CREDIDIMUS CARITATI

このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げる--  聖伝のカトリック信仰を守り抜いたルフェーブル大司教の伝記

Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

Credidimus Caritati 
私たちは天主の愛を信じた
(Iヨハネ 4.16)
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2016年 7月の聖伝のミサの予定

【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


6月はイエズスの聖心の月です。イエズスの御心の連祷を毎日唱えましょう。 意向:多くの司祭・修道者の召命が与えられるため 実践すべき徳:御聖体への愛徳と頻繁な霊的聖体拝領 守護の聖人:ゴンザガの聖アロイジオ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2016年 7月の予定

【大阪】2016年5月15日よりミサの場所が変更になりました!
聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2  〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

   7月1日(初金) イエズス・キリストのいと尊き御血(1級祝日)赤 
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   7月2日(初土) 童貞聖マリアのご訪問(2級祝日)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月8日(金) 寡婦聖エリザベト女王(3級祝日)白
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   7月9日(土) 聖母の土曜日(4級)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月17日(主) 聖霊降臨後第9主日(2級)緑
           午後5時半  ロザリオ及び告解
           午後6時  ミサ聖祭

   7月18日(月) 証聖者聖カミロ・デ・リリス(3級祝日)白
           午前6時半 ミサ聖祭


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   7月3日(主) 聖霊降臨後第7主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月4日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭

   7月10日(主) 聖霊降臨後第8主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   7月11日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭


愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎愛する兄弟姉妹の皆様を2016年「聖母黙想会(聖グリニヨン・ド・モンフォールによる)」へお招きいたします。

2016年8月10日~8月15日 指導司祭:アジア管区長シュテーリン神父様(日本語通訳:小野田神父)
聖ピオ十世会日本 2016年 聖母黙想会についてのお招き

 
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天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。

2016年06月25日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年6月4日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月4日 初土曜日 聖母の汚れ無き御心の随意ミサ
小野田神父説教

聖母の汚れ無き御心聖堂にようこそ。

今日は2016年6月4日、初土曜日、聖母の汚れ無き御心の随意ミサをしています。
今日のこのミサの後に、いつものように公教要理を勉強しましょう。
今回は長崎の巡礼の事がどうしても忘れられずに、長崎の巡礼で一番私の記憶に残った、是非「福者中浦ジュリアン」について、もし皆さんもう一度話をする事ができればと思います。

皆さんお食事お昼の後には、ここで聖歌の練習があります。聖歌の練習をここでまた集まってやります。
せっかくのマリア様に捧げられた聖堂ですので、このこれをたくさんマリア様の讃美をより良くする事ができる為に、聖歌の練習をして下さればと思っています。

8月10日から被昇天まで、聖グリニョン・ド・モンフォールによる聖母黙想会が開かれます。ただの聖母黙想会ではなくて、聖グリニョン・ド・モンフォールによる黙想会で、これを指導して下さる方は世界中広しといえども、そんなに多くあるわけではありません。特にそれを深く研究されていた、聖マキシミリアノ・コルベ気違いである、失礼しました、シュテーリン神父様が、この黙想会を指導して下さるので、是非この機会に、ファチマ100周年を記念する為にも、マリア様に捧げられたこの汚れ無き御心をますます愛する私たちとしても、是非その黙想会にいらして下さる事をお願い致します。
場所は大阪です。大阪の去年した所と同じ所であります。どうぞたくさん、皆さんお友達を誘ってたくさん集まって下さい。


「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、
この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はマリア様の汚れ無き御心の随意ミサをしているので、マリア様の御心について、その「マリア様の御心は一体何なのか」を黙想したいと思います。

「イエズス様の聖心は愛の聖心で、私たちを永遠の昔から愛する、開かれた、傷付いた、愛に傷付いた聖心、愛するがあまり、愛に燃えるがあまり、その愛の痛みにズキズキと傷を受けたように痛む聖心であった」という事を黙想しました。

ではマリア様の御心は一体何なのでしょうか?私たちはどうして、マリア様の御心に信心があると、イエズス様の聖心に従って生きる事ができる様になるのでしょうか?何でそういう事を集祷文で祈らせているのでしょうか?それを黙想する事を提案します。

皆さんも黙想をしながら、「一体、マリア様の御心とは一体何なのだろうか?」「マリア様の御心に対する信心とはどういう事を意味するのだろうか?」「イエズス様の聖心に従って生きるというのはどういう事なのだろうか?」という事を考えながら黙想なさって下さい。

昨日、イエズス様の聖心の愛に燃える聖心、傷付いた聖心を黙想して私たちは、「イエズス様の聖心が、ちょうど『美しい門』であるかのようだ。」と黙想しました。「美しい門にちょうど私たちが連れて来られて、その門に、生まれつき足なえの、生まれつき歩く事のできない、1人ではもうどうする事もできない私たちが、美しい門に連れて来られてきて、聖ペトロと聖パウロにこの乞食が願ったように、『何か憐れんで欲しい、恵んでほしい。』と願っているかのようである。」

イエズス様は仰いました、「確かに、私は羊の門である。私を通らなければ誰も父の元に行けない。私を通らない者は泥棒である、強盗である。」

ですから誰もが、この美しい門であるイエズス様を通って行かなければなりません。ちょうど愛によって傷付いて開かれた聖心は、私たちの為に開かれた門であるかのようです。「さぁこの傷口から、愛に燃える傷口から入っていらっしゃい。入って来なさい。お前たちに全てのもの与えてあげよう。私はこれほど愛している。愛に傷付いている。愛に狂っている。お前たちに与えたくて、与えたくて、与えたくて、轟々とこの愛熱の竈の様に燃えているこの門を大きく開いて、私たちがその聖心の愛の中に、入るように、入るように」と、言っています。

私たちにするべき事は、その門の前でこの乞食が、昔この使徒行録にある乞食がやったように、「そのお恵みを欲しい。」と言う事です。聖ペトロとパウロに言われたように、「イエズス様の聖名によって歩け。」と言われたら、そのイエズス様の聖名によって歩く、つまりイエズス様の、「イエズス様の御旨を行う。イエズス様のお望みの通り、イエズス様からの溢れる愛を受ける。それだけでいいのだ。ただ望みさえすれば良い。ただイエズス様から受ける愛を受けさえすれば良い。」

問題は、私たちがイエズス様の愛を知らない』という事であって、私たちは、『イエズス様の愛を受けようとしない。自分の事だけでいっぱいだ。自分でもう十分だ。イエズス様はもういらない。』と思っていることです。

ゴミを漁ったり、この地獄のゲヘンナの火で焼かれてしまうべき被造物にあまりにも愛着して、それから目を離さずに、それだけの事を考えて、もう腐って食べてはいけないようなものを食べて、飲んでいけないようなもの、毒を飲んで、腐ったものを飲んで食べて、それで満たす事ができない腹を満たそうとしたり、それで却って健康を害してしまったり、永遠の死に至ってしまったり、私たちのまさに悲惨な状態は、イエズス様の愛を理解しようとしない、受け入れない、そこにある。」という事を昨日黙想しました。私たちはこれをヤラセでやっているのではなくて、本当にそれをやってしまっているという事が、それが現実であるという事が、あまりにも悲惨なのでした。

その悲惨な状況を見て、「私たちは一体どうすればよいか」という時に、この初土の信心がやって来ました。マリア様は、そのような悲惨な状態を見て、天から涙を流されておられます。私たちを、私たちが健康な永遠の命を、健全な食べ物を食べる事ができるように、健康である事ができるように、永遠の命を得る事ができるように、マリア様は母として全てをされた方でした。

アダムとエワが蛇にそそのかされて、禁断の木の下で罪を犯した時に、この2人はこの地上に死をもたらしました。エワは人類の母となるべき方でしたが、実は死をもたらした母となりました。

それにちょうどその罪を償うかのように、十字架の下で、第2のアダム、第2のエワがおりました。第2のアダムは十字架に、第2のエワの実りとして、胎内の実りとして木に付けられ、あたかも盗んだ実を、果実を返済したかのように十字架に付けられ、エワは第2のエワは、第1のエワが、堕ちた天使の悪魔の声を聞いたのに反して、天主から送られた大天使聖ガブリエルの言葉を信じて、主の御旨のままに全生涯を送ってきた方でした。

第2のアダムと第2のエワは2人協力して、私たちに永遠の命を与えようとされたのでした。第2のアダムの聖心と、第2のエワの御心は、心は全く1つの事を望んでいました、「天主の栄光、天主御父の栄光と、全人類の救霊」この2つです。

神学者たちによると、「全ての人類の生んだ、全ての聖人、聖女、殉教者、その全ての成聖の聖寵を集めて、全天使たちを集めてその聖寵を集めて、マリア様が最初に無原罪の御宿りの時に受けたその聖寵と比べると、そのマリア様の受けた最初に受けたお恵みの方が、全人類と全天使たちが集めたものよりもさらに大きい。」と言っています。

神学者たちによると、「更には、全ての被造物が、この世の始まりから終わりまで讃美した天主様の栄光、この天使大天使たちの何千何億何兆何京ものすごい数の天使たち、大天使たちケルビム、セラフィム、座天使、権天使、能天使、主天使、全てが集まって、全人類が集まって、多くの殉教者たち、多くの証聖者たち、博士たち、童貞、全ての聖なる教皇様と全ての人たちが集まって天主様を賛美したその栄光、また全被造物が捧げたその栄光と、マリア様が生涯捧げた栄光とを比べると、マリア様が御一人でなさって天主に捧げた栄光の方がはるかに多い。」「マリア様のその天主に捧げた栄光は大海原のようであって、それに比べて、全被造物が捧げる栄光は1滴の水であるかのようだ。」

マリア様は何故そうだったのでしょうか?何故かというと、マリア様は聖寵に充ち満ちた方であって、イエズス様から天主から受ける、天主が「与えたい」と思ったその愛と、天主が「与えたい」と思ったお恵みを全て、1つも拒否する事なく、純粋に「はい。我は主の婢女なり。」と受け、更に受け、更に受けた御方であったからです。聖霊の素晴らしい宿として準備されたのが、このマリア様の御心だったからです。

ですから、このマリア様の御心に対する信心を行うと、行えば行うほど、私たちはますますマリア様のその御心の影響を受ける事になります。マリア様の信心を行えば行うほど、私たちもマリア様に倣って、マリア様に於いて行動するようになります。するとどうしても、私たちはマリア様のそばにいるので、マリア様の御心によって「美しい門」の近くに、つまり「聖伝のミサ」の近くに、「イエズス様の十字架の生け贄」の近くに、「開かれたイエズス様の聖心」のそばにいつもいる事になります。

私たちがマリア様の信心をすればするほど、マリア様に倣って、「あぁ、マリア様が受けたように、イエズス様の聖心から来る愛とお恵みを全て、私たちも受けたい。」とますます思うようになります。

マリア様の信心をすればするほど、イエズス様の聖心にますます近寄り、イエズス様からますます受けるようになるのです。

ですから、集祷文で何故こういう風にお祈りをさせているのか、私たちはますます理解できます。

書簡で言うように、マリア様に於いて全てのお恵みがあります。道と真理の全てのお恵みがあります。マリア様は美しき愛の母であります。命と徳の全ての希望がマリア様に於いてあるからです。

マリア様は十字架の下にいつも、第2のエワとして立って、第2のアダムから宣言されました、「汝の子、ここにあり。」と。私たちに向かって、「汝の母、ここにあり。」と。イエズス様は、イエズス様の聖心はマリア様の事をそう宣言なさっています。

では、私たちは一体これから何をしなければならないでしょうか?

聖ピオ10世教皇様によると、その教皇様はその教皇様になった最初の時に、「全てをキリストにおいて復興させる。“Omnia instaurare in Christo." 」というモットーを出しましたけれども、それに続いてマリア様に対する回勅を出しました、「Ad Diem Illum」それでそこにおいて教皇様の言葉を一言でまとめると、「もしも私たちがイエズス様に対する、本当のイエズス様の聖心に対する信心を行いたいならば、マリア様の信心を、真の信心を行わなければならない。マリア様の御心に、恵みの玉座に近寄らなければならない。マリア様を母として愛さなければならない。無原罪の、汚れの無い御心に近寄らなければならない。」と教えています。

では今日は、私たちは是非その遷善の決心として、私たちは聖母の騎士の会員でもありますから、マリア様に1日1回でも、「原罪の汚れ無き宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らの為に祈り給え。」と、マリア様にお祈りする事に致しましょう。「御身により頼み奉らない者にも、フリーメイソンの会員の為にも、また御身に委ねられた者の為にも、我らの為に祈り給え。」と。マリア様の信心をますます行う事によって、イエズス様の聖心に従って生きる事ができますように、お祈り致しましょう。

「天主は、御身は聖霊の全き宿を、聖母の汚れ無き御心にしつらえ給いしにより、この信心を行う私たちをして、御身の聖心に適いて生きるを得しめ給え。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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2016年6月17日から20日までの聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN

2016年06月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

6月の聖伝のミサのご報告です。
大阪では、土曜日にベルナデッタさんの追悼ミサを行いました。新しい聖堂では初めてのレクイエム・ミサを歌いました。ミサの後に赦祷式も行いました。

東京では、主日のミサに侍者が子供達を入れて5名で執り行われました。東京では44名の方々が聖伝のミサに与ることができ、天主様に感謝いたします。
午後の公教要理では、希望の徳について考察しました。

ところで、先日「天主は、私たちの罪の為に傷付いた御子の聖心において、 その愛の無限の宝を憐れみ深く豊かに与え給う。2016年06月15日」をお読みになった方が、「イエズスさまがわたくしたちにしてくださっている愛について、ほんの小さな一つを思い出しました」とメッセージを下さいました。フェリーニの映画「道」を思い出したと教えて下さいました。

引用することをお許しくださいますようお願いいたします。

==引用開始==

わたくしたちがイエズス様のしてくださっている愛を拒んでいること、『いらない。私は自分で十分だ。自分のやりたい事をやりたい。自分はもっとこの被造物に愛着がある。私はこれをやりたい。お前はいらない。出て行け。』と言っているところで、フェリーニの映画「道」(1954年、イタリア)を思い出しました。

わたくしはこの映画は、主人公のザンパノがジェルソミーナを愛し始めて、その思いが自分の重荷になってしまい、彼女を置き去りにしてしまったように思っていましたが、ある時、このザンパノを演じたアンソニー・クインがTVに出ていまして、この映画の話になった時、真っ先に、この映画は自分の中に芽ばえた愛を自分でどうすることもできなくなってしまった男の話なのだと言っていました。

彼は後になってジェルソミーナを探しますが、彼女は死んでいました。暗い浜辺で波に打たれて彼は泣きます。ジェルソミーナはザンパノへの天主さまからのプレゼントでしょう。そんな風に思いました。

神父様がお考えになって、あげてくださったイエズスさまのしてくださっている愛の例えのような人たち、きめ細かい配慮がゆきとどいた親切の人、命を尽くし自分を奴隷のようにもする友だち、愛を実行してくれる王子様、イエズスさまはこうした人たちのことをとても喜んでくださっていることでしょう。太陽の影のような憐れなものに過ぎず、とってもちっぽけなものだとしても、愛を実行する人、一人ひとりのその実行の中にある労苦や涙を知ってくださっているでしょう。

それは鼻水を垂らしてイエズスさまに「ありがとう」といっている少年のようにも思われました。聖女マルガリタ・マリア・アラコックに仰ったイエズスさまのお言葉は、とてもすごいことだと思いました。少しでも感謝するものがあれば、それを特別なものと見てくださり、さらに愛をもってお返ししたい、とは!!お返ししきれないのはこっちなのに!!

心の柔和謙遜なるイエズス、われらをあわれみ給え!
イエズスさまがお与えくださった秘蹟、とりわけ日毎のご聖体のことを、わたくしは痛みながらいつも思います。わたくしが新ミサの洗礼を受けたカトリック教会の御聖櫃を思い出しながら・・・。

それから、先日のフェリーニの「道」で、ザンパノのことで思い出されたシーンがあります。旅の途中で日が暮れて来たので、ザンパノはそこにあった女子修道院に、小屋のようなところでよいからと無理を言って一夜の宿を願います。お礼に男手の必要な仕事をしますと言って。翌朝、修道女たちがスコップで仕事をしているのを見て、ザンパノはこれを手伝います。このザンパノを見ていて、彼は、ジェルソミーナに酷い扱いをするような男だけれども、神妙な感じになっている彼は、礼拝の心などがその態度や仕草に現され、そうした環境の育ちで染みついて、身についているのだな、と思ったものでした。わたくしの好きなシーンです。

それはミサの時にベルが鳴るのを聞いた18歳で洗礼を受けた子のお話の、秩序や規則があるのだとわかり、そこに確信と安心があるような感じのように思われました。

わたくしが洗礼を受けた新ミサの教会でも、ミサの時にベルが鳴ります、そして皆がいっせいに跪きました。今はそれがどうなったのかはわかりません・・・。
==引用終わり==

【お返事】
フェリーニの映画「道」のお話をありがとうございます。この映画について初めて知りました。お話をお伺いして、ザンパノは人類の代表、ザンパノを助けるジェルソミーナは、人類を愛するあまり知性を失ってしまったかのようなイエズス様を表しているような感じを受けました。
映画監督のフェリーニは、この映画を作成するときに出会ったジェルソミーナ役の女優と結婚したのだそうです。ザンパノから捨てられたジェルソミーナ役だった彼女は実生活でも、フェリーニから捨てられてしまったそうです。しかし彼女は最後までフェリーニのことを思い続けていたそうです。

イエズス様は、たとえ人類がイエズス様を拒否しても、私たちを捨てることなく愛して下さっている、なんと巨大な、計り知れない愛でしょうか!
新しいミサで、御聖体が軽んじられ、ないがしろにされている、それが強要されている、御聖体におけるまことの現存がもはや信じられていない、単なる「霊的な現存」にすり替えられたとしても、イエズス様は私たちが聖伝のミサに立ち戻るのを優しく待って下さっておられます。

新しいミサは、「ローマ・ミサ典書の総則」の第2章の冒頭に「ミサの一般的構造」というタイトルで、次のようにミサを定義しています。
「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」

しかし、カトリック教会のトリエント公会議は「聖変化の直後に私たちの主の体と血とが、霊魂と天主性をともに備えて、パンとブドー酒の形色の中に現存することを天主の教会は絶えず信じてきた」と教えています。

「聖体の秘跡の中に、真に、現実に、そして実体的に私たちの主イエズス・キリストの御体と御血がその御霊魂と天主性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘跡の中には、しるしまたは象徴として、または効力だけで含まれていると言う者は排斥される」とも言っています。

残念ながら、新しいミサでは、キリストの、御体、御血、御霊魂、天主性の現実の常なる現存が全実質変化後の形色にあることは暗示さえされていません。全実質変化という言葉そのものさえも完全に無視されています。

今では、新しいミサの聖変化の時には、跪くことが「禁止」されたと聞きました。

ヨゼフ・ジェンマさんという方の研究によると、新しいミサでは「典礼集会に現存される主に意識を向けさせるために、聖櫃の前を通過するときでも、表敬はしない」のだそうです。

こうして新しいミサでは、主の御聖体における現実の現存が御言葉における現存に同一視されてしまっています。しかしキリストの名前のもとに集まっている集りにおいてキリストが現存し給うことと、御聖体における現実の実体的な現存とは、全く別の性質のことがらです。

「わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる」(マテオ18:20)という霊的現存だけを選んで信じているのです。

よく考えると、キリストが、その名のもとに集まっている集会の中におられるとは、集まっている間だけの現存です。

キリストの御言葉における主の現存は、それを読んでいるときにだけ、現実のものとなります。

「説教によって提示される聖書朗読のなかで、神はその民に語られ、…キリストは、ご自身の言葉によって、信者の間に現存される。」(新しいミサ総則33、聖なる典礼に関する憲章33番と7番を参照)ということは、話す・聞く・理解という主観的な人間の精神的行為をしているだけのことです。

しかし、「これは私の体である」(マテオ26:26、マルコ14:22、ルカ22:19、コリント前11:24)については、客観的に、恒常的に、常にそうです。

どういうことかというと、御聖体における現存は、主観的ではなく、人間の精神活動に全くよらず、秘跡的に拝領されるか否かに関わらず、人間がその現存を信じていようがいまいが、人間がそれを意識していようがいまいが、人間がそれを実際に活用していようがいまいが、それに意識を向けさせていようがいまいが、主は真に、現実に、実体的に現存するということです。

御聖体における現実の現存は、御言葉における主の現存のように、それを聞いている・話している・受けているということに結びついているのではないのです。つまり「御聖体拝領をしないときには、主は御聖体において現存しない」のではないのです。

イエズス様は、私たちが主をうち捨てて、もういらないと言っているにもかかわらず、私たちを離れずに私たちが立ち戻るのを待っています。これこそ主の憐れみです。

私たちが聖伝のミサを捨ててしまったのは、あたかも「私たちを食らい尽くそうと狙ってうろうろ回っている獅子」から襲われた子供のようです。つい数日前、アメリカのコロラド州で、5歳の男児が兄と自宅前で遊んでいると、野生のピューマに襲われたそうです。 突然叫びを聞いて、母親は駆けつけてピューマを子供から引き離したそうです。少年は顔、頭、首を負傷し、母親は手と脚に軽傷を負っただけですみ、命は助かりました。少年は父親によって病院に担ぎ込まれました。経過は良好だそうです。

私たちも、聖母の汚れなき御心に祈りをあげます。聖母マリア様は、私たちの心からの祈りの声を聞き、すぐに駆けつけて私たちを、誤謬と悪魔とから引き離して下さるでしょう。

では、ミサのご報告をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

日本でのミッションありがとうございました。
大阪でのミサの報告をお送りいたします。

6月17日(金)司教証聖者 聖グレゴリオ・バルバディコ のミサには13名が、
6月18日(土)故 テレジアさんの追悼ミサには11名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオ・グラチアス!
土曜日の御ミサの後は、公教要理で「信仰」について勉強しました。

追悼ミサでは故テレジアさんが一刻も早く天国の永遠の幸福に入られることを祈るとともに、自分もいつ死んでも良いように準備しなければならないと感じました。
ミサ固有文を歌いながら公教会の故人への優しさ、天主様の裁き、天主様の憐みをかみしめました。

Pie Jesu Domine, dona eis requiem.


【報告】
私たちもテレジア吉崎さんのように、イエズス様のお望みの事、イエズス様を喜ばせようという事だけを考えて生き、その裁き主であるイエズス様の前に喜んで出ることができますように!そして多くの日本の方々が、死という現実の後には、天国か地獄という永遠が待っているという現実を知り、創造主であり救い主であり裁き主であるイエズス様への愛の為に生きる事ができますように!

デオ・グラチアス!


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

金曜日にしてくださったお説教がとても心に残りました。
証聖者聖グレゴリオ・バルバディコの御ミサの福音は有名なタレントのたとえで、それについて小野田神父様は、私たちに理解しやすいように、かみくだいてお教えくださいました。

「天の国は、遠くに旅立つある人が下男たちを呼んで、自分の持ち物を預けるのにたとえてもよい。」
主人から渡されたタレントは、聖寵であり、天主からの愛であることは、すでに小野田神父様から教えていただいておりました。
でもずっと疑問に思っていたことがありました。
人にはそれぞれ器があって、主人から渡されるタレントの数も違う。けれど、5タレントを受けた人や、2タレントを受けた人は、それぞれ、渡された全てのタレントを使って、それと同じ数のタレントを儲けました。5タレントから20タレントを儲けたのではないのです。ここで、どうして同じ数しか儲けていないのかと疑問をもっておりました。
受けたタレント=天主からの愛であり、他に儲けた5タレント=天主への愛なので、多いほうが良いはずなのにと。
が、この日、天主様から答えを教えていただいたようです。
5タレントを受けた人が5タレントを使って=自分の全てをあますところなく使って。ということだったこと。
5タレントを受けた人が5タレントを使って=受けた愛には愛をもって返す。ということだったこと。
また、1タレントを受けたしもべが、主人を恐れ、1タレントを全て使わずに埋めておいたことの意味に、天主よりも自己愛に縛られる人だと初めて気がつかされました。全く良く理解できました。

お説教では、パドゥアの聖アントニオが幼い子供だった時の美しいエピソードも教えてくださいました。
伝記は読んだことがありますが、このエピソードは知りませんでした。天主であるイエズス様が、無である私たちの愛を心をどれほど切望してくださっているかが、心に突き刺さりました。インマクラータよ、どうぞ私の心を御身の汚れ無き御手でイエズス様のリュックに入れてください!とお説教を聞きながらお祈りいたしました。毎日インマクラータにお祈りしております。

天主イエズス様の至聖なる聖心の愛を以前よりも、深く理解し、その愛に私の全てをもって私の愛をもってお応えしようと決心することができるようになりました。インマクラータの汚れ無き御心をとおして私の全てをお捧げいたします。

至聖なるイエズス様の聖心よ、我らをあわれみたまえ。
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
いとも尊き聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ。

乱文お許しください。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

昨日、今日と、御ミサ、そして信仰についての公教要理など色々本当にありがとうございました!m(_ _)m
幸せな時間はあっという間でした!

御ミサが終わり、皆さんで昼食を食べた後、「O bone Jesu」 と「Stabat mater(パレストリーナ)」のポリフォニーを練習しました!

本当に御恵みの2日間でした。
デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

こんばんは!☆(^O^)/
マリア様のように、諸聖人、殉教者の方々のように、頂いたタレントを全てイエズス様、天主様の為に使って増やして、愛を愛で以てお返しする事ができますように!!
信仰についての公教要理のレポートを書かせて頂きます!

1.分かった点
・信仰が第1である理由…究極の天主様を対象としており、真理を認めること、知性の上にあるから。
認めないと、求めること(希望・愛)ができないから。その秩序による為。
ただ、恐れを取り除くためや、傲慢を取り除いて素直に認めるために、剛毅の徳や謙遜の徳が先にくる事もある。

・不信仰が最大の罪である理由…「罪」とは天主から離れることであるが、天主を信じないことによって、最も天主から離れるから。
しかし不信仰にも、信仰を成り立たせる要素のどれが欠けているかによって色々種類があって、
 ・最初から反対-異教徒
 ・一部に反対-異端者
 ・信仰を捨てる-背教
という事が分かりました。

また、信者の方のご質問で、「山を動かすほどの信仰があっても、『愛』がなければ無に等しい。」「もっている全ての物を施し、私の体を焼かれるために与えても、『愛』がなければ益するところがない。(コリント第13章)」というこの『愛』が、『成聖の恩寵の状態』であるという事も今更ながらに知りました!これが、大罪の状態では、どれだけ良いことをしても全く永遠の功徳を積むことができないという事の説明だったのですね!

また、未信者の方で、とても親切な良い方もたくさんいらっしゃいますが、その方々がどれだけ良いことをしても、成聖の恩寵の状態、洗礼を受けていないが為に、天国の永遠の功徳を全く積むことができないということも、本当にもったいないなぁとも思いました。もちろん天主様は本当に善い方でいらっしゃいますので、そのような方々がした善には必ずこの世で報いて下さるでしょうけど、いつか去りゆくこの世の善は本当に儚いものですので、そのような方々が、永遠の善を受けることができるように、お祈りをたくさんしようと思いました!

2.分からなかった点
あまり色々理論的に考えた事がないので、何が分からないのか分からない状態ではありますが、ヨハネの第一の書簡第4章8節に「愛する者は神から生まれ、神を知るが、愛さない者は神を知らない」と書いてありますが、どういう意味なのでしょうか?

この「知る」とは信仰とはまた違う意味なのでしょうか?それとも信仰(天主様を知る、認める)という事にも、やはり愛が必要、愛が含まれるのでしょうか?しかし、悪魔も全知全能全善の天主様を認めて信仰がありますが、愛はありませんので、信仰にも、愛のある信仰と愛の無い信仰があるという事でしょうか?そのあたりがよく分かりませんでした(T_T)

デオ・グラチアス!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供3人)
女: 26人(内、子供2人)
計: 44人(内、子供5人)

【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

トマス小野田神父様
ミサ聖祭後の公教要理(希望の徳を中心に)のご報告をさせていただきます。

1.これだと分かった点

いわゆる対神徳といわれる信仰、希望、愛(以下「信望愛」)の徳は、ややもするとその優先順位を相対的に理解してしまいがちですが、今回の講義で、対神徳は「信仰」から始まるというトマス・アクィナスの言説に接し、対神徳に対する自分自身の理解の度がより深まりました。(「信仰」が最も重要であると理解しました)
また、今回、希望の徳も度が過ぎると高慢になり得ること、少なすぎると絶望になってしまうことなど改めてお話しを伺い、得心するものがありました。

2.今回そうだったのかと分かった一番重要な点

「完全な愛」は「相手の幸福」を望むに対し、「不完全な愛」は「自分の幸福」を望む
という愛の完全性の違いが、非常にわかりやすく、改めて、気づかされました。
そして、天国の聖人達の「愛」は「完全な愛」であり、天国は「完全な愛」の所有者達
の世界であるということもよくわかりました。

3.今回でもよくわからない点

公教要理は奥が深く、ここがわかった、あそこがわかったとはとても言えません。
わからないところだらけで、今回もよくわからない点自体が まだ、わかっておりません。
小野田神父様の講義を通じ、少しでも理解を深めてゆきたいと思います。

デオ・グラシアス!


【報告】【東京】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様

日本でのミッション、本当にありがとうございました。
御ミサと公教要理のレポートをお送りいたします。

お説教について
分かった点:
怒ることが、理性を失うことであり、不正義・冒涜・憎悪などの様々な罪に
対するドアを開けてしまうことだ、ということなので、イエズス様は、様々の罪のドアが開いてしまうことに対し最も効果のある対策として「怒るな」「兄弟におこる人は審判をうける」という掟をお与えになったこと。
イエズス様は自らおっしゃっていらっしゃるように、確かに旧約の律法を完成なさったのだと確認しました。

分からなかった点:
「怒るな」という教えは、十戒のどの掟に特に帰せられるものなのでしょうか。

講話について
分かった点:
理性は知性と意志から成り立っているということ
(公教要理の中に「理性によって天主の存在を理解する。」ということについて、今まで漠然と「ああ、そうか。」と、その程度にしか考えていなかったのですが、理性は何であるかとうことを理解すると、要理に書かれているその意味も理解できました。「怒るな」というイエズス様の掟はこの理性を守るもので、怒る人は天国へは行くことができないという掟は決して厳しいものではなく、当たり前のことをおっしゃっていらして、そして私たちが地獄へ行ってしまわないようにと常に聖心を砕いて下さるイエズス様の優しいお言葉だと思いました。)

分からなかった点:
聖トマス・アクィナス様が『神学大全』の中で、1つの命題を考察する際,天主様の視点から見ると・私たちの視点から見ると、というように幾つかの観点から1つ1つの命題を考察していらっしゃることが分かりました。これは、常に天主様が最もお望みのことと、私たちの望みが一致していない、という理解で正しいのでしょうか。

お説教と講話を通して、
小野田神父様の深い知識や、神学の理解は聖トマス・アクィナス様のようでお説教の雄弁は聖パウロ三木様のようだと思いました。!!

小野田神父様のご提案で、ライト教授の授業方式のレポート提出をするようになってから,お説教や公教要理の時間に、今まで以上に考えながら話を聞くことができるようになっています!神父様のご提案に感謝しております。カトリックの教えは本当に奥が深くて、(人間のつくったものではないので)よくよく学ぶと心底から納得・感嘆・驚嘆して、本当に感動いたします。この感動は世の他の物では感じられません。天主様に感謝致します。

また、神父様に1つ質問がございます。
仏教の焼香は、カトリック信者は避けるべきでしょうか。家族から質問を受けましたので、神父様に質問致します。礼拝は天主にのみ捧げるもので、外的礼拝行為のみだとしても避けるべき、と私は思います。家族は「先祖に捧げるもので、神に捧げるのではないのでは。」と言いますが、先祖の霊魂の安息を祈ることは良いが、これは、先祖を礼拝対象にすり替えてしまっているので良くないと答えました。私の答えは、間違ってはおりませんでしょうか。お時間ございます時にお答えいただけましたら幸いです。

お知り合いの方のお見舞いはいかがでしたでしょうか。洗礼をまだ受けられていないとお聞きしましたので、マリア様に御取次を願い、洗礼を受けられますようお祈りをしております。

小野田神父様のため、マリア様とヨゼフ様の特別の御取次を願ってお祈りしております!!
イエズス様の聖心の特別のお恵みが小野田神父様を助けてくださいますように。


【お便り】
小野田神父様、
「教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言 2016年05月28日」とこの一週間の記事を読ませていただきましたが、少しお便り申したいと思います。

「結婚が失敗に終わったものの、与えられた状況下において、非常に有徳に、ある時には英雄的に、彼らが祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまるカトリック信者たちは裏切られたと感じる。あまりに悲しくて涙が出る。」とありますが、わたくしも共に涙を流します。それには、二つのことがあります。

一つは、福音書や使徒たちの書簡にあるように、「偽教師」などに悩まされながらも、およそ二千年にわたって伝えられてきた教えが生きているカトリック教会と信じていましたが、第二ヴァチカン公会議によって、かなり大きな変化がカトリック教会にもたらされていたことを、わたくし自身が知るに至って、「騙されていたのか?と思うべきかなァ・・・?」と幾度も思いをいたしましたことと重なりますゆえに。

もう一つは、結婚の失敗によって結びついたわたくしの近しい人たちの、霊魂の救いを、毎日のように祈りますが、彼らについて祈る時、彼らは信者ではありませんが、それゆえなおさらなのですが、ここでフェレー司教さまが仰っているように、失敗や挫折を見ても、与えられたことを受け入れて行ってほしいと言う思いをいつも持ちます。そして信者の方たちの中には、苦しいい状況の中にあって、祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまる方たちがいらっしゃることを知り、共に涙したい思いですが、また一方で励まされるので嬉しくもあるのです。ですからこの記事を読んで、ゆうべはこの方たちのために祈りました。今日もそしていつも、信者になるお恵みがまだいただけていない同様な状況にあるわたくしの近親者たちのために祈る時、祈ります。まったく拙い祈りですが、祈ってお願いし聞き容れていただきたいのですからそうします。

「司祭のための祈り」が幼きイエズスの聖テレジアの作ったものだったことも昨日知りました。昨日はこの祈りをした後でこのことを知ったので、今日は聖テレジアを思いつつ祈りました。

かつてこの祈りを初めて口に出して読んだとき、悲しい思いがしました。イエズス様の至聖なる聖心のもとでは誰も彼らに悪を成すことができないのなら、いってぇ誰が彼らをきずつけやがった!?ばかたれっ!と言うような気持でした。ある神父さま方には、自分で自分を傷つけているように思われ、悲しみと怒りがありました・・・。そしてそこでしばらく止まってしまいましたが、祈りを途中でやめることは最悪なことのように思われたので、何とか最後まで声を出して読み上げました。一応跪いて祈りをしていましたから・・・。

今では、どの祈りも、その言葉に従っていくようにして祈っています。朝夕の日々の祈りの中にわたくしの汚れたものが出てきますので、実に主に対し、天に対して申し訳ないですが、祈らなかったら、天ではもっと悲しむだろうと思い、何とか縋り付かせていただいている感じがすることがあります。

以上、長くなりましたがこれでもかなり心の騒ぐのを一晩落ち着かせました。何とか何かをお伝えしたかったのです。それは悲しみの中からも喜びや励まし慰めをこのフェレー司教さまの涙と共にいただいていることをお伝えしたかったように思います。昨日は、同時に読みましたレネー神父様の第五戒から第七戒のお説教も合わせてわたくしどもの近親者たちのことと教会のことで思いが寄せては返す波のようでした。
あとは祈りの内に・・・。

小野田神父様がこのブログをしてくださったおかげで。わたくしは助けられています。感謝などいろいろなことは申しますまい・・・。ただ事実のみ今申します。


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2016年長崎巡礼のアンケートコメントをご紹介します

2016年06月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年は、聖ピオ十世会日本では、長崎と秋田とに巡礼に参りました。今回は、長崎巡礼の部のアンケートのコメントをご紹介します。

大阪の信徒の方々とだけでは、以前、長崎に巡礼に行ったことがありましたが、こうして国際的な規模で聖ピオ十世会として長崎に行ったのは初めてでした。

日本のカトリック教会の歴史の深さ、長崎の素晴らしさと豊かさを、私たちは改めて認識しました。

多くの巡礼者の方々が、充実した時を過ごし、祈りと黙想と恵みに満ちた巡礼を過ごすことができて、聖母の汚れなき御心に感謝します。外国からの巡礼者の方々にとっては、お土産を買う時間があまりなかったことだけが残念だったようです。

すばらしい巡礼にして下さった聖母マリアさまに感謝すると同時に、この巡礼の準備のために多くの時間を使いお世話をして下さったスタッフの方々には重ね重ねお礼を申し上げたいと思います。特にすばらしいしおりには特別の感謝を申し上げます。天主様が、聖母マリア様が、何百倍もの報いを与えて下さいますように!

ほとんどの方々が、来年もまた巡礼に行きたいとおっしゃって下さって心から幸福に感じます。

すでに巡礼者の方々がコメントを寄せて下さっています。 メールで受けた感想などはすでにご紹介いたしました。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


 ===== 長崎巡礼2016  感想・コメント =====


【1】 今回の巡礼で一番心に残ったこと、一番良かったこと、一番印象深かったことは何ですか?

・浦上天主堂、大浦天主堂は心が静まる聖堂でした。

・聖ピオ十世会も大浦天主堂のような教会を建立出来たら良いと思いました。

【お返事】
本当にそうですね!(^^)v

・長崎にこれほど多くの殉教者のいたことに驚いた。また、あれほど多くの原爆投下予定地があったことにも驚いた。

・4日間本当に充実した日々でした。いかに日常生活で時間を無駄にして来たか反省しきりです。もっともっと沢山祈らなければと思います。教会があまりにも変わってしまい、戸惑っていましたが、しっかりと信仰をもって生きなければと思います。世界中が孕んの時代です。自然災害や戦争やテロにいつ巻き込まれるか、死は紙一重のところにあると思います。島原の乱は300年以上前のことですが、今の日本に通ずると思います。民衆が圧政に苦しむのはいつの世も変わらないと思いました。印象深く、心に残った所(雲仙地獄、如己堂、西坂の丘、原爆資料館)

・全てにおいて良かったと思います。日本人として殉教者のことを知らなかった自分を恥ずかしく思いました。

・殉教者方、禁教下、司祭不在の250年の間信仰を10代に渡って守ったキリシタンも、原爆をうけてもキリスト信者として多くの苦しみを犠牲として天主に捧げた人々も、無原罪の園とコルベ神父様も、そして今の私たちも、インマクラータ(聖母)、マリア様に全てを委ね、マリア様の望まれることだけをすれば、私のようなみじめな者でも、マリア様を通して、全ての恵みをいただけることを確信しました。

・聖なる殉教者の方々のイエズス様。御聖体への本当に深い信仰と愛を迫害する人々への許しの心がとても心に残りました。微笑。聖マリア様が微笑んでくださって本当に近くに居てくださるので微笑むことがおできになられたのだろうなあと思いました。聖コルベ神父様も永井博士も本当に清貧を生きられたのだなあ、聖母様への深い愛によって、完徳に達せられたのだなあと思いました。

・今日の実際を詳しく聞いて、その地を訪れ、今まで知らなかったことを知ることができた。これほど多くのカトリック信者が殉教していたことに驚いた。マリア様の取次ぎにより、このようなことがなされたということが大きなポイントと教えられて、いっそうマリア様の子供としてくださったことに感謝し、より頼み、自分の無と惨めさを捧げるしかないと思った。

・神父様方、準備をし、世話役をしてくださった方々に感謝です。ありがとうございました。

・I am delighted to see the sights of nature, appreciating God’s creation.

・to know the lives of martyrs in Japan that enlighten you.

・霊丘公園、有明会への巡礼のように、目立たない小さな殉教地までお祈りしたことが印象に残りました。大浦天主堂は日本で一番素晴らしい教会だと思います。信徒発見時の聖母像や江戸時代と明治時代の色々な資料を見ることが出来、大変勉強になりました。

・マリア様に深く深く信頼すること。マリア様は私たちの為に天主様からお恵みを得ようと待って、招いていらっしゃるということがよく理解できました。そのようなマリア様に信頼した為に、殉教の栄冠を手にすることができ、今も天国で私たちの為に祈ってくださる祖先がいるということは、とても恵み深いことです。またそのような日本にすばらしいマリア様の使徒、コルベ神父様がいらしたことも、また恵みの深いことだと思います。天主様とマリア様のご計画の偉大さとお恵みの深さに感嘆せずにはいられませんでした。デオ・グラチアス!!

・今回巡礼で長崎を訪れたのは初めてでしたが、殉教者の地がたくさんあり、聖遺物もあり、秋田にマリア様はお現れくださり、改めて日本という国はすごい所だなあと実感しました。一番心に残ったのはやはり世界でも例を見ないほどの殉教者の数を出した西坂です。そしてこの殉教地の近くで毎日3度の御ミサ、聖ヨゼフ様の祝日の御ミサに与れてとても良かったです。

・Okay.

・All activities are memorable.

・The visit to the A Bomb Museum. What happened was very depressing. A nuclear explosion should never happen ever again.

・250年もの間、7世代に渡ってカトリックの信仰を守り続けられたこと。過酷な拷問を耐え忍び、主を讃美し自分を害する者をも許しながら信仰を貫き通したこと。神父様のお話と巡礼によって、すべてマリア様の取次ぎによる大いなる恵みだということを実感できたことが一番良かったです。

・中浦ジュリアン記念館にはいつも行きたいと思ってきたので、行けなくて残念。

・聖母マリア様が母であることを、もっと深く心にしみこませたいと思った。毎晩のように巡礼のしおりの中の巡礼者たちの人生の説明を読んでいた。また神学校にあったゼノ修道士の写真の目が優しかったので(ものすごく)ロザリオを心から唱えるひとの霊魂には、神の恵みが大きく流れ込むものだと思った。聖母が信者の母であることと、秋田の101回の涙の意味の関係に深く気がついてほしい。

・長崎という地に注がれた恵みの意義深さを、シュテーリン神父様の講話で改めて深く知ることができました。「怒りの広島、祈りの長崎」という言葉の通り、私たち聖伝のカトリック信者は長崎の殉教者の態度、永井隆、コルベ神父、ゼノ修道士の態度を選ばなければならないのだと悟りました。

・Visiting the city of the Immaculata and the places of martyrdom.

・About the special guide-booklet of Nagasaki Pilgrimage, very impressed! Excellent work done! God bless you!

・The various talks & conferences by the Fathers.

・長崎には何度かちいさい頃に来たことがあったが、観光でサラッっと見ただけだったので、その場所で何が行われ、どういう人物がどんな事を行ったのかと、いろんな事を勉強できて、とても有意義なものになりました。そして御ミサにも普段よりたくさんあずかれたので、すごく幸せです。

・コルベ神父様の無原罪の園。特に資料館(コルベ神父様のお部屋と直筆の手紙などが置いてある場所)が特にこころにグっとき、よく黙想でき、有意義な時間を過ごすことができた。

・巡礼のしおりのおかげで、ほんとうに良く黙想、準備ができて巡礼地をめぐることができた。

・長崎巡礼の特別冊子について、浦上天主堂の「被爆のマリア像」の元の美しい御像の貴重な写真が良かった。

・信徒発見の聖母子像の御前で巡礼団として祈ることができた。

・無原罪の園のルルドでインマクラータへの奉献の祈りを4言語で唱え、奉献を更新できた。ルルドのお水を汲んで持ち帰れた。

・雲仙地獄について、イオウの臭いだけで、殉教者に思いをはせることができた。ここに辿り着くまで歌っておられた「ラウダテ」「ミゼレレ」が聞こえてくるかのようでした。

・西坂の丘について、殉教の特別な地に接吻し、殉教者の取次ぎを願うことができた。

・島原城について、パウロ内堀やその息子たちが裁きを受け、指を切られたり、拷問をうけた、多くのキリシタンの血と汗で築きあげられた城なんだとかんじました。

・島原キリシタン記念館について、貴重な資料が多くあり、とても良かった。

・有明海への巡礼について、パウロ内堀の息子たちや、多くのキリシタンが生きながら沈められた静かな美しい海が、その拷問、殉教とあまりにも対照的に感じました。当初の予定にはなかった今村刑場跡の殉教地にも接吻し、祈りを捧げることができた。

・印象に残ったのは、西坂、雲仙、有明などの美しい自然と静けさでした。この美しい景色の中で、静けさの中で殉教者たちは想像を超える拷問を耐え、天主に苦しみと命を捧げた。そのあまりの対照に心を打たれました。その静けさの届かぬ所では、天国では殉教者たちを、両手を広げて聖母が迎えてくださり、天使の万軍、諸天使も共に喜び迎え入れ、天主の光栄のうちに永遠の喜びに入られたのだなあ。その凱旋の歌のとどろきが届かぬ静けさなのだなあと思いました。無原罪の園のルルドに初めて巡礼することができました。聖コルベ神父様についてのシュテーリン神父様の解説がすばらしく、今回の巡礼で聖コルベ神父様を今までよりも、もっと敬愛するようになりました。特に大浦のふもとの極貧の貸家に居られなくなった時、ゼノ修道士が遠い、不便な山の上に新しい土地を探して来たときに、聖コルベ神父様方がインマクラータのお望みとして忠実に従い、その後の大変な不便さ、貧しさ、労働の厳しさをお捧げしていたが故に、原爆から全く被害を受けなかったことに深く感動しました。コルベ神父様方にとって無原罪聖母の騎士の発行という最大の善を行ううえで、郵便局から遠く離れた場所に引っ越すことは、御旨と違うように思えます。このことは私たちの毎日の生活にも同じように起きていると思いました。一見道理に合わなく見えることも、前より大変になったように見えることも、インマクラータのお望みのとおりに従い、それを忍耐することで、私たちの予想を超えるご計画をされ、必ずとてつもない大きなお恵みをお与えになられることを。良き主の御母も、良きことしかなさらない、良き御母であられることを深く感じました。

・総ての巡礼地、甲乙つけがたく素晴らしいものでした。その巡礼地ごとに神父様のわかりやすいお話、説明があり、無知な私にとって天主様に感謝するのみです。

・マリアさんの「長崎の鐘」の歌声。日本のカトリックの歴史。

・一番こころに残ったこと:雲仙。 良かったこと:講話。

・St Maximiliano Kolbe’s life and Museum.

・Nishizaka, Unzen Hell were very impressive it would have been nice to **** all the walk round Unzen Hell. It is a good opportunity go talk about Hell and Purgatory.

・To be honest: the visit to Fr. Kolbe’s places – which is a rather personal matters which seems to be linked to another personal matters : Japan. To experience Japan’s catholic history not only as member of a group of Japanese catholics but as a welcome family member within fellow catholics will be unforgettable. Thank you so much for your kindness!



【2】 今回の巡礼について何かコメントがありましたら、お書きください。

・今回の巡礼を企画・運営・実行された(関係する方々)に心より感謝いたします。

・3人の神父様方、お世話してくださった方々に心から感謝いたします。特に外国から参加された方々はとても気配りがよく、高齢の私の怪我を防いでくれました。車止めに気づかず転ぶところを、とっさに支えてくれました。私の視線をよく見ていてくださったのです。感謝感激でした。

・シュテーリン神父様、小野田神父様、フォルティン神父様、ごミサ、そしてお説教、霊的講話など、素晴らしかったです。シュテーリン神父様の講話を聞いて、マリア様の所に行きたいと思わない人はきっといないと思います。頭の中がマリア様でいっぱいになって幸せでした。

・去年から今年にかけて聖年で、どの教会でも祈ることができて(本当は当然!なのですが)嬉しかったです。御御堂の十字架も長崎は正しく保たれていてホっとしました。お天気も聖母マリア様が保たせてくださいました。本当に色々な事が心に有ります。とてもとても素晴らしい長崎巡礼を聖母様、聖ヨゼフ様、きれいなお花、とてもとても大変だったと思います。色々のお手配も。ヨゼフさんご家族様にも感謝いたします。ヨゼフさん侍者様を感謝いたします。ヨゼフさんの花のお世話などもありがとうございます。今回の巡礼はいつもの巡礼より倍ほどの帰還があり、本当に本当に嬉しいです。日々3回の非常なお恵みの聖なる至福のおミサ、荘厳ミサ、それから深夜の御聖体礼拝。
聖母マリア様、聖ヨゼフ様、の御元へ。本当に本当に至福の巡礼をご企画くださいました日本の宝、トマス・マリア小野田圭志主任神父様、お忙しいなかご一緒くださいますシュテーリン管区長様、初めてお目にかかりますフォルティン神父様、本当に感謝いたします。本当に本当に御優しい吾主、天主なる天地万物の創造主なるイエズス様、感謝いたします。どうぞ聖ピオ十世会を、特に日本の聖ピオ十世会を御護りくださいませ。デオ・グラチアス!アレルヤ!

・I find that this pilgrimage to Nagasaki is little short of time for personal prayers and to cover other areas. An extra day added will be good.

・大変貴重な素晴らしい巡礼を体験させていただき深く感謝いたします。五日間ともとても良い天気に恵まれ、天主様に感謝でした。シュテーリン神父様の熱のこもったお話、小野田神父様の通訳がお見事でした。巡礼の準備をしてくださった皆様にも深く感謝します。

・長崎と神父様方や他の信徒の方々と一緒に訪ね、信仰を深めることができたことをとても感謝いたします。多くの準備が必要だったと思いますが、それを行ってくださった皆様、神父様方に心から感謝いたします。インマクラータが豊かに報いをくださいますように!デオ・グラチアス!!

・今回のこの長崎巡礼の為に大変な準備をしてくださった神父様、ヨゼフさんご一家、そしてその他のスタッフの方々に心から感謝申し上げます。無原罪のマリア様からの何万倍ものあふれる豊かなお恵みがありますようお祈り申し上げます。

・No comment – Satisfied.

・Could you give the pilgrims a half day free time.

・今回の巡礼を導いてくださった神父様、縁の下の力持ちとなって準備してくださった方々に心から感謝いたします。素晴らしい巡礼に参加させていただき、本当にどうもありがとうございました!

・今回の巡礼中、困ったことや連絡が行き届かなかったもとは無いか?で、私個人にはありません。が外国人の方には配慮が必要かと思いました。

・巡礼の冊子(NO.1)のみ、サイズが大きすぎたと思います。他の2冊と同じサイズにしていただけたらと思います。

【お返事】
今年は外国からの巡礼者のために、特別にラテン語・日本語・英語と三カ国語で対訳版のミサ典書を作りました。それが巡礼の冊子(NO.1)です。三カ国語で対訳版のために、どうしてもサイズが大きくなってしまいました。他の2冊と同じサイズだと、かえって見にくくなり使いにくくなってしまうからです。しかし、外国の方々は、今年は私たちと同じミサ典書を使うことができるようになりました。

・三人の神父様たちに心から感謝申し上げます。お忙しい中、暑い中、険しい坂道の多い長崎の街を大勢の巡礼者を率いて歩いてくださり、ありがとうございました。管区長様であるシュテーリン神父様が小野田神父様のお願いにいつも快く応えてくださるご様子に謙遜な長上の姿を見ました。

・One day, we can go to Goto & Amakusa islands where there are many catholics. Hirado as well.

・巡礼に行ったことによって、マキシミリアノ・聖コルベ神父様や、日本の殉教者たちのことが前よりよく知ることができ、もっと大好きになった。

・全てを用意し、準備してくださり、この巡礼に参加させてくださったインマクラータに感謝しきれません。またおびただしい数のキリシタンたちが、あまりにも酷すぎる拷問を耐え抜いて、天主を否むことなく殉教したことは、聖ヨゼフの階段のように、自然法則、物理法則を無視した、人体の限界、精神力の限界をはるかに超えていました。天主がなされた、天主から(聖母マリア様をとおして)与えられた超自然の力の働きによる「奇蹟」なのだとひしひしと感じました。

・海外の人が多かったので、英会話を習得しなければ・・・。全日程、御聖体のある聖堂を利用でき感謝。

・Everything was well prepared, and A big THANK-YOU to Maria for the flowers at the Altar Table and the exquisite embroidery of the Holy Spirit, St Joseph Chasuble. HONTO NI ARIGATO GOZAIMASHITA. GOD BLESS YOUR MOTHER AND ALL OF YOU.

・If possible I’d like to grant you even more than 5 points far each :-) question as everything was exceptionally super! I mean it! :-) ・・・

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2016年秋田巡礼のアンケートコメントをご紹介します

2016年06月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年の秋田巡礼参加者からのアンケートコメントをご紹介します。

すでに巡礼者の方々がコメントを寄せて下さっています。 メールで受けた感想などはすでにご紹介いたしました。

多くの方々が満足され、全ては聖母の汚れなき御心が計らって下さったことだと感謝しています。

巡礼者の方々と一緒に、シュテーリン神父様、そして巡礼を準備して下さったスタッフの方々に心からのお礼を申し上げます。ミサ聖祭において、ロザリオにおいて、お祈り申し上げます。天主様が、何百倍もの報いを与えて下さいますように!!

長崎の部のアンケートについては、別にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


===== 秋田巡礼2016 感想・コメント =====


【1】 今回の巡礼で一番心に残ったこと、一番良かったこと、一番印象深かったことは何ですか? 
                    
・司祭3名による荘厳ミサが良かったです。講話も素晴らしく、感謝でいっぱいです。秋田の聖母への坂道の行列も登っていく感じで良かったです。

・都合がつかず聖伝のミサも講話もあまり参加できず残念でした。しかしシュテーリン神父様、小野田神父様、もうひとりの神父様(お名前失念いたしました。)方のお話等、側にいらっしゃるだけで身も引き締まり、日頃の生活や態度を省みることができました。デオ・グラチアス!

・今回の巡礼に与り、聖ピオ十世会の信徒の方々の交友を深めることができたか?について、あまり人と話すのが苦手ですが、皆さん良い人ですね。ホテルの食事は美味しかったです。聖ピオ十世会の秋田巡礼を友人に色々教えたいです。今回秋田巡礼に行く事を所属教会の神父様に話したら、「行ってらっしゃい。」と喜んでました。職場のおかみさんも喜んでました。帰ったら、神父様とおかみさんに「よかった」と話したいです。代母さんにも言おうと思います。

・今回の巡礼で30度の御ミサに与るお恵みを心から感謝いたします。その全てを自分と自分に委ねられた人々の救霊のためにもお捧げできました。

・バスの座席が足らなくなってしまって、一部の方に別の車で移動してもらって気の毒でした。

・せめて秋田巡礼だけでも参加してくれたら良いなあと思っていたら、弟夫婦が長崎秋田巡礼の全日程に参加したこと。夫婦で30度の御ミサに与り、計り知れないお恵みを頂いたこと。弟夫婦がインマクラータの騎士になれたこと。弟が全ての御ミサ(交代はありましたが)を務めることができたこと。インマクラータにどんな感謝の言葉をもっても、感謝しきれません。

・今回の巡礼で、30度のミサに与ることができた。

・巡礼期間中の毎日の御ミサ、素晴らしい荘厳ミサ、ベネディクション、マリア様の前で聖なる神父様方と黙想しながら、ロザリオを捧げることができたこと。十字架の道行などなど・・・10回目にもお呼びくださったマリア様に感謝いたします。

・Beautiful choir and organ

・シュテーリン神父様の講話。あわれみの御母。

・今回の巡礼中、困ったことは、日本語が聞き取りにくいところがあった。

・バスの移動について、雰囲気は良かったが、席不足。

・久しぶりに告解ができて、とても良い気分になりました。無原罪の聖母の騎士になれたこと。

・シュテーリン神父様の講話が心に残りました。

・Spiritual talks, Presence of Our Lady of the convent.

・The singing of hymns

・天主のあわれみ、あわれみの御母の講話。あわれみの聖年の意味が理解できた。

・シュテーリン神父様の御講話の天主様のあわれみ、マリア様のあわれみ、マリア様のご謙遜などのお話を聞いてから、聖体奉仕会のマリア様の所にお祈りに行けた事。フォルティン神父様が秋田に来たいと仰ってくださり、来てくださった事。

・Very excellent choir / sublimity / novelty

・Private prayers especially at the vigil

・During the mass especially when the choir sing the prayer of the mass with the clarity on the words and the Gregorian notes was well read by the choir, as if I was in Heaven during the mass and most of the Japanese knows how to sing also in the choir.

・シュテーリン神父様の講話、「謙遜」の意味を今まで長い間誤解していたことに気づき、目からうろこでした。また長崎~秋田というルートを通して殉教者達と彼らの信仰を学んで、マリア様の偉大さ、そのような方々が私たちに母として与えられたという事実に深く感動しました。

・荘厳ミサに3回も与れる御恵みを頂けて。日々非常な御恵みの聖なる至福の御ミサに3回ずつ与る御恵みを頂けまして。聖なる神父様方が御3人も。御一緒くださいまして本当に嬉しかったです。

・同じカトリックの新ミサとの違いがわかった事。

・シュテーリン神父様の御説教はとても深いものです。深く考えさせられました。でもシュテーリン神父様に、秋田で神様が教えようとした共贖の教理と101回の涙との関係に気がついて欲しい。聖母の苦しみの意味と101回の涙の関係がどのように秋田で天使によって説明されたかと秋田の出来事と創世記の3章15節の関わりが、どのように説明されているかに気がついて欲しい。されにもっと巡礼が豊かな見を結ぶでしょう。

・to be able to pray and visit Our Lady of Akita

・The most memorable impressive of best activity in this pilgrimage was walk to the convent of the stations of the cross, spiritual talks rosary.

・TO MEET OTHER WAPONS AND BE THEIR NEW FOUND FRIEND

・Everything!

・秋田に殉教者が多かったことに驚かされた。

・初めてでしたけど、ミサにも講話にもすぐに溶け込めました。12才まで背面ミサでラテン語でしたので、なつかしかったです。講話でもとても力を頂いた。(巡礼のプログラムについて)とても良いプログラムでした。すべてのお説教がすばらしかった。もっと講話が聞きたいほど良かった。すべてすばらしい聖歌でした。湯沢台の聖母を巡礼し、祈り、道行、講話、どれもすばらしかった。ロザリオ行進も感動でした。
(修道院での皆でのロザリオについて)とてもふさわしく祈りの良い時間でした。湯沢台での道行を楽しみにしてました。すばらしいプログラムでした。尊い御聖体の前で祈り賛美できて感謝です。(ホテルでの食事について)とてもおいしく感激しました。(宿泊施設について)森に囲まれ静かで毎日そうじが入り、使いやすいお部屋でした。(巡礼中困ったことはなかったかについて)とても親切に声をかけてくださったり、声をかけやすかった。(巡礼のしおりについて)3冊ともすばらしい編集でわかりやすく、よく調べられて感動でした。
(巡礼の特別冊子について)とてもわかりやすく、たくさんの事を学べました。(巡礼の参加費について)日割りになっていて、都合で日程をかえられて助かりました。(聖ピオ十世会の秋田巡礼を友人に推薦したいですか)すばらしい聖伝ミサと講話で人にすすめたい。
聖伝ミサがすばたしかった。聖歌もきれいではもってコーラスの時は涙がでました。感動でした。講話の「天主のあわれみと正義」「御母のけんそん」の話が心にひびき力を頂きました。

・The Stations of the Cross in the garden. The hole program was very rewarding ・・・. Both Nagasaki and Akita are powerful places where the grace of God poured down and our prayers were collected in Heaven.
Please pray the Station of the Cross on a Friday. The choir singing was angelic!
EVERYHTING WAS VERY ORGANIZED!!! THANK YOU VERY MUCH FOR THIS WONDERFUL PILGRIMAGE I WILL KEEP IN THE MEMORY ALWAYS. GOD BLESS YOU!!!

・点数が少しきびしいのは、自分が足りなかった意味であります。スタッフのみなさま、神父様、信者様は5点満点です!

・霊的講話で謙遜の事を良く理解できました。

・マリア様のご像にお会いしに行くことができたこと。皆一致してマリア様を讃美したこと。素晴らしいお説教をお聴きしたこと等。

・夜中までの御聖体顕示式と聖体礼拝について)個人的には「5」ですが、御聖体顕示式はハードスケジュールすぎるとおっしゃっている方の声を聞きました。祈っている人をまたいで席を立てるのは少数なので、9時ちょっと前に一度区切りをつけたほうがよかったと思います。

・ユーモアを交えながらの心に響くシュテーリン神父様の素晴らしいお話を通して、あわれみの御母を身近に感じられるようになったこと。「天主のさまざまの恩寵のよき分配者」(きょうの書簡使徒聖ペトロ)にならせて頂きたいという想いを抱くようになったこと。

・I would like to commend & thank the Japanese organizers who took so much trouble & effort to make our pilgrimage possible & comfortable. God bless you!!

・シュテーリン神父様の霊的講話(特にけんそん)

・日本でのカトリックの歴史などを知る事が出来てとてもよかったです。長崎では永井隆さんの如己堂が一番印象深かったです。秋田では十字架の道行きはもちろんですが、シュテーリン神父様の講話がとても良かったです。

・御ミサがたくさんあって良かった。講話がどれも心に残りました。「あわれみ」

・Benediction シュテーリン神父様のお話。小野田神父様の通訳。

・3 Masses – daily

・シュテーリン神父様の霊的講話がとてもすばらしくて、バスの中で思い出して涙するほど感動し、信仰・・・カトリック信仰とは何かということを、今回初めて教えていただいたと感じています。この喜びは口では表現しきれないほどで、巡礼から帰ったら、ゆっくりと味わい直して、まわりに祈りの中で伝えられるようにしたいです。本当にありがとうございます。

・Praying the rosary before the image of Our Lady of Akita

・-prayer time in front of OUR LADY of AKITA- Thanks so much, that each day also time for silent prayer was included! – Father Stehlin’s conferences which really raised me up spiritually! - -The wonderful community of all these wonderful people! THANK YOU SO MUCH AND GOD BLESS YOU ALL!!!-

・The whole pilgrimage to Akita is the best & memorable pilgrimage I experienced in my whole life. It might be my first & last because of financial difficulties unless Our Lady of Akita will allow me to come here again.

・The Station of the Cross, Although it is solemn & everybody participated, the cobble stones are too rough for my knees, Hope you can provide some kneeling pads next time especially for the senior citizens, or at least announce before we go to the convent so that pilgrims will come prepared of jackets ( telling people of weather conditions) and kneeling pad or some sort of towels to protect the kneels when kneeling.



【2】 今回の巡礼について何かコメントがありましたら、お書きください。
                                     
・聖堂入口のドアのきしみが少し気になりました。

【お返事】
(^^:)

・2週間位まえより、自立神経を病み、目を開けるのもつらかったです。告解してもらいました。行く事が出来て良かったです。少しずつ元気が出てきました。又行く時に代母さんや受付けのおねえさんも誘えたらなあと思いました。神父様も。素敵な講話聞けてうれしかったです。

・10周年に全くふさわしい、インマクラータの準備された聖なる巡礼でした。シュテーリン神父様、通訳を10日間してくださった小野田神父様、どんなにお忙しいなか、しおりの英訳もしてくださった小野田神父様、柔和なフォルティン神父様に心から感謝申し上げます。この巡礼とこの巡礼を与えてくださった天主様に感謝!インマータに感謝!聖ヨゼフに感謝!聖コルベ神父様に感謝!日本の尊き殉教者に感謝申し上げます。10回目も私たちをお招きくださり、参加させてくださったインマクラータに、秋田の聖母マリア様に心から感謝申し上げます。

・しおりの忘れ物、紛失が度々あったので必ず名前を書くように記名欄を作ったらどうでしょうか?

・フィリピンやシンガポール、ドイツの方と交流が持てたので楽しかった。また終課、聖体礼拝が何十年ぶりかに与れて、外国の方がよく祈ったり、歌ったり、よくできることにに驚いた。

・準備や進行など、ありがとうございました。

・Continue the good work. God Bless you!

・No comments, everything is excellent. Thanks!

・ご聖櫃に御聖体のある聖堂を、全日利用できたことに感謝。

・今回は秋田巡礼10周年記念として長崎からのロングスケジュールでしたが、忙しい中日本の為に、長い時間と労力を割いてくださったシュテーリン神父様、日本語への通訳や引率を全力でいつも遂行して下さった小野田神父様、そして日本に来てくださったフォルティン神父様、この巡礼の為に準備をして下さった全ての方々に、心から感謝とお祈りを申し上げます。とても素晴らしい巡礼でした。本当にありがとうございました!!デオ・グラチアス!!

・I hope a prayer before the mass I offered to honor of St. Joseph.

・3度の荘厳ミサ、1日3回の講話、ロザリオ、ベネディクション等、盛りだくさんの内容で、とても信仰が深められた、とても良い4泊5日でした。天主様の憐れみに深く感謝することができますように、マリア様の元に迷わず参りたいと思います。毎年すばらしい巡礼をご準備下さる神父様、マネージャーの方々に心から感謝いたします。デオ・グラチアス!!

・シュテーリン神父様が聖母マリア様を深く御講話くださいまして、とても嬉しかったです。本当に素晴らしい御企画をトマス・マリア小野田圭志神父様に感謝いたします。大変な本当に有難い御準備、素晴らしいお花、ヨゼフさんご家族様、毎年ですが、本当に有難うございます。本当に御優しい天主イエズス様、聖母マリア様、聖ヨゼフ様感謝いたします。

・PLEASE CONTINUE AND REMAIN THEIS KIND OF ACTIVITIES.

・バスの座席数の不足

【お返事】
これからはますます多くの巡礼者を募ってバスを数台出したいですね!


・ぜひまた参加したい。本当のミサに与ったように感じて、天主のあわれみ、正義につつまれたように思いました。初めての参加でしたが、聖伝ミサにも講話にもすぐに溶けこんで、感動の連続で、また参加したいです。

・できれば1回のミサを夕方にまわしてほしい。

・私も謙遜になりマリア様の御憐れみをいただきたい。マリア様と完全に一致して生きたい。そのため努力する決意をしました。

・善意の人たちの集まりは、それぞれ悪気がないだけにやっかいです。ただ参加するだけの私たちとは違い、いろいろとご苦労があると思います。心からの感謝と祈りのうちに。

・秋田巡礼としては最長の10日間。大変な事も多かったですが、とても実りのある巡礼でした。

・長崎と秋田と今回は長い期間の巡礼となりましたが、普段よりたくさんの御ミサにもあずかることができ、とても充実した巡礼になりました。そしてこの巡礼を影で支えて頂いた多くの方に感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。お疲れ様でした。

・ありがとうございました。御ミサをありがとうございました。講話をありがとうございました。しおりやホテル、巡礼地もろもろ準備をありがとうございました。各行き先のスタッフの方々ありがとうございました。

・御聖体拝領がいつできるのか?いつするべきか?はっきり明確に教えてほしい。

・小野田神父様、私たち、いえ迷える子羊の私を、巡礼に誘ってくださってありがとうございます。小野田神父様は本当の神父様だとあらためて感動の中で確信できました!!!本当に激務の中めんどうをみてくださりありがとうございます。スタッフのヨゼフ家の皆様、ご迷惑をどれほどおかけしたことでしょう。申し訳なく思っています。そしてこんなにすばらしい巡礼を10年も続けられてきたということに驚き、心からお世話になったことを感謝申し上げます。

・Please include in Booklet No.1 the following
1. Prayers before mass
2. Prayers after holy communion
3. Adoration of the Blessed Sacrament Prayers

・I didn’t notice at first ( because I had already read two books about Akita I didn’t look for information), but is it possible , that no information about Akita is included in the guide book? MAY OUR LADY OF AKITA PROTECT AND LEAD YOU TO HEAVEN!!!

・In this pilgrimage, I learned a lot about the great Mercy of God & Our Lady. All the topics that Fr. Stehlin talks during the conferences directed me to a deeper devotion to the Sacred Heart of Jesus and to the Immaculate Heart of Mary. Deo Gratias Fr. Stehlin, Fr. Onoda & Fr. Fortin for this great privilege to be among the pilgrims during the Akita Pilgrimage and Deo Gratias Our Lady of Akita for allowing me to come here to Akita to see you in your convent.

・Good Work, well organized. Keep it up!!! Congratulations. Some points to consider also is that during the spiritual talk “ can the speaker (in English) finish all his speech & talk first before the Japanese translation so that the impact or momentum of the message is not confusing to the listeners & be conveyed to the pilgrims easily.

・I would like to commend & thank the Japanese organizers who took so much

・PLEASE CONTINUE AND REMAIN THIS KIND OF ACTIVITIES.


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天主の十戒「第八戒」ー汝偽証するなかれー心から真実を語り、舌でそしらぬ人となれ:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年06月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第9回目は、第八戒「汝偽証するなかれ」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年6月12日 聖霊降臨後の第4主日―大阪 お説教「第八戒」


親愛なる兄弟の皆さん、
私たちはこれまで、すべての掟が命を扱っていることを見てきました。それらの掟は、永遠の命に到達するための、地上での聖なる命(人生)とはどんなものであるべきかを示す道です。それらの掟は、私たちに命の至高の作者である天主を礼拝し、私たちが受けた命の経路として両親を敬い、命そのものや、命の伝達、命を維持する手段を尊重するよう命じています。しかし今回、第八戒は命とどのような関係があるのでしょうか? 第八戒は社会的な命、社会生活を保護するのです。

人間は一人で生きるようにつくられたのではなく、他人と一緒に共同体で生きるようにつくられました。つまり、人間は「社会的」存在です。実際、生まれてすぐから、人間は自分を育て、自分を保護してくれ、自分に教育を受けさせてくれる両親を必要とします。それも長年にわたって必要とします。そのため、家族は最初にして最も自然な社会です。しかし、さらに言えば、一人の人間があらゆる技能を持っていることはあり得ませんから、人間は各自が他人の技能による助けを必要とします。ですから、農民であったり、建設業者であったり、衣服を製造したり、医者であったり、教師であったりするなどです。従って、人間は他の人間と共に社会の中で生きる必要があります。また、こういった違いや相互の必要性は、私たちが愛徳を実践するように、天主によって意図されたのです。各自が、天主がその人に与え給うた技能によって、他人に利益を提供するのです。

社会での生活は、個人と個人の意思の伝達を必要とします。人間は単なる動物ではないため、感覚で知ることのできる命を持つだけでなく、さらに重要であるのは知的な命を持つことです。人間の意思の伝達は単に感覚的レベルだけでなく、知的レベルにあることが欠かせません。それは霊魂の働きである心で思ったこと、概念の伝達です。でも、自分の概念を心で直接他人に伝達することはできません。私たちは天使ではありません。天使ならそれができますが、私たちにはできません! このように、人間は自分の心の中の概念を、感覚で知ることのできるものである言葉というものによって表現します。これが人間の言語です。同じ心の中の概念を、いろいろな言語で表現することができます。言語は概念を表す単なる記号に過ぎません。さてここで、これらの記号は偽りではなく真実であることが不可欠です。

うそをつくこと、思っていることと反対のことを言うこと、これは社会生活に不可欠である意思の伝達を台無しにします。仲間を信頼できないなら、その人は独りぼっちになってしまいます。皆さんの周りが皆うそつきだったら、皆さんはもはや信頼できる人はおらず、独りぼっちです。このように、うそをつくことは社会生活を台無しにします。従って、聖パウロは言います。「だから偽善を捨てて、おのおの隣人に真実を語れ。あなたたちは互いに肢体だからである」(エフェゾ4章25節)。聖パウロが、真実を話す義務と、私たちは独りぼっちではなく、「互いに肢体」であるという事実を、どれほど強く関連づけているかを見てください。

永遠の命は正直な人間に約束されています。「主よ、誰があなたの幕屋に入り、尊い山に住むのか。申し分なく歩み、正義を行い、心から真実を語り、舌でそしらぬ人。隣人(となりびと)に悪をせず、ののしらぬ人。主に見捨てられた者をあなどり、主を恐れる者を尊ぶ人。友に誓ったことを破らず、利息をとって金を貸さず、賄賂を取って罪なき人に損害をかけぬ人。こう言う人は永遠に揺らぐまい」(詩篇14章1-5節)。また、イザヤが同じことを言います。「正義を歩む者、まことをもって話す人、強奪した物を退ける人、手を振って、賄賂を取らない人、耳をふさいで、血なまぐさいことを聞かない人、目を閉じて、悪を見ない人、この人たちは高いところに住」(イザヤ33章15-16節)む。「彼の口には忠実の教えがあり、そのくちびるには悪がなかった」(マラキア2章6節)。

聖アウグスティヌスは、うそをつくことは常に罪であり決して許されない、と教えています。しかし、それが常に大罪だという訳ではありません。隣人に対して深刻な害がなされたのでないなら、それは小罪です。でも、それは罪であって、うそをつくべきではありません。しでかしてしまった失敗を隠すためにうそをつく場合(例えば、生徒が宿題をするのを忘れ、言い訳として作り話をする場合)、 第一の悪に第二の悪を加えるのです。これは決して良い解決法ではありません! 良い解決法は、「第一の罪を告白」した上で、二度とその罪を犯さず、その償いをするという固い決心を持つことです。

しかし、うそが隣人に対して深刻な害を及ぼす場合、それは大罪です。それは例えば、商売で詐取したり騙したりすることで起こり得ます(第七戒と第八戒に反する二つの罪)。しかしまた、中傷によって他人の評判に深刻な害を及ぼす場合にも起こり得ます。中傷(または言葉による名誉棄損)とは、その人が犯していない罪でその人を非難することです。これはまた、他人の罪を誇張する場合に起こり得ます。誇張されていれば、それは偽りであり、従って名誉毀損になります。気を付けてください。人が他人によって傷つけられたとき、その人はそのことを誇張し、傷つけてきた相手を実際よりも悪く見せようとしがちです。ですから、自分を抑えるよう気を付けなければなりません。強く非難するのではなく控えめにし、非難するのは確実であって疑いのない場合だけにとどめるのが、常に、より安全です。そして、すぐに赦すべきであり、隣人に対して恨みを持ち続けるべきではありません。

中傷と関連しているのが、悪口の罪です。それ自体はうそではありませんが、誰かの隠された罪を理由もなく人に知られるようにすることです。でも、それは罪です。なぜなら、悪を拡散させ、状況をさらに悪くするからです。いくつかのケースでは、誰かの罪を公表することが許されます。しかし、その場合、常にそれに釣り合った善い目的が必要です。許されるのは例えば、犯罪者の矯正を実現するためです。ですから、隣人が、悪いことをしている子どもを目撃した場合、その隣人はその子どもの親にそれを報告することが許されますが、そうするのは腹いせや悪意からではなく、はっきりとその子どもの善のためであるべきです。あるいは、教師が子どもを虐待している人物である場合、親は学校当局や他の親たちに自分たちの子どもが被害を受けないよう警告することが許されます(また、すべきです)。しかし、その状況にまったく関係のない第三者にその悪について話すことは許されません。話せば、悪口の罪になるでしょう。善が知られる価値があるのと同じほどには、悪は知られる価値はありませんから、周囲に広がらないようにすべきです。

もっと低いレベルでは、うわさ話をするという罪があります。それは、公に知られた他人の罪について話すことです。そのことはすでに公になっているため、そのうわさ話をすることは、その内容を知らせることではありません。しかし、他人の悪について話をすることで満足感を得るのは悪いことです。このことは、公人の罪が新聞で報道されるときに起こり得ます(新聞記者であって、うわさ話の罪を避けることは困難です!)。もっと限定されたレベルでは、職場や隣人などの間でのうわさ話があり得ます。これは良くありません! 私が言う意味は、周囲で起きていることを見ないようにすべきだというのではなく、聖パウロが次のように言っていることです。「すべて徳を立てるためにしなければならぬ」(コリント前書14章26節)。何かを言うことが徳を立てないなら、それを言うべきではありません。

聖トマス・アクィナスは第八戒に反する罪に、あと二つの罪を付け加えています。まず、「いいふらすこと」、これはすなわち、友人たちの間に疑いや不和を引き起こすことであり、従って友情を引き裂いて傷つけるのです。これは、家族の間にある友愛に害を及ぼす場合、特に夫婦の関係に害を及ぼす場合、とりわけ悪いものになり得ます。第二の罪は嘲笑の罪であり、これは隣人を尊ぶべきことに反しています。他人をからかうことは良くありません。

預言者ザカリアは言います。「おまえたちが、守らねばならないのは、互いに真実を語り、門で平和の裁きを行うことである」(ザカリア8章16節)。これらの言葉で彼は、真理が特に必要とされているのは裁判である、法廷であると明確にしています。そして、これがもっと正確な第八戒の目的です。実際、掟は広く適用されるよう意図されていますが、掟は通常、特別な領域での主要な罪を禁じています。ですから、第六戒は貞潔の徳を守ることが意図されており、貞潔に反するすべての罪を禁じていますが、直接的には主要な罪である姦淫を禁じています。そのため、第八戒は直接的には偽証を禁じています。偽証は法廷外においてよりも、法廷内で行われる方がずっと重い罪であることは明らかです。

法廷は危険なところです! 聖トマスは説明します。裁判官の側に罪があり得るのは、裁判官が賄賂を取って判決をねじ曲げ、天主の法や国家の正しい法律を適用しないときです。検察官の側に罪があり得るのは、検察官が偽って訴追したり(第八戒によって直接禁じられています)、悪事を行う者を起訴しなかったりしたときであり、賄賂のせいであっても脅迫に屈していても、その結果は悪事を行う危険な者に反社会的な犯罪を犯し続けることを許してしまうことになるからです。被告の側に罪があり得るのは、自分が行ったことを偽って否定したり、他人に対する自分の過ちを認めなかったりするときです。証人の側に罪があり得るのは、特に偽りの証言をしたり、するべき証言をしなかったりして、無実の者を有罪にさせたり悪事を行う者が放免されるのを助けたりするときです。弁護人の側に罪があり得るのは、特にどんな種類の偽りであってもそれを使ったり、単に悪の原因を擁護したりして、悪事を行う者を助けるときです。

しかし、正義は素晴らしい善であり、良きかつ正直な裁判官は多くの善を行うことができます。例えば、イングランドの大法官だった聖トマス・モアです。彼は国王ヘンリー八世によって殉教しました。彼は最後まで正直であり、真理を守り抜いたのです!

聖ヤコボは、舌は体の最も小さい肢体であるが、最も邪悪なものである、と言います! 舌に関する聖ヤコボの一章全体を、第八戒に関連して考察することが非常に重要です。「私たちはみな多くの点で道を踏み外す者である。言葉を踏み外さない人は完全な人であって、全身にくつわをつけることのできる人である。私たちが馬を御するためにその口にくつわをはめれば、その全身を御する。また船を考えよ。形は大きくて強い風に押されているが、小さい舵によって操る人の思いのままに操縦される。同様に舌も小さい部分であるが、大事にすると誇ってよい。大きな森を燃やすために、ほんの小さな火で足りることを考えよ。舌は火であって不義のかたまりである。舌は私たちの肢体の中で、全身を毒するものとして地獄から火をつけられ、一生の車輪を燃やすのである。獣、鳥、這うもの、海の生き物などすべての種類は、人間によって今も昔も制せられている。しかし人は舌を制しきれない。舌は押さえきれない悪であって死の毒に満ちている。それによって私たちは主なる父を賛美し、またそれによって天主にかたどって創られた人間を呪う。同じ口から賛美と呪いが出る。しかし兄弟たちよ、そうであってはならない。泉が同じ口を通して甘い水と苦い水を出すだろうか。兄弟たちよ、いちじくの木がオリーブを、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶだろうか。同様に塩辛い泉は甘い水を出せない。あなたたちの中に賢明なそして経験のある人がいるだろうか。その人はよい生活をし、知識と柔和をもってその業を行っていることを示せ。しかし。心で苦々しい熱心と争いを好んでいるのなら、自らを誇らず、また真理に背いて偽るな。その知識は上から下るものではなく、地上的な情欲的な悪魔的なものである。ねたみと争いの心のあるところには乱れとすべての悪がある。上からの知恵はまず清いもの、そして平和な寛容な謙譲なもの、あわれみとよい実に満ち、人を差別せず、偽らないものである。義の実は平和を行う人々のために、平和のうちにまかれるものである」(ヤコボ3章2-18節)。

私たちの主イエズス・キリストは真理(ヨハネ14章6節)であり、真理のみ言葉であって、「恩寵と真理に満ちておられ」(ヨハネ1章14節)ます。主はピラトに言われました。「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18章37節)。主に請い求めましょう、主のための、真理のための偉大なる愛を、そして真理を語り決して偽りを言わない恩寵を! 実際、私たちの主は悪魔について言われました。「彼は真理において固まっていなかった。彼の中には真理がないからである。彼はうそをつくとき心底からうそを言う。彼はうそつきで、うその父だからである」(ヨハネ8章44節)。(対立する)二つの陣営は明らかです。ですから私たちは、キリストの陣営につき、悪魔の陣営に対抗することを固い決意で選びます。私たちは真理に従い、あらゆる偽りを避けることを選ぶのです!

聖霊は、「父から出る真理の霊が来るとき、それが私について証明されるであろう」(ヨハネ15章26節)。これは、最も正しい証言です! 「その方つまり真理の霊が来るとき、霊はあなたたちをあらゆる真理に導かれるであろう。それは、自らを語るのではなく、聞いたことを語って未来のことを示されるであろう」(ヨハネ16章13節)。聖霊は、私たちにこう教えてくださいます。「真理にあって愛により、すべてにおいてかしらであるキリストによって成長するためである」(エフェゾ4章15節)。

童貞聖マリアは常に、ほかの誰よりも、愛徳において真理を行われました。これが、聖母がまったく光の中におられ、まったく汚れなき方である理由です。聖母を通じて祈りましょう。私たちが真理を愛し、真理を実践することができ、そうすることで、天国で永遠の真理を観想すること、見つめることが許されますように! アーメン。
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