちは天主の権威の代理者に従順でなければなりません。真理や善は「あなたの心の中のこと」でもなければ、「あなた自身が決めること」でもないからです。主観的に「何をするのが良いことか」「何をしてはならないか」は、自分たちで決めることはできないからです。
● 今私は現在教会を苦しめ、私の心を嘆かさずにはおかないもう1つ別の、そして最も「多くの実を結んでいる」諸悪の原因について話さなければなりません。それは「宗教無差別主義」、ないしは邪悪な人々の策略によりいたるところに広まっている破滅的な言説、すなわち「人はその生活が正義と誠実に適ったものであるならばどのような信仰を持っていたとしても永遠の救いを得ることができる」という見解です。・・・
宗教無差別主義のこの毒を含んだ泉からは「すべての人に対して良心の自由が確立され、保証されるべきだ」という誤りかつ愚かなというよりむしろ突拍子もない原則が流れ出ます。これはきわめて伝染しやすい誤謬ですが、教会と国家を亡ぼすべく広がる無条件かつ無制限の言論の自由はこれを助長します。そしてこのような言論の自由が教会にとって有利なものであるかのように厚顔にも吹聴する者たちがいるのです。聖アウグスチヌスはこう言っています。「誤りの自由ほど人々の霊魂に確実な死をもたらすものがあるだろうか!」と。・・・経験に則して、また歴史上最も古い時代からの教訓に従えば富・権勢・栄華において抜きん出た幾多の都市国家がこのただ一つの悪によって滅んだからです。そしてこの悪とは制限なしの言論の自由・公の場での言論の放任・変化への熱狂的な望み他なりません。
教皇回勅 ミラリ・ヴォス Mirari vos グレゴリオ16世 -自由主義と宗教無差別主義について 1832年8月15日 http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/mirari_vos.html
● 統治に関するこの全く誤った考えから、彼らはカトリック教会および霊魂の救いに及ぼす影響において、至って致命的な見解、先任者グレゴリオ16世が「常軌を逸した考え」と呼んだ見解、すなわち「良心の礼拝の自由は、各人の個人的権利であり、法律のかたちで宣言され、全てのしかるべく構築された社会において、正当なこととして主張されねばならないものである。また、市民には、絶対的自由に対する権利が存し、教会のであれ国家のであれ、いかなる権威によっても、これは抑制されてはならない。かかる自由によって市民は公かつ明け広げに自らの思想を、それがでのようなものであれ、口頭で、あるいは出版物をとおして、またはその他のいかなる手段ででも表明し、宣言することができる」とする見解です。しかし、無思慮にも、このような断定を下す彼らは、自分たちが「滅びへと導く自由」を説いていること、また、「もし人間の議論に、常に自由に議論をなす余地が与えられたならば、真理に抵抗し、人間的知恵に基づくひびきの良い弁説に信を置く者たちに決して欠くことはない」という事実に気づかず、思いもよりません。「しかるに、主イエズス・キリストの教えそのものから、キリスト教的信仰と知恵とは、どれほどの注意をもってこの種のきわめて有害な詭言をさけるべきかを、私たちは承知しています」。
教皇ピオ9世の回勅『クヮンタ・クラ』-現代の誤謬の排斥-1864年12月8日発布
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/pius_9_quanta_cura.html
● ひろく喧伝されているもう一つ別の自由があり、それは「良心の自由」と呼ばれるものです。もしこの言葉によって表されているのが、人は誰でも天主を礼拝するかしないかを選択する自由があるということなら、それはこれまで示してきた論拠によって充分反駁されます。
しかし、この言葉はまた、国家において誰もが天主の御旨に従い、また[果たすべき]義務という意識に基いて、いかなる妨げもなしにその命令に従うことができるという意味にも解することができます。この意味でなら、これは真の自由であり、天主の子らにふさわしい自由です。このような自由は人間の尊厳を保ち、いかなる暴力、不正よりも強いものであり、また教会が常に望み、非常に大切にしてきたものです。これこそが使徒たちが臆することのない大胆さで主張した自由であり、また護教家たちが著作を通して確証した自由に他ならず、さらにはおびただしい数の殉教者たちが自らの血をもって確立した自由です。そしてそれは至極もっともなことでした。なぜならキリスト教的な自由は、天主の人間に対する絶対的かつこの上なく正当な主権ならびに人間の天主に対する主要かつ最高の義務を証し立てるものだからです。[したがって、]これは反抗的で反乱を好む精神とは無縁のものであり、公の権威に対する従順をいかなる名目においても減じさせることはありません。と言うのも、命令し従順を求める権利は、それが天主の権威と合致し、天主が定められた基準の範囲内にとどまるものであるかぎりにおいて存在するからです。
しかし、もし天主の意志に明らかに反したことが命じられた場合、それは天主によって定められた秩序から大きく離反することであり、同時に天主の権威に真っ向から対立することですから、従わないのが正しいのです。
教皇レオ13世回勅『リベルタス・プレスタンシッスィムム』Libertas praestantissimum(人間の自由について)1888年6月20日
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/leo_13_libertas.html
============
<2007年2月聖伝のミサ聖祭の予定>
【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」
16日(金)平日(4級) 大阪 午後5時半
17日(土)平日(4級) 大阪 午前11時
【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
17日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会(http://sound.jp/gregorio/)
午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
18日(主)午前10時 ロザリオ及び告解
午前10時半 五旬節の主日(2級)紫
午後1時半 映画「ドンボスコ」の鑑賞(3時半頃まで)
午後4時 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
19日(月)午前7時 平日(4級)
20日(火)午前7時 平日(4級)
2007年の年間予定表は、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
をご覧下さい。
詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/2.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
などをご覧下さい。
クリックで応援して下さいね。↓
http://blog.with2.net/link.php?269452
兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
そればかりかトリエントミサの復活の妨げにもなると思います。
そればかりかトリエントミサの復活の妨げにもなると思います。
そればかりかトリエントミサの復活の妨げにもなると思います。
そればかりかトリエントミサの復活の妨げにもなると思います。
「裁くな。裁かれたくなければ」さん、
ご心配を感謝します。
まず、(1) 私の回答は「攻撃的な挑発」では全くありません。
何故なら、歴代の教皇様の教え、使徒継承のカトリックの教えをただ繰り返しただけですから。カトリック教会の教えを繰り返して述べる、それが攻撃的な挑発なのでしょうか?
これは司教様の人格に対する「攻撃的な挑発」でもありません。何故なら「誤りを犯すの自由」を認めることほど人々の霊魂に確実な死をもたらすものがあるだろうか!?と教皇様の教えをそのまま述べただけですから。これが攻撃になるのでしょうか?
(2) 「裁くな。裁かれたくなければ」さんによれば、聖ピオ十世会の司祭が過去の教皇様の教えをそのまま述べると、「ピオ10世会のバチカンとの関係回復の妨げになる」というお考えなのでしょうか? ということは、今のバチカンは、過去の教皇様の考えを聞きたくない、過去のカトリック信仰や教皇様の教えとは断絶している、つまり教えが違っている、過去の教皇様たちとの完全な交わりにはない、離教的だと言いたいのでしょうか?
(3) 「裁くな。裁かれたくなければ」さんは、もしも私たちが過去の教皇様の教えをそのまま述べると、「トリエント・ミサの復活の妨げにもなると思う」から、教皇様の教えを繰り返し説いてはならない、と言わんとするのですね。つまり、この世での利益が減るぞ、黙っていた方が得だぞ、という脅しですね。つまり、自分の利益や護身のことばかり考えていればいいんだ、という考えですね。教会はあなたのような自分の護身だけを考える裏切り者で満たされているのでしょうか??
(4) さらに、カトリック信仰をそのまま述べることが、聖伝のミサの復活に妨げになるとしたら、それは問題が、聖ピオ十世会以外のところにあることを明らかにしています。
私たちはこう言いましょう。
「天主をおいて、あなたたちに従うことが、天主のみ前にただしいことかどうかは、あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」(使徒行録4章)
あなたたちは、地の塩である。塩がその味を失ってしまったら、何で塩の味をつけられようか。もう役にたたず、外にすてられて、人にふまれるばかりである。あなたたちは世の光である。山の上にある町はかくしておけない。また、あかりをともしたら、桝の下には入れいで、燭台の上におくものだ。こうすれば、あかりは、部屋中の人をみな、てらしだしてくれる。このように、あなたたちも、人の前で光を輝かせよ。
たとえ私たちが黙ったとしても、石が真理を叫ぶことでしょう。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田神父(聖ピオ十世会司祭)
追伸: Unknown さん、4回投稿があったのは、おそらく「裁くな。裁かれたくなければ」さんのコンピューターの具合が悪かったのでしょう。ゆるしてあげて下さい。
大変残念な話しなのですが、他のカトリック信者の方にお金を貸しましたが返していただけません。
サラ金、破産から逃れたいとの依頼があり、お子さんもいる方でしたので、お困りであろうと工面して、数百万円程お貸ししました。
しかし、まもなく10年になりますが、時効を待っているのか、こちらからの働きかけには弁護士を通して以外は応じず、「和解する気はない、裁判でもすればいい」とまで言っており、一切の返済意思がないという状態です。理由を聞いても一切答えません。
お貸しした方は、ピオ10世会を信じていたこともあり、信仰心のある方だと思って信用しておりました。
このような場合、
①こういうことをした信者は、教会法上、どうなるのでしょうか。
②また、このような信者に対し、どのような対応をしたらよろしいでしょうか。カトリック教会で仲裁等何かしていただけないのでしょうか。
どうか良い方法がありましたら、お教え下さい。
また、聖ヨゼフによい解決方法が見つかるように取次ぎを祈ります。
NGなら消去してください。
日本国旗は、古くから、日本全土の戦の時などに使われ、国もまた国旗として認めております。
子供の自由についてなのですが、いやならしなくていいというのはどうなんでしょうか?
公立学校に行き、日本の税金で教育を受け、様々な行事のとき、子供の『国旗がきらいだから』と言う意見で、指導するはずの大人たちが『無理にたたなくていいから』と言うのは教育なのでしょうか?(ここでは、教えになるんでしょうかね)
日本は宗教の自由が保障され、言論の自由も保障されており、私にとっては愛すべき世界に自慢できる母国です。
思想を理由に拒否できるなら、全てを拒否できることになるとおもいます。国語の授業も『僕は日本語は嫌い。占領した国の言葉だ』となるでしょう。
失礼ながら、国旗に対する気持ちと言うのは、宗教論で語る必要はないのではないでしょうか?この辺は不勉強かもしれませんが、イギリスやアメリカの牧師さんは、星条旗やユニオンジャックを軽視してるのでしょうか?国旗に礼儀を持たせないのも宗教上の自由としているのでしょうか?
こういう問題に牧師さんが出ると、「キリスト教でも日本国旗を軽視することを認めているのね」となってしまったらどうするのでしょう?