Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2018年 2月の聖伝のミサの予定
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】

意向:日本のため、日本におけるカトリック教会のため
実践すべき徳:天国を得たいという燃えるような望みと希望
守護の聖人:ルルドの聖母

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2018年 2月の予定
【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    2月2日(初金) 童貞聖マリアの御浄め(2級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ローソクの祝別式とローソク行列  ミサ聖祭

    2月3日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月11日(主) 五旬節の主日(2級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月12日(月) 証聖者童貞聖マリアの僕の会の七創立者(3級祝日)白
            午前9時 ロザリオ及び告解 
            午前9時半 ミサ聖祭     ←時間が変更になりました

    2月16日(金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月17日(土) 四旬節の平日(3級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月25日(主) 四旬節第2主日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解 
            午後6時 ミサ聖祭 

    2月26日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前6時半 ミサ聖祭 

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
    2月4日(主) 六旬節の主日(2級)紫  
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)

    2月5日(月) 【日本】日本26聖人殉教者(日本固有 2級祝日)赤 
            午前7時 ミサ聖祭

    2月18日(主) 四旬節第1主日(1級)紫
            午前10時 ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    2月19日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前7時 ミサ聖祭

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

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第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第四部 内的生活をいとなめば、使徒的事業が豊かに実を結ぶ


使徒的事業が、ゆたかに実を結ぶための条件――それは内的生活である

 使徒職の対象となる事業の中には、神学者たちのいわゆる「おこなわれた業そのものによって」(Ex opera operato)効果を生ずるものがある。さらに、また、「業をおこなう者の霊的価値によって」(Ex opera operantis)効果を生ずるものがある。
 前者は、ここでは問題にならない。
 われわれはもっぱら、後者について、考察したいと思う。

 キリストは、弟子たちにむかって、「わたしに留まっていなさい。そうすれば、わたしもあなたがたと留まろう」(ヨハネ15・4)と仰せられた。
 内的生活によって、イエズスと一致してとどまっていさえすれば、天主のみ旨によって使徒的事業にたずさわるとき、この事業がゆたかな実を結ぶことは、絶対確実である。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに留まり、またわたしがその人と留まるならば、その人は実をゆたかに結ぶようになる」(ヨハネ15・5)
 キリストの右のお言葉から推して、それはあまりに明白な論理である。この命題を証明するためには、キリストのお言葉以外に、いかなる権威もあろうはずがない。あっても、無駄である。経験はなにより雄弁に、この事実を物語っている。で、事実によって、上の真理を確証するにとどめる。

 もうかれこれ、三十年以上にわたって、わたしが、しさいに観察してきた事実がここにある。
 それは、こうだ。――それぞれ異なった女子修道会の経営にかかる、女の子の孤児院が二つあった。その事業の歩みを、わたしはじっと見守っていたのだが、二つとも、人目にわかるほど、衰退した時期があった。
 「衰退した」――と、なぜいっていけないだろう?
 Aの孤児院にも、Bの孤児院にも、それぞれ十六名の孤児たちが、全く同じ環境のもとに、収容されていた。そして、年ごろになると、彼女らはいずれも孤児院をでて、再び社会に出て帰っていった。いい忘れていたが、その前すでに、Aの孤児院からは三名、Bの孤児院からは二名、それぞれ事故をおこして、退院させられていた。
 さて、残りの十一名である。彼女らは、在院中はしばしば、聖体拝領をし、告解の秘跡も受けていたのに、いったん社会にでると、人びとをガッカリさせるような、じだらくな運命をたどった。ある者は夜の女になり、ある者はメカケとなるように、彼女らは社会の最下層に転落していった。しかも、十一名は十一名とも、社会にでるときには、それぞれりっぱな家庭だとか、まじめな職場だとか、とにかくシッカリした処に世話されていたのに……。
 なにが、彼女らをそうさせたのか。
 話は、本論にはいる。

 Aの孤児院では、十一年まえ、院長が交替した。
 ところが、タッタそれだけで、わずか六か月もたつか、たたないうちに、孤児院の空気は一変した。
 人びとの精神は、根本的に革新されたのである。
 同様の革新が、今度は三年後、Bの孤児院にも見受けられた。院長も、職員の修道女らも、そのままのメンバーだったが、ただひとり、孤児院付きのチャプレンが交替した直後からである。
 このことがあって以来、年ごろになって、孤児院をでる娘たちの内、悪魔の誘惑にまけて堕落のふちにおちこむ者は、一人もいないようになった。娘たちの全部が、一人の例外もなしに、りっぱなキリスト信者として、生活するようになったのである。
 なにが、この美しい結果の原因なのか。
 それは、あまりに明白である。
 以前には、孤児院のかしらが、または告解場の聴罪師が、適任者でなかったからである。超自然的に、十分ちからのある指導をすることが、できなかったからである。そのために、天主の恩寵は、じゅうぶんに働くことができなかった。恩寵の働きは、完全にマヒしてはいなかったが、いちじるしく低下していた。
 前の院長も、聴罪師も、なるほど一面において、まじめな信心家ではあったろう。
 だが、深い、中味のある内的生活に欠けていたので、その結果、じゅうぶん深みのある、じゅうぶん長続きのする働きを、孤児たちの霊魂にしてやることができなかったのである。
 感情だけの信心、――ただ敬けんなふんい気、釣り込み式の信心、ただ外面的の祈りや、儀式や仕来たりだけの信心ではダメだ。それはただ、弱い漠然とした信念だけしか、娘たちの心にうえつけることができない。炎を発してももえさからない愛、しっかりした根をもたない善徳しか、彼女らには与え得ないのである。
 無気力な信心、ショーウインドー式の信心、甘ったるい、お涙頂戴式の信心、ただ仕来たりでなんの気乗りもなしにする信心、――なるほど、このような上わべだけの信心でも、娘たちを自然道徳に、訓練することができよう。他人に迷惑をかけない、上長にはていねいに、おじぎするぐらいのことは知っている程度の者にすることはできよう。だが、彼女らに、強い宗教的信念をあたえることはできない。強い性格を与えることはできない。感情と想像を抑制するほど、強固な意志を与えることはできない。このような信心がどうして、彼女らの信仰生活を深め、滋味ゆたかにすることができるだろうか。どうして彼女らを、霊魂の敵とたたかうために、よく準備のできた“強い女”にすることができるだろうか。
 孤児らは、かごの鳥である。いつも、ひろい自由の大空を慕っている。いつ孤児院から出してもらえるだろうかと、その日ばかり指折りかぞえて待っている。自由の天地にあこがれるこれらのひな鳥を、かごのなかにじっと閉じこめておくために、安っぽい信心がなんの役に立つだろうか。

 内的生活をほとんど理解しない福音の働き手が、苦労してまいたタネは、こんなものである。キリスト教的生活のタネは、いっこう芽をださないではないか。さて、Aの孤児院では、院長を取りかえた。Bの孤児院では、聴罪師を取りかえた。すると、空気が一変した。この突然の変化は、人目にたつほど、顕著である。施設の娘たちはみんな、あたかも人間が変わったように、祈りを大切にし、これに親しむようになった。
 告解、聖体の両秘跡も、しばしば受けるようになった。内面の信心は、おのずから外面にも反映し、以前にはあれほど浮ついていた彼女らも、がらりと態度が変わった。――聖堂でお祈りするときも、職場で仕事するときも、休憩時間を楽しむときでさえ、彼女らは貞淑そのものだった。
 娘たちの人柄は、根本的に一新されたのである。
 それは、内心にたたえられた天上の喜びが、外面に流露した証拠である。
 かくて、元気いっぱいな、快活な霊魂たちは、善徳の獲得にむかって、勇み足で前進する。その中には、修道生活の召し出しにたいして、熱烈な志望をもっている者もあるだろう。
 このすばらしい変容は、いったい、どこからきたのだろうか。――新らしい院長が、新らしい聴罪師が、内的生活の持ち主だったのである。
 この因果関係は、あながち孤児院だけに限らず、学校でも、病院でも、修道院でも、または小教区、神学校、その他カトリック経営のどんな施設でも、そのままりっぱに通用する。

 これにかんして、十字架の聖ヨハネが、うまいことをいっている。
 「活動、活動といって、日もなお足りないと考えている人たち、――説教や外的事業によって、世界を動かせるとウヌぼれている人たち、こういう人たちは、しばらく心をしずめて、まじめに反省するがいい。そうしたら、じきに、苦もなく、次の真理を発見するだろう。すなわち、もしかれらが、もうすこし時間をさいて、これを念禱や内的生活の修業にささげるなら、それが周囲にあたえるよい模範を抜きにしても、ただそれだけで、自分は教会にとって、以前よりいっそう有益である、また天主にもいっそう喜ばれるのだ、という真理を、心から納得するだろう。
 「念禱や内的生活の修業に従事する」――この条件を果たしさえすれば、かれらは自分たちの生命をすりへらして、千の事業をするよりも、タッタ一つの事業をすることによって、いっそう大きな善を、しかもはるかにすくない労苦をもって、なしとげることができよう。
 これはたしかに、天主の恩寵だけがなしうる奇跡だが、さてこの恩寵を、かれのうえに呼びくだしくれるものは何か。――それが、念禱の生活であるとは、いまさらくり返して申し上げるまでもないことである。
 念禱をしないなら、いっさいは大破壊におわる。
 念禱をしないなら、ちょうど金づちで、鉄床をたたくようなものだ。
ひびくものは、ただやかましい音ばかりだ。
念禱をしない人のすることは、なんでもゼロよりすこしばかりよいことか、それとも多くの場合、全然ゼロか、いやむしろ、ゼロ以下の悪でさえある。
 ああ、天主よ、もし使徒職にたずさわっている霊魂が、このように傲慢にでもなりましたら、こんな使徒はお見捨てになって、わたしどものそばには置いてくださいますな。かれの事業が、かれの才能が、どんなにりっぱでございましても。
 じじつ、こんな霊魂に、なにができるものですか。なぜなら、いやしくも善業と名のつくもので、天主のお助けなくして成就されるものは一つもない――ということは、絶対確実な真理だからです。
 ああ、この問題にかんして、どれほどたくさんのことが書けるのでしょう!
 内的生活の修業を投げだして、ただ自分たちの声望を高める外的事業にだけ、あこがれている人びとに向かって、――おのれの事業を、できるだけ多くの人に知らせてやりたい、できるだけ多くの人から、やんやと喝采してもらいたい、とこいねがっている人たちに向かって、どれほどたくさんのことが書けるでしょう。
 すべて事業に、ゆたかな実を結ばせるのは、ただ天主の恩寵という天主的樹液だけですのに、それがどこから流れてくるのか、また、生ける水の泉はどこにあるのか――こういうことにかんして、かれらはなにも知っていないのです。」(『霊の賛歌』第二十九歌)
 十字架の聖ヨハネの言葉の中には、前ほど述べた聖ベルナルドの“呪われた仕事”という表現にも比すべき、強いものがあるようだ。しかし、それには、なんの誇張もない。わけても、ボスエ司教がいっているように、十字架の聖ヨハネは、完全な良識のもちぬしである。聖性に達するためには、異常な道を通ろうと望んではならぬ、とかれは強く人をいましめている。かれのひじょうに深遠な神秘思想の表現には、水も洩らさぬ論理の正確さがある。
 使徒的事業に、内的生活を加味すれば、なぜゆたかな実を結ぶのか、その原因のいくつかについて、右に述べてみたいと思う。

(この章 続く)

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2017年11月4日(初土) 初土の信心 「喜びの第一玄義」を黙想する

2018年02月20日 | お説教・霊的講話
2017年11月4日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年11月4日、11月の初土曜日です。今日のこのミサの後に、いつものように公教要理の勉強があります。今回は公教要理の時間は少し短い予定ですが、13時頃まで予定しています、いらして下さい。

その後には15時からグレゴリオ聖歌の練習会があります。特に聖霊降臨後第23主日の固有文を一緒に歌う事ができるように、レネー神父様がいらした時にはこれをもう暗記して歌う事ができますように、あるいは鼻歌で歌う事ができますように。
この固有文は特に、復活祭が早くなった場合には、聖霊降臨後23週から最後の主日まで、何回も何回も毎年繰り返して歌われる非常に有名な曲です。どうぞこれを練習なさっていて下さい。



「時に、ふさわしい時に憐れみを受ける為に、主の憐れみの玉座に近付こう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、この今の世界は、戦争や、あるいはテロ、あるいはおかしな殺人事件などのニュースでいっぱいです。マリア様の、ファチマのマリア様の御言葉によると、「天主はこの地上に、私の汚れなき御心に対する信心を確立する事を望んでおられる。もしそうすれば多くの霊魂が救われ、この地上に平和が訪れるだろう。さもなければ多くの霊魂は失われ、地獄に失われ、この地上は地獄のようになるだろう。」地獄のようになるだろうとは仰いませんでしたが、「ロシアが戦争を挑発し、教会に対する迫害を挑発し、多くの義人は悪人と共に死んでしまうだろう。無くなってしまう国々もあるだろう」と仰いました。「しかし最後には、私の汚れなき御心が凱旋するだろう。」

ぜひ私たちはですから、もしもこの私たちの霊魂の救いの為にそれを望むならば、もしも世界の平和を望むならば、一番しなければならない事は、お恵みの玉座に行く事です。お恵みの蛇口を開いて、水をそこから得る事です。それ以外のところでいくら水を探しても、水は出てきません、平和は来ません。ジャシンタは死ぬ前にこう言っていました、「ルチア、全世界に天主様が汚れなき御心の信心を確立するという事を望んでいる事を言って下さい。汚れなき御心を愛するように言って下さい。そうすればこの世に平和が起こる。なぜかというと、天主はマリア様の汚れなき御心だけにこの平和の恵みを委ねたから。それ以外のところでは見つける事ができないから」と言って死んでいきました、それが死ぬ前の言葉でした。

ですから私たちも、汚れなき御心への信心をする事に致しましょう。今日は初土曜です。ですから初土の信心をなさって下さい。初土の信心は非常に簡単です、4つの事をしなければなりません、4つの事を5回します。「え?4つの事?」

はい。1つは初土曜日、月の最初の土曜日に告解をする事です。これを罪の償いの精神を持って、特に「マリア様の汚れなき御心に対する罪を償う」という精神を持って告解する事です。

第2は、「マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償う」という意向を持って御聖体拝領をするという事です、非常に簡単です。月に1回。

あとの2つも非常に簡単です。「マリア様に対して犯される罪を償う」という意向を持ってロザリオを5連唱える事です。もう皆さんしました。一環唱える事です、5連唱える事です。

残る1つも簡単です。マリア様と共に15分間、ロザリオの15の玄義の内の何かを黙想する事です。15分間。なぜ15分間かというと、マリア様によれば、ロザリオには15玄義あるから15分です。これを今日、私たちはする事に致しましょう。特に今日は御告げの玄義を、第1玄義を黙想する事を提案します。

これを5回するのです。なぜ5回かというと、イエズス様の説明によれば、9回でも15回でも20回でもない、5回かというと、「なぜかというと、たくさん冷淡にやるよりも、少ない数を一生懸命やった方がいいから。なぜ5回かというと、それは5つの罪を償う為。1つは、『マリア様が汚れなき御宿りである、原罪の汚れなく御宿ったものであるという事を侮辱する、それに対する罪』第2は、『マリア様が終生童貞である事を否定する、その罪を償う為』第3は、『マリア様が天主の御母であり、私たちの母である事を侮辱する罪を償う為』第4は、『マリアに対する愛を、特に子供たちなどにおいて、マリア様に対する侮辱の種を蒔くような人たちの罪を償う為』最後に、『マリア様の御影、御像などに対して犯される罪を償う為』」です。

では今日は、第1玄義の御告げの玄義を黙想致しましょう。この玄義は本当に15分では足りないほどの玄義ですが、私たちはこれを、私たちが初土によく黙想する事ができるように、1ヶ月間黙想する事を提案します。でも今日この初土として、御告げの玄義を黙想する事を提案します。でもお好きな玄義を黙想なさって下さい。

マリア様は天使の御告げを受けました。一体どこで、どんな場所で御告げを受けたのでしょうか?

3人の子供たちは、遊んでいる時に3回天使の現れを見ました。光り輝く若い天使で、男性のようなクリスタルのような天使が現れました。神学者たちによると、「これは大天使聖ミカエル、ポルトガルの守護の天使、平和の天使であった」と言います。

マリア様の場合には、大天使聖カブリエルが現れました。神学者、特に聖トマス・アクイナスによると、大天使聖ガブリエルは、大天使の中でも最高の、最も地位のある天使で、「天主の力」という意味の天使でした。

マリア様がその現れを受けた時には、どこにいらしたのでしょうか?

伝統によると、マリア様はナザレトのご自宅で、小さな単純な謙遜な貧しい家で、お祈りをしていた時に御出現を受けたと言います。マリア様の家をご覧になって下さい。単純な非常に質素な家でした。マリア様はダヴィドの王家の子孫でした。しかし王としての特権は全て失われていました。地上的な特権は失われていました。財産もこの世的なものは失われれていました。マリア様の歳は、15歳とか16歳ぐらいだっただろうと言われています。すでに聖ヨゼフと婚約をしていました。同居はまだしていませんでしたが、しかし婚姻をしていました。

マリア様はどのようなお祈りをしていた事でしょうか?

特にマリア様は、無原罪の御宿りであり、上智の座であり、預言者の元后でもありましたから、聖書の預言の事をよく深く理解していました、「すでにメシアがこの地上に来られる時が来た。イザヤの預言によれば70周年がすでに来ている。一体どのような、特に多くの女性の中から選ばれたその女性というのは一体どのような御方なのだろうか?ぜひそのメシアの母となる方に自分の奉仕を捧げたい。自分はそのような資格がないかもしれないけれども、しかしそのメシアの母となる方はおそらく苦しみ、この世の罪を償うメシアの母となる方なので、悲しみの御母となるだろう。その御母をお慰めする方になりたい。何とかしてその選ばれた、エヴァに対して『蛇をかかとで踏む』と言われた方のその婢女として奉仕をしたい。そうする事ができるだろうか。その為にもしも私でよかったならば、主よ、私をお使い下さい。主の道具として私ができる事は一体何でしょうか?何がお望みでしょうか?メシアの為に、この世の救いの為に、その選ばれた方の為に何かできる事があれば、もしも私で良ければ」と一生懸命お祈りなさっていたかもしれません、「早く救い主が来ますように。」

マリア様は非常にご謙遜な方でしたので、まさか自分がその女性の中から、多くの女性の中から選ばれたそのかのメシアの救い主の母となる方であるとは想像も思いもしていなかったでしょう。しかし時が来るという事は知っていました、「もうメシアはすぐ近くに待っている」と。

あるその時に、光り輝く、非常に美しい神秘的な天使が現れて、夢の中ではなく現実に目に見える形で現れました。天主が、目に見えない天主が人となる、肉を取って人となるという事を告げるのですから、目に見えない天使が、「確かにこれは本当だ」と目に見える形で現れて、非常にふさわしい事でした。聖ヨゼフに対しては夢の中で天使は御告げをしましたが、マリア様は、この偉大な神秘を、たしかに本物である事を確実に教える為に、目に見える形で現れました。

もはやマリア様はその選ばれた、女性の内から選ばれた女性を奉仕するその方ではなく、まさにマリア様、あなたこそその選ばれた方となるべきなのです、「聖寵充ち満てる方よ、御身にあいさつ申し上げます」と大天使ガブリエルは言いました。

マリア様は聖寵に満たされた御方でした。すでに聖寵の充ち満ちを受ける方であって、聖人たちの話によれば、その最初の無原罪の御宿りの瞬間から、急速にものすごい速度でその聖寵の充ち満ちを受けて、聖寵においてますます発展していました。その時に突然、天使のあいさつを受けたのでした、「めでたし、聖寵充ち満てるマリア。」

マリア様がこのようなあいさつを受けたのは非常にふさわしい事でした。なぜかというと、マリア様が今から受ける、今から言う事は、かつてない非常に大切な事である、という事をマリア様が注意を引かせる為のものでした。普通ではもしかしたらマリア様は、天使の出現を過去受けていたかもしれません。しかしこの特別なあいさつにマリア様は、「一体これは何の事だろう」と不思議に思いました。マリア様は「一体これはどのような事だろう」と困惑しました。すると天使は言います、「恐れるなマリアよ、恐れるな。」天使は知っていました、マリア様が御謙遜の為に、この挨拶に対して「一体何の事だろう」と思っていたという事を。

天使はマリア様に説明します、マリア様のその混乱はまず謙遜の為、次に童貞を守ろうとしていた為だ、と知っていました。そこで天使は説明します、「確かに天主はマリア様を選んで、そして主は御身と共に在す。そして御身は全ての女性の内から選ばれた者となる。それは天主がお選びになった事である。」でもマリア様は、なぜ自分を天主が、このような重要でもないこんな隠れた、こんなに小さな、こんなに何もする事ができないような乙女を選んだのだろうか。そしてその事をきっと困惑していたに違いない、と天使は知っていました。

そこで天使は言います、「聖霊の力が、聖霊があなたの上にやって来るのです」と。“Spiritus Sanctus superveniet in te.” そして「マリア様がもしも身籠もるのは、これは聖霊の力によるものであって、全て天主の御力によるものである」という事を説明します。マリア様はもちろん契約にサインする前に、一体その契約の内容がどのようなものがあるかを知らなければなりませんでした。特別の照らしを受けていたはずです、「救い主の母となる為には、約束されたメシアの母というのは、苦しみの母とならなければならない」という事を。「栄光とか栄光の母親とか、あるいは征服者の王の輝く、この世的な権勢のある王の母ではなく、辱しめを受ける、嘲笑の茨の冠を被せられるような王の母とならなければならない」という事を知っていました。

そこでマリア様はその時に答えます、「主の婢女はここにおります。我、主の婢女なり。“Ecce ancilla Domini.”御身の言葉の通りに我になりますように。“Fiat”私はそれを受け入れます、それに同意します。どのような苦しみであれ、どのような辱しめであれ、どのようなものであれ、全て主の御旨のままになりますように。」

この地上において、この被造物の世界において、天主の力が現れて決定的に大変化を起こした瞬間が2つ、2回あります。

1つは創造の時でした。被造物が無から何もなかったのに有るようになった、その創造の時でした。私たちがこの被造の世界が創られて、有り始めた時でした。

もう1つは、マリア様が「“Fiat.”同意します」と言った時でした。これはあたかもマリア様が全人類を代表して、「天主の本性と人間の本性が1つとなるという事に同意します。」あたかも「神秘的な婚姻に同意します」と言ったかのように、「プロポーズに同意します」と言ったかのように、マリア様が「我になれかし」と言った時でした。その時に、創られない天主が、創られたものと結合しました。永遠の無限の天主の御一人子が、限られた被造の人間となられたのでした。この時、この瞬間に、人間は人間の本性は、天主の本性と合体しました、イエズス・キリストのペルソナにおいて。そしてこの天主にとっては全く変化のなかったものですが、私たちの人間にとっては大変化が起きました。これは、無から有るに変わったよりも、更に大きな変化でした。

なぜかというと、無から有るに変わった時には、それでも有限の変化でした。限りのある変化でした。しかし限りの有るが、無限の創られない方の本性と一致したという事は、人間にとってこれはとてつもない変化であったからです。

このマリア様が「はい」と仰った時に、すでに確かに聖寵の充ち満ちの溢れを受けたマリア様でありましたけれども、かつて無かったほどの比較する事のできない、言葉で言う事ができないとてつもないお恵みを、聖霊のお恵みがマリア様に注がれました。聖霊がマリア様を包み、そして天主の御子が人となり給うたのでした。

イエズス様がイエズス様の聖心が聖父に従順であり、この「人間となろう」としたその目的は、人間の救いの為でした。この人間の救いの為に、天主の御言葉が人となる事ができる為には、マリア様のこの「我になれかし」が必要でした。マリア様がもしもこれを「同意します」と言わなければ、マリア様の苦しみも、イエズス様の苦しみも無かったかもしれませんが、人類は救われる事がありませんでした。

マリア様はイエズス様の母、天主の御母となる事によって、同時にイエズス・キリストの神秘体の母ともなりました。聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールによると、「もしも誰かが、頭だけ生んで体を生まないとしたら、これは怪物だ。マリア様は怪物ではない。マリア様はイエズス様、キリストの神秘体の頭であるイエズス様の母となったその瞬間、全ての贖われる人々の母となった、霊的母となった」と言いました。

マリア様の「はい。私はどのような事でも、主の御旨のままに私になりますように」と言ったその同意の為に、イエズス・キリストは私たちと同じ肉を取って救い主となる事ができました。このマリア様の御告げに、この「はい」に、どれほど感謝しなければならないでしょうか。

どうぞ今日は、このマリア様の御告げの中に深く入って下さい。もしも私たちの目の前に天使が現れて私たちに、「主の御旨はこうである」と告げたら、私たちは一体どのような行動を取るべきでしょうか?

「え、天使さん、ちょっと待って下さい。私はそうするよりも、もっとこのこれをしていたのです。これの方が面白い、おかしい、このインターネットをもっと見ていた方が良い、Youtubeをもっと見た方が面白い。」
あるいは「今は、今はできない。」

マリア様はすぐに仰いました、「主の婢女はここにおります。仰せの如く我になれかし」と。

マリア様の汚れなき御心の中に今日は深く入って、罪の償いの為に、イエズス様を愛する為に、罪人の回心の為に、世界の平和の為に、マリア様に対して犯される罪を償う為に、教皇様の為に、この初土の信心を行う事に致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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聖ピオ十世会聖伝のミサ(ラテン語のミサ)報告 2018年2月 四旬節 次のトリエント・ミサは東京で3月4日です。

2018年02月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今回は大阪と東京で聖伝のミサを捧げることができ、聖体降福式も執行することができ大変幸福です。聖体降福式は、大阪でも東京でも、皆がとても一生懸命に祈っていてくれて、それがよく伝わってきました。イエズスさまもお喜びになっておられたと思います。

 今年は、次のような行事が予定されております。多くの兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与れることを願っております。

3月25日:枝の主日【東京】(聖母の御告げの祝日は今年は4月9日(月)に移動します。)

4月1日:復活祭【大阪】

5月3日から6日まで:秋田巡礼【秋田】
ご予約の連絡はお早目にどうぞ!

5月20日:聖霊降臨の主日【東京】

6月3日:御聖体の荘厳祭【東京】

8月18日:デ・ガラレタ司教様:大阪で堅振式
8月19日:デ・ガラレタ司教様:東京で堅振式


ではよい四旬節をお過ごしください。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッション、ありがとうございました。
御ミサ、告解だけでなく、憐みを乞い求めるために御聖体降福式までして挙行して頂き本当にありがとうございました。
神父様の大きな犠牲の上に成り立っている日本での聖ピオ十世会の活動に、私達はどれ程感謝しなければならないかと、緊張する世界情勢を見てつくづく思いました。
ミサの報告をお送りいたします。

2月16日(金)四旬節の平日のミサには15名が
2月17日(土)同ミサには13名の方々が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

金曜日のお説教で、この日の聖福音の解説と黙想をして頂きました。
七旬節から段階を経て四旬節の準備をしてきたつもりでしたが、なぜかわかりませんが四旬節に突入した途端に自分のみじめさに押しつぶされそうで、良く四旬節を過ごす自信もなくなり、一体どうしたものかと気分は落ち込むばかりでした。

しかし、お説教を聞いて大きな慰めと希望を頂くことができ、イエズス様に舟に乗って頂いて天国まで連れて行って頂くために頑張る勇気を持つことができました。聖福音に隠されているメッセージをひとつ、ひとつ教えて頂くごとに天主様の深い愛と憐みをうまく言えませんが大雨を受けているように感じます。

土曜日の御ミサの後のご聖体降福式ではゲッセマニの園でのイエズス様とマリア様の御苦しみの黙想をして頂き、罪の邪悪さ、汚なさが招くイエズス様とマリア様の聖心への酷い仕打ちを改めて思い、深く反省いたしました。

ゲッセマニでのイエズス様の三つの大きな御苦しみをマリア様も霊的に共有されていたという事が新しい黙想の助けとなりました。次の初土曜日のテーマはここに絞ろうと思います。

灰の水曜日に受けることが出来なかったので、御ミサのあと、聖灰を受ける式がありました。
あっという間の人生を終えてチリに帰ってしまうのだから、あっという間のこの世を捨てて永遠の喜びのために戦えと、
善と悪との霊戦の渦中にあちらこちらで燃え上がる火の中から拾った灰を額に頂いたような気がしました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
+Ave Maria! Immaculata!

大阪でのミッションをありがとうございました!
お説教と御聖体降福式での苦しみの第一玄義の黙想は
本当に心に染みとおり、突き刺さりました。ありがとうございます!


【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供3人)
女: 27人(内、子供2人)
計: 51人(内、子供5人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

今日はありがとうございました。
聖体降福式は本当にとてもよかったです。
素晴らしかったです。
長時間で大変お疲れになられましたことと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
聖マリアの汚れなき御心のうちに!

【報告】
Dear Fr Onoda,
おはようございます(^。^)そして、いつもありがとうございます(^_^)
聖体降福式では、みなさん声を一つに、良く歌っていらっしゃり、その厳かな雰囲気が今回とても印象に残りました(^O^)/
今日も東京は寒いので、マニラとの温度差に気を付けてくださいね〜(^_^)
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トリエント公会議の第22総会の決議文:ミサ聖祭についての教義:1562年9月17日

2018年02月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様にトリエント公会議の第22総会の決議文をデンツィンガーの番号に従ってご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Doctrina de ss. Missae sacrificio ミサ聖祭についての教義
1738 937a Sacrosancta oecumenica et generalis Tridentina Synodus..., ut vetus, absoluta atque omni ex parte perfecta de magno Eucharistiae mysterio in sancta catholica Ecclesia fides atque doctrina retineatur et in sua puritate, propulsatis erroribus atque haeresibus, conservetur: de ea, quatenus verum et singulare sacrificium est, Spiritus Sancti illustratione edocta, haec, quae sequuntur, docet, declarat et fidelibus populis praedicanda decernit. 1738(937a)聖霊によって合法的に召集されたこの聖なるトレント公会議は……聖なるカトリック教会において、この偉大な聖体の秘跡に関する古代からの信仰を完全に守り、誤謬と異端を排斥して教義をけがれなく守るために、聖体の秘跡が真の唯一のいけにえであることを聖霊の光によって教えられて、次に述べることを教え、宣言し、信徒に教えるべきであると決定する。
Cap.1. 'De institutione sacrosancti Missae sacrificii' 第1章 ミサ聖祭の制定について
1739 938 Quoniam sub priori Testamento (teste Apostolo Paulo) propter Levitici sacerdotii imbecillitatem consummatio non erat, oportuit (Deo Patre misericordiarum ita ordinante) sacerdotem alium "secundum ordinem Melchisedech" (Gen 14.18; Ps 109.4; Heb 7.11) surgere, Dominum nostrum Jesum Christum, qui posset omnes, quotquot sanctificandi essent, consummare (Heb 10.4) et ad perfectum adducere. 1739(938)使徒パウロによれば、旧約時代にはレビ族の司祭職は完全なものでなかったため、慈悲深い父である天主の計画によって、メルキセデクの位にひとしい他の司祭を立てる必要があった(創世記14・18;詩編109・4;ヘブライ7・11)。それがすなわち、私たちの主イエズス・キリストであって、キリストは「聖化すべきすべての人々を完全なもの」(ヘブライ10・14)にすることができた。
1740 938 Is igitur Deus et Dominus noster, etsi semel seipsum in ara crucis, morte intercedente, Deo Patri oblaturus erat, ut aeternam illis (illic) redemptionem operaretur: quia tamen per mortem sacerdotium exstinguendum non erat (Heb 7:24, 27), in Coena novissima, "qua nocte tradebatur" (Cor1 11:13),  ut dilectae sponsae suae Ecclesiae visibile (sicut hominum natura exigit) relinqueret sacrificium, quo cruentum illud semel in cruce peragendum repraesentaretur ejusque memoria in finem usque saeculi permaneret, atque illius salutaris virtus in remissionem eorum, quae a nobis quotidie commituntur, peccatorum applicaretur: "sacerdotem secundum ordinem Melchisededch se in aeternum" (Ps 109.4) constitutum declarans, corpus et sanguinem suum sub speciebus panis et vini Deo Patri obtulit ac sub earundem rerum symbolis Apostolis (quos tunc Novi Testamenti sacerdotes constituebat), ut sumerent, tradidit, et eisdem eorumque in sacerdotio successoribus, ut offerent, praecipit per haec verba: "Hoc facite in meam commemorationem", etc. (Lc 22:19; Cor1 11:24), uti semper catholica Ecclesia intellexit et docuit (can. 2.). 1740私たちの天主であり、主であるキリストは、十字架の祭壇の上で死に、「一度で永久に」(ヘブライ10・14)父である天主に自分をささげて、救いのわざを完成した。しかしキリストの司祭職は死によって消去るものではなかったので(ヘブライ7・24、27)、敵の手に渡される夜(1コリント11・13)、最後の晩さんにおいて、自分の愛する花嫁である教会に目に見える供え物を残したのである(人間のためにはこれが必要であった)(第1条)。この供え物によって、十字架上で一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終りまで続き(1コリント11・23以下)、その救いの力によってわれわれが毎日犯す罪が赦されるのである。キリストは「メルキセデクの位にひとしい永遠の司祭」(詩編109・4)であると宣言して、自分の体と血をパンとブドー酒の形色のもとに父である天主にささげた。そして、使徒たちを新約の司祭として制定し、パンとブドー酒の形色のもとに拝領するように自分の体と血を与えた。使徒たちとその後継者たる司祭職に、「私の記念としてこれを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉で、それをささげるように命じた。これはカトリック教会が常に理解し、教えてきたことである(第2条)。
1741 938 Nam celebrato veteri Pascha, quod in memoriam exitus de Aegypto multitudo filiorum Israel immolabat (Ex 12.1ss), novum instituit Pascha, se ipsum ab Ecclesia per sacerdotes sub signis visibilibus immolandum in memoriam transitus si ex hoc mundo ad Patrem, quando per sui sanguinis effusionem nos redemit "eripuitque de potestate tenebrarum et in regnum suum transtulit" (Col 1:13). 1741イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげた旧約の過越(出エジプト記12・1以下)を祝った後、キリストは新しい過越の祭を制定した。キリストは自分がこの世から父の所に移る時、自分の血を流すことによってわれわれを救い、「闇の権力から救い出し、自分の国に・移した」(コロサイ1・13)。キリストはその記念として、目に見えるしるしのもとに、教会において司祭たちによって自分をささげるのである。
1742 939 Et haec quidem illa munda oblatio est, quae nulla indignitate aut malitia offerentium inquinari potest, quam Dominus per Malachiam nomini suo, quod magnum futurum esset in gentibus, in omni loco mundam offerendam praedixit (Mal 1:11), et quam non obscure innuit Apostolus Paulus Corinthiis scribens, cum dicit, non posse eos, qui participatione mensae daemoniorum polluti sint, mensae Domini participes fieri (Cor1 10:21), per mensam altare utrobique intelligens. Haec denique illa est, quae per varias sacrificiorum, naturae et Legis tempore (Gen 4:4; 8:20; 12:8,22; ex: passim), similitudines figurabatur, utpote quae bona omnia per illa significata veluti illorum omnium consummatio et perfectio complectitur. 1742(939)清い供え物が、それを供える者の側からの欠点または罪悪によってけがされることができない。この供え物は、主がマラキア預言者を通じて予告したものであり、諸国民の間で偉大な主の名に、主の名のためにささげられる(マラキア1・11参照)。使徒パウロもコリント人に書き送った手紙の中で、この供え物について述べている。すなわち、悪魔の食卓に列席してけがれた者は、主の食卓に列席することはできないと。食卓という時、パウロは祭壇をさしている(1コリント10・21参照)。この供え物は、自然と律法の時代には、種々のささげ物によって予型とされた(創世記4・4;8・20;12・8;12・22;出エジプト記随所参照)。この供え物は、昔のささげ物によって示されていた善の実現と完成であり、それらすべてを含んでいる。
Cap.2. 'Sacrificium visibile esse propitiatorium pro vivis et defunctis' 第2章 ミサ聖祭が生者と死者のための真の贖罪の供え物である
1743 940 Et quoniam in divino hoc sacrificio, quod in Missa peragitur, idem ille Christus continetur et incruente immolatur, qui in ara crucis "semel seipsum cruente obtulit" (Heb 9.14,27): docet sancta Synodus, sacrificium istud vere propitiatorium esse (can.3), per ipsumque fieri, ut, si cum vero corde et recta fide, cum metu ac reverentia, contriti ac paenitentes ad Deum "accedamus, misericordiam consequamur et gratiam inveniamus in auxilio opportuno" (Heb 4.16). Hujus quippe oblatione placatus Dominus, gratiam et donum paenitentiae concedens, crimina et peccata etiam ingentia dimittit. Una enim eademque est hostia, idem nunc offerens sacerdotum ministerio, qui se ipsum tunc in cruce obtulit, sola offerendi ratione diversa. Cujus quidem oblationis (cruentae, inquam) fructus per hanc incruentam uberrime percipiuntur: tantum abest, ut illi per hanc quovis modo derogetur (can.4). Quare non solum pro fidelium vivorum peccatis, poenis, satisfactionibus et aliis necessitatibus, sed et pro defunctis in Christo, nondum ad plenum purgatis, rite juxta Apostolorum traditionem offertur (can. 3). 1743(940)ミサにおいて行われるこの神的ないけにえの中に、十字架の祭壇上で血を流して自分自身を天主にささげた(ヘブライ9・27)その同じキリストが現存し、血を流さずに自分自身をささげている。したがって、聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、ミサ聖祭は真に贖罪の供え物である(第3条)と。われわれが真心と正しい信仰、畏敬の念と痛悔と償いの心をもって天主に近づくならば、「適切な時に慈悲を受け、恩恵を見出すようになる」(ヘブライ4・16)であろう。なぜなら、この供え物によってなだめられた主は、悔改めの恩恵とたまものを与え、どのように重い大罪さえも赦すからである。すなわち、ささげものは同一である。あの時自分を十字架の上でささげたキリストが、今司祭の役務を通してささげているからである。違うのはささげ方だけである。事実、この無血の供え物によって、十字架上の(流血の)ささげものの成果を非常に豊かに受けることができる。しかし、このささげもの(ミサ)によって十字架上のいけにえがどのような形でも価値を失うのではない(第4条)。そのため、このいけにえは、生きている者の罪や罰の赦しのため、または罪の償いのため、またはその他の必要のためだけでなく、使徒たちの伝承からも明らかなように、キリストの恩恵の状態で死んだが、まだ完全に清められていない霊魂のためにもささげられるのである(第3条)。
Cap. 3. De Missis in honorem Sanctorum 第3章 聖人崇敬のミサについて
1744 941 Et quamvis in honorem et memoriam Sanctorum nonnullas interdum Missas Ecclesia celebrare consueverit, non tamen illis sacrificium offerri docet, sed Deo soli, qui illos coronavit (can. 5). Unde 'nec sacerdos dicere solet: Offero tibi sacrificium, Petre et Paule', sed, Deo de illorum victoriis gratias agens, eorum patrocinia implorat, 'ut ipsi pro nobis intercedere dignentur in caelis, quorum memoriam facimus in terris'. 1744(941)時々、聖人の崇敬と記念のためにミサをささげることは教会の習慣であるが、聖人にではなく、彼らに冠を与えた天主だけにいけにえをささげると教会は教える(第5条)。したがって司祭は、「私はこのいけにえを、ペトロとパウロにささげる」注1とは言わず、聖人に勝利を与えた天主に感謝し、「地上において聖人を記念する時、聖人が天国において、私たちのために祈るように彼らの・援助を願うのである」注2。
Cap. 4. Utrum missam celebrare conveniet 第4章 ミサ典文について
1745 942 Et cum sancta sancte administrari conveniat, sitque hoc omnium sanctissimum sacrificium: ecclesia catholica, ut digne reverenterque offerretur ac perciperetur, sacrum canonem multis ante saeculis instituit, ita ab omni errore purum (can.6), ut nihil in eo contineatur, quod non maxime sanctitatem ac pietatem quandam redoleat mentesque offerentium in Deum erigat. Is enim constat cum ex ipsis Domini verbis, tum ex Apostolorum traditionibus ac sanctorum quoque Pontificum piis institutionibus. 1745(942)聖なるもの、特にすべてにまさって聖なるいけにえを敬虔に取扱わなければならない。このいけにえが、ふさわしい方法で尊敬をもってささげられ受取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に聖なる典文を制定した。この典文は、あらゆる誤謬からまぬがれ(第6条)、聖性と信心に反するもの、いけにえをささげる者の心を天主にまで高めないものを含んでいない。典文は主のことば、使徒たちの伝承、聖なる教皇たちの教訓から成立っているからである。
Cap. 5. "De solemnibus Missae sacrificii caeremoniis" 第5章 盛式ミサ聖祭について
1746 Cumque natura hominum ea sit, ut non facile queat sine adminiculis exterioribus ad rerum divinarum mediattionem sustolli, propterea pia mater Ecclesia ritus quosdam, ut scilicet quaedam submissa voce (can. 9), alia vero elatiore in Missa pronuntiarentur, instituit; caeremonias item adhibuit (can. 7), ut mysticas benedictiones, lumina, thymiamata, vestes aliaque id genus multa ex apostolica disciplina et traditione, quo et majestas tanti sacrificii commendaretur, et mentes fidelium per haec visibilia religionis et pietatis signa ad rerum altissimarum, quae in hoc sacrificio latent, contemplationem excitarentur. 1746(943)人間性は外的なことがらの助けなしに、天主について黙想することを困難に感じる。そのため、聖なる教会はミサの儀式の一部を低い声で(第9条)、一部を高い声でとなえるように規定した。さらに教会は種々の儀式に関する規定をもうけた。たとえば、使徒たちの規律および伝承から受継いだ聖なる祝福、ローソク、香、祭服、その他のものを利用してきた。これらのものはすべて、いけにえの偉大さを示し、宗教と信心の目に見える物を通じて、このいけにえに隠れて内在することがらの観想に信者の心を向けるためである。
Cap. 6. De Missa, in qua solus sacerdos communicat 第6章 司祭だけが聖体拝領するミサについて
1747 944 Optaret quidem sacrosancta Synodus, ut in singulis Missis fideles adstantes non solum spirituali affectu, sed sacramentali etiam Eucharistiae perceptione communicarent, quo ad eos sanctissimi huius sacrificii fructus uberior proveniret; nec tamen, si id non semper fiat, propterea Missas illas, in quibus solus sacerdos sacramentaliter communicat, ut privatas et illicitas damnat (can. 8), sed probat atque commendat, si quidem illae quoque Missae vere communes censeri debent, partim quod in eis populus spiritualiter communicet, partim vero, quod a publico Ecclesiae ministro non pro se tantum, sed pro omnibus fidelibus qui ad Corpus Christi pertinent, celebrentur. 1747(944)個々のミサ聖祭において、そこに出席している信徒がただ精神的に聖体を拝領するだけでなく、実際にも拝領して、聖なるいけにえの成果を豊かに受けることを教会会議は望むが、司祭だけが実際に聖体拝領をするミサ聖祭を不法であるというのではない(第8条)。むしろこれに同意を与え、さらにこれを勧めるものである。このようなミサ聖祭の場合も私誦ミサではなく、真に教会の祭儀である。信徒たちは精神的に聖体を拝領し、司祭はまた自分一人のためだけでなく、キリストの神秘体に属するすべての信徒のためにそのミサを奉献するからである。
Cap. 7. De aqua in calice offerendo vino miscenda 第7章 カリスの奉献の時にブドー酒に水を混ぜること
1748 945 Monet deinde sancta Synodus, praeceptum esse ab Ecclesia sacerdotibus, ut aquam vino in calice offerendo miscerent (can. 9), tum quod Christum Dominum ita fecisse credatur, tum etiam quia e latere eius aqua simul cum sanguine exierit (Jo 19, 34), quod sacramentum hac mixtione recolitur. Et cum 'aquae' in Apocalypsi beati Joannis populi dicantur (Apc 17, 1 15), ipsius populi fidelis cum capite Christo unio repraesentatur. 1748(945)次に、聖なる公会議は、司祭がカリスを奉献する時にプドー酒に水を混ぜることは教会の掟であると勧告する(第9条)。これはキリストが行ったと信じられているし、またキリストの脇腹から血と水とが流れ出た(ヨハネ19・34)からであり、この混合によって、聖なる秘義が思い起されるからである。また、聖ヨハネの黙示録によれば「水」は「人々」であり(黙示録17・1、5)、信ずる民とかしらであるキリストとの一致の象徴である。
Cap 8. De Missa vulgari lingua passim non celebranda, et mysteriis eius populo explicandis 第8章 到る所で自国語のミサを挙行しないこと、またミサの秘義を信者に説明すること
1749 946 Etsi Missa magnam contineat populi fidelis eruditionem, non tamen expedire visum est Patribus, ut vulgari passim lingua celebraretur (can. 9). Quamobrem, retento ubique cuiusque ecclesiae antiquo et a sancta Romana Ecclesia, omnium ecclesiarum matre et magistra, probato ritu, ne oves Christi esuriant, neve 'parvuli panem petant et non sit, qui frangat eis' (cf. Thr 4, 4): mandat sancta Synodus pastoribus et singulis curam animarum gerentibus, ut frequenter inter Missarum celebrationem vel per se vel per alios, ex his, quae in Missa leguntur exponant atque inter cetera sanctissimi huius sacrificii mysterium aliquod declarent, diebus praesertim Dominicis et festis. 1749(946)ミサは信者にとって大きな教育的価値を含んでいるが、到る所で自国語のミサを挙行することは教父たちの望むことではない(第9条)。そのため、すべての教会の母であり教師である聖なるローマ教会が昔から認めている儀式を全地方の教会で守らなければならない。そしてキリストの羊たちの喉が渇かないように、「子供たちがパンを求めても、それをさいてやる者がない」(エレミヤ哀歌4・4参照)ということがないように、この聖なる公会議は、すべての霊魂の司牧者に次のことを命令する。ミサ聖祭中に自分自身で、または他の人によって、ミサ中に朗読したことについて説明し、特にこの聖なるいけにえの秘義について説明すること。特に主日と守るべき祝日においてそうしなければならない。
1750 947 Quia vero adversus veterem hanc in sacrosancto Evangelio, Apostolorum traditionibus sanctorumque Patrum doctrina fundatam fidem hoc tempore multi disseminati sunt errores, multaque a multis docentur et disputantur: sacrosancta Synodus, post multos gravesque his de rebus mature habitos tractatus, unanimi patrum omnium consensu, quae huic purissimae fidei sacraeque doctrinae adversantur, damnare et a sancta Ecclesia eliminare per subjectos hos canones constituit. 1750(947)最近、多くの者が、聖なる福音書、使徒たちの伝承、聖なる教父たちの教説に基づいた古くからの信仰に反対する誤謬を流布し、多くのことが多くの者によって教えられ、論争されている。聖なる公会議は、これらの問題について慎重に検討した結果、全教父の賛同を得て、純粋な信仰と聖なる教義に反することがらを排斥し、聖なる教会から排除するため、次の諸規定をもうけた。
Canones de ss. Missae sacrificio ミサ聖祭についての規定
1751 948 Can. 1. Si quis dixerit, in Missa non offerri Deo verum et proprium sacrificium, aut quod offerri non sit aliud quam nobis Christum ad manducandum dari: an. s. 1751(948)1条。ミサにおいて真実の供え物が天主にささげられないとか、これをささげるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される。
1752 949 Can. 2. Si quis dixerit, illis verbis: 'Hoc facite in meam commemorationem' (Jo 22, 19; 1 Cor 11, 24), Christum non instituisse Apostolos sacerdotes, aut non ordinasse, ut ipsi aliique sacerdotes offerrent corpus et sanguinem suum: an. s. (cf. DS 1740). 1752(949)2条。「私の記念として、これを行え」(ルカ22・19;1コリント11・24)という言葉によって、キリストは使徒たちを司祭としたのではなかったとか、使徒たちと他の司祭たちが、自分の体と血をささげるように定めたのでもないと言う者は排斥される(DzS1740参照)。
1753 950 Can. 3. Si quis dixerit, Missae sacrificium tantum esse laudis et gratiarum actionis, aut nudam commemorationem sacrificii in cruce peracti, non autem propitiatorium; vel soli prodesse sumenti; neque pro vivii et defunctis, pro peccatis, poenis, satisfactionibus et aliis necessitatibus offerri debere: an. s. (cf. DS 1743). 1753(950)3条。ミサのいけにえはただ賛美と感謝のためであるとか、あるいは十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのためでないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の他の必要のためにささげられるべきでないと言う者は排斥される(DzS1743参照)。
1754 951 Can. 4. Si quis dixerit, blasphemiam irrogari sanctissimo Christi sacrificio in cruce peracto per Missae sacrificium, aut illi per hoc derogari: an. s. (cf. DS 1743). 1754(951)4条。ミサ聖祭は、キリストが十字架上でささげた聖なるいけにえに対して冒涜を加えるものであるとか、十字架のいけにえはミサのいけにえによって廃止されると言う者注は排斥される(DzS1744参照)。
1755 952 Can. 5. Si quis dixerit, imposturam esse, Missas celebrari in honorem Sanctorum et pro illorum intercessione apud Deum obtinenda, sicut Ecclesia intendit: an. s. (cf. DS 1744). 1755(952)5条。聖人の崇敬のためと天主に彼らの取次ぎを願うためにミサをささげることを教会は望んでいるが、これは詐欺であると言う者は排斥される(DzS1744参照)。
1756 953 Can. 6. Si quis dixerit, canonem Missae errores continere ideoque abrogandum esse: an. s. (cf. DS 1745). 1756(953)6条。ミサの典文は誤りを含んでいるので、廃止すべきであると言う者は排斥される(DzS1745参照)。
1757 954 Can. 7. Si quis dixerit, caeremonias, vestes et externa signa, quibus in Missarum celebratione Ecclesia catholica utitur, irritabula impietatis esse magis quam officia pietatis: an. s. (cf. DS 1746). 1757(954)7条。カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を超させるものである、と言う者は排斥される(DzS1746参照)。
1758 955 Can. 8. Si quis dixerit, Missas, in quibus solus sacerdos sacramentaliter communicat, illicitas esse ideoque abrogandas: an. s. (cf. DS 1747). 1758(955)8条。司祭だけが聖体の秘跡を拝領するミサは不法であるから廃止すべきである、と言う者は排斥される(DzS1747参照)。
1759 956 Can. 9. Si quis dixerit, Ecclesiae Romanae ritum, quo submissa voce pars canonis et verba consecrationis proferuntur, damnandum esse; aut lingua tantum vulgari Missam celebrari debere; aut aquam non miscendam esse vino in calice offerendo, eo quod sit contra Christi institutionem: an. s. (cf. DS 1746 1748 s). 1759(956)9条。低い声で(ミサの)典文と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は排斥すべきであるとか、自国語だけでミサをささげるべきであるとか、奉献の時にカリスのブドー酒に水を混ぜることはキリストの制定に反することであるからそうすべきでない、と言う者は排斥される(DzS1746、1748~1749参照)。
1760 Insuper cum eadem sacrosancta Synodus superiori sessione duos articulos alias propositos et tum nondum discussos, videlicet: - An rationes, quibus sancta catholica Ecclesia adducta fuit, ut communicaret laicos atque etiam non celebrantes sacerdotes sub una panis specie, ita sint retinendae, ut nulla ratione calicis usus cuiquam sit permittendus, - et: An, si honestis et christianae caritati consentaneis rationibus concedendus alicui vel nationi vel regno calicis usus videatur, sub aliquibus condicionibus concedendus sit, et quaenam illae sint, in aliud tempus, oblata sibi occasione, examinandos atque diffiniendos reservaverit: nunc eorum, pro quibus petitur, saluti optimum consultum volens, decrevit, integrum negotium ad Sanctissimum Dominum esse referendum prout praesenti decreto refert; qui pro sua singulari prudentia id efficiat, quod utile rei publicae christianae et salutare petentibus usum calicis fore iudicaverit. 1760さらに、聖なる教会会議は、第21総会に提出されたが、まだ討論されなかった次の2条項を、他の適当な機会に討議し、決定すべきものとして保留した。a)信徒およびミサを挙行していない司祭は、パンの形色だけによって聖体拝領するという聖なるカトリック教会に導入された習慣を保存し、カリスから血の拝領を絶対に許してはならないか。b)特定の民族あるいは領地に、キリスト教的愛に合致する理由から特定の条件のもとに血の拝領を許すがこの条件は何であるか。この申請に最善の解決を与えるため、公会議は、この問題の最終的解決を教皇にゆだねることを決定した。教皇は、キリスト教社会のためと、血の拝領を申請する者のためを考慮した上で判断をくだすであろう。
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内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月19日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)


(F)内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。

 「およそ、天主が一つの事業を、ことごとくご自分のものにしようとおぼし召しされるとき、天主はまず、すべてを無為無能に、すべてを壊滅に帰せしめる。それがすんでからはじめて、ご自身イニシャチブをとって、お働きになるのである」 
Lorsque Dieu veut qu'une oeuvre soit toute de sa main, il réduit tout à l'impuissance et au néant, puis il agit.

 これは、ボスエ司教の有名な言葉だが、この文句は、使徒職の魂がなんであるかをさとっていない使徒にとっては、全く不可解である。

 傲慢にもまして、天主の尊厳を傷つけるものはない。ところで、われわれは、事業に成功しようとあせるのあまり、そのために純潔な意向を欠いで、われわれ自身を、事業の原因であり、同時に終局であるべき天主の玉座まで、高く祭り上げることがある。これは、あきらかに、一種の偶像崇拝であって、天主のお怒りにふれること、はなはだしい。
Bien ne blesse Dieu comme l’orgueil. Or, dans la recherche du succès, nous pouvons, faute de pureté d’intention, en arriver à nous ériger en une sorte de divinité, principe et fin de nos oeuvres. Dieu a en horreur cette idolâtrie. Aussi lorsqu’il voit l’activité de l’apôtre manquer de cette impersonnalité que sa gloire exige de la créature, il laisse parfois le champ libre aux causes secondes, et l’édifice ne tarde pas à s’écrouler.

 天主は被造物から、光栄を要求する権利がある。事業の遂行におけるこの光栄とは、使徒が、“おのれ”を、おのれの光栄を、無に帰して、ひたすら天主の光栄のみを、追及することである。もし使徒が、没我の精神を欠いだために、この光栄をご自分に帰しないのをごらんになるとき、天主はしばしばその事業を見放して、ただそれに従事する人の自力のみに一任されることがある。そうなると、事業はながくたたないで、しぜんに消滅する。
 福音の働き手が、ここにある。
 活動家である。頭もいい。熱心でもある。
 生来の熱烈な気性を、いかんなく発揮して、いさましく事業に着手する。
 そして、かがやかしい成功を収めたとしよう。
 かれはスッカリ成功の美酒に酔いしれて、有頂天になる。ウヌぼれる。
 うまくやったものだ! これこそは、わたし自身の事業だ、わたし自身の! Veni, Vidi, Vici ! わたしは来た、見た、勝った!
 シーザーの有名なこの言葉を、おのれに当てはめて、かれは得意になっている。
 だが、威張るのは、ちょっと待った。
 天主のお許しで、これこれの事件が、かれのうえに起こった。悪魔が、または世間が、直接間接、これこれのいたずらを、かれの事業に、かれの身に、しかけてきた。
 さあ、たいへん! 事業は壊滅だ。
 だが、いっそう残念なのは、かれの内心にひきおこされた荒廃だ。
 きのうの勇士の面影はどこへやら、かれはスッカリ意気消沈、落胆しきっている。
 成功の喜びが大きかっただけに、失望もまた、いっそう深刻なのである。
 地上に残骸をよこたえたかれの事業、敗残者のかれ自身――これを助け起こしうる者は、いったいだれなのか。
 ただイエズス・キリストだけである。
 聖主は、人生の惨敗者なるかれにむかって、こう仰せられる。
 「勇気をふるいおこして、立ち上がれ。一人でやるから、失敗するのだ。こんど、仕事をするときは、わたしとともに、わたしによって、わたしにおいて、するがよい!」

 力づよくも、心やさしい、主のみ声よ!
 だが、不幸なかれには、このみ声がききとれない。
 霊魂はひどく、軽率になっている。
 主のみ声がききとれるためには、恩寵の奇跡が必要なのだ。
 だが、恩寵の奇跡も、天主にしばしば不忠実を重ねてきたかれに、どうしてそれを乞い求める権利があるだろうか。
 天主は全能である、その摂理も全能である、とは心で信じている。
 だが、その信念は、あまりにもろい。
 この敗残の使徒は、あたかも溺れかかった人が、一本のわらくずにしがみつくように、このもろい、そこはかとなき信念に、最後の逃れ場をもとめるけれども、それがなんになろう。ひっきりなしに襲いかかる悲しみの津波を、防ぎ止めてはくれないのだ!
 ほんとうの使徒の姿は、これとは全然ちがう。
 かれの理想は、天主の人イエズス・キリストを、おのれのうちに再現することにある。
 かれにとって、祈りときよらかな生活は、天主のみ心にたいして、人びとの心にたいして、働きかけることのできる二大手段なのである。
 むろん、かれは、いかなるぎせいも惜しまない大きな心をもって、仕事に身をゆだねはするだろう。
 だが、成功の幻影を、追おうとはしない。
 それは、まことの使徒にとって、ふさわしくないことだ、と信じているからである。
 試練のあらしがやってきても、平気だ。
 かれは、それを生みだした第二次原因にかんしては、全然無関心である。
 うず高く積みかさねられた事業の残骸のさなかにあって、かれはイエズス・キリストをただ一人、おのが友として、再建に着手するのだ。そして、心の中では、かのゲネザレトの湖上、恐怖にうちふるえている弟子たちに、「おそれるな、わたしだ!」と仰せられて、かれらに平和と安心をお返しくださった聖主の、そのおなじみ声をきくのである。
 試練のあらしが過ぎ去ると、みごとな成果が現われる。
 聖体にたいするかれの信心には、新しい飛躍が見られる。
 聖母の七つの悲しみにたいする信心も、あらたな熱をおびる。
 かれの霊魂は、事業の不成功にうちひしがれる代わりに、かえって若返って、試練のルツボから出てくる。
 霊魂は、「ワシのように若返って、あらたになる」(詩篇102・5)
 失敗を喫しながら、かえって、勝利者の気持ちである。
 しかも、謙遜の態度を失わない。
 これは、いったい、どこからくるのだろうか。
 イエズスとの一致の生活から、くるのである。
 イエズスの全能にたいする、ゆるぎない信頼心からくるのである。
 これ以外の処に、その秘訣をさがしてはならぬ。
 これが、聖イグナチオをして、次のようにいわせたゆえんでもある。
 「もし、わたしの過失でなしに、イエズス会が、解散させられるようなことでもありましたら、天主様とおはなしするために、十五分間もございましたら、わたしはりっぱに、心の平静と深い平和をとりもどせましょう……」

 さらに、アルスの聖司祭も、これと同じようなことをいっている。
 「内的な人は、屈辱と苦悩のさなかにありましても、あたかも海底に沈んでいる厳石のように、心はすこしも動揺しません。」

 実際の話、使徒はさんざん苦労する。せっかくの努力も水泡に帰し、せっかくの事業も壊滅にひんするときがある。あげくの果ては、自分の司牧する信者の中から、教えを離れる者が続出する。これは真の使徒にとって、実に、はらわたを断つ悲しみだが、しかしかれは、いつまでも泣いてはいない。すぐに心をとりなおし、熱心をふるいおこして、また初めからやりなおすのである。
 かれは知っている――キリストがもたらされた人類救済の事業は、それが個々の霊魂に適用されて効果を生じるためには、どうしても、とりわけ苦しみによって行われねばならぬ大事業であることを。で、かれはけっして、くよくよしない。むしろ、よろこんで耐え忍んだ試練こそは、自分を善徳に進歩させてくれるのだ、また、天主にいっそう大きな光栄を帰せるのだ、との確信を、心にもっているのである。
 そして、この強い確信こそが、試練の日に、かれの有力な支柱となるのである。
 かれはまた知っている――自分はただ、それより成功をかりとるタネをまくだけでよい、これ以外には、なにも天主から要求されていないのだ、ということを。ほかの人たちがあとからきて、ゆたかな収穫をあげるだろう。そして、この人たちは、その収穫を、実は自分らのまかなったところからえたのにかかわらず、不当にもこれを、自分らの手柄に帰するでもあろう。
 しかし、「かくれたことを見ておられる天の御父」(マテオ6・4)は、ちゃんとコトの真相を知っておいでになる。ゆたかな収穫は、実は前任者のくるしい労作の成果だったのだ。どんなに働いても、いっこうに収穫のあがらない、ただ苦労だけして死んでいった前任者の、血と汗と涙のおかげだったのだ。涙のうちにタネをまいた者は、自分の事業が失敗だったと思ったろうが、それはただ表面の失敗にすぎなかったのである。
 「そこで、“ひとりがまき、ひとりが刈る“ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために、労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人びとが労苦し、あなたがたは、かれらの労苦の実にあずかっているのである」(ヨハネ4・37~38)

 聖霊降臨後、使徒たちに成功をかちえさせた者は、イエズス・キリストだった。
 このイエズスは、公生活ちゅう、なにをなされたろうか。
 ただ、タネをまくこと、ただ教訓と模範のタネをまくことだけだった。
 これ以外に、なにもお望みにならなかった。
 ご昇天後、使徒たちは、キリストのそれより、はるかに大きな事業をするだろう。
イエズスは、かれらにそういっておかれた。
 「よくよくあなたがたにいっておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが、御父のみもとに行くからである」(ヨハネ14・12)
 まことの使徒は、失敗しても、けっして落胆などしない。口先ばかりで、臆病者の使徒だったら、失敗すると、いろいろ愚痴をこぼす。まことの使徒は、そんな無駄話には、耳もかさない。かれの内的生活とイエズスへの信仰が、かれをしてそうさせるのだ。
 かれは、ちょうど、疲れを知らない蜜蜂のように、つれないあらしにさんざん痛めつけられた蜜箱を、元どおり建てなおすのである。
 よろこび、勇んで!

  (第三部 終了)
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