CREDIDIMUS CARITATI

このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げる--  聖伝のカトリック信仰を守り抜いたルフェーブル大司教の伝記

Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

Credidimus Caritati 
私たちは天主の愛を信じた
(Iヨハネ 4.16)

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2016年 6月の聖伝のミサの予定

【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


聖母聖月です。聖母の連祷を毎日唱えましょう。 5月の意向:聖母の汚れなき御心にロシアが奉献されるため
実践すべき徳:聖母に対して犯される罪を償う精神
守護の聖人:秋田の聖母マリア

◎2016年 6月の予定

【大阪】2016年5月15日よりミサの場所が変更になりました!
聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2  〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)


   6月3日(初金) イエズス・キリストの至聖なる聖心(1級祝日)白 
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   6月4日(初土) 証聖者聖フランシスコ・カラッチョロ(3級祝日)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭


   6月12日(主) 聖霊降臨後第4主日(2級)緑
           午後5時半  ロザリオ及び告解
           午後6時  ミサ聖祭

   6月13日(月) 教会博士証聖者パドゥアの聖アントニオ(3級祝日)白
           午前6時半 ミサ聖祭


   6月17日(金) 証聖者司教聖グレゴリオ・バルバディコ(3級祝日)白
           午後5時半 ロザリオ及び告解
           午後6時 ミサ聖祭

   6月18日(土) 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭


【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」


   6月5日(主) 聖霊降臨後第3主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   6月6日(月) 証聖者司教聖ノルベルト(3級祝日)白
           午前7時 ミサ聖祭


   6月19日(主) 聖霊降臨後第5主日(2級)緑
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭

   6月20日(月) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
           午前7時 ミサ聖祭


愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎愛する兄弟姉妹の皆様を2016年「長崎・秋田巡礼」へお招きいたします。

 聖ピオ十世会日本 2016年 長崎・秋田巡礼 10周年記念 天主の憐れみを感謝して

 SSPX Japan Nagasaki Akita Pilgrimage in 2016


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M.I.(Militia Immaculatae 無原罪の聖母の騎士会)祈りの十字軍へご参加ください

2016年05月30日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん、

聖マキシミリアノ・コルベは M.I.(Miliria Immaculatae 無原罪聖母の騎士)の普遍・主要な手段は祈りであり、具体的には使徒的な祈りであると何度も力説していました。

従って、私はアジアで同様の使徒職をはじめることを決めました。ここにあなた方のための特別なメールアドレスを載せます。

   prayer@militia-immaculatae.asia

1.まずはじめに、あなたがこのM.I.祈りの十字軍に参加したいと書いてください。
毎日、聖ベルナルドの「聖母の御保護を求むる祈り」(公教会祈祷文 239ページ)と、「ああ原罪なくして宿り賜いし聖マリアよ...」という M.I. の射祷と、少なくとも1連のロザリオを唱えると約束してください。 

このロザリオの祈りを、以下の人達から与えられる全ての意向で捧げてください。
 a)M.I. 祈りの十字軍の騎士たち  
 b)M.I. の代表者

2.あなたの祈りの意向を私に送ってください。これらの祈りの意向・祈りの要請は、M.I. 祈りの十字軍に参加する騎士達に自動的に送られます。
(もし、あなたの祈りの意向が教会法に沿ったものでないならば、意向を変更するようにメールを送り返します。)

3.もし、祈りの意向が叶えられたならば、感謝のメールを送るように強く勧めます。 私は、M.I. 祈りの十字軍に加わるように皆さんをお招きいたします。
(注意:あなたの祈りの意向が公開されることを望まないならば、メールを送る際にその旨を伝えてください。)

いつもこれを忘れないでください、
もし、あなたがあなた自身の為に祈るならば叶えられるでしょう。
あなたがほかの人のためにも祈るなら、2倍の報いを受け取るでしょう。

カール・シュテーリン神父

無原罪の聖母の騎士会の祈りの十字軍(日本語)
http://militia-immaculatae.asia/japanese/info15.php

無原罪の聖母の騎士会(聖伝) アジアのWEBサイト(日本語も対応しています)
http://militia-immaculatae.asia/



Join the M.I. ― PRAYER CRUSADE

Dear Knights of the Immaculata,
Saint Maximilian Kolbe insisted many times: The universal and primary means of the M.I. is prayer, and concretely the apostolic prayer.
Therefore I have decided to start a similar apostolate in Asia. Here is the special email address to which you may write:

   prayer@militia-immaculatae.asia

1/ Please write that you want join the M.I. ― PRAYER CRUSADE. For that you promise to say every day at least one decade of the Rosary with the M.I. prayer "O Mary conceived without sin ...." as well as the Memorare of Saint Bernard ("Remember, o most blessed Virgin Mary...").

The intention of this decade is: to pray for all prayer requests given:
a) by the Knights of the Immaculata who join the M.I. ― PRAYER CRUSADE,
b) by the moderators of the M.I.

2/ Send your prayer requests as much and as often you want! These requests will be automatically forwarded to all Knights who participate in the M.I. ― PRAYER CRUSADE (exception: if your request would not be in concordance with the laws of the Church, it will be sent back to you asking you to modify).

3/ You are strongly encouraged to send a note of thanksgiving if your prayer request was granted. May I invite you all to join the MI PRAYER CRUSADE.

Attention: If you do NOT want your request to be published, please mention that in your email.

Remember always: If you pray for yourself seriously, you will receive.
If you pray for others, you yourself will receive double.

Fr. Karl Stehlin

M.I. ― PRAYER CRUSADE
http://militia-immaculatae.asia/english/info260.php

M.I. ASIA
http://militia-immaculatae.asia/
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長崎巡礼(日本二十六聖人の随意ミサ)での御説教 聖ピオ十世会司祭 フォルティン神父様

2016年05月29日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

長崎秋田巡礼の二日目に、長崎で「日本二十六聖人の随意ミサ」をお捧げしました。

聖ピオ十世会のフォルティン神父様による司式でした。その御ミサでの御説教を皆様にご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年4月30日 日本二十六聖人殉教者の随意ミサ―長崎巡礼
フォルティン神父様 御説教


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、そして信徒の皆さん、この26聖人の殉教者の随意ミサを、このミサを今捧げる、しかもこの殉教の血が流されたすぐ近くで、このミサをする事ができるというのは、本当に素晴らしい事で嬉しい事です。この殉教者たちは、多くの困難や苦しみの後に、霊魂を天主様にお返しになりました。

昨日、26聖人の記念碑を見ましたが、その下にこう書かれていました、「もしも私の後に従いたいならば、自分を捨てて、自分の十字架をとって私に従え。」と。私たちの主イエズス・キリストの模範に従って、主は、私たちも、自分を捨てて、私たち自身の十字架を担って、イエズス様の後に従う事を望んでおられます。

この26聖人はまさに、この主の御言葉の通りに従ったので、イエズス様の次に、完璧な死を遂げた方々と言う事ができるでしょう。

この26聖人の1人1人がした自分の奉献と、その犠牲を感嘆し、「素晴らしい」と思うのはとても簡単です。このイエズス様の模範に従って、彼らが捧げたその生贄、犠牲に私たちも従う事に致しましょう。捧げられた命の1つ1つが、イエズス様の模範に従った奉献である、捧げものである、という事が分ります。

特に聖パウロ三木は、十字架の上で、自分をこの十字架にかけた人々を、「私は皆赦す。そしてその回心の為に祈っている。天国での救いを祈っている。」と言いましたが、私たちもそれらを聞いて、心に非常に残りました。それを聞いた人々は、きっと心に残った事でしょう。

私たちの目の前にこのような模範があるので、私たちも悪を捨てて、自分のやりたい事や自分の好きな、自分勝手な、自分の思いではなく、私たちの主の御旨を、「聖なる御旨を果たそう。」と、決心を致しましょう。

殉教者たちの頭には、心には、1つの事しかありませんでした。天国です。殉教者たちが考えたのは、自分たちが今受けている苦しみや、辛い事では無くて、その後の、そのあとの喜び、それの報いの事だけを考えていました。

彼らは、この地上での経験がそれが、良い、楽しい事やおもしろい事であっても、苦しい事や辛い事であっても、非常に短いものであって、その次に永遠が待っている、という事を知っていました。

私たちはですから、大きな希望と、大きな勇気づけを受けます。何故かというと、彼らが生涯、彼らがなしたその犠牲を見ると、私たちもそれを、その希望が沸き起こってくるからです。

イエズス様の後を従って、彼らは苦しみと犠牲を捧げましたけれども、それはイエズス様への愛へのしるしであり、忠実の証でありました。彼らが証したその愛と、その忠実は、苦しいものでした。もちろん、自然本性によれば、私たちは苦しみを好むものではありません。しかし、「私たちの主の十字架の後を従う」という、その愛によって、それを受けたのでした。

私たちの主イエズス・キリストの御旨を果たし、自分の思いの通りに、自分勝手ではなくて、主の御旨を果たす、というのは簡単な事ではありません。しかし私たちの主と、マリア様がいつも私たちの傍にいて、その必要な助けを与えて下さいます。

今日は聖カタリナの、シエナの聖カタリナの祝日ですけども、私たちが日々の十字架や苦しみを、良く受ける事ができるように、この聖女も良い模範を示しています。例えば聖カタリナは、苦しい試練の時に、私たちの主の現れを、御出現を受けました。ある時カタリナは、その主を見てこう言いました、「主よ、御身は一体どこにいらしたのですか?私は本当に苦しみを苦しんで、苦しんで、とても絶える事ができないほどでした。そして御身をどこにいらっしゃるのか探したのですけれども、御身を見出す事ができませんでした。」と。

イエズス様は答えて、「お前が一番苦しんでいたその時に、苦しめば苦しむほど、私はお前の近くにいた。」と答えました。

殉教者たちのこの寛大さを見て、私たちもこの人生に於いて、同じように寛大である事に致しましょう。私たち自身を捨てて、イエズス様の御旨だけを果たすように、主の後だけを従うように、毎日、これを思い出す事にしましょう。

イエズス様は私たちに全ての必要なお恵みを与えて下さいます。私たちはそれに応えるだけで良いのです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言

2016年05月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇フランシスコによる使徒的勧告「愛の喜び」に関する聖ピオ十世会の宣言の日本語訳をご紹介します。

原文はこちら

教皇フランシスコによるシノド終了後の使徒的勧告「Amoris Laetitia 愛の喜び」(2016年3月19日)に関する聖ピオ十世会の宣言

2016年5月6日

C’est à en pleurer
あまりに悲しくて涙が出る

« C’est une exhortation apostolique qui porte pour titre : La joie de l’amour, et qui nous fait pleurer. »

「使徒的勧告は、その題が「愛の喜び」ですが、私たちは涙せずにはいられません」──2016年4月10日、フェレー司教がル・ビュイ=アン=ブレでした説教。


1. 「愛の喜び」について、多くの意見、解釈、そしてコメントが発表されたがその中でも、最近聖ピオ十世会の司祭らによってなされた三つの研究が現れた。マチアス・ガオドロン神父による「愛の喜び──主観主義の勝利」と、ジャン・ミシェル・グレーズ(Jean-Michel Gleize)神父による「使徒的勧告 愛の喜びの第8章に関する短い考察」、そしてクリスチァン・トゥヴノ(Christian Thouvenot)神父による「シノド終了を経て──疑問を投げかけられる婚姻の不解消性」である。聖ピオ十世会総本部はこれら三つの小論を認め、全面的支援をしている。三つの小論は互いに一致して補完し合っており、教皇の文書の全体像を見渡している。

2. 二回のシノドの最中の会議進行手続きと、それらを取り巻く状況は、すでに数え切れないほどの疑問を起こしている。2014年2月の臨時枢機卿会議において、シノドのテーマについて明確に述べるよう招かれたのはウォルター・カスパー枢機卿ただ一人であった。だが一方で、彼は何年にも渡って、公の罪人にキリストのおん体を与えることを禁じる天主の法を廃止させようとする積極的な支援者として周知されている。2014年10月、臨時教会会議の最中に発表されたシノドの中間報告(Relatio post disceptationem 議論後の報告)は、議論の結果に一致していない内容を含んでいる。いくつかのトピックは、シノドによって承認されなかった最終報告の中に組み込まれてしまった。通常シノドの直前に、教皇は二つの自発教令を発布している。すなわち、シノドのテーマを正に取り扱い、結婚無効の宣言のための教会法的手続きを簡略化するという内容である。そして、シノドの結果について懸念を表明している13名の枢機卿たちによる親展書は、それを「陰謀」であると公に描写している。

3. 「離婚して再婚したカトリック信者」の聖体拝領を認めるという件に関する問題は、すでに教会によって幾度も議論されており、最近になってさえも教会の明確な回答が繰り返されている。[1] 従って、教会の永続的教えと実践について新たに議論することは有害なものでしかありえず、それらを明確にする代わりにかえって事態を混乱させかねない。そして事実、そうなったのである。


4. 教皇文書の中に、教会の教導職の教えとキリスト教的生活が明確に提示されているのを見つけようと私たちは期待する。
他の人々が正しく明記しているように、「愛の喜び」はむしろ「心理学、教育学、倫理司牧神学と霊性に関する講義」である。教会には、よい折があろうとなかろうと、イエズス・キリストの教えを宣言し、キリストの教えから、必然の結論を引き出す使命があり、すべての霊魂の益のためである。天主の掟を人間に思い起こさせるという責務をこそ教会は負っているのであり、それを矮小化することでも、または、あるケースにはそれがあてはまらないかもしれないという説明をすることでもない。教会には原則を述べる義務がある。その原則を具体的に適用させることは、教会は霊魂の司牧者たち、告解を聞く司祭たち、信仰によって照らされた良心という人間的行為の最緊密な規定にゆだねている。


5. あわれみに基礎を置く司牧的実践を探し求めるが故に、この文書は主観主義と道徳相対主義によって、ある部分では、台無しにされている。客観的ルールは、プロテスタント的やり方で、個人の良心によって置き換えられている。この毒は、一部、人格主義に帰属している。人格主義は【尊重すべきものとして】、家庭の司牧的ケアの問題において、まっさきに置かれるべき、生命の贈り物と家庭の善とではもはやなく、むしろ個人の充足と配偶者たちの霊的進歩とを最初に置き据えている。このことについて、私たちは、第二バチカン公会議の司牧憲章「現代世界憲章(ガウディウム・エト・スペス)」で結婚の目的が逆さまに描写されていること、またもや「愛の喜び」で同じく逆さまにされているのを見て、再度嘆き悲しむことしかできない。

6. 「愛の喜び」のいくつもの結果は、すでに教会内で次のような事実をもたらしている。ある小教区の司祭は、その義務に忠実でいるために、公の罪人にキリストのおん体を与えることを拒否している。その一方で、別の司祭はすべての人々を聖体拝領に招いている。
フィリピンの司教評議会会長はこう宣言した。「『愛の喜び』は我が国にただちに実践導入されるだろうし、その結果、いくつかのケースにおいては、離婚して再婚した人々は聖体拝領することになるだろう」と。[2] 深刻な亀裂は、司教団と枢機卿団の中にも生まれつつある。信徒たちはまごつかせられ、全教会はこの裂け目によって苦しんでいる。あらゆる点において天主の掟を遵守するという義務、特に婚姻の忠実の掟の遵守の義務に疑問を投げかけるということは、現代の風潮と時代の精神の命令に屈することである。多くの国々──例えばドイツ──においては、天主の法が要求していることは、すでに長期に渡って足元に踏みにじられている。あるべきというレベルにまで引き上げる代わりに、彼らはあるべきレベルを今あるレベルに引き下げる。つまり、近代主義者と進歩主義者たちの自由放任な道徳にまで下げるのである。結婚が失敗に終わったものの、与えられた状況下において、非常に有徳に、ある時には英雄的に、彼らが祭壇の前で立てた約束に忠実にとどまるカトリック信者たちは裏切られたと感じる。あまりに悲しくて涙が出る。


7. 私たちは、恭しく、だが断固として、使徒的勧告「愛の喜び」の修正を、特に第8章の修正を教皇に懇願する。天主の栄光のために、全教会の益のために、霊魂の救いのために、特に偽りのあわれみの外観によって欺かれる危機に瀕している人々の救いのために、第二バチカン公会議の文書と同様、曖昧なところは、明確な方法で解釈されねばならず、教会の恒常的な教義と実践とに矛盾するところは、撤回されねばならない。


メンツィンゲンにて
2016年5月2日、聖アタナジオの祝日

[1]Cf. Apostolic Exhortation Familiaris Consortio (n. 84); Catechism of the Catholic Church (n. 1650); Letter of the Congregation for the Doctrine of the Faith dated September 14, 1994; Declaration of the Pontifical Council for the Interpretation of Legislative Texts dated June 24, 2000.
[2] Statement “AMORIS LAETITIA In the Jubilee of Mercy.” “This is a disposition of mercy, an openness of heart and of spirit that needs no law, awaits no guideline, nor bides on prompting. It can and should happen immediately.” The Catholic
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司祭のための祈(幼きイエズスの聖テレジア)

2016年05月27日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

幼きイエズスの聖テレジアの作った司祭のための祈をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


司祭のための祈(幼きイエズスの聖テレジア):

永遠の司祭にましますイエズスよ、願わくは主の聖心(みこころ)を御身のしもべなる 司祭らの避難所となし給え。
かしこにては何人(なにびと)もかれらを害うこと能わず。
願わくは日々御身の尊き御体に触るる司祭らの手を潔く保ち給え。
御身の尊き御血に染まる くちびるを汚れなく護り給え。
願わくは御身の輝かしき司祭職のいみじき印もて、しるされし司祭の心を清く汚れなく 護り給え。
御身の尊き愛もてかれらを護り、世の悪習を免れしめ給え。
願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに委ねられし霊魂は、 地上にてはかれらの喜び、慰めとなり、天上にては永遠に輝やけるかれらの冠とならんことを。
アーメン。


A Prayer for Priests by St. Therese of Lisieux


O Jesus, eternal Priest, keep your priests within the shelter of Your Sacred Heart, where none may touch them.
Keep unstained their anointed hands, which daily touch Your Sacred Body.
Keep unsullied their lips, daily purpled with your Precious Blood.
Keep pure and unearthly their hearts, sealed with the sublime mark of the priesthood.
Let Your holy love surround them and shield them from the world's contagion.
Bless their labors with abundant fruit and may the souls to whom they minister be their joy and consolation here and in heaven their beautiful and everlasting crown.
Amen.


圣女小兰为神父们的祈祷

吾主耶稣,永恒的司祭,让祢的司铎们一直以祢的圣心为庇护,在那里什么也不能触碰他们。
让他们被祝圣的双手一直保持洁净,因它们每天都接触祢神圣的身体。
让他们的口唇一直不受污染,因它们每天都沾到祢神圣的宝血。
让他们的心一直纯洁而不属尘世,因它们都被烙有高贵的司铎之神印。
用祢的圣爱包围他们,保护他们不受世界的污染。
以丰厚的果实祝福他们的劳作,愿他们看管的灵魂们成为他们的喜乐、他们暂时的慰藉、和他们在天堂里美丽而永恒的王冠。
阿门。


Doa untuk para Imam oleh St. Theresia Lisieux

O Yesus, Imam abadi, jagalah para imam-Mu dalam naungan Hati Kudus-Mu, di mana tak ada satupun yang dapat menyentuh mereka.
Jagalah tangan terurapi mereka yang setiap hari menyentuh Tubuh Suci-Mu, dari pencemaran.
Jagalah bibir mereka tak bercela, yang setiap hari berwarna ungu karena Darah Mulia-Mu.
Jagalah hati mereka tetap murni dan tak mendunia, meteraikan dengan tanda luhur imamat.
Semoga cinta suci-Mu mengelilingi dan menjadi perisai bagi mereka dari pengaruh buruk dunia.
Berkati karya mereka dengan buah berlimpah dan semoga jiwa-jiwa yang mereka layani menjadi sumber sukacita dan penghiburan di dunia dan di surga menjadi mahkota indah dan abadi bagi mereka.
Amin.


Une Prière pour les Prêtres de Ste Thérèse de Lisieux

Ô Jésus, Eternel souverain Prêtre, gardez vos prêtres sous la protection de votre Sacré-Cœur, où personne ne peut leur faire de mal.
Gardez sans tache leurs mains consacrées, qui touchent chaque jour votre Corps sacré.
Gardez pures leurs lèvres, qui sont empourprées de votre Précieux Sang.
Gardez pur et détaché leur cœur, qui est marqué du sceau sublime de votre glorieux Sacerdoce.
Faites-les grandir dans l'amour et la fidélité envers Vous; protégez-les de la contamination de l'esprit du monde.
Donnez-leur avec le pouvoir de changer le pain et le vin, le pouvoir de changer les cœurs.
Bénissez leurs travaux par des fruits abondants, donnez-leur un jour la couronne de la Vie éternelle.
Ainsi soit-il.


【直訳】
永遠の最高司祭にましますイエズスよ、願わくは主の聖心(みこころ)のもとに司祭らを守り給え。
かしこにては何人(なにびと)もかれらを損なうこと能わず。
願わくは日々御身の尊き御体に触るる司祭らの聖別された手を汚れなく保ち給え。
御身の尊き御血に染まるくちびるを清く護り給え。
願わくは御身の輝かしき司祭職のいみじき印もてしるされし司祭の心を、清く汚れなく護り給え。
御身への愛と忠実においてかれらを成長させ、世の精神の汚染から彼らを護り給え。
願わくは、パンと葡萄酒とを聖変化させる権能と共に、人々の心を変える力を彼らに与え給え。
願わくは豊かなる御恵みの果実もてかれらの働きを祝し、かれらに永遠の命の冠を与え給え。
アーメン。

ORACION POR LA SANTIFICACIÓN DE LOS SACERDOTES
De Santa Teresita del Niño Jesús

OH Jesús protege a tus sacerdotes en el refugio de tu SAGRADO CORAZÓN.
Guarda sin mancha sus MANOS CONSAGRADAS, que a diario tocan tu SAGRADO CUERPO,
y conserva puros sus labios teñidos con tu PRECIOSA SANGRE.

Haz que se preserven puros sus Corazones, marcados con el sello sublime del SACERDOCIO, y no permitas que el espíritu del mundo los contamine.
Aumenta el número de tus apóstoles, y que tu Santo Amor los proteja de todo peligro.
Bendice Sus trabajos y fatigas, y que como fruto de Su apostolado obtenga la salvación de muchas almas que sean su consuelo aquí en la tierra y su corona eterna en el Cielo. Amén
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天主の十戒「第七戒」ー汝盗むなかれー命を守る外的な手段を尊重せよ:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2016年05月26日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。

第8回目は、第七戒「汝盗むなかれ。」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年5月21日 聖霊降臨後の四季の土曜日―大阪 霊的講話「第七戒」

親愛なる兄弟の皆さん、
十戒は命の掟であって、第一戒で命そのものでありかつすべての命の作者である天主を礼拝するよう私たちに命じており、また第四戒では私たちが両親を通して命を受けたためその両親を敬うよう命じており、第五戒と第六戒では命そのものと命の伝達を尊重するよう私たちに命じています。さて、今回お話しする第七戒によって私たちは、隣人の財産という命を守る外的な手段を尊重するよう義務付けられています。「汝盗むなかれ」(脱出[出エジプト]20章15節)。

第一に、教会が、財産についての自然権が存在する、と教えていることを私たちは知っておく必要があります。「地上と地上を満たすもの、世とそこに住む者、すべて主のもの」(詩篇23章1節―コリント前書10章26節)。被造物はすべて、すべてのものに対する至高の所有権をお持ちである天主のものです。地上が天主のものであるだけでなく、私たち自身も天主のものです! 天主が私たちと全世界をおつくりになったのですから、その作品は作者のものです。被造物全体への天主の支配は人間の財産を例外とせず、むしろその土台です。実際、天主はすべてのものの第一の原因でありながら、二次的な原因を除外されるどころか、むしろ被造物、特に天使や人間のような霊的な存在に対して、二次的な原因になる力をお与えになります。そのため、作品はその作者のものですから、人間の作品の実は、第一に天主のものですが、また二次的にはそのために働いた人間のものでもあるのです。人間は天主の下で、そのものの二次的ではあるが本当の原因であり、それゆえに、そのものに対する財産権を持つのです。

教皇レオ十三世は書いています。「ある人が他の人に、自分の持つ力または技術で雇われる場合、その人は自分のニーズを満たすのに必要な対価[それに応じた正当な給料]を受け取る目的で雇われる。それゆえに、その人は、報酬そのものだけでなく、その報酬を自分の望み通りに使えることについても、完全かつ実際の権利を獲得する明確な意思を示している。であるから、その人が質素に生活し、お金を節約して貯蓄し、さらに安心のために貯蓄を土地に投資するならば、そういう場合のその土地は、その人の賃金が別の形になっただけのものである。その結果、こうして購入された労働者の小さな不動産は、その人が労働の対価として受け取る賃金と同じように、自分で完全に自由に使えるべきである。しかし、正確に言えば、所有権というものは、その財産が土地であろうと動産であろうと、財産をこのように自由に使える力を含んでいる。それゆえに、社会主義者[共産主義者]は、個人の所有物を共同体全体に移そうと努めることによって、すべての賃金労働者の利益に打撃を与える。なぜなら、彼らは、賃金労働者から自分の賃金を自分で使う自由を奪い、それによって、賃金労働者から自分の資産を増やして自分の生活の条件を良くするという希望と可能性をすべて奪うからである」(レールム・ノヴァルム、第5パラグラフ)。

財産権を守るべきもう一つの理由があります。誰もが自分の所有物をより大切にします。共有財産は、修道院においてのみよく管理されています。そこでは、非常に高潔な修道士が共有財産の管理を適切に行っているからです。しかし、このように適切に管理されるのは、他のところではまれです。共産主義経済が失敗そのものだったため、疑いなくこの点が証明されました。天主は被造物の最高管理者でいらっしゃいますが、天主の下で人間のような知的な生き物は被造物の一部について天主の代理としての管理権を持つことがあり得ます。財産権によって、被造物の一部は人間が天主の代理として管理するように委託されています。私有財産は家族に対して、将来についてある程度の安心を与えます。また、その財産を使うことについても、ある程度の自由が与えられています。

私有財産の権利から、明らかに他人の財産を尊重する義務があることが導かれます。「汝盗むなかれ」(脱出20章15節)。盗みは、それ自体で大罪です。盗んだ物がごくわずかであれば、まだ「重大な問題」ではありませんから、そのため小罪に過ぎないでしょう。しかし、わずかな盗みに他のわずかな盗みが重なるなら、盗んだ物も足されねばなりませんから、たちまち重大な問題に到達し得るでしょう。重大な問題かどうかは、労働者の一日の給料の額で判断することができます。聖書は言います。「日雇いの賃金を、翌日まで延ばすな」(レビ19章13節)。「兄弟の一人でも、あるいはおまえの土地か町にいる他国人でも、卑しい者や貧しい者の賃金を不当に扱ってはならぬ。賃金の支払いを日暮れまで延ばしてはならぬ。毎日賃金を払え。彼は貧しくて賃金を待ち望んでいる。そうすれば彼は主に叫んでおまえを訴えることもなく、おまえは罪を背負うこともない」(第二法[申命記]24章14-15節)。

盗みには多くの方法があります。詐欺や高利貸、もっと悪いものは強盗のように暴力を伴うもの、あるいは、自らの有利な立場を利用して法外な値段を吹っかける恐喝です。不十分な賃金しか支払わないことは恐喝に似ています。これもまた、雇用者が、生きていくために働く必要のある貧しい被雇用者の困った状況に対して、自らの有利な立場を乱用しているのです。社長が賃金の支払いをできる限り少なくするならば、社長は自らの有利な立場を乱用しており、それは罪です。雇用者側のそのような罪は大罪であり、それは雇用者が被雇用者の数と同じだけの罪を犯しているからです。しかし、盗んだものを返すのを拒否するとき、たとえそれを知らずに手に入れていたとしても、第七戒に反する罪を犯しているのです。

第七戒に反する罪で一般によくあるものは、職場での不正行為です。例えば、いつも職場に遅れて到着し、労働契約で合意した長さの時間通り働かない場合、あるいは、個人的な用事をするために労働時間を使うときです。このような事柄では、例えば緊急の個人的な問題で一回だけ短時間、(職場の)電話を使うことならまったく罪ではないでしょうが、それが何度も繰り返されたり、長時間の国際電話になったりといった場合には、上司や社長の許可を得る必要があるでしょう。その許可を得ていないのなら、電話代だけでなく、私用で使った時間(分の給料)まで返す必要があるでしょう。

勉強でのカンニング、特に学生の試験のときのカンニングもまた、一種の盗みです。自分がそれに値しない得点を盗むからです。学生が最終試験のときカンニングする場合、これも一種の盗みです。卒業証書を盗み、医学のことを実際には知らない医者に、誰が自分の健康を委ねたいと思いますか? それほど昔ではない時期に、インドでスキャンダルがありました。パイロットの資格が、必要な飛行時間に達していない学生に与えられたのです。言い換えれば、飛行機の乗客全員に対する責任が、それによって不適格者に与えられたのです! これは実際、正義に反する罪です。

盗みは、まったく割に合わないものです。実際、「よし全世界をもうけても、命を失えば何の役に立つだろう。また、人は命の代わりに何を与えられよう」(マテオ16章26節)。消え去っていくもののせいで、永遠を失うとは、なんと割に合わないことでしょうか! 人が常に死と審判を自覚し、さらに義人への報いとしての永遠の命を自覚しているのなら、決してそんな不正を行うことはないでしょう。裏切り者ユダは「盗人であり、預かっている財布の中身を盗んでいた」(ヨハネ12章6節)のです。ユダの自殺と滅びは、盗人たちへの大きな警告です。彼らは地獄の火にさらされる危険の中にいるのですから!私たちの主ご自身が、ユダについて言われました。「その者はむしろ生まれぬ方がよかった」(マテオ26章24節)。

過去に盗みをしたことがある場合、その人は盗んだものを返さなければなりません。誰から盗んだのか覚えていない場合、その人は貧しい人々にその額を与えなければなりません。どのくらい盗んだのか覚えていない場合、その人は机に座って紙を一枚取り、何とか頑張って思い出すべきです。返すのは、少なすぎるより多すぎる方がよいのです。聖パウロは言います。「盗人はもう盗むな。むしろ、貧しい人々に施すために、自分の手で何かよい仕事をして働け」(エフェゾ4章28節)。また、聖パウロは再びテサロニケ人に言います。「私たちが先に命じたように、落ち着いてそれぞれの仕事につき、手ずから働くように努めよ。そうすれば、外の人[非キリスト教徒]に対しては名誉ある生活が営める」(テサロニケ前書4章11、12節)。そして、聖パウロは使徒行録の中で言います。「[聖パウロのように懸命に]働いて弱い人を支え、主イエズス自ら言われた『受けるよりも与えることに幸せがある』という言葉を思い出さねばならぬことを、常にあなたたちに示しました」(使徒行録20章35節)。

実際、第七戒は、私たちが他人に負っているものを他人に与えるよう私たちに要求するという、正義の徳を実践するよう明確に義務づけています。私たちは、他人の労働から恩恵を受けています。私たちは、口にする食べ物を農民に負っており、着る服を衣料品製造業者に負っており、家やアパートを建設業者に負っており、履物を靴製造業者に負っている、といったことです。それゆえに、私たちもまた、彼らに対して貢献する義務を負っています。私たち自身も共通善に貢献しなければならず、私たちは働かなければなりません! さらに一家の父親には、もう一つの理由からも働く義務があります。それは、家族を養う義務であり、今だけでなく、将来にわたって養う義務です。将来にわたって家族を養うことができるように、父親は資産、土地、家などを取得するかもしれません。

しかし、所有には責任が伴ってきます。そしてより多くを持つ者は、より多くの責任も持つのです。実際、私たちは地上で唯一の存在ではありません。私たちは自分のことだけでなく、隣人のことも考えねばなりません。また、不平等があるのは自然なことです。強い者がいれば弱い者もいます。他人より勤勉な者がいますし、他人より健康な者がいるといったことです。そのような自然の違いはすべて、自然の不平等につながります。しかし、天主の御摂理がそのような不平等があるよう意図されたのは、より多く持つ者が少ししか持たない者に与えるようにするためです。強い者は弱い者を守るべきです。健康な者は病人の世話をすべきです。勤勉な者は、その受けた賜物を、他人のために雇用を提供するなど、他人の利益になるように使わなければなりません。私たちの主イエズス・キリストは言われます。「恵みを多く受けた人は多く要求され、多くを任せられた人は多くを要求される」(ルカ12章48節)。また、聖パウロは言います。「この世の金持ちたちに命じよ。おごることなく、定めのない富に望みを置かず、われわれに用いさせるためにすべてを豊かに与え給う天主に依り頼み、善を行い、善業に富み、施しに備え、分け与え、未来のために良い基を蓄え、真の命をとらえよ」(ティモテオ前書6章17-19節)。

実際、盗みの反対は施しです。施しをすることによって、私たちは「自分のために天に宝を積む。そこではしみも虫もつかず、盗人が穴を開けて盗み出すこともない」(マテオ6章20節)のです。教会の教父たちは、施しをすることは天主にお金を貸していることであり、天主は無限の利子、永遠の命を返してくださる、と言っていたものです。「持ち物を売って施せ。自分のために古くならぬ財布をつくり、尽きぬ宝を天に積め。そこでは盗人も近寄らず、誰にも食い荒らされぬ」(ルカ12章33節)。聖ヨハネは、その手紙の中で私たちに警告しています。「世の宝を持ちながら兄弟の乏しさを見てあわれみの心を閉じる人の中に、どうして天主の愛が住もうか」(ヨハネ第一3章17節)。

諸聖人に、特に聖母と、一生懸命働いて正直に生きられた聖ヨゼフに祈りましょう。私たちが常に正義に忠実であり、盗みをせず、むしろ義務を果たすよう、特に施しの義務を果たすよう、助けてくださいますように。アーメン。
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