Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2017年 3月の聖伝のミサの予定

【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


2月の意向:意向:日本のため、日本におけるカトリック教会のため
実践すべき徳:天国を得たいという燃えるような望みと希望
守護の聖人:ルルドの聖母

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2017年 3月の予定

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    3月3日(初金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    3月4日(初土) 四旬節の平日(3級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    3月12日(主) 四旬節第2主日(1級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    3月13日(月) 四旬節の平日(3級)紫 
            午前6時半 ミサ聖祭

    3月17日(金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    3月18日(土) 四旬節の平日(3級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    3月31日(金) 四旬節の平日(3級)紫
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

     【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

    3月5日(主) 四旬節第1主日(1級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    3月6日(月) 四旬節の平日(3級)紫
            午前7時 ミサ聖祭

    3月19日(主) 四旬節第3主日(1級)紫
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

     3月20日(月) 童貞聖マリアの浄配証聖者聖ヨゼフ(1級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭

    
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。
【聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍】
2016年8月15日~2017年8月22日
聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍についてのお招き ←こちらをクリックしてください

 
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映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった”真実” (その4)

2017年02月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実"
映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実"のその2
映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実"のその3につづいて、

その4をご紹介いたします


天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

(続き)

フェレイラが背教から立ち戻るために、彼にコンタクトを取って説得しようとする試みが少なくとも3回ありました。

今回は、第3弾のその1を紹介します。


第三の試み:
最後の試みはアントニオ・ルビノ神父によってなされました。長年インドでのミッションで働いた後、1638年、ルビノは志願してマカオに送られました。1639年10月に視察師に任命されます。ルビノ神父の日本行きの強い望みは、自分の友人であったジョヴァンニ・バッティスタ・ポロ神父が捕らえられ転んだという噂を聞きさらに強まるばかりでした。

1640年11月、ルビノはフランシスコ・マルケスと日本に行こうとしましたが、嵐によってたどり着くことが出来ずコチンシナの海岸に漂着し、マカオに戻ります。多くのイエズス会士たちの反対があったにもかかわらず、断固として日本行きのために1642年にマニラに出港します。マニラから、司祭9名、修道士1名、カテキスタ数名という大きなグループで日本に行くつもりでした。しかしあまりに大きく目立ってしまう危険があるので、ルビノは二つのグループに分けます。ルビノ自身は1642年7月5日に4名の司祭たちと日本に向けて発ちます。第2のグループはペドロ・マルケスの指導の下に1643年に出航することになっていました。

ルビノはラテン語でフェレイラへの手紙を書き、それを日本に上陸するや彼に送るつもりでした。この手紙は Tu ille Christofihorus で始まり、つぎのような内容です。

【引用開始】
「おまえは、1596年にキリストの誕生という聖なる日に、16歳の時、天主とイエズス会のために生まれ、おまえの名前をこの会に与えた、あのクリストフォロなのか?
おまえは、両親と親類と友人たちを忘れ、この世のことを軽蔑し、1598年の殉教者聖ステファノの祝日にコインブラのコレジオで管区長クリストヴァン・ゴウヴェア神父の前で清貧と貞潔と従順の誓願を立てた、あのクリストフォロなのか?おまえは、キリストのために石殺しにされたかの偉大な殉教者の足跡を、ただ単にキリストを否むために従ったのか?

おまえは、1600年4月4日にポルトガルの祖国とその土地を離れ、東インドに福音の光をもたらすためにその地域へと航海したあのクリストフォロなのか?おまえは、かの光をそこにただ真の天主を否むためにもたらしたのか? おまえは、聖霊の息吹によって、1601年5月1日にゴアから日本への宣教へと旅を始めたあのクリストフォロなのか? おまえは、1608年、私たちの救い主イエズスがお生まれになったその同じ朝の夜明けに初ミサの聖なるいけにえを捧げたあのクリストフォロなのか?おまえは、サタンに捧げられるためにこれらの叙階の秘蹟を乱用したのか?おまえは、日本人の霊魂たちの救いに飢え乾き、1609年5月16日に乗船して日本に出港したあのクリストフォロなのか?おまえは本当に彼らに救いをもたらしたのか、それともおまえの悪しき模範により多くを真の道から迷わしてしまったのか?

おまえは、長崎で1617年10月1日に管区長マテウス・デ・コウロス神父の前で喜んで四つの誓願を立てたあのクリストフォロなのか?それほど多くの証人たちの前で、天主とイエズス会に誓ったこの忠誠をおまえは守らなければならなかったのではないか? 私たちが何を、またどなたにそれほど荘厳に約束したのかを、おまえは覚えていなければならなかったのではないか?

おまえは、1632年12月23日に私たちのイエズス会が、全日本の地区の指導と司教の義務とを大きな信頼をこめて委ねたあのクリストフォロなのか?おまえは、キリストと彼の会とに背を向けることができるようにのみ、それを管理したのか?なんという恐るべき代わりようだろうか!なんとおまえは身を落としてしまったことか!このことを思うと私は涙と嘆息で死んでしまいそうだ!」
【引用終わり】

1642年8月11日、ルビノとその一行の船は日本に到着し、直ぐさま逮捕されて長崎に連れられます。8月22日にそこで厳しく尋問を受け、大村の牢に投獄されます。1643年3月16日に穴吊しの刑を受けて、フェレイラの罪の償いとして殉教します。最後の3名は9日の穴吊しの後でもまだ生き延びていたので、穴から出されて首を切られて殺されます。


(続く)

【参考資料】
過去の記事をご紹介いたします。

「苦しみ」というものが何の為にあるか、それに価値があるものとなる為にはどうすれば良いのか。

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 2016年2月7日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。天主様の祝福が豊かに......


「人よ、汝は塵であり、塵に戻る事を覚えよ」

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 2月10日、灰の水曜日に大阪で行った聖伝のミサでのお説教をご紹介いたします。 天主様の祝福が豊かにありますよ......


愛を込めた祈りと、犠牲について。ー「百夫長」の信仰に倣うにはー
アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、 2月11日、灰の水曜日後の木曜日に大阪で行った聖伝のミサでのお説教をご紹介いたします。 天主様の祝福が豊かに......




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2017年2月17-20日の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2017年02月22日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今回は、新しいミサの典礼では無くなってしまっている「七旬節」「六旬節」のミサを大阪と東京で捧げることが出来ました。

大阪では2月12日(主日)にレネー神父様が七旬節の主日のミサを捧げて下さり、17日(金)に愛する兄弟姉妹の皆様のしもべが平日のミサを、18日には土曜日の聖母のミサを捧げました。

東京では、19日(主日)に、六旬節の主日のミサを捧げました。御聖体拝領唱は、ミサに与った私たちの霊魂に起きていることを歌うクライマックスの聖歌で、メロディーも簡単なものが多いのですが、聖パウロが自分の苦しみや多くの困難を誇ることを黙想した後に、さあ私たちも四旬節に向けて聖パウロに倣おう、私も自分をいけにえに捧げよう、主と共に自分の十字架のいけにえを捧げよう、と思って十字架の成果・果実である御聖体を拝領したその時、聞こえてくるこの聖歌は、私たちの霊魂にビンビンと響いてくる感じがしました。Introibo ad alatare Dei, ad Deum qui laetificate juventutem meam! 私は天主の祭壇へと入って行こう!私の若さを喜ばせてくれる天主へ!

ミサに参加する或る方と「沈黙」についておしゃべりする機会がありました。彼は私に感想をこう言ってくれました。
「隣人の苦しみを無くすために、自分の信仰を捨てる、あたかもこれが素晴らしいことであると「沈黙」では描かれている。これと同じことが今目のあたりで繰り広げられている。何故なら、離婚が出来なくて苦しんでいる人がいる、同性愛者が夫婦として認められなくて苦しんでいる人がいる、安楽死が出来なくて苦しんでいる人がいる、自分のやりたいことが出来なくて苦しんでいる、彼らを助けるために「信仰」を捨てるが良い、「キリスト教倫理、道徳、天主の十戒」を捨てるが良い、と主張する人々がいるから。」

このことをずばり見抜いた彼の鋭さに私はうなりました。

例えば「アモーリス・レティチア」を巡って、枢機卿が枢機卿と対立し、司教と司教とが対立しているのを見ると、その戦いの中核にあるのは、まさに「沈黙」のテーマです。

小説「沈黙」のキリストは「踏め」と言ったとしても、歴史上の本当のキリストは「ころべ」とは言いませんでした。キリストは「償いをせよ」と聖フランシスコ・ザベリオを通して、マルチェロ・マストリッリ神父を送りました。

キリスト者は罪なくして虐待されて来ましたが、これらの不当な虐げでカトリック信徒の方々を傷つけてきた残虐な行為について謝罪を要求することには、カトリック教会には全く関心がありませんでした。そうではなく、「彼らの罪を償い、天主を慰める、彼らに代わって罪の償いをする」、これをキリストがお望みになっていました。

「祈り、償い」これが、2000年のカトリック教会の関心事です。

ファチマの天使はこう言います。
「あなたがたができるすべてのことを犠牲とし、それを天主に背く罪の償いの行いとして、また罪人の回心を嘆願して天主に捧げなさい。あなたがたはこのようにして自分たちの国に平和をもたらすでしょう。特に主があなたがたにお与えになる苦しみを従順に受け入れ、忍びなさい。」

「恩知らずの人々によって恐ろしく冒涜されたイエズス・キリストの御身体と御血を受け、飲みなさい。彼らの罪を償い、あなたたちの天主を慰めなさい。」

ファチマの聖母はこう言います。

「あなたたちは、天主に背く罪の償いと罪人たちの回心への嘆願の行いとして、喜んであなた自身を天主に捧げ、天主があなたにお与えになるすべての苦しみを耐えますか?」

「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさんこう言いなさい。特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”、と。」

殉教者たちは、自分の力だけで殉教したのではありません。天主の聖寵の助けを得て、天主と協力して、天主と共に殉教を果たしたのでした。殉教は、天主の聖寵の傑作であり、弱い私たちを助けて下さった天主様の憐れみの御業です。

罪の償いも、自分の力だけではできません。天主の聖寵の助けを得て、天主と協力して、天主と共に初めて出来ます。償いの業も、弱い私たちを助けて下さる天主様の憐れみの御業です。


3月1日は灰の水曜日です。四旬節がもうすぐ始まります!
私たちは天主の祭壇へと入って行きましょう!私たちの若さを喜ばせてくれる天主へ!

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました。
御ミサの報告をお送りいたします。

2月17日 金曜日 七旬節の平日のミサには11名が、
2月18日 土曜日 聖母の土曜日のミサには10名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

17日のお説教によると、七旬節のミサの書簡で聖パウロはコリント人への手紙の中で、私たちの人生の目的は、一体なんなのか?を問い、その答えを栄冠、つまり天国での永遠の永福を受けることであると教えています。競技場で走る人が賞を取るために走り、その前には節制 するのであるから、私たちは天の永福を受けるためにこの世で準備をする必要があること、この世でどんな栄誉、富を得ても永遠の命を失ってしまったら何の意味もないことをはっきりと書いています。

また、聖福音は、ブドウ園の主人が働く人を雇って賃金を支払うたとえでした。このブドウ園のブドウは私たちの霊魂の事をあらわしていて、そこで働くという事は霊魂の世話をするつまり、救霊のために働くという意味がある。私たちはきちんと霊魂の世話をしているだろうか?との問いかけには自身の生活を振り返って、反省する事がたくさんありました。七旬節に入り、四旬節をよく過ごすための準備のため、永遠のメダルを獲得するためにも、罪びとのより所、天国への道であるマリア様の汚れな き御心へもっと深く入ってファチマの精神で毎日を過ごそうと思います。

18日のお説教では私達がマリア様の望まれる四旬節を過ごせるようにどうすればよいかを黙想しました。
日々の十字架や苦しみは、マリア様が考えられるようにその意味を考えれば苦しみももはや忌み嫌うもの、逃げ出すべきものではないことがはっきりわかります。
世界中の多くの人はこの世の小さな儚い喜びや栄誉のために苦痛や練習や試練を耐え忍ぶことを知っています。それは目的達成のための手段であり、そのあとに自分のうけるべき幸福のため、目的達成のためであります。

永遠の幸福のために天主様が私に一番良い十字架を送って下さっていることを思い、罪の償いのために喜んでお捧するのは当然の事だといえます。そしてそれこそが、マリア様の苦しみに対する考え方であり、マリア様の御生涯でありました。

ファチマの聖母ご出現の100周年である今年、マリア様が呼びかけられるように、その汚れなき御心と一致して、自分だけでなく、多くの罪びとの救霊のために苦しみを雄々しく耐え忍ぶ覚悟と勇気をマリア様の汚れなきみこころを通して御聖体にましますイエズス様にこいねがいました。

土曜日の公教要理は、
1633年の西坂でのクリストヴァン・フェレイラの背教にたいする「フェレイラ償い作戦2」として大変興味深いお話を伺いました。

天主様が罪に対して、償いの機会をお与え下さっているという歴史的事実には感動してしまいます。
1517年のルターの宗教改革にたいしては、プロテスタントを食い止めるために聖イグナチオ率いるイエズス会が間もなく発足。
1830年のパリ・コミューンに対しては、同年、同じくパリで聖母がカタリナ・ラブレに不思議のメダイをお与えになる。
1917年のロシア革命にたいしては、同年ファチマで聖母かご出現になり、また、聖コルベの聖母の騎士が発足。
1633年のフェレイラの背教に対しては、同じ年にフェレイラの回心の為に日本に渡り、殉教するマストリッリ神父の奇跡的治癒があった。

フェレイラ神父の背教の連絡を受けたイエズス会の同志たちはその回心のために、また償いの為に迫害下の日本へ来ることを志願されました。
最初の4名は全員殉教し、後に来た4人には大きな試練がありました。
小説では描かれていませんでしたが、フェレイラはこれらの償い作戦によって天主から回心の恵みを頂き、信仰を宣言したため最後は殉教します。

その史実と、小説「沈黙」とを比べてみると、大きな違いが見つかりました。

殉教者たちが求めたものは「永遠の命」⇔ 小説では、「この世の建設」
          「超自然の恩寵」⇔      「沈黙」
       「祈りと苦しみの価値」⇔      「苦しみはあってはいけない」
           「十字架の木」⇔      「キリストはすでに贖いをしたのだから、人間は何をしても、もう救われている。」
                         「罪も罰もない。天主は憐れみだ。」 

よく見てみると「史実」と「小説」の決定的な違いは「聖伝」と、「第二バチカン公会議の精神」の違いだとわかります。
フェレイラ神父の回心を描かなかった小説の意図は伺いしれませんが、映画「沈黙」が聖伝を拒否し、第二バチカン公会議の精神を反映するのにひとやく買ってしまったといえると思いました。

償い作戦で、フェレイラ神父の回心の恵みを勝ち取られたように、私たちも、ファチマのマリア様の「償い作戦」に心から賛同して参加しなければいけないと思いました。



【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

金曜日・土曜日と大阪で御ミサを捧げてくださり、終課と公教要理もして下さりありがとうございました!!(*^▽^*)フィリピンでお風邪を召した直後にこの寒い日本に来られて、早速天主様は小野田神父様に七旬節の犠牲をお望みになっているのだなあと思いました…(ToT)

体調が悪い中、私たちの為にまた日本に帰って来て下さり本当にありがとうございます!

教会は母の心を以て、私たちが四旬節の準備が良くできるように、少しずつ七旬節・六旬節・五旬節とウォーミングアップするように呼びかけて下さっているのに、新しいミサではこの七旬節・六旬節・五旬節が全て無くなってしまっているなんて(;_;)

聖霊の愛の導きをそのまま守り伝えて下さっている、この聖ピオ十世会の聖伝のカトリック信仰に、より多くの方が導かれ、マリア様の汚れなき御心を愛し、お慰めする事ができますように!

そしてマリア様の汚れなき御心にお祈りして、良い四旬節を過ごすための良い準備ができますように、これから六旬節の中に深く入ることができますように!

デオ・グラチアス!



【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 13人(内、子供1人)
女: 25人(内、子供3人)
計: 38人(内、子供4人)
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映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった”真実” (その3)

2017年02月21日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実" と 映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実"のその2 につづいて、その3をご紹介いたします

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

(続き)

フェレイラが背教から立ち戻るために、彼にコンタクトを取って説得しようとする試みが少なくとも3回ありました。

今回は、第2弾を紹介します。

第二の試み:
その次は、日本人イエズス会司祭であった福者ペトロ岐部がします。ペトロ岐部は江戸で彼と会い、痛悔するように雄弁に勧告したという記録が残っています。
福者ペトロ岐部は、長崎のセミナリオで勉強していましたがキリシタン国外追放でマカオに渡り、司祭になるために他の2名の神学生(マンショ小西とミゲル・ミノエス)とマカオからローマまで巡礼に行きます。マカオからインドのゴアまでは船で行きましたが、ゴアからローマまではペトロ岐部だけは(おそらく船に乗る資金が無く)歩いて行きます。ペトロ岐部はイスラエルに行った最初の日本人となります。ローマではコレジオ・ロマーノで同級生の聖ヨハネ・ベルクマンスが帰天し(1621年8月13日)、同じ聖アンドレア修道院にいた聖ロベルト・ベラルミーノ枢機卿も帰天(1621年9月17日)しています。1622年3月12日、福者ペトロ岐部は、ローマで聖イグナチオと聖フランシスコ・ザベリオとの列聖式に日本人として参列しています。
福者ペトロ岐部は、祖国愛に燃え、同胞の永遠の救いと幸福とのために全てを捧げ、殉教を覚悟でどうしても日本に戻ろうとしました。
長上の許可を得て、福者ペトロ岐部は日本に戻って宣教するために、1623年3月25日リスボンを出航します。日本に到着したときは既に43歳。最初は長崎で、次に京都、東北に入り、イエズス会の式見神父やポロ神父と協力して仙台領で司牧していました。

1639年には、一緒に働いていたイエズス会司祭3名とフランシスコ会士2名は捉えられ江戸に送られます。取り調べを受けることになったのですが、取り調べ人の一人がフェレイラでした。岐部はフェレイラに信仰に立ち戻るように頼むと、フェレイラは部屋から出て行き再び姿を見せることはありませんでした。
福者ペトロ岐部は、評定所に引き出され、老中と奉行と大目付の前で、将軍徳川家光の前で、キリストを証し、そのために命を捧げます。
二人のフランシスコ会士らは品川で火やぶりにされました。三人のイエズス会士らは穴吊りの責めにかけられます。

ポロ神父と式見神父は転びました。しかし岐部は転びませんでした。
ペトロ岐部について、奉行所の公式記録に井上筑後守がこう書いています。
「キベ ヘイトロは転び申さず候。吊るし殺され候。」
福者ペトロは、転ばないどころか、一緒に拷問を受けていた二人の同宿を励まし続けてさえいました。340年後、井上筑後守の言葉はペトロ岐部を褒め称える歌劇の題とさえなりました。

(続く)
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日本26聖人殉教者

2017年02月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年2月5日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年2月5日(主日) 日本26聖人殉教者のミサ
小野田神父説教

聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年2月5日、この巡回教会の守護の聖人である日本26聖殉教者の一級祝日として祝っています。典礼法規によると、教会の守護の聖人は一級で祝わなければならないという事ですので、それに従って今日は守護の聖人のミサをしております。

ミサが終わりましたら、いつもの通りに感謝のお祈りをしますが、今年はファチマ100周年ですので、その時に天使の祈りを付け加えてする事に致しましょう。

8月15日までロザリオの十字軍がなされております。どうぞ、皆さんの多くのロザリオと犠牲のご報告もお待ちしております。

今日は公教要理の時間の時には、明後日の火曜日に大阪城ホールで列福式が行われるユスト高山右近について、その生涯について皆さんにお話をしたいと思っています。どうぞ時間がある方はいらして下さい。



“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur. ”
「私の友であるあなたたちに言う、迫害する者を恐れるな。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は日本26聖人の殉教の日であります。そこでその26聖人の殉教に、一体何で殉教する事になったのか、一体何が起ったのか、

ではその殉教の様子はどうだったのか、その殉教した人々の面子は誰だったのかという事を少し見て、

最後に私たちは、何をどんな事を遷善の決心と取らなければならないのか、この黙想からの実りを、どのような実りを取るべきかを黙想しましょう。この26聖人の御取り次ぎによって私たちも、彼らに倣った生活をする事ができる遷善の決心を取る事に致しましょう。

では第1の点は、一体何が起こったのか、という事です。このバックグランドを話させて下さい。

1534年8月15日の聖母被昇天には、聖イグナチオ・ロヨラとその同志たちは、その中に聖フランシスコ・ザヴェリオもいたのですけれども、パリのモンマルトルの大聖堂で集まって、そして誓願を立てました。これが将来教皇様によって認可されるイエズス会の始まりです。

それからたったの15年の後に、そのイエズス会の最初の創立の同志であった一人である聖フランシスコ・ザヴェリオは、何と日本にやって来ます。同じく8月15日、マリア様が聖フランシスコ・ザヴェリオをここに、日本の地に送って下さったとしか考えられません。

そのやはり8月15日に日本に到着した、という事を聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に強く感動して、是非マリア様に、特に被昇天のマリア様に特別の信心を持っていました。そして「ぜひ京都に、被昇天のマリア様の、都にそのマリア様の教会を建てたい。そしてぜひ天皇陛下にも会って、都で布教をしたい。」

天皇陛下の所に京都に行くのですけれども、その時には応仁の乱で、京都は荒れ果てて、天皇陛下もタケノコ暮らしのように、何か持ち物を売っては食べ物を得ていたという程に、非常に権力の力の無い状態でした。聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に清貧な姿で行ったのですけれども、「そのような姿では天皇と会う事ができない」と言われて、そして「何とかそれでは、平戸に残してきた贈り物とか全てを取り寄せるから、どうしても会わせてほしい」と言ったのですけれども、それも聞き入れてもらえずに、京の都を去らねばなりませんでした。

もしもその時に聖フランシスコ・ザヴェリオが天皇陛下と会っていたら、日本の歴史は、或いはカトリックの歴史は、全く違ったものとなっていたかもしれません。しかし天主様の御摂理は、違う方にそれをお許しになりました。

その時に将軍は足利義輝で、彼はやはり近江に逃げていましたが、この将軍が京都での宣教布教を許可し、居住も許可をしたので、これが1560年、聖フランシスコ・ザヴェリオが到着してから約10年の後には、公式に将軍によって日本からの宣教の許可が得られて、そしてキリシタンたちはパードレたちはキリストの教えを広めていました。

パードレの事は当て字で、伴侶の「伴」に、「天」に「連」れて行くと書いて、それを当て字をやっていました。そこでパードレの当て字が後に、パードレたちを司祭たちを呼ぶ呼び方として、伴天連(バテレン)という風に呼ばれるようになりました。まさに一緒に天国に連れて行くパードレたちには、素晴らしい当て字でありました。

多くの日本人たちが回心して、その中には大名や有名な武将や、織田信長の直々の親族、或いはこの度列福される高山右近、或いは毛利、或いは黒田、有馬など、有名な大名たちが続々キリシタンになりました。

そして1586年には、大阪にいた秀吉の元に、イエズス会の面々としたパードレたち、或いはキリシタン大名たちの勇士たちが、立派な貴族たちをキリシタンの貴族たちを連れて会見しています。約30名が連なって、秀吉は非常に喜んで、武器も持たずに侍者に持たせたまま、普通大名と話す時には何も話さず、無口で睨みつけているこの秀吉が、パードレたちのすぐ近くに寄って来て、にこにこ笑いながら話して、「この土地をあげよう。ああしよう」などと歓談していたのを見ると、「将来日本には、日本のキリスト教会はこれでバラ色の花のようだ」と一見すると思われるようでした。

しかし多くのキリシタン大名や、仏のお坊さんや、或いは神社の主や、或いは山伏などがキリスト教に続々回心していくのを見て、そしてお寺がそのような人たちが回心するのでそのまま管理されなくなるのを見て、一部の身分の高いお坊さんたちが恐れます。

特に豊臣秀吉は病がちであり、それに「加持祈祷を行なって、魔術をお祈りをしてその病を治す」と言っていた施薬院徳運というお坊さんは、このキリシタンの発展を非常に苦々しく思っていました。

そこで秀吉を説き伏かせて、「キリシタンを迫害するように。キリシタンをパードレたちを国外に追放するように。ただし貿易だけはやって、お金儲けはすれば良い。キリスト教はいらないけれども、お金儲けはしなさい」という禁令を出します。それが、秀吉とパードレたちがキリシタンたちが、キリシタン武士たちが会見したその1年の後でした。

あっという間の突然の変化に人々は、「これからどうなるだろうか」と心配しました。しかし秀吉は、ただお坊さんにそそのかされてこの禁令を出しただけで、それを実践するそれを実行するという訳ではありませんでした。パードレたちが宣教していても別にそのそれはそのままであったし、まぁ自分に加持祈祷をしてくれるお坊さんの気に入るように御触れは出したけれども、別にそれを守りたいという思いはないように思いました。

そうこうするうちに、その禁令の9年後、マニラからメキシコに向けていつもの定期船が、サン・フェリペ号が出る事になりました。そのサン・フェリペ号には莫大な富、生地、絹、或いは生きた猿、或いは香辛料、或いは金銭にしたらとても数え切れないほどの物凄い富が積まれて、そしてメキシコに行く途中でした。ところが残念ながら台風にもまれて、それが土佐の浦戸の港に座礁してしまうのです。

ちょうどその1ヶ月前、この座礁したのは10月19日の事でしたが、その8月30日と9月4日には京都で大きな地震があって、秀吉のお城も壊れていたし、お寺も壊れたり仏像も倒れたりなど被害が多かったのです。キリシタンたちはこの被害者の為に救援に行っていましたけれども、しかし心ない人たちは、特にキリスト教を思わないようなお坊さんたちは、「これはキリシタンのせいで起こった地震だ。だからキリシタンがこの償いに看護して救援するのは当り前だ。俺たちは何もしない、俺たちのせいではない」と言っていました。

四国の浦戸に座礁した、莫大な富を持ったそのサン・フェリペ号を見て、欲にくらんだその四国の城主が秀吉に提案します、「これを没収するがよい。」

その当時の日本の法律によれば、或いはそのような難船の荷を没収するのは全く違法でした。本来なら彼らを助けて、また逃がしてやらなければなりません。しかしこの財宝に目がくらんだ秀吉は、何とかして没収する手段を探しました。そこで思いついたのが、この10年前の、唯一の合法化する「キリシタン禁令」でした。「キリシタン禁令を使って、これを没収しよう。」

そこで京都の奉行の石田三成に言い渡して、「キリシタンたちを全て逮捕しろ。」

石田三成は非常にキリシタンに好意を持っていたので、何とかそれをやめさせようとしたのですけれども、それができなかったので、被害を最小限に留めようとしました、「何とかしてイエズス会の司祭たちはしないように、或いは何とかして、」しかしどうしても、名簿を作って24名が逮捕されました。その禁令を決行させる、絶対に行う、としたのが1596年12月8日の事でした。


第2のポイントは、ではこの逮捕連行から殉教まで、どのような事が起ったのか、です。

大阪で17名、京都ではフランシスコ会の天使の聖母(教会)に居た人たちが7名逮捕されて、全て京都にやられて、合計24名が捕まりました。フランシスコ会の神父様と修道士6名、フランシスコ会の教会によく通っていた信徒が14名、イエズス会の関係の方が3名でした。

当時、その24名の中で一番のリーダー格であった指導者であったのは、ペトロ・バプティスタ神父様でした。フランシスコ会の司祭で、フィリピンと日本の友好関係の為にフィリピンから特使として送られて来た方でした。1593年からずっと日本に来て、そして特に京都で貧しい人の為、病気の人の為、特に癩病の人の為、孤児の為に病院を作ったり、世話をして献身的に働いた、福祉と善の為に働いてきた方でした。一体何の悪事を働いたという事でしょうか。

しかしペトロ・バプティスタ神父様は、イエズス様の為にこうやって罪なく悪人とされて、逮捕されて、これで死を受けるという事を非常に喜び、栄光と考えました。唯一心残りだったのは、京都に残していかなければならない癩病の、病院に居る130人の患者さんたち、また別の病院に居た貧しい50人の病人たち、「一体、彼らの事はどのように面倒見るだろうか。彼らの為にはお米の蓄えがない。どうやって食べていけるだろうか。」それだけが心残りでした。しかし全て天主様の御摂理と御憐れみに委ねて、彼らに祝福を与えて、自分は殉教の道を進む事にしました。

こうして24人は、京都の一条戻橋で翌年1597年1月3日に連行されて、耳を1つ削がれます。ちょうどその時奉行の秘書だったのがキリシタンで、その耳を殉教者の耳を取って、そしてイエズス会の神父様に渡すと、「あぁ、何と美しい殉教の初穂であろうか」と、その彼らの勇敢さを讃えた、と伝えられています。

本来ならば秀吉は、「鼻も削げ、耳も両耳も削げ」と言われたのですけれども、しかし奉行は自分の情状酌量で、耳だけにしたとの事です。

そして辱しめと見せしめの為に、京のあらゆる大通りを馬の荷車に乗せて、そしてうねり歩かせました。京都だけではなく大阪にも行きました、堺にも連れて行きました。そして皆が見せしめで「どうだ!」とされました。その中には、12歳のルドヴィコ、或いは13歳のアントニオ、或いは14歳のトマスなどもいました。

しかし彼らは悲しいような様子を見せる事なく、ウキウキと快活に、微笑みを絶やさずに、その「これから殉教する」という事を待ち臨んでいるかのように思いました。

1月10日にはその見せしめが大阪で終わり、1月10日に大阪を長崎まで出発します。秀吉は「長崎にやって十字架に付けよ」と命令したからです。1ヶ月の徒歩の旅でした。800キロを雪の中、寒い冬、凍えながら、着の身着のまま歩かなければなりませんでした。なぜ歩いたかというと、やはりこれも見せしめの為です。

ところで備前では、護送の役人ではキリシタン武士が、明石掃部というキリシタン武士が護送の長に立っていたので、このキリシタンたち24人を助ける事ができました。

京都に居たオルガンティノ神父様はイエズス会の神父様ですけれども、何とかこの連れて行かされる24人を助けようと、ペトロという信者を送ります。フランシスコ会の神父様も、大工のフランシスコを送ります。そしてこの2人は24人の世話をして、道々800キロを歩くのですけれども、遂には自分たちも一緒に殉教の名誉を受ける事になります。名簿には載っていなかったのですけれども、この2人も付け加えられます。

800キロを1ヶ月間歩き通して、ただ長崎の湾に行く時の間だけ、ほんの少しだけ船に乗らなければなりませんでした。その船に乗って時津の湾に着いた時には、2月5日の事でした。その夜、寒い朝を船の中で凍えながら上陸するのを待たされました。

彼等はただ思っていたのは、「イエズス様の為に命を捧げて、天国に行きたい」という事だけでした。「ではここで。天国で会いましょう」と挨拶し合っていたとの事です。

上陸した後に、西坂の丘まで歩かされました。1ヶ月の間、着の身着のまま歩いていたので、もう足が痛くて歩けなかった年寄りの方もいたのですけれども、しかし西坂の丘に行く時は、今までの苦しみが何もなかったかのようにスタスタと歩いて行った、との事です。

特にルドヴィコは、子供のルドヴィコは「私の十字架はどこ!?」と言って、十字架にかかり、「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」と叫びながら、或いは「パライソ!」「パライソ!」或いは、テ・デウムと感謝の祈りを皆で歌いながら、十字架に付けられました。

そして十字架に付けられた後に、一人一人の26の十字架の1つ1つに、2人の兵士が役人が立って、槍でバッテン状にクロス状に胸を突き刺して、そして殺していったのでした。

外出禁令が出ていたにもかかわらず、4000名がこの殉教を見る為に出て来ました。パードレたちもやって来ました。その日本の最初の信仰の証しを捧げた後に、その勲しは世界中に広まり、1862年6月8日にはピオ9世が、福者ピオ9世がこの26聖人を列聖しています。

どんな面影があったかというと、色んな業種の人、色んな立場の人、子供から老人まで色々ありました。国籍も色々でした。

例えば、いつも説教をして病院で働いていたパウロ鈴木。彼は49歳でした。

或いは、17歳で洗礼を受けて、公教要理をよく学び、カテキスタとして働いていたガブリエル、聖ガブリエル。受洗してたった2年で殉教しています。

少しちょっと前に信者となったばかりの、絹を売っていたヨハネ絹屋。28歳で殉教しています。

或いは、薬屋で賄を立てていて、フランシスコ会の天使の聖母の修道院のすぐ隣で薬屋をやっていたのですけれども、フランシスコ会の神父様の影響を受けて洗礼を受けて、薬を入れながら天国への道も教えていた、というトマス談義。彼はその洗礼を受けるまで非常に短気で怒りっぽくて、いつもカッカしていたのですけれども、洗礼を受けてからは非常に温厚になって、36歳で殉教します。

或いは、やはり医者であった48歳の聖フランシスコ。

或いは、元々武士だったのですけれども病気になって、その病気になった時に神父様から洗礼を受けて、洗礼を受けると病気が治り、それから次にはフランシスコ会の修道院で手伝いをして、料理を特にやっていたヨアキム榊原。40歳で殉教しています。

或いは、14歳の子供トマス小崎。これはお父さんでミゲル小崎のその子供で、一緒に殉教しています。お父さんのお手伝をして大工の手伝いをしていました。フランシスコ会の修道院を造る為に一生懸命働いていて、そして全てイエズス様の奉仕の為に捧げていた子供でした。

中には、幼児洗礼を受けたまま、お母さんと一緒に幼児洗礼を受けたままお母さんが亡くなってしまったので孤児になって、そして寺に預けられて、寺に預けられたままお坊さんになって、20年暮らしたのですけれども、「キリシタンが居る」という事を聞いて、実は自分もキリシタンだったという事を知っていて、それでキリシタンの教えをまた聞いて改宗したボナベントゥラ。

或いは、癩病の人の為に一生懸命働いていたレオ烏丸。この殉教者の中で指導的な、平信徒の中では非常に指導的な立場でした。

本当はフランシスコ会の中で料理をやっていた「マチアス」という男を探していたのですけれども、役人が「マチアスはいるか!?料理人のマチアスはいるか!?」と、誰もいないのです。するとこの26聖人の1人のマチアスは、「私がマチアスだ!料理人のマチアスだ!」「違う。」「しかし、でも私が行く!」「あぁそうか、よし。」と役人に受け入れられた、そして殉教したマチアスもいます。天主様もこの殉教を受け入れました。

スペインから来たフランシスコ・デ・サン・ミゲル。53歳。

スペインから来たフランシスコ・ブランコ。30歳。彼は日本語が非常に上手でした。

ポルトガル人のお父さんを持ってインド人のお母さんを持っていた、インドから来たゴンサロ・ガルシア。16歳の時に日本にやって来て、日本語とポルトガルをペラペラ話していたのです。でも、どもりで聞く人は少し大変だったようです。しかしイエズス様の話しをする時には、或いは宗論をする時には、日本語を非常にはっきり話した、と記録が残っています。

或いは、メキシコの裕福な家で生まれた、フィリッポ・デ・ヘスス。彼はフィリピンでフランシスコ会に入り、それからメキシコのお父さんとお母さんの元に行って、そして司祭に叙階になる予定でした。ところが難船で日本に来て、司祭になる代わりに聖人になりました。

スペイン人のマルチノ・デ・ラ・アセンシオン。30歳で、日本語が非常に上手でした。祈りの人でした。いつも夜、お祈りとお祈りとお祈りと苦行をしていました。スペインの貴族の生まれの人です。

ペトロ・バプティスタ。これもスペインの方で、日比友好特使として日本に来た指導者でした。特に貧しい人や、病気の人に特別の愛情を以て捧げた人でした。48歳。

アントニオ君は13歳ですけれども、中国人のお父さんと日本人のお母さんを持っていました。殉教の時に、お母さんがその十字架、自分の十字架のそばで涙を流して、もう嗚咽で言葉が出なかったのを見たのが唯一心残りだった、といいます。聖アントニオはマニフィカトを歌いながら、マリア様を歌いながら殉教していきました。

12歳のルドヴィコ茨木は明るい子で、1年前に洗礼を受けたばかりでした。十字架に付ける前に「自分の十字架はどこですか!?早く付けられたい!」と言って、朗らかに殉教していきました。

19歳のヨハネ草庵。

或いは、元武士であった54歳のパウロ茨木。子供も、ルドヴィコ茨木と共に殉教しています。

イエズス会の33歳のパウロ三木。安土で造られたセミナリオの第1回生でした。高山右近をよく知っていました。

64歳で最年長のディエゴ喜斎。

或いは、弓を打っていて、心が天主様に向かう弓のようだったミカエル小崎。46歳。このミカエル小崎は、自分の宝を全て天主様に捧げました。子供トマス小崎も捧げました。もうこれ以上捧げるものはありませんでした。

ペトロ助四郎は、オルガンティノ神父様から殉教者を助ける為に送られた30歳の男でした。

伝道師のコスメ竹屋。38歳。

そして9ヶ月前に洗礼を受けたばかりで、大工をやっていた、そしてフランシスコ会の神父様によってこの殉教者を助けるように、24人を助けるように送られた、フランシスコ吉。彼も受洗後9ヶ月にして、殉教の冠を得る事になりました。

そのような色々な人々がいますけれども、私たちは今日どのような決心を取らなければならないでしょうか。

まず私の提案するのは、このような殉教者は実は、殉教を避けようと思えば逃げたり避けたりする事は実はできたのです。しかし進んで、「私こそ殉教者だ、私がマチアスだ、私が行く」と。或いは24人に一緒に行ったが為に、逃げようと思えば逃げられたのにもかかわらず、一緒に殉教する事になった2人などいます。

それに比べて私たちは、この世の辛い事、悲しい事、十字架を、或いは誘惑を、どれほど簡単にギブアップしてしまう事でしょうか。少し電話の「新しい電話を買おうと何とかショップに行くと何時間も待たされて、店員の態度は悪い。不親切だ。説明もない」などと少しの事で怒ったり、或いは「自分がお金がないと言ったら店員の顔が変わった。馬鹿にしているのではないか。何か金持ちにはへらへらするくせに、貧しい人にはこんなに冷たい態度を取るのか」、或いは「電車が遅れた」、或いは「飛行機の連結ができなかった」、或いは「乗り遅れた」、或いは「友達から何か嫌な事を言われた」、或いは「意地悪をされた」、或いは「病気になった」、或いは「テレビをこれを見たい、本当はこれを見ちゃいけないのだけれども」、或いは何か友達から「一緒に悪い事をしよう」、「この今の流行はこうだ」、「今はこれをしなければ遅れちゃうよ」などと言うと、私たちは簡単な事で、「あぁ、」イエズス様の十字架、イエズス様の苦しみ、或いはイエズス様の教えをコロッと忘れてしまって、本来なら担うべき十字架を、本来なら天主様から送られた十字架を、あっというまに捨て去ってしまっているのではないのでしょうか。

私たちの日常の生活は殉教の生活というよりは、「殉教からどうして逃げようか、十字架からどうして逃げようか、何とか面白楽しく過ごす事はないだろうか」と探しているのではないでしょうか。

26聖人は、祈って、祈って、そして「全て天国の為にこの短い命を捧げたい」と思いました。

子供に役人が聞くのです、役人がパウロ三木の友達であった役人は、この幼い子供が十字架に付けられるのを見てあまりにも不憫でならず、「お前、許してあげるからこの口先だけでも、『キリシタンを捨てる』と言えばいいから、そしたら助けてあげる。」するとこの子供は、「この儚い短い命と、永遠の命をどうして換える事ができるでしょうか。嫌です!」と答えたのです。

それに引き換え私たちは、永遠の命との引き換えに大罪を犯してしまったり、この罪を犯してしまったり、イエズス様の教えを否んでしまったり、この恥ずかしがったり、何と卑怯な事をしてきてイエズス様の心を悲しませてきた事でしょうか。

第2のポイントは、殉教者たちはいつも、永遠の命や、パライソや、イエズス様、マリア様の事を考えていました。ですから最後の最後まで「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」とか「パライソ!」「パライソ!」と「天国!」「天国!」と言ってきました。

まさにカトリックの教えというのは、私たちの来世の永遠の命の為にあるものです。そして私たちが永遠の命を受ける為にこそ、この世を清く正しく誠実に生きなければなりません。この世が目的ではなくて、来世が目的であるが為に、手段であるこの世が良くなければなりません。

ところが私たちは、その「永遠の命」という事をコロリと忘れてしまって、この地上の事だけに、この地上の事だけを考えて、その利益だけを求めてきたのではないでしょうか。

愛する兄弟の皆さん、では今日この26聖人の祝日に、私たちも是非その精神を、罪を忌み憎み、そして罪を犯すようであれば、「イエズス様を、罪を犯して悲しませてしまう事であれば、むしろ命を失った方がマシだ!」という決心が立てる事ができますように。殉教者のこの勲しに倣う事ができますように。私たちはそれから遠いものですけれども、26聖人の、また日本の全てのいと尊い殉教者の御勲しとその取り次ぎによって、私たちにその精神が与えられますように。信仰の、堅固な信仰が与えられますように。そしてイエズス様から、「あぁ、友よ」と言われるその日まで、それを守る事ができますように。

“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
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映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった”真実” (その2)

2017年02月16日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

映画「サイレンス--沈黙--」に描かれなかった "真実" のその2をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

(続き)

1633年10月18日、36年前に二十六聖人が殉教した同じ長崎の西坂の丘で8人は穴吊しの拷問を受けます。しかし、5時間の逆さの穴吊りの拷問を受け、イエズス会の管区長であったクリストヴァン・フェレイラ(Christovão Ferreira)は、棄教の合図を出しました。

拷問を与えてフェレイラを背教させたのは、幕府の反キリスト教政策の最大の成果でした。転んだバテレン、すなわち背教司祭は、カトリックの「悪」を証明する生ける証拠として、プロパガンダのために最大限に活用されました。幕府はこの絶好の機会を利用したことは多くの記録から伺うことが出来ます。

フェレイラが転ぶとすぐに江戸に呼び出されしばらくの滞在の後に長崎に戻され、生涯長崎で生活することになります。

幕府はフェレイラに結婚を命じます。彼がそれに応じないのを見ると身の回りの世話をする女中として女性と同居することを命じました。フェレイラが転んだ後に苦しむ心理的な意気消沈を利用し、また女性との結婚を通してフェレイラの人格や自尊心を傷つけ、再起不能にさせようと試みたのです。司祭を結婚させることによって、反対の宣伝に役立ちます。これと同じような作戦が後に、ヨゼフ・キアラとその伴侶たちに対してもなされました。フェレイラにあてがわれた女性も、中国人商人との日本人寡婦で、最初は同居に反対しました。しかし1635年にフェレイラを訪問したポルトガル人商人によると、彼の家に女性がいたのを見ています。

マカオでイエズス会の視察師であったパルメイロに代わって視察師となっているマヌエル・ディエスが、日本に行く船の船長や、日本にいた信頼のおけるポルトガル人たちからの証言を元にローマに報告書を書いています。

ディエス神父は、同時に1635年6月22日付けでフェレイラ宛てに優しい長い手紙を書き、マカオのニュース、パルメイロ神父の死、自分が視察師と任命されたことを述べた後に、フェレイラについての不幸な便りを聞いたがそれについての正確な情報を求め、彼の長上としてまた古くからの友人として(ディエス神父はフェレイラがマカオの神学校で勉強していたとき教授でした)、信仰に立ち戻るように、背教の罪を殉教で償うように訴えます。

この手紙は日本行きの船の大船長(capitão mor)ドン・ゴンサロ・ダ・シルヴェイラに委託されます。ダ・シルヴェイラ船長には、この件についての信頼の置ける正確な情報を得ること、出来ることならフェレイラ自身と話しをすること、が求められ、6月25日にマカオを出て8月9日に長崎に到着します。ポルトガル人は船が停泊している2ヶ月の間フェレイラとコンタクトを取ろうとします。船長ダ・シルヴェイラはあまりにも目立ってしまうので不可能でした。そこで部下にディエス神父の手紙を届けさせ、信頼のおける情報を得よう努めました。10月末に長崎を出港する前に、フェレイラに会うことに成功したポルトガル人たちがおり、そのうちの一人は数回面会しています。当時病気で苦しんでいた視察師ディエス神父は彼らが11月12日にマカオに到着するとすぐに日本からの最新ニュースを聞こうとします。確かにフェレイラは背教したことが確認され、ディエスは内容が真実であることを誓いを立てて証言を書いて提出することを求めました。1636年1月26日のローマへの報告書には、その情報を書き写して報告しています。

ローマに報告されたそれらの信頼性のある証言によると、次のことが分かります。ダ・シルヴェイラからのメッセージを受けたフェレイラは、船長が住む住居のところまで夜、人目を忍んで二回やって来たこと、しかし、船長には背を向けて何も話そうとしなかったこと、フェレイラは船長のところに敢えて来なかったことを或る友に理由を説明して、自分が背教してしまったこと、極めて貧しいので物乞いをしないため、と書いたこと、通訳として働いていること、キリスト教信者たちについて密告しなかったこと、司祭たちを裏切らないこと、です。

ディエスは、別のポルトガル人の証言も引用します。マヌエル・メンデス・デ・モウラで、ポルトガルで結婚した男で義理の兄弟にエチオピアのアフォンソ・メンデス総大司教がいるポルトガル人です。デ・モウラはフェレイラと会うと、フェレイラからアンドレ・パルメイロ神父について尋ねられ、パルメイロ神父は死んだこと、医者と皆の信じることにはフェレイラ神父のニュースを知って後に行った多くの断食と苦行の結果であること、マヌエル・ディエス神父がその後を継いだが、高齢で日本に来られないこと、しかしマカオの多くのイエズス会司祭たちは、日本に来て、フェレイラが殉教の高みまで到達することが出来るためにフェレイラのために命を捨てる覚悟があること、などを告げます。フェレイラは何も答えずに涙を流すばかりでした。デ・モウラも共に涙します。

フェレイラはデ・モウラにこう言います。「天主から離れているなら、その男に一体どんな善が出来ようか?(=自分は背教したので何をしても天主から嘉されない。もうダメだ。)」そして40時間の聖体礼拝の信心はまだマカオの神学校で行っているかと尋ねます。デ・モウラはより熱心にやっていること、教会はもっときれいに飾られていること、殉教者の記念にマカオの住民は教会に木を植えていること、最後に植えられたのはセバスティアン・ヴィエイラ神父の殉教の記念でその隣には別の殉教者のために場所が取ってあること、皆はそこにフェレイラ神父の殉教記念の木を植えることを期待していること、を言います。ここでもフェレイラは答えず更に多くの涙を流します。

デ・モウラがフェレイラに面会するとフェレイラは雄弁に天主について語り、背教者であるとは信じられないほどで、極めて驚きます。フェレイラは良心の呵責を大きく受け、恥ずかしさでいっぱいでした。フェレイラは天主に祈りを捧げているし、女性とも罪を犯していないことを証言しています。フェレイラが仏教に与したこともないことをもデ・モウラは誓って証言します。

ディエスは同じローマへの報告書で、フェレイラの家で彼に4回面会したペドロ・コルデイロの証言も記録しています。それによると、クリストヴァン・フェレイラ神父はコルデイロといつも静かに話し、過去の拷問の恐れからこのような状態になってしまったことを多くの涙を持って辛く思っていること、神父が立ち戻って過去の行為を償うだろうという希望の印を見せたこと、コルデイロが最後の別れを告げると、涙ながらに「あなたが来年戻ってくるなら、そうなることだろう」と言って、涙を流して、自分の状況が良くなったことを示さずには帰ろうとしなかったことが報告されました。

1636年にマカオからもう一度日本行きの船が出航したとき、ディエスはフェレイラに最後の訴えをし、痛悔し償いをするようにもう一度勧告する手紙を書きます。船長はやはり同じドン・ゴンサロ・ダ・シルヴェイラでした。しかし彼らが8月8日に長崎に到着したとき、人工的に作られた出島に停泊するように命じられます。船長は江戸に出向いて報告するように、また、翌年のポルトガル船が来るまで長崎に人質として残るように命じられます。ポルトガル船は10月中旬に、日本を追放されたポルトガル人証人とその家族や使用人たち287名を乗せて長崎を出ます。シルヴェイラは日本に人質として残ったので、ディエスはフェレイラについて別の信頼のおける証人たちから情報を得ます。

それらの信頼のおける証言によると、フェレイラは「結婚」したこの女性をは如何なる関係も持たなかったこと、フェレイラは食事のためだけに彼女と一緒にいること、また、彼は(少なくとも最初の内は)、如何なる方法でもキリスト者を迫害したこともなく、他の宗教に与したこともないこと、拷問による傷から回復するために奉行は彼に貧しい小屋を与えたこと、フェレイラが奉行に食べ物を要求したとき、次の答えが返ってきたこと「奉行はおまえに何もやらぬ。おまえは単に弱さの故に転んだだけだからだ。おまえは何の奉仕もしていない。おまえはバテレンもキリシタンも裏切っていないからだ。」などが分かっています。

フェレイラは、沢野忠庵という日本名を与えられ、日本人の着物を着て、その他の日本人のように生活し、翻訳などの仕事の報酬としてわずかな生活費を奉行から受けていました。寺請制度により、住民はどこかの仏寺の檀徒にならなければならず、それが毎年調べられ、宗門改帳とか、宗旨人別帳とか言われるものに記載されるようになりました。旅行するときの往来手形にも仏寺の檀徒であることを証明せねばなりませんでした。フェレイラも仏寺に属することが強制されました。初期は転びキリシタンだけに義務づけられたものでしたが、1660年代以降すべての人びとが檀那寺に所属するようになります。

1636年11月1日、マカオのイエズス会の会員たちは集まり、つまずきと悪い噂を避けるためにフェレイラの退会を決議します。

11月2日にフェレイラ退会の書類が作られ、そこにいた全てのイエズス会司祭たちによって署名されました。京都においてフェレイラの元長上だったモレホン老神父は、震える手で最後に署名しています。

参考までに、フェレイラが「絵踏み」を考え出したと時々言わますが、既に彼の転びの前に存在していました。「絵踏」とは、キリストやマリアの像を踏ませて、キリシタンで無いことを証明させることですが、最初は転びキリシタンに転びの証明として、または転ばせるために行われました。


フェレイラの改心のために

フェレイラが背教から立ち戻るために、彼にコンタクトを取って説得しようとする試みが少なくとも3回ありました。


最初の試み:
イタリア人のイエズス会司祭であったマルチェロ・マストリッリ(1603-1637)が最初に接触を試みます。マストリッリは日本に向かって出航し、上陸するやいなや逮捕され、長崎で穴吊りの拷問を受けます。1637年10月17日、三日間の拷問の苦しみの後に穴から出されて首を切られました。

マルチェロ・フランチスコ・マストリッリ神父(Marcello Francisco MASTRILLI)はイタリア生まれ、ナポリのマストリッリ侯爵の子供で、イタリアで最も位の高いカラッチョロ家の貴族の母親を持ち、1618年に15才でイエズス会に入会しています。

1633年10月18日、日本の長崎の西坂で、ジュリアン中浦、アントニオ・デ・ソウサ、日本人修道士のペドロとマテオ、ドミニコ会員のルカス・アロソノ神父、フランシスコ会日本人イルマン・マテオらが穴吊りの拷問を受け、クリストヴァン・フェレイラが背教しますが、その同じ年、1633年12月8日、日本から遠く離れたイタリアのナポリではブラカッチョ枢機卿は聖母の無原罪の御孕りの大祝日を盛大に祝っていました。

ロウソクの光をともすためのシャンデリアや燭台、豪華なカーテンなどの飾り付けがなされていました。それらの装飾を取り外す際に、重い梁が天上から私たちのイエズス会司祭マストリッリ神父の頭をめがけて落ちてきました。

両親は子供たちのために聖母の取り次ぎを祈ってきました。マルチェロが生まれたときも、すぐに洗礼を授け、天主に捧げ、イエズス会へと約束していました。聖フランシスコ・ザベリオは、頻繁にマルチェロに現れ、ある日彼に巡礼の道具と光の灯ったロウソクを与え、どちらかを選べと言いました。巡礼の道具はインドを、ロウソクは病による死を意味していました。彼は「私は天主様がお望みのものを選びます」と答えます。マルチェロが頭に致命傷を受けたとき、彼は30歳、イエズス会入会後15年のことでした。マストリッリはすぐに医師の元に運ばれますが、彼の回復は不可能だと宣言されました。しかし、瀕死のマストリッリ神父は聖フランシスコ・ザベリオが自分に現れたのを見ます。

聖フランシスコ・ザベリオは、白い服を着て深紅の十字架を胸に付けてこう言います。
「おお!マルチェロ、おまえが望むことを私に言いなさい。私は天国で力ないものでは無いということを知りなさい。」
彼はいつものように「私は天主様がお望みのものだけを選びます」と答えます。同時に、聖フランシスコ・ザベリオの周りにいる白い服を着た人々を見て、彼らは日本の殉教者たちですか?聞きます。聖人は次のように答えます。「彼らはおまえの友人たちであり、おまえのために祈っている。」

マストリッリの死は近づき、管区長デ・サングロ神父がマストリッリ神父の元にやって来ます。そこでマストリッリ神父は、管区長にインドのミッションのために身を奉献する誓願を立てる許可を求め、聖フランシスコ・ザベリオの有名な奇跡の聖画を乞い求めました。インド行きの誓願は許され、御影が寝台のもとに運ばれます。終油の秘蹟を受けますが、飲み込むことが出来なくなっていたので、旅路の糧の聖体は与えられませんでした。それを嘆いたマストリッリ神父は聖フランシスコ・ザベリオの聖遺物を喉に当てると、その後、御聖体を飲み込むことが出来るようになりました。その夜、次のような声を聞きます。
「マルチェロ!マルチェロ!」
彼は巡礼者の姿をした光に輝く聖フランシスコ・ザベリオを見ます。聖人はこう言います。
「おまえは癒やされる。感謝として十字架像の傷に接吻をせよ。首に十字架の聖遺物を付けなさい。自分をすべて主に奉献しなさい。主の聖名のために自分の血を最後の一滴まで流す恵みを乞い求めなさい。主に、主のしもべであるインドの使徒フランシスコ・ザベリオでさえも何年もの労働の後で受けることが出来なかったその御恵みを求めなさい。」
聖人は姿を消し、マストリッリ神父はその時、癒やされます。

起き上がって長上に起こったことを全て報告し、翌日、何の痛みも無く感謝のミサを捧げます。フェレイラが背教したという哀しい知らせがヨーロッパに伝わると、多くのイエズス会士たちは総長に懇願して、日本に行って自分たちの兄弟の転びを殉教で償う許可を求めます。マストリッリ神父がそのもっとも熱烈な懇願者でした。総長は「聖フランシスコ・ザベリオ自身があなたにその許可を与えたのですから、私にその許可を求める必要はほとんどありませんよ。」

ナポリを出るときに特に聖フランシスコ・ザベリオの保護に身を委ねて、「フランシスコ」の名前をつけました。

1635年、23名の修道士がリスボンを出港します。その長に選ばれたのがマルチェロ・フランチスコ・マストリッリでした。

リスボンからインドのゴアに渡り、ゴアからマカオへ来ますが、日本とポルトガルとの貿易断絶のために日本に行く船がありませんでした。そこでマカオからマニラに渡ります。マカオはスペインの貿易のセンターでしたが、日本とスペインも貿易を断絶していました。マニラにいたスペイン人たちは、マストリッリ神父が日本に渡航することに猛烈に反対したので、マストリッリ神父以外は全てマカオに戻ります。

マストリッリはマニラにいた日本人たちを指導しながら日本語を学びます。日本渡航の機会を待っていました。日本人キリシタンたちも多くが同行を希望します。マニラ総督セバスチアン・フルタード(Don Sebastian Hurtado)の特別の計らいで、マレー諸島に出没する海賊に対抗するために出航したスペイン船が、日本の近くを通過するとき、小舟で下船することを許され、マストリッリは乗ってきたスペイン船を降りて、小舟で薩摩の海岸に上陸します。時に1637年9月19日のことでした。

さらにマストリッリは、九州東海岸を北上して、日向のある港に日本人一人を連れて上陸し、森に身を隠します。

別の日本人たちは、九州の海岸沿いに移動している間に発見されて捕らえられています。彼らは拷問を受けるとキリスト者だと自白し、実はマストリッリ神父がいることを告げてしまいます。直ちに捜索がなされ、飢えて弱っていたマストリッリ神父が発見されます。発見されたとき「来なさい、私の子供たちよ、私を連れて行きなさい」と言います。神父は200名の護送兵を付けられて長崎に護送されます。長崎までの移動に1ヶ月がかかりました。

彼は役人に言います。
「将軍に申し上げたいことがあって、聖フランシスコ・ザベリオの使節として来ました。」
「聖フランシスコ・ザベリオとは誰か?」
「聖フランシスコ・ザベリオは、初めて日本人にキリストの福音を伝えた方で、1552年中国の上川島で亡くなりました。この聖人の体は死にましたが、霊魂は生きています。その証拠に、私自身がナポリで致命傷を受けたとき、私を生き返らせてくれました。」

奉行らは、マストリッリ神父の態度と言葉に感服しますが、将軍の命令には従わなければならないと言って、二日間、水責めと梯子責めを加えました。
三日目に「おまえはマニラの総督から遣わされて来たのか?」と尋ねられると「総督の命令できたのではありません。将軍をキリシタンとして、できるなら日本人全部をそうしたいと思って参りました」と答えました。

刑場に連れて行かれ、裸にされ、赤く焼けた焼きごてを陰部に押しつけられました。
「私は、我が身の全てを天主様に捧げておりますから、いかなる苦しみをも拒みはいたしませぬ。しかし、私の手足だけでは足りず、人間の羞恥心を傷つけるこの汚らわしい拷問は、如何なる野蛮人もいたしませぬぞ」と神父は言いました。役人はこの拷問を中止します。その代わりに水責めを開始し、息が絶えそうになるまで続けました。

1637年10月14日水曜日午前11時、説教が出来ないように釘を立てた鉄板を口にかまされて縄と鎖で体を固く縛られて、駄馬に載せられて町中を引き回しに去れながら、刑場に連れて行かれました。穴吊りです。口の鉄板は外され、穴の中に逆さにつり下げられ、足首だけを外に出して蓋をされました。マストリッリ神父は、脱魂状態になって四日間、10月17日の午後3時まで吊されたままでした。

翌日、長崎では祭りだったので、早く殺すために神父は穴から引き上げられました。神父はまだ元気で、「何故、引き上げたのですか?」と尋ねるほどでした。役人は「斬首するためだ」と答えます。神父は跪いて聖フランシスコ・ザベリオの保護を祈り求めると、刑吏の刃の第一撃は、かすり傷さえ与えませんでした。第二撃ではかすかなかすり傷がつきます。刑吏は恐れて太刀を捨てます。「つとめを果たしなされ」というマストリッリ神父の励ましで、刑吏は再び太刀を取り、第三撃で神父の首は地に落ちました。その時、天が暗くなり地が揺るぎ、見物人らは恐れおののいたと報告されています。遺体は寸断され、焼かれ、川にまかれました。

マストリッリ神父は、日本の地に自分の血を流すことしか出来ませんでした。フェレイラ神父と会うことも適わず、日本人に洗礼を授けることも出来ず、祈りと犠牲と苦しみだけの日本滞在でした。彼の聖徳の高さ、知識、霊的生活、犠牲心、愛徳、生まれの高貴さなどは、一見して無駄になったかのように見えます。

1637年10月17日の殉教の日から数えて13年後の1650年11月5日に死を迎えるクリストヴァン・フェレイラ神父は、その霊魂に、この殉教から流れ出る恵みを受けることになるでしょう。

マストリッリ神父については、Japanese Sketches をご覧下さい。


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