Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

私は御身を信じ、礼拝し、希望し、御身を愛します!御身を信じぬ人々、希望せず愛さぬ人々のために、赦しを求めます(天使の祈)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
2017年 1月の聖伝のミサの予定

【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】


私たちの主の御降誕を感謝と賛美を以て迎えましょう。
1月の意向:日本中の家庭のため、特に若いカトリックの家庭のため
実践すべき徳:天主の御摂理に対する信仰と信頼
守護の聖人:聖ペトロと聖パウロ

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します

◎2017年 1月の予定

【大阪】聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂(アクセス
EG新御堂4階 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 〒532-0002
(JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分)

    1月6日(初金) 主の御公現(1級祝日)白
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    1月7日(初土) 聖母の土曜日(4級)白
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    1月15日(主) 御公現後の第2主日(2級)緑
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    1月16日(月) 殉教者教皇聖マルチェッロ(3級祝日)赤 
            午前6時半 ミサ聖祭

    1月20日(金) 殉教者教皇聖ファピアノと殉教者聖セバスチアノ(3級祝日)赤
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    1月21日(土) 殉教者童貞聖アグネス(3級祝日)赤
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    1月24日(火) 殉教者司教聖ティモテオ(3級祝日)赤    ←追加されました。
            午後5時半 ロザリオ及び告解
            午後6時 ミサ聖祭

    1月25日(水) 聖パウロの回心(3級祝日)白    ←追加されました。
            午前10時半  ロザリオ及び告解
            午前11時 ミサ聖祭

【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

    1月8日(主) イエズス、マリア、ヨゼフ、聖家族の祝日
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

    1月9日(月) 御公現の平日(4級)白
            午前7時 ミサ聖祭

    1月21日(土) 殉教者童貞聖アグネス(3級祝日)赤    ←追加されました。
            午後5時半 ミサ聖祭

    1月22日(主) 御公現後の第3主日(2級)緑
            午前9時  ミサ聖祭     ←追加されました。
            午前10時  ロザリオ及び告解
            午前10時半 ミサ聖祭

     1月23日(月) 証聖者ペニャフォールの聖ライムンド(3級祝日)白
            午前7時 ミサ聖祭
            午前7時45分 ミサ聖祭 ←追加されました。

    
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。

◎アジア管区では、これからロザリオの時に「主よ、われらに司祭を与え給え 云々」の最後に、次の呼祷を付け加えることになりました。宜しくお願い致します。

「主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え。」
"O Lord, grant us many holy families".

◎多くの祈りと犠牲を聖母の汚れなき御心への信心の実践として捧げて下さい。
【聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍】
2016年8月15日~2017年8月22日
聖ピオ十世会 ロザリオの十字軍についてのお招き ←こちらをクリックしてください

 
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「ご聖体の秘蹟について」 その3)聖体拝領:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年01月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の霊的講話 「ご聖体の秘蹟について:その3)聖体拝領」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月15日 御公現後の第2主日―大阪
「ご聖体の秘蹟について」:その3)聖体拝領


親愛なる兄弟の皆さん、

私たちは前回まで、ご聖体の秘蹟に、私たちの主イエズス・キリストが犠牲のいけにえとして真実かつ実体的に現存なさっており、そのためミサは教会の最も素晴らしい宝であるということを見てきました。でも、まださらに驚くべきことがあります。私たちの主イエズス・キリストは、主の御体と御血に変化させられるご聖体の質料として、パンとぶどう酒を選ばれました。それは、主の犠牲を祭壇上で行い、すべてのミサでそれを御父にお捧げするためだけでなく、さらに私たちが、主の犠牲の最も完全な実である主の御体と御血を本当に食べることができ、それによってここ地上で可能な限り完全に私たちが主との一致に到達できるようにするためでもありました。ですから、聖体拝領は犠牲の実、命の木すなわち十字架の実なのです。聖体拝領は、よく準備されていれば、自分をミサと一致させる最高の方法であるのは疑いありません。

洗礼が霊的な命の始まりの秘蹟、私たちのうちにおけるキリストの命の始まりの秘蹟であり、そのため新たな誕生に例えられるように、ご聖体は、まことの天主にしてまことの人間である私たちの主イエズス・キリストとの完全な一致から成る、霊的な命の目的の秘蹟でありかつ最終的な完成の秘蹟です。これは、ご聖体を受けるために完全である必要があるという意味ではなく、むしろ良き聖体拝領は私たちを完全へと導くという意味です。聖体拝領は、私たちが完全へと進んでいくよう、私たちに与えられた最も優れた手段です。

私たちには完全へと向かう義務があります。実際、私たちの主イエズス・キリストはこう言われました。「あなたたちの天の父が完全であるようにあなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。また聖パウロは私たちにこう勧告します。「それでは兄弟たちよ、喜べ、完全であれ、朗らかであれ、心を一つにせよ、平和に生きよ。そうすれば、愛と平和の天主はあなたたちとともにましますであろう」(コリント後書13章11節)。最も重大な天主の掟である第一戒は実際、完全を命じる掟です。「あなたはすべての心、すべての霊、すべての知恵、すべての力をあげて、主なる天主を愛せよ」(マルコ12章30節)。

さて、その完全な愛は、天主の御心およびご意志との完全な一致から成っています。聖ヨハネはこう言います。「天主は愛である。愛を持つ者は天主にとどまり[宿り]、天主は彼にとどまられる[宿られる]」(ヨハネ第一4章16節)。また、これこそがまさにご聖体の実です。「私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る」(ヨハネ6章56節)。

聖体拝領から十分に利益を得るためには、良き準備が必要です。まず第一の条件が大変重要であり、絶対に必要不可欠です。それは、ご聖体を受けるためには成聖の恩寵の状態でなければならないことです。ご聖体は「(霊的に)生きている人の秘蹟」であり、すなわち成聖の恩寵の状態を要求するのです。成聖の恩寵の状態にないならば、その人には最初の場合は洗礼が必要であり、あるいは洗礼ののち大罪に陥ったのであれば悔悛の秘蹟が必要です。大罪の状態にあればご聖体を受けることが許されていないだけでなく、決して受けてはいけません。受けることは汚聖という重い罪になります。天主からの最も素晴らしい賜物にひどい扱いをするそのような汚聖は、真理に対して、善に対して精神を盲目にし、その結果、霊魂と心を固くさせてしまい、最後には破滅へと至らせるでしょう。その反対に、罪びとが主に対する十分な信仰と敬意を持ち、聖体拝領を控えるならば、その敬意がその人を助けて、まことの痛悔の恩寵を得させ、それによってその人を良き告解へと導き、そののち―そののちに限りますが―実り豊かにご聖体を受けることができるように導くのです。

非常に多くの人々が毎回のミサで聖体拝領に行きながらほとんど告解に行かないという私たちの時代には、まことに恐るべきことである悪しき聖体拝領が増えています。何年も告解に行っていないのに、恐れもなくご聖体に近づく人々がいます。聖パウロは、そのような汚聖の罪の重さについてはっきりと言っています。「主のお体をわきまえずに飲食する者は、自分自身への裁きを飲食することである」(コリント前書11章29節)のであり、その者は「主のお体と御血を犯す」(コリント前書11章27節)のです。この文脈では、「裁き」とは地獄の宣告のことです。聖書のこの節は、新しいミサではもはや読み上げられないことに注意してください。彼らは聖パウロのコリント人への書簡にあるこの最後の三つの節[第27-29節]を削除し、第26節で朗読をやめ、ご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストの真実について最も明確に述べているこの三つの節を省略してしまったのです。

第二の条件は「正しい意向」です。これはただ他のみんなと同じようにするためというのではなく、主にもっと近づくため、霊的な命(生活)においてもっと強くなるため、私たちの主イエズス・キリストともっともっと一致するためです。その意向をはっきりと表明することは有益ですが、必ずしも必要ではありません。「事実上の」意向で事足ります。私がこう言うのは、皆さんがその意向をはっきりと更新しなかった場合にも気をとがめることがないようにするためです。天主をもっともっと愛したいという習慣的な意向があれば十分です。しかし、ときどき混じっていることのある、この世的な動機は避けることが大事です。

必要な第三の条件は、聖体拝領前の断食です。教会の古くからの慣習は、聖体拝領前の真夜中から断食することです。人々が早朝のミサに行くことができないような仕事時間という現代世界の困難を考慮して、教皇ピオ十二世は夕べのミサを許可し、この夕べのミサでの聖体拝領をも促すために「三時間の聖体拝領前の断食」を許可しました。これは固形食物やアルコール飲料は禁じましたが、水以外の液体飲料については一時間の断食としました。水は飲んでも断食に反しません。本物の薬は飲んでも断食に反しません。私は本物の薬と言いましたが、その理由は「ダイエット用のサプリメント」は薬ではなくむしろ食物であり、そのため、それが薬のようにカプセルに入っていたとしても聖体拝領前の断食に反するからです。

頻繁な聖体拝領に関する教令の中で、聖ピオ十世は、上記の三つの条件で十分であるとしています。成聖の恩寵の状態、正しい意向、聖体拝領前の断食です。しかしながら、聖体拝領への準備を良くすればするほど、もっと多くの恩寵を受けること、また、聖体拝領では恩寵の創り主そのものであるお方、私たちの主イエズス・キリストを受けるのですから、その恩寵の量には制限がないということも知っておく必要があります。「恩寵と真理はイエズス・キリストによって来た」(ヨハネ1章17節)のです。ですから、聖体拝領の直前の準備は非常に重要です。ミサの儀式全体が霊魂に対してふさわしい準備をさせます。ですからイエズスへの大きな渇望をもって教会の精神の中に本当に入らなければならず、そうすれば教会の祈りによって支えられて素晴らしい準備へと至るでしょう。

この直前の準備の本質は、信仰と愛徳のわざにあります。すなわちご聖体にまします私たちの主イエズス・キリストを観想することと、主を熱心に求めることです。主は天使たちの食べ物です。詩篇作者はこう言います。「人は天使たちのパンを食べた」(詩篇77章25節)。聖なる天使たちは、真理であり命である私たちの主イエズス・キリストのご神性そのものを見ています。天使たちは、この天主の真理によって照らされ、この天主の命を生きています。そしてこのイエズス、私たちの救いのために肉体となられた天主の永遠のみ言葉であるお方は、主の御血、ご霊魂、ご神性とともにその肉そのものを私たちに食べさせるよう、ご自分を私たちにお与えになっているのです。知恵の書は天主の惜しみのなさをこう歌います。「あなたはみ民に対しては天使の食べ物を与えられ、労苦しないでもパンを降らされた。それは、あらゆる楽しみのもととなり、あらゆる味覚を満たすものだった」(知恵16章20節)。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である」(ヨハネ6章51-52節)。

聖体拝領は、本当に私たちの望みと必要を私たちの主に願い出る時です。他のどの時よりも、その時こそ、「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる」(マテオ7章7節)のです。皆さんにご自分の御独り子をお与えになるお方は、御子とともにあらゆる恩寵を皆さんにお与えになるでしょう。「ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、み子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。聖体拝領は、私たち自身のためだけでなく、私たちにとって大事なすべての人々のため、私たちの近くにいるすべての人々のため、教会の必要とするすべてのもののため、罪びとの回心などのためにもお願いをする時です。地上のものごとを願うのは許されていますが、単に地上のものごとだけを願うべきではなく、そうするのは間違っています。なによりも第一に霊的なこと、徳、誘惑に対する勝利、信心、そして私たちを天主に本当に結びつけるものすべてを願うべきです。そのような祈願は聖体拝領の前後両方で行うことができます。

聖体拝領の時は、最も重要です。聖アウグスティノはこう言っています。「先にこれを礼拝しない者は、誰もこの肉を食べてはならない…われわれは礼拝することによって罪を犯さないだけでなく、それを礼拝しないならば罪を犯すのである」。ですから、教会の最も古い時代から、聖体拝領の時に信者は主を礼拝してきました。これは、ローマ典礼においては、伝統的にひざまずいて舌でご聖体を受ける方法で行われます。手による聖体拝領は、多くの霊魂に対して本当につまずきを与えるものです。その人が信仰と礼拝という内的な行いをしているとしても、聖アウグスティノが教え、彼とともに全教会が教えたような、キリストに当然捧げるべき外的な礼拝をしていないのです。ですから、ご聖体を受ける聖伝の方法は、恩寵に対して、キリストに対して霊魂を開くために非常に重要です。聖ヤコボはこう言っています。「天主はおごる者に逆らい、へりくだる者を恵まれる」(ヤコボ4章6節)。その反対に、手による聖体拝領という現代的方法は敬意に欠けていることが何度も何度も明らかになっており、それは恩寵に対して霊魂を閉ざし、神学者たちが「閂(かんぬき)」と呼ぶもの、すなわち恩寵に対する障害物となるのです。

直前の準備が非常に重要であるように、聖体拝領後の良き感謝も重要です。聖体拝領においてイエズスを受けたのち、十分黙想して熱心に祈るべきです。これらは一日全体で、一週間全体で、また実際、私たちの人生全体で最も重要な時です。聖体拝領ののち、ミサが終わる前にも、すぐ急いで教会から出ないでください。そうすることは非常に間違っています。主に対して適切でふさわしい感謝の時間を是非持ってください。通常は、十五分間程度の良き感謝の時間を持つべきだと言われています。

この感謝はその後も、その一日中の雰囲気として、続けるべきです。私たちは、天主の御子である私たちの主イエズス・キリストを受けたのですから! 私たちはいったいどうしたら、天主を知らない異邦人のように生きることができますか? できるはずがありません! これからは、これまで以上に私たちは主にふさわしくあらねばなりません。聖パウロが言うように、私たちは次のように言うことができなければなりません。「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の内に生き給うのである。私は肉体をもって生きているが、私を愛し、私のためにご自身をわたされた天主の子への信仰の中に生きている」(ガラツィア2章20節)。「私にとって生きるのはキリストであり、死は利益である」(フィリッピ1章21節)。

聖体拝領の最高の模範は童貞聖マリアです。実際、私たちが受けるご聖体は、九カ月の間聖母のいとも清らかなご胎内に住まわれたのと同じキリストの御体なのですから。「み言葉は肉体となって、」聖母のうちに「住まわれた」(ヨハネ1章14節)とき、聖母はご自分のうちに私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性を本当に受けられました。聖母は最初の生けるご聖櫃となられたのでした。どのような信仰をもって、どのような信心をもって、どのような謙遜をもって、どのように強い愛をもって、聖母はイエズスを受けられ、イエズスをそのご胎内に保っておられたのでしょうか! 聖母の思いはどのようなものだったのでしょうか? イエズスに対する聖母の愛はどのようなものだったのでしょうか? 聖母を観想すればするほど、私たちは自分がどうすべきかということについてもっと学びます。これらすべての徳をいただけるよう聖母に願いましょう。聖母が私たちの足らないところを補ってくださり、聖母がイエズスに捧げられた信仰と礼拝のすべての行いを私たちがイエズスに捧げることができるよう聖母に願いましょう。

聖ピオ十世は、頻繁にご聖体を受けるという古い慣習を復興されました。これは実際、特に西方では古い慣習で、毎日ミサに参列してご聖体を受けるという慣習でした。主はまことに、私たちが聖マテオによる『主の祈り』でお願いする私たちの「日用の糧」なのです。「われらの日用の糧を今日われらに与え給え」(マテオ6章11節)。それは地上のパンではなく、むしろ「天から下ったパン」(ヨハネ6章58節)、すなわち私たちの主イエズス・キリストの御体そのものなのです。でも、聖伝に従えば、信者がご聖体を受けるのは一日に一回だけです。一日に一回を超える聖体拝領を許している現代の慣例は、ミサが単なる食事であり、食べない限り本当に食事にあずかっていないという近代主義者の思想から来ているのです。それゆえに、彼らは誰もが毎回のミサでご聖体を受けるよう推し進めているのです。しかし、ミサは本質的には犠牲であり、新約の犠牲です。さて、旧約では、いけにえを食べる犠牲もあり、食べない犠牲もありましたが、信心をもってその犠牲に参加すれば、その信心によってその犠牲からの利益を十分に受けていたのです。

ご聖体は、特に命の終わりにおいては、永遠の交わりの準備をするために非常に重要です。死にゆく者に与えられるこのご聖体は「聖なる旅路の糧」と呼ばれ、人はそれを求め、またそれを受ける恩寵があるよう祈るべきです。病気になって教会に行けなくなった場合、司祭に依頼して、自分のためにご聖体にまします私たちの主を持って来てもらうようにすべきです。ご聖体は病気のときは非常に大きな慰めになり、特に自分の苦しみを主の御苦しみと一致させるのを助けてくれ、その苦しみを恩寵の素晴らしい源に変えてくれるのです。

ご聖体は、子どもでも主を受けることが可能になればすぐに授けることができます。聖ピオ十世は、子どもたちがご聖体と普通の食べ物の違いを知ることを要求されています。子どもたちは、基本的なカテキズムを知る必要があります。子どもたちに遅くならないうちにうまく教えがなされれば、彼らは七歳の若さでも、あるいはさらに早くともイエズスを受けることができるはずです。多くの場合、初聖体が九歳かあるいは十歳までも遅れるのを見ますが、これはこんにち、カテキズム教育の実施が昔より大きく減ってしまっていることのしるしです。良き親たちは子どもたちに、早期からのカテキズム教育をするのを心掛けるべきです。そうすれば、子どもたちがご聖体から大きな利益を得るのを遅らせてしまうことはないでしょう。思春期に迎える試練を堕落せず勝利をもって通り抜けるために、子どもたちにはこの素晴らしい秘蹟から受ける助けが必要なのです。早くからご聖体にましますイエズスへの愛があれば、しばしばその愛とともに召命の恩寵がもたらされるでしょう。子どもたちの初聖体への準備を怠れば、罪を免れません。

諸聖人は聖体拝領を愛してきました。聖体拝領は彼らにとって一日のうちで最も素晴らしい時であり、その時を熱望し、その時のために生きていたのです。聖体拝領後の彼らの黙想は、ときどき本当に驚くべきものでした。聖ドミニコ・サヴィオが思いだされます。私の記憶が正しければ、彼は他のみんなが教会を出ていったあとでも、感謝の祈りを捧げていました。あまりにも主に愛着していたため、他のすべてのことを完全に忘れていたのです。聖イメルダの場合は、聖体拝領のあと愛のために亡くなったのです!

童貞聖マリアとこれら諸聖人が、私たち全員がこれほど素晴らしい秘蹟を受ける準備をし、完全にその秘蹟を生きることができるよう助けてくださいますように。その結果、私たちが天国で顔と顔を合わせる永遠の交わり(聖体拝領)に到達することができますように! アーメン。
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"The Holy Eucharist : 2 / Sacrifice" by Fr. Laisney SSPX

2017年01月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教、「ご聖体:2)犠牲」の【英語原文】をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

The Holy Eucharist: 2/ Sacrifice

My dear brethren,

On Christmas, we have studied the first aspect of the Holy Eucharist, the Real Presence of our Lord Jesus Christ: the holy Catholic Church indeed believes and teaches that under the appearances of the bread and wine, i.e. their shape, colour, size, taste, etc., there is really and substantially present the very Body, Blood, Soul and Divinity of our Lord Jesus Christ, Son of God the Father from all eternity and Son of Mary in time. “The Word was made flesh, and dwelt among us” (Jn. 1:14): He dwelt in Bethlehem, then went to Egypt, back into the Holy Land until His death and resurrection. But when He went up to Heaven on Ascension Day, He did not abandon us: He remains, in a hidden but very real manner, in the Blessed Sacrament: He still “dwells among us”. The Greek word used signifies: He pitched his tent in our midst. It certainly refers to the Tabernacle, sign of God’s presence among His people during the 40 years in the desert after the crossing of the Red Sea. Divine Wisdom had said: “my delights were to be with the children of men” (Prov. 8:31).

But what was the main purpose for which He came down from Heaven? To save us! This is indeed what the Angel had said to St Joseph: “thou shalt call his name JESUS. For he shall save his people from their sins” (Mt. 1:21). This is His mission: to save us; this is the very meaning of His Holy Name: “Jesus” means “Yahweh saves”; He is the Saviour. And how did He save us? By offering Himself on the Cross as a perfect Sacrifice! Sacrifice is the supreme act of worship, due to God alone. Christ offered to His Father such perfect Sacrifice, such perfect adoration and thanksgiving, perfect expiation for our sins, that it pleased Him more than all the sins of the world had displeased Him, thereby restoring the balance of Justice, making reparation for all sins, obtaining all graces of salvation.

Though this Sacrifice was exteriorly performed on the Cross, our Lord Jesus Christ offered from the very beginning of His life. Indeed, quoting from psalm 39, St Paul says: “Wherefore when he cometh into the world, he saith: Sacrifice and oblation thou wouldest not: but a body thou hast fitted to me: Holocausts for sin did not please thee. Then said I: Behold I come: in the head of the book it is written of me: that I should do thy will, O God. In saying before, Sacrifices, and oblations, and holocausts for sin thou wouldest not, neither are they pleasing to thee, which are offered according to the law. Then said I: Behold, I come to do thy will, O God: he taketh away the first, that he may establish that which followeth. In the which will, we are sanctified by the oblation of the body of Jesus Christ once” (Heb. 10:5-10). Now that passage is very important: “we are sanctified by the oblation of the body of Jesus Christ”, which happened externally “once” on the Cross, but which was “offered” as soon as Christ came into the world: “when he cometh into the world.”

The rest of the passage simply means that once the perfect Sacrifice came, the sacrifices of the Old Testament are null and void, and even completely terminated after the destruction of the Temple. St Augustine adds that, not only the Old Testament sacrifices ceased when this true Sacrifice came, but “to this supreme and true Sacrifice all the false sacrifices gave place,” that is, even the pagan sacrifices ceased at the arrival of this true Sacrifice: this was true in the Roman world at his time, this has been true wherever the Sacrifice of Christ arrived through the work of the missionaries.

Our Lord Jesus Christ did not leave His Church without worship; He rather gave her His own sacrifice, which became the Sacrifice of the Church. Our Lord Jesus Christ gave instructions to His apostles: “this do for the commemoration of me” (1 Cor. 11:24). So the Church does what He did, it transforms the bread and wine into His Body and Blood for the daily “oblation of the body of Jesus Christ”. Our Lord Jesus Christ makes Himself really present in the Holy Eucharist, so that we may offer His very Sacrifice. This is the second aspect of the Holy Eucharist: the Sacrifice.

The Sacrifice of the Cross is truly the summit of the whole human history: all what preceded it were a preparation for it, through the many images of the Old Testament, fore-shadowing it and receiving their value from the very fact that they were a fore-shadow of it. St John Chrysostom says that the blood of the Pascal lamb protected the Hebrews from the passage of the Angel of death precisely because it was an image of the Blood of Christ. He concludes: so much more shall the very Blood of Christ (in the Holy Eucharist) protect the faithful who receive it. Similarly, all that follows the Sacrifice of the Cross flows from it; all graces now flow from the Cross, giving glory to God and saving souls.

Yet, there is a big difference: before, there were mere images, signs, shadows. But after, the Sacrifice of the Cross is truly “contained” and present in the Mass, as St Thomas Aquinas teaches, “it is suitable … for the perfection of the New Law. For, the sacrifices of the Old Law contained only in figure that true sacrifice of Christ’s Passion, according to Heb. 10:1: "For the law having a shadow of the good things to come, not the very image of the things." And therefore it was necessary that the sacrifice of the New Law instituted by Christ should have something more, namely, that it should contain Christ Himself crucified, not merely in signification or figure, but also in very truth.” Hence the Council of Trent defined as a Dogma of Faith that the Mass is truly a Sacrifice: “If any one saith, that in the mass a true and proper sacrifice is not offered to God; or, that to be offered is nothing else but that Christ is given us to eat; let him be anathema.”

In the Mass, there is the same victim as on the Cross: the body and blood of our Lord Jesus Christ. In the Mass, there is the same priest as on the Cross: our Lord Jesus Christ, Who offers Himself through the ministry of the priests of the New Testament: Jesus is the main priest, who acts in and through His minister, in virtue of the Sacrament of Holy Order. And in the Mass there is the same offering as on the Cross: Christ continuing to offer Himself, to offer His Body and Blood, all His sufferings on the Cross. Indeed, the Sacrifice of the Cross was achieved by the shedding of the Blood of Christ for us; that shedding, that separation of the Blood of Christ from His Body is signified and “made present” by the sacramental separate consecration of the Body and Blood of Christ. They were really separated on the Cross; they are sacramentally separated on the altar. The sacrifice of Christ was offered in a bloody manner on the Cross and in an “unbloody” manner on the altar.

The holy Sacrifice of the Mass was prophesised in the Old Testament by the prophet Malachias, the last of the twelve small prophets, in these words: “For from the rising of the sun even to the going down, my name is great among the Gentiles, and in every place there is sacrifice, and there is offered to my name a clean oblation: for my name is great among the Gentiles, saith the Lord of hosts” (Mal. 1:11). This “sacrifice” and “clean oblation”, i.e. offering, offered “in every place”, where is it among the protestants? They don’t have a sacrifice. It could not be the offerings of pagans: it is clearly the holy Sacrifice of the Mass.

The Holy Sacrifice of the mass is truly “propitiatory”, that is, it obtains mercy and grace, it offers due satisfaction for sin, and therefore is most important, especially in our sinful world. The holy Council of Trent teaches dogmatically this: “forasmuch as, in this divine sacrifice which is celebrated in the mass, that same Christ is contained and immolated in an unbloody manner, who once offered Himself in a bloody manner on the altar of the cross; the holy Synod teaches, that this sacrifice is truly propitiatory and that by means of it, we obtain mercy, and find grace in seasonable aid, if we draw nigh unto God, contrite and penitent, with a sincere heart and upright faith, with fear and reverence. For the Lord, appeased by the oblation thereof, and granting the grace and gift of penitence, forgives even heinous crimes and sins. For the victim is one and the same, the same now offering by the ministry of priests, who then offered Himself on the cross, the manner alone of offering being different.” This great truth is even sealed with a full dogmatic definition: “If any one saith, that the sacrifice of the mass is only a sacrifice of praise and of thanksgiving; or, that it is a bare commemoration of the sacrifice consummated on the cross, but not a propitiatory sacrifice; or, that it profits him only who receives; and that it ought not to be offered for the living and the dead for sins, pains, satisfactions, and other necessities; let him be anathema.”

The same holy council of Trent has this to say about the Canon of the Traditional Mass: “whereas it is fitting, that holy things be administered in a holy manner, and of all holy things this sacrifice is the most holy; to the end that it might be worthily and reverently offered and received, the Catholic Church instituted, many years ago [and the Council was speaking 450 years ago], the sacred Canon, so pure from every error, that nothing is contained therein which does not in the highest degree savour of a certain holiness and piety, and raise up unto God the minds of those that offer. For it is composed, out of the very words of the Lord, the traditions of the apostles, and the pious institutions also of holy pontiffs.” The holiness of the Traditional Canon is so true and important that the holy Council of Trent joined an anathema for those who deny it: “If any one saith, that the canon of the mass contains errors, and is therefore to be abrogated; let him be anathema.” The modernists, without formally abrogating it, have seriously stripped it in many ways – e.g. they suppressed 96% of its signs of the Cross – and by introducing other canons, they relegated this most holy Canon in oblivion for many faithful, who are so happy to rediscover it when they find the Traditional Mass.

While the traditional Canon is the holiest part of the Mass – hence all the faithful are kneeling down, even the altar boys, even the subdeacon and deacons – the rest of the Traditional ceremonies are also holy, and profitable to the advancement in holiness. The Council of Trent continues thus: “And whereas such is the nature of man, that, without external helps, he cannot easily be raised to the meditation of divine things; therefore has holy Mother Church instituted certain rites, to wit that certain things be pronounced in the mass in a low, and others in a louder, tone. She has likewise employed ceremonies, such as mystic benedictions, lights, incense, vestments, and many other things of this kind, derived from an apostolical discipline and tradition, whereby both the majesty of so great a sacrifice might be recommended, and the minds of the faithful be excited, by those visible signs of religion and piety, to the contemplation of those most sublime things which are hidden in this sacrifice.” There is even an anathema for those who attack these holy rites: “If any one saith, that the ceremonies, vestments, and outward signs, which the Catholic Church makes use of in the celebration of masses, are incentives to impiety, rather than offices of piety; let him be anathema.” It should be noted that the Council of Trent speaks of the Traditional ceremonies in use at its time. This canon does not apply to novelties: for instance, St Pius V himself, shortly after the end of the Council of Trent, rejected the liturgical reforms that had been done recently before him (thus were novelties at his time) and imposed the ancient Roman Rite all over the Western church, all the while respecting the ancient liturgies of the East and even those ancient rites of the west that had more than 200 years of use without novelties.

It seems that, in condemning the errors of the Protestants of the 16th century, the Council of Trent condemned in advance the workings of the modernists in the 20th century. Take the example of the last anathema of that session 22: “If any one saith, that the rite of the Roman Church, according to which a part of the canon and the words of consecration are pronounced in a low tone, is to be condemned; or, that the mass ought to be celebrated in the vulgar tongue only; … let him be anathema.”

These texts of the Council of Trent help us to have a great esteem for the Holy Sacrifice of the Mass, truly the heart of our holy religion. In the Old Testament, once a year the high priest entered the holy of holies with the blood of the victim; that must have been a very important moment for him. In the New Testament, every day at Mass the priest offers to the Most Holy Trinity the very Blood of the perfect Victim, merely signified in the Old Testament, but truly present on the Altar of the New Testament, and begs for mercy for the whole church. From that Sacrifice comes the abundance of graces over the faithful, and even for the conversion of the unbelievers and the return of the prodigal sons. One can understand that the devil cannot stand the Mass, where he is defeated again and again, and tries all he can to denature it, to distort it and prevents its fruits. The devil hates the Mass. But when one reads some of Luther’s writings, one finds an echo of that devilish hatred for the Mass. Hence the strength of the anathemas of the Council of Trent.

The Holy Sacrifice of the Mass has four purposes: it is a Sacrifice of adoration, of thanksgiving, of propitiation and of impetration. It is a sacrifice of adoration, by which we render the supreme honour to the most Holy Trinity, acknowledging all the Divine Attributes, i.e. His ultimate Perfection in the supreme degree. In it, as creatures, we prostrate ourselves in front of our Creator, and completely subject ourselves to Him, in union with our Lord Jesus Christ who was perfectly subject to the Father: "He humbled himself, becoming obedient unto death, even to the death of the cross" (Phil. 2:8). It is a Sacrifice of thanksgiving, rendering to God the greatest treasure we have, our Lord Jesus Christ Himself: since all what we have, we received it from God, we can only give back to God that which we have received from Him. But the very best that we received from God is His only-begotten Son, our Lord Jesus Christ: "God so loved the world, as to give his only begotten Son;" (Jn. 3:16). In the Mass, we render Him back to the Father and ourselves with Him, through Him and in Him. It is a Sacrifice of propitiation, i.e. of reparation for sin as explained above. And it is a sacrifice of impetration, i.e. the supreme prayer by which we can obtain all graces, as St Paul says: "He that spared not even his own Son, but delivered him up for us all, how hath he not also, with him, given us all things?" (Rom. 8:32). Truly the Sacrifice of the Mass is the highest act of worship and the greatest treasure of the Church.

Our Lord had come for that hour, the hour when He would redeem the world on the Cross. His whole life tends towards it. Thus He said to our Lady at the wedding of Cana: “my hour is not yet come” (Jn. 2:4). This hour came when He offered the Sacrifice, first on Holy Thursday when He instituted the Holy Eucharist: “Before the festival day of the Pasch, Jesus knowing that his hour was come, that he should pass out of this world to the Father: having loved his own who were in the world, he loved them unto the end” (Jn. 13:1). The Holy Eucharist is thus this supreme act of love of Christ for his own, that is, for his faithful, for each one of us. How much ought we to love the Holy Eucharist!

Not only was Jesus’ entire life directed towards the Sacrifice of the Cross, but He also oriented towards it the life of His Mother and the life of his Apostles. We see that when, at 12 years of age, He was the cause of great sufferings for Mary and Joseph by quitting company with them and remaining in Jerusalem. After they had sought for Him for three days in great sorrow, Jesus told them: “did you not know, that I must be about my father's business?” (Lk. 2:49). What was that “Father’s business”? It was hard to understand and the Scripture itself tells us that Mary and Joseph did not understand. Yet Mary “kept all these words in her heart” (Lk. 2:51), meditating upon them. So, that when the hour of Jesus had come, and he was led to Calvary, our Lady no longer asked Him why: she knew: Jesus was about His Father’s business: the salvation of souls! And she fully entered with Him in this work, cooperating with Him in the salvation of souls, becoming fully the New Eve, given to the New Adam as “a helper like unto himself” (Gen. 2:18).

Now as she was united with Jesus at the foot of the Cross, so is she united with Him offering Himself in the Holy Sacrifice of the Mass: Mary is spiritually very present at each of our Masses, and she leads us there as she led St John the Apostle and the holy women at the foot of the Cross. She is the model of how to attend Mass, model of offering ourselves with Jesus, model of generosity in “suffering with Him so that we may be glorified with Him” (Rom. 8:17). Let us ask her to help us to attend Mass always with great Faith and devotion, to die to sin in order to live unto God, so that we may “present our bodies a living sacrifice, holy, pleasing unto God, our reasonable service” (Rom. 12:1).

May she give us a great love for the Mass, a great devotion whenever we attend the Holy Sacrifice of the Mass, a great attachment to the Traditional Mass and obtain for us the eternal fruit of this sacrifice, the salvation of our souls. Amen.
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「ご聖体の秘蹟について」 その2)犠牲:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

2017年01月18日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様のお説教 「ご聖体の秘蹟について:その2)犠牲」(日本語訳)をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月15日 御公現後の第2主日―大阪
「ご聖体の秘蹟について」:その2)犠牲

親愛なる兄弟の皆さん、

クリスマスに、私たちはご聖体の第一の面、私たちの主イエズス・キリストの現存について学びました。実際、聖なるカトリック教会は、パンとぶどう酒の外観、すなわちパンとぶどう酒の形、色、大きさ、味などのもとに、永遠の昔から父なる天主の御子であり、時間の中においてはマリアの御子である私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、ご霊魂、ご神性そのものが現実にかつ実体的に存在すると信じかつ教えています。「み言葉は肉体となって、私たちのうちに住まわれた」(ヨハネ1章14節)。主はベトレヘムに住まわれ、エジプトへ行き、聖地に戻って死とご復活までそこにおられました。しかし、主はご昇天の日に天へ昇られましたが、私たちをお見捨てにはなりませんでした。主は隠されてはいるものの実際の現実として、御聖体の秘蹟の中にとどまっておられます。主は今でも「私たちのうちに住まわれ」ているのです。ここで「住まわれた」という言葉に使われているギリシャ語は、元々「主は私たちの間に天幕を張られた」という意味を持っています。このことは、紅海を渡ったあとの砂漠での四十年間、主の民の中に天主が現存されるしるしであった幕屋(ご聖櫃)のことを言っているのは確かです。天主の知恵は言われました。「私は人の子と交わるのを楽しみとした」(格言[箴言]8章31節)。

しかし、主が天から降りて来られた主な目的は何だったのでしょうか? 私たちを救うことです! これは実際、天使が聖ヨゼフに言ったことです。「あなたはその子をイエズスと名付けよ。なぜなら彼は罪から民を救う方だからである」(マテオ1章21節)。これが主の使命です。私たちを救うことです。これが、まさしく主の聖なる御名の意味です。「イエズス」は「ヤーウェは救う」という意味です。主は救い主なのです。では、主はどのようにして私たちをお救いになったのでしょうか? 十字架の上でご自分を完全な犠牲としてお捧げになることによってです! 犠牲は、天主のみに捧げる最高の礼拝の行いです。キリストは御父に完全な犠牲を、完全な礼拝と感謝を、私たちの罪の完全な償いをお捧げになられたため、それが、世の全ての罪が御父を怒らせた以上に御父をお喜ばせし、それによって正義の釣り合いを回復させ、すべて罪の償いをし、救いのすべての恩寵を取り成したのです。

この犠牲は外的には十字架の上で行われましたが、私たちの主イエズス・キリストはその生涯のまさに始まりから犠牲を捧げておられました。実際、詩篇39番から引用して、聖パウロは言います。「そのために、キリストは世に入るとき言われた、『あなたはいけにえも供え物も望まれず、ただ私のために体を準備された。あなたは燔祭と罪償のいけにえを喜ばれなかった。そこで私は、〈私について巻物に書き記されているとおり、天主よ、私はあなたのみ旨を行うために来る〉と言った』。先には『あなたはいけにえと供え物と燔祭と罪償のいけにえを望まず、また喜ばれなかった』―それも律法に従って捧げるものである―と言い、後には、『見よ、私はあなたのみ旨を行うために来る』と言われた。こうして後のものを立て、先のものを除かれた。このみ旨によって、ただ一度で永久に捧げられたイエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」(ヘブライ10章5-10節)。さて、この一節、「イエズス・キリストのお体の捧げ物によって私たちは聖とされた」は非常に重要です。このことは十字架上で「ただ一度」起こりましたが、キリストが世に入られるやいなや「キリストが世に入るとき」すぐに「捧げられた」のです。

この一節の残りの部分が意味しているのは単に、完全な犠牲がもたらされてからは旧約の犠牲は無効となり、更には神殿の破壊ののちには完全に終了した、ということです。聖アウグスティノはさらに加えて言います。旧約の犠牲はこのまことの犠牲がもたらされたときに停止しただけでなく、「この最高にしてまことの犠牲に対して、偽りの犠牲はすべて場所を譲った」、すなわち、異邦人の犠牲さえもこのまことの犠牲の到来で停止したのだと。このことは聖アウグスティノの時代のローマ世界では真実でしたし、宣教師の活動によってキリストの犠牲が到来したところではどこでも真実となってきているのです。

私たちの主イエズス・キリストは、主の教会を礼拝のない状態にしてはおかれませんでした。むしろ主は、教会にご自分みずからの犠牲をお与えになり、この犠牲は教会の犠牲となりました。私たちの主イエズス・キリストは使徒たちにこう教えられました。「私の記念としてこれを行え」(コリント前書11章24節)。ですから教会は、主がなさったことをしているのであり、それは日ごとの「イエズス・キリストの御体の奉献」のためにパンとぶどう酒を主の御体と御血に変えることです。私たちの主イエズス・キリストは、私たちがまさに主の犠牲を捧げることができるように、ご自分をご聖体のうちに本当に現存させられます。これが、ご聖体の第二の面、犠牲です。

十字架の犠牲はまことに、人類の歴史全体の頂点です。これに先立って起こったことはすべてそのための準備でした。その準備は旧約の多くの象徴を通じてなされましたが、旧約の象徴は十字架の犠牲の前表となり、それが十字架の犠牲の前表であるというまさにその事実に価値がありました。聖ヨハネ・クリソストモス[金口ヨハネ]は、過ぎ越しの小羊の血が死の天使の通過からヘブライ人を守ったのはその血がキリストの御血の象徴だったからだ、と言っています。彼はこう結論します。(ご聖体にまします)キリストの本物の御血は、それを受ける信者たちを[旧約の小羊の血よりも]一層守ってくださる、と。同様に、十字架の犠牲に続くすべてのものが、十字架の犠牲から流れ出ます。すべての恩寵がいま十字架から流れ出て、天主をたたえ、霊魂たちを救うのです。

でも、一つの大きな違いがあります。十字架の犠牲の前には、象徴やしるし、前表がありました。しかし十字架の犠牲ののちには、十字架の犠牲はまことに「内包されて」おり、ミサにおいて現存します。これについて聖トマス・アクィナスがこう教えている通りです。「それは、…新しい律法の完成にふさわしい。なぜなら、旧約の犠牲は、ヘブライ書10章1節の『実に律法は実在の姿ではなく、将来の恵みの影である』という一節によれば、キリストのご受難というそのまことの犠牲を象徴においてのみ内包していただけであるからである。それゆえに、キリストによって制定された新しい律法の犠牲は何かもっと大いなるものであることが必要であり、つまり十字架に付けられたキリストご自身を、単にしるしや象徴においてだけでなく、真理そのものにおいて内包すべきだったのである」(神学大全第3部問75第1項)。このためトレント公会議は、ミサはまことに犠牲であるという信仰についての教義を次のように定義しました。「ミサにおいてまことのかつふさわしい犠牲が天主に捧げられないとか、これを捧げるのはわれわれにキリストを食べさせるためだけであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第1条)。

ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じいけにえがあります。私たちの主イエズス・キリストの御体と御血です。ミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ司祭がいます。新約の司祭の司祭職を通じてご自分をお捧げになる私たちの主イエズス・キリストです。イエズスが第一の司祭であり、彼が叙階の秘蹟の力によって、彼の司祭においてかつ彼の司祭を通じて働かれるのです。またミサにおいては、十字架上の犠牲と同じ捧げ物があります。キリストは十字架上の犠牲と同じように、ご自分を捧げ、ご自分の御体と御血を捧げ、ご自分の苦しみをすべて捧げ続けておられます。実際、十字架の犠牲は、私たちのためにキリストの御血が流されることによって成し遂げられました。この御血が流されること、御血が御体から分離することは、キリストの御体と御血を秘蹟として別々に聖別することによって表され、「現存化され」ます。御体と御血は十字架上で実際に分離されました。祭壇上では秘蹟として分離されるのです。キリストの犠牲は十字架上で血を流す方法によって捧げられましたが、祭壇上では「血を流さない」方法で捧げられます。

ミサの聖なる犠牲は、旧約において十二小預言者の最後の一人である預言者マラキアによって預言されました。それが次の言葉です。「日の昇るところから、日の没するところまで、私の名は異国の民の中で、偉大なものといわれている。あらゆる地で、いけにえが捧げられ、私の名に清い供え物が捧げられている。そうだ、私の名は、異国の民の中で、偉大なものといわれている、と、万軍の主は仰せられる」(マラキア1章11節)。この「いけにえ」と「清い供え物」、すなわち「あらゆる地で」捧げられる捧げ物は、プロテスタントの中ではどこにあるでしょうか? 彼らには犠牲がありません。それは異邦人の捧げ物であるはずがありません。それは明らかにミサの聖なる犠牲なのです。

ミサの聖なる犠牲はまことに「償いの犠牲」であり、すなわちあわれみと恩寵を内包し、罪に対して当然支払うべき償いを捧げ、それゆえに最も重要であり、特に私たちの罪深い世界にとっては最も重要です。聖なるトレント公会議は教義としてこう教えています。「ミサにおいて行われるこの天主的な犠牲の中に、十字架の祭壇上で血を流してご自身を天主に捧げられたその同じキリストが内包され、血を流さずに自分自身を捧げられる。従って、この聖なる公会議は次のことを教える。すなわち、この犠牲はまことになだめの捧げ物であり、われわれが真心と正しい信仰、畏怖と畏敬の念と痛悔と悔悛の心をもって天主に近づくならば、この犠牲によって、適切な時に慈悲を受け、恩恵を見いだすであろう。なぜなら、この捧げ物によってなだめられた主は、悔い改めの恩恵と賜物を与え、恐ろしい罪さえも赦されるからである。なぜなら、捧げ物は全く同一であり、 自分を十字架の上で捧げられたその同じキリストが、今司祭の役務を通して捧げられているからであり、ただ違うのは捧げ方だけであるからである」(トレント公会議第22総会第3章)。この偉大なる真理は、完全な教義的定義によって保証までされています。「ミサの犠牲はただ讃美と感謝の犠牲であるとか、あるいは十字架上で行われた犠牲の単なる記念であって、罪の償いの犠牲でないとか、あるいは拝領する者だけの利益になるものであって、生存者と死者のため、罪、罰、償いその他の必要のために捧げられるべきでないと言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第3条)

同じ聖なるトレント公会議は、聖伝のミサの典文についてはこう言っています。「聖なるものは敬虔に取り扱われることがふさわしいところ、すべての聖なるものの中でもこの犠牲は最も聖なるものである。そこでこの犠牲が、ふさわしい方法で尊敬をもって捧げられ受け取られるように、カトリック教会は何世紀も以前に[この公会議は四百五十年前にこう言っています]聖なる典文を制定したこの聖なる典文は、あらゆる誤謬から免れて全く清いものであって、そこには最も高い段階の聖性と信心に香ることのないもの、捧げる者の心を天主にまで高めないものをいささかたりとも含んでいない。なぜならこの典文は主自身の言葉、使徒たちの伝承、そして聖なる教皇たちによって敬虔に制定されたものから成り立っているからである」(トレント公会議第22総会第4章)。聖伝の典文の聖性は本当に真でありかつ重要なものですから、聖なるトレント公会議は、それを否定する者に対する排斥文を加えました。「ミサの典文は誤りを含んでいるので、それゆえに廃止されるべきであると言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第6条)。近代主義者は、公式に聖伝の典文を廃止してはいませんが、多くの方法で深刻な段階にまで典文を取り去ってしまいました。例えば、彼らは典文の十字架のしるしのうち九六%を廃止し、また他の典文を導入することで、このいとも聖なる典文を格下げにしてしまったのです。そのため多くの信者たちはこれを忘れてしまったのですが、聖伝のミサを見つけると、その典文を再発見して喜んでいるのです。

聖伝の典文はミサの中で最も聖なる部分であり、そのためすべての信者が、侍者も、副助祭や助祭であっても、ひざまずきますが、一方で聖伝の儀式の残りの部分もまた聖なるものですから、聖性において進歩するには有益なものです。トレント公会議は続けてこう言います。「人間性は、外的な助けなしに、天のことを黙想することは簡単にはできないものである。それゆえに、聖にして母なる教会はミサの儀式の一部を低い声で、一部をより高い声でとなえるように規定した。さらに同じく教会は種々の儀式、たとえば、使徒たちの規律および伝承から受け継いだ聖なる祝福、灯り、香、祭服、この種のその他の多くのものを利用してきた。これらはすべて、これら目に見える宗教と信心のしるしによって、この大いなる犠牲の偉大さを示し、またこの犠牲の内に隠れて内在するもっとも崇高なものの観想に信者の心を奮い立たせるためである」(トレント公会議第22総会第5章)。これらの聖なる儀式を攻撃する者に対しする排斥文さえあります。「カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を起こさせるものである、と言う者は排斥される」(トレント公会議第22総会第7条)。トレント公会議はそのとき使用されていた聖伝の儀式についてこれを言っているということに注意しておくべきでしょう。この条文は新奇なものには適用されません。例えば、聖ピオ五世自身が、トレント公会議の終了後まもなく、直近まで行われてきた典礼の改革(ですからそれは彼の時代における新奇なものでした)を拒否し、古いローマ典礼の使用を西方教会全体に義務付けるとともに、また一方、東方の古い典礼を尊重し、また新奇のものなしに二百年以上にわたって継続して使われてきた西方の古い典礼さえ尊重したのです。

十六世紀のプロテスタントたちの誤謬を非難したとき、トレント公会議は二十世紀に近代主義者の行うことをあらかじめ非難していたように思えます。同公会議第22総会の最後の排斥文の例を上げてみましょう。「低い声で典文の一部と聖変化の言葉をとなえるローマ教会の儀式は非難されるべきであるとか、自国語だけでミサを捧げるべきであるとか、…と言う者は排斥される」。

トレント公会議のこれらのテキストは、私たちの聖なる宗教のまことの核心であるミサの聖なる犠牲に対して、大いなる尊敬の念を持つよう私たちを助けてくれます。旧約においては、一年に一度、大司祭がいけにえの血とともに至聖所に入ったのであり、それは彼にとって大変重要な瞬間であったに違いありません。新約においては、ミサにおいて毎日、司祭はいとも聖なる三位一体に完全ないけにえの血そのものを、旧約では単にしるしに過ぎなかったものの新約の祭壇上ではまことに現存するいけにえの血を捧げ、全教会のためにあわれみを乞うのです。その犠牲から、信者たちに豊かな恩寵が、信じぬ者の回心や放蕩息子たちの帰還のためにさえ恩寵がもたらされるのです。このことからお分かりの通り、悪魔はミサに我慢できません。ミサでは悪魔は繰り返し敗北されられるからです。そのため悪魔は、ミサを変質させるために、ミサをゆがめるために、ミサの実りを妨害するために、自分にできるすべてのことをしようとします。悪魔はミサを嫌悪しています。しかし、ルターの書いたものをいくつか読めば、ミサに対するこの悪魔の嫌悪のこだまを見いだします。これがトレント公会議の排斥文が強く主張するゆえんです。

ミサの聖なる犠牲には四つの目的があります。ミサの犠牲は、礼拝、感謝、なだめ、祈願の犠牲です。ミサの犠牲が礼拝の犠牲であるのは、私たちがいとも聖なる三位一体に最高の敬意を捧げ、天主の属性すべて、すなわち最高の段階にある天主の究極の完全さを認めるからです。ミサの犠牲において、私たちは被造物として創造主の御前にひれ伏し、「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくされた」(フィリッピ2章8節)と書かれているように御父に完全に服従された私たちの主イエズス・キリストと一致して、創造主に完全に服従します。ミサの犠牲が感謝の犠牲であるのは、私たちが天主に、私たちの持つ最も素晴らしい宝である私たちの主イエズス・キリストご自身をお捧げするからです。私たちの持つものはすべて天主から受けたものですから、私たちは天主から受けたものしか天主にお返しすることができません。しかし、私たちが天主から受けたもののうちで最も良いものは天主の御独り子、私たちの主イエズス・キリストです。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された」(ヨハネ3章16節)。ミサの犠牲において、私たちは御父に主をお返しし、また主とともに、主によって、主において私たち自身をお返しします。ミサの犠牲がなだめの犠牲であるのは、前に説明したように罪の償いの犠牲だからです。最後に、ミサの犠牲は祈願の犠牲、すなわちそれによって私たちがすべての恩寵を得る最高の祈りです。聖パウロは言います。「ご自分の御子を惜しまずに私たちすべてのために渡されたお方が、御子とともに他のすべてを下さらないはずがあろうか」(ローマ8章32節)。まことにミサの聖なる犠牲は最高の礼拝の行いであり、教会の最も素晴らしい宝なのです。

私たちの主はその時のために、十字架上で主が世を贖われるその時のために来られました。主の全生涯はそれに対して向けられています。ですから主は、カナの婚礼で聖母にこう言われました。「私の時はまだ来ていません」(ヨハネ2章4節)。主が犠牲を捧げられるとき、まず主がご聖体を制定なさった聖木曜日に、この時はやって来ました。「過ぎ越しの祭りの前に、イエズスはこの世から父のもとに移る時が来たのを知り、この世にいるご自分の人々を愛し、彼らに限りなく愛を示された」(ヨハネ13章1節)。ですからご聖体は、ご自分の人々、すなわち主の信者たち、私たち一人一人に対する、キリストのこの最高の愛の行いなのです。私たちはご聖体をいったいどれほど愛すべきでしょうか!

イエズスの全生涯が十字架の犠牲に向けられていただけでなく、主はまた御母の生涯と使徒たちの生涯も十字架の犠牲に向けられました。主が十二歳のとき、主はマリアとヨゼフの大きな苦しみの原因となりました。二人から離れて、エルザレムに残られたからです。大きな悲しみの三日間ののち、二人が主を見つけたとき、イエズスは二人にこう言われました。「私が父のことに従事すべきだと知らなかったのですか?」(ルカ2章49節)。この「父のこと」とは何だったのでしょうか? 理解するのは難しく、聖書自体がマリアとヨゼフは分からなかったと私たちに教えています。でもマリアは「これらの言葉をみな心におさめておいた」(ルカ2章51節)のであり、その言葉を黙想なさっていたのです。ですから、イエズスの時が来て、カルワリオに連れて行かれたとき、聖母はもはや主になぜかと尋ねられることはありませんでした。聖母はご存じだったのです。イエズスは御父のことに従事なさっていたのです、霊魂の救いに! そして聖母は主と共にこの行いに完全に没入され、霊魂の救いのために主と協力され、完全に新しいエバとなって、新しいアダムに対して「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)として与えられたのでした。

さて、聖母は十字架の下でイエズスと一致しておられたように、聖母はミサの聖なる犠牲においてもご自分を捧げられる主と一致しておられます。マリアは私たちのミサの一つ一つに霊的に現存しておられ、使徒聖ヨハネと聖なる婦人たちを十字架の下に導かれたように、私たちをそこへと導かれます。聖母はどのようにしてミサにあずかるかの模範であり、イエズスと共に私たち自身を捧げる模範であり、「キリストとともに光栄を受けるために、その苦しみをともに受ける」(ローマ8章17節)寛大さの模範です。常に大きな信仰と信心をもってミサにあずかることができるよう、そして天主の内に生きるために罪に死ぬよう、私たちを助けてくださるよう聖母に願いましょう。そうすることで私たちが、「私たちの体を生きた清い天主に嘉せられる犠牲として、道理にかなった崇敬として捧げる」(ローマ12章1節)ことができますように。

聖母が私たちに、ミサに対する大きな愛を、私たちがミサの聖なる犠牲にあずかるときはいつでも大きな信心を、聖伝のミサへの大きな愛着を与えてくださり、私たちにこの犠牲の永遠の実り、私たちの霊魂の救いを取り成してくださいますように。アーメン。
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東方の3人の博士の行いをマリア様の汚れ無き御心で黙想する。

2017年01月16日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年1月7日(初土)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年1月7日 初土曜日 聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は2017年1月7日、今年の最初の初土曜日のミサをしております、聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

今日のこの御ミサが終わりましたら、いつものようにミサの後の感謝のお祈りをします。その後に、いつもクリスマスの時に行っているイエズス様の、ローマの習慣に従ったイエズス様の、幼きイエズス様への礼拝の式を行いたいと思います。皆さんどうぞ与って下さい。
公教要理もいつものように提案しています。公教要理はこの前の続きで、聖書についてですけれども、聖書の一番重要な特徴が2つあります、「聖書には間違いがない」「それは聖霊の息吹きを受けて書かれている」という事ですが、それについて黙想する事を提案します。
今日ここで、お昼を食べた後には侍者の練習と、聖歌の練習などがありますので是非与って下さい。

カトリック教会では普通は、伝統的に御公現の時にこの一年の予定を発表する習慣があるので、それに従って今年の予定も少しだけお知らせ致します。

私たちの主イエズス・キリスト様の御降誕のお祝いを喜んだように、今年は2月12日に七旬節の主日があります。3月1日には灰の水曜日があります。4月16日には私たちの主イエズス・キリスト様の御復活をお祝い致します。5月25日には主の昇天を、そして6月4日には聖霊降臨を、6月15日にはイエズス様の御聖体の祝日をお祝いします。12月3日には待降節の第1主日となっています。

この2017年が、ファチマのマリア様の100周年ですので、良い年となりますようにお祈り致しましょう。


聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。

今日はマリア様の汚れなき御心の初土曜日ですから、マリア様の汚れなき御心の中に深く入る事に致しましょう。

聖ルカの福音によると、第1章には2回同じ言葉が書かれています。それは何かというと、「イエズス様の御降誕についてあった出来事、またイエズス様の年少の頃にあった、子供の頃にあった事を、マリア様はその御心に深く入れて、それを思い巡らしていた。マリア様の御心は特に、イエズス様の御誕生や、また小さかった頃の事を特によく覚えて、それを黙想していた」と書かれていますから、そのマリア様の御心の中に深く入ると、私たちはイエズス様の御誕生の時に何があったか、という事をよく理解できると思います。そこでそのマリア様の御心に聞いて、今日は1月6日にあった御公現には一体何があったのかを聞いて見る事に致しましょう。

イエズス様が御誕生になられた時に御降誕になられた時に、時を同じくして東の方では、3人の王様、博士たちが頭の良い方々が大きな旅行を試みました。何故かというと、「ユダヤの国で預言された通りに救い主がお生まれになった。この方は万民の王であって、そして司祭であって、また私たちを救って下さる方である。」この3人の博士はその事をよく知っていて、場所はそれぞれ違ったのですけれども、「主の生まれる時には星が出る」という預言の通りその星を見て、その星に導かれて、その星が導く通りにそれに従って、ユダヤのエルサレムまでやって来ました。旧約の時代の預言が成就しました。

何故その東の国の博士が、3人別々の所であったにもかかわらず、その星を見てこうやって来たのか、詳しい事は私たちには今となっては知る事はできませんが、しかし色んな事を研究していて、自分の信念が「確実である」という事を深く悟ったに違いありません。

今では飛行機もありますし、バスもあるし、GPSもあるし、Googleマップもありますから、簡単に旅行しようと思えばできますけれども、その当時は何もありません。ただ単に弱々しい光、星の光によって導かれただけです。それでも危険な場所、或いは砂漠、或いは森の中、或いは強盗の中を通って行かなければなりませんでした。それにもかかわらず、召し使いを仕えて、はるばると宝物を持って旅行しました。

召し使いたちの中には不審に思う人もいたかもしれません、「一体どこにいくのですか?」「いや、星に従っていく。」「え?星に従う?一体どこに行く、どこなのでしょうか?」「それはユダヤの地だ。」「知っているのですか?」「あまりよく分からない。」「何が起こったのですか?」「王様が生まれた。」「でもあなたも王様ではないですか?」「いや、この今生まれたのは万民を治める王様であって、過去から預言された方なのだ。」

詳しい話がどうだったのか、或いは議論があったり会議があったり、「それが本当にできるのか」という事を反対意見もあったかもしれませんが、その3人の王様はそれを意見を説得するだけの議論を持っていて証拠があって、「これがこうだから、こうだ、こうだ」と言ったに違いありません。

伝統によると、1月6日に、私たちの主のこの礼拝と、そしてイエズス様の洗礼と、そしてまた同時にカナでの結婚式の婚宴が行われた、との事です。「その日付が確実にそうなのか」という事を教父たちは言うのですけれども、でもその「確実にそうだ」と言う事は聖書に日付が書いていないので私たちは言う事ができませんが、伝統的に1月6日は3つのイエズス様の行いを記念して、主が確かに現れた、私たちにその力を、真の救い主である事を見せた、という事を記念します。「王様が、3人の博士が宝物を持ってやって来た」という事と、「カナで水をワインに変えた、すばらしいブドウ酒に変えた」という事と、もう1つ「イエズス様がヨルダン川で洗礼を受けた」というこの3つの事が行われます。

これはどういう事かというと、特に東方では、東方というのはローマ帝国のギリシャ語を話すような国の人々の習慣では、ローマ皇帝が東方の国々を訪れる時には、特別にその訪れる街の人々の為に大きな食事を開いて、宴会を開いて、そしてその訪れる人たちの為に特別の特権を与えて、このお恵みを与えて、そして訪問して、盛大にこの王の皇帝の到来を祝った。或いは王様が結婚する時に、或いは皇帝が結婚する時には、大きな祝宴を開いた。それと同じように1月6日の御公現では、天主様がこの世の創り主が小さな幼子となって、私たちの所に訪れて下さった。そこで私たちはその訪れを、贈り物を以て迎えて、そして天主様は私たちに宴会を以て、私たちに大宴会を開いて下さる。

その大宴会とは何かというと、このミサに於いては、「御聖体の秘蹟である」と説明されます。私たちは天主の子供として、このイエズス様の御訪問の大宴会、御聖体の秘蹟に招かれているという事です。

ではこの王様が、3人の博士たちが贈り物を持ってやって来た、というのを見て、マリア様は一体どのように思われたでしょうか?

まず、この博士たちの信仰に感嘆したと思います。弱々しい星の光に導かれてやって来た、その博士とその信仰。その博士たちがこの幼子を見て、貧しい布にくるまれた幼子を見て、それを真の天主であり、王であり、救い主だと認めたその信仰。もしかしたらこの博士たちは大きな宮殿を、大きな寝台を、或いは召し使いたちの数々を、或いはきれいな服を想像していたかもしれません、自分たちがそうであるように。しかし貧しい外見の中に、真の救い主を見い出しました。その信仰を、マリア様はおそらく感嘆したに違いありません、「なんと素晴らしい事だろうか。」

そればかりでありません。この博士たちはその信仰を以て、この幼きイエズス様を礼拝致しました。福音書にもそう書いてあります、「額ずいて、平伏して、礼拝した」と。

そればかりではありません。この王に、この生まれた赤子に、救い主に、3人の王は贈り物を与えます。何故かというと、「まさにこの方こそ、私たちを恵んで下さる方だ」という大きな希望があったからです。そしてもう1つは、「この王こそ、私たちが愛さなければならないものだ」という愛の熱情があったからです。

マリア様はそれを見てとりました。この博士たちの信仰と、その礼拝と、深い希望と、純粋な愛を見て、どれほどお喜びになった事でしょうか。

現在私たちは、まさにこの博士の3人の博士のような態度が必要とされています。何故かというと、現在私たちが聞く事は、「この世の創り主」とか、「天主」とかという事ではありません。私たちがいつもに耳にするのは、「人間」の話しです。「人間の権利」とか、「人間の尊厳」とか、「人間が作った技術」とか、「人間がこれからやる、人間が作り出す世界」とか。そして日本の去年の一番の流行った言葉は、人間に対して何と言うかというと、「神っている」と言うのだそうです。何かすばらしい事をすると「そうだ。」「人間が中心であって、この人間の場所はもう絶対誰にも、天主にでさえも(!)、動かす事ができない。この周りに世界が回らなければならない」と思っている事です。そのような話だけを私たちはよく聞きます。

今までは私たちは或いは人間は、現実の世界を、この目に見える世界を見て、それの自然を見て、その自然を恐れて、それに従って生きようとしてきました。例えば「天主の十戒」、或いは「天主の掟はこうだ」「この世の掟はこうだ」この通りに生きようとしてきました。そしてその通りに家族を作ろうとしてきました。例えば、「天主が最初に男と女を作って、これは一体となる。天主が1つにしたものを誰も離してはいけない。」「人間は天主の似姿によって創られた。だから人の命は大切だ。」

今度は、もしも天主の事ではなくて、人間、人間、人間という事になると、人間は天主の領界までも世界までも足を踏み入れて、この世界を作ろうとしているのではないでしょうか。

例えばよく今聞くのが、「結婚は、男と男でも結婚できる」とか、「これが人権だ」とか、或いは「お母さんのお腹にいる赤ちゃんの命は殺しても良い。これが人権だ」とか、或いは「男も女もないから、男も女も同じトイレを使わなければならない」とか、或いは「老人や或いは障害者はもう邪魔だから、もしもこの人たちが『もう早く楽に逝きたい』と言えば安楽死をさせても良い、殺してしまえ」などと。

本当は人間、もちろん人間が車が右に行くか左に行くか、或いはどこに道路を造るか、どこに駅を造るか、というのは自分で決める事ができますけれども、命の事や、或いは婚姻の事について、踏み入ってはいけないところまでも、自分で作っていいと考えているのではないでしょうか。

ですからもしもこのよう事が続けば将来は、「人間は犬と結婚できる」とか、或いは「人間は今度木と結婚する」とか、或いは「これは多数決で決まったから良いのだ。人間が全て決めるのだ」というようなおかしな世界になってしまうのではないでしょうか。

例えば「芸術」というものは、昔は特に宗教関係、特にこの「美」とか「主」に対する、創造主に対するその美しさを表そうと、その尊厳さを表そうとして描いてきた、芸術が出された。ですからその時に人間がその持つ、この美に対するものを何か他の人に伝えようとするその心だった。しかし現代では、そういう畏怖ではなくて、天主ではなくて、人間の事しか考えていないので、或いは下品なものや、或いは自分の、芸術家と呼ばれる人たちだけの頭の中だけしか分からないような、他の人たちには伝える事ができないような、何を考えているか分からないようなものが、今芸術となっている。人間だけに閉じこもっている世界を、今作ろうとしている。このような傾向がますます広がる恐れがあります。

人間は、自分の快楽とか、都合の良い事とか、自分の高度な技術、お金、経済、消費だけを追求して、或いは今度はポルノとか、或いはそういうようなゲームとか、或いは立体で見る事ができるようなどうのこうの等と、ますます自分だけの世界に、空想の世界の中にだけ入ってしまって、この本当の世界から切り離されて、ますます切り離されてしまっている世界を作ってしまいます。人間を愛して、被造物を愛して、自分の思い通りの事をやろうとして、自分の楽しい事や、自分の好き勝手だけを考えて、私たちが創られたものである、私たちの人生には永遠の目的があるという事は忘れて、全く創造主に対する無関心、或いは創造主から受けた掟に対する冒涜や、或いは屈辱を以て、人間だけの世界を作ろうとしているのではないでしょうか。

まさにこの2017年こそ、私たちはこの3人の博士のように、主に対する愛を、被造物の代わりに天主に対する愛を、被造物だけを考えて天主を忘れる代わりに私たちは祈りの香を、私たちの欲望と快楽だけを追求するよりは犠牲の没薬を、被造物を愛するこの下のものだけを愛するこの愛よりは、純粋なきれいな純金のような黄金のような天主に対する愛を、私たちは捧げなければなりません。

そういう意味でマリア様の御心は私たちに、この3人の博士たちのやった行為を、「とても素晴らしい」と、「彼らに倣いなさい」と仰るに違いありません。

「マリア様、私たちはもうかつて被造物を愛してばかりいました。私たちの愛は本当に不純な愛で、不純な愛しか捧げる事ができません。」
「マリア様、私は過去、自分の都合の事や自分のやりたい放題で、犠牲の没薬を捧げる事を忘れてきました。今更何を没薬を捧げる事ができるのでしょうか。」
「マリア様、私は祈りの時も、天主に対する天に昇る真っ直ぐ昇る香よりも、よい香りのする乳香の代わりに、下の方に留まっている煙のような、臭い、雑念だけのお祈りしかできませんでした。」
「どうぞマリア様の汚れなき御心を私に与えて下さい。マリア様の御心を以て、イエズス様に今年の最初の贈り物をする事ができますように。マリア様の御心を以て、イエズス様を愛する事ができますように。マリア様の御心を以て、イエズス様に希望する事ができますように、犠牲を捧げる事ができますように、お祈りをする事ができますように、お助け下さい。」

では愛する兄弟の皆さん、昨日の御公現の中に深く入る事にしましょう。マリア様の御心を通って、深く入る事に致しましょう。マリア様の御心を通して、主に良いこの年の最初の贈り物を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊と御名によりて、アーメン。


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主の御降誕【日中のミサ】 3つのミサの構造の違い、その発展とは?

2017年01月15日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2016年12月25日(主)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年12月25日(主日)主の御降誕 日中のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2016年12月25日、私たちの天主イエズス・キリスト様の御降誕の日中のミサをしております。皆様に御降誕のお慶びを申し上げます。

今日は御ミサの後、聖体拝領の感謝の祈り、ミサの後の祈りをした後に、私たちの習慣とローマの習慣に従って、幼きイエズス様を皆様にお持ちしますので、どうぞその御足に御手に接吻をなさって下さい。

今日はクリスマスであって同時に主日であるので、皆さんともしできれば簡単なクリスマスパーティーのような軽食会をして、14時30分から晩課を一緒に、クリスマスの晩課を一緒に唱えたいと思っております。楽譜も準備されていますので是非いらして下さい。天使たちが今日この夜、天使たちの大群がその生まれた救い主の為に歌ったように、私たちもクリスマスの軽食会の時にクリスマスキャロルなどを歌いたいと思っています。



「全ての民は、地の果てまで主の救いを見るだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日はカトリック教会にとって特別の日です、喜びの日であります。
教会は司祭に、「3回ミサをする事ができる」としています。そこで「真夜中のミサ」「暁のミサ」そして今日今やっている「日中のミサ」です。

何故この3つのミサがあるのか、「その3つのミサは、イエズス様の3つの御誕生の神秘を表している」と言われますが、その御誕生の神秘とは何なのか、一番大切な御誕生は何なのか、

で、特に真夜中のミサと暁のミサとこの日中のミサの構造はどう違っているのか比較しながら、一体どんな発展が見られるのか、

そしてではその一番大切な誕生の為に、私たちは何をしなければならないのか、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

3つの誕生というのは、三重の誕生というのは、イエズス様が永遠の昔から御父の懐からお生まれになった、永遠の今日に於いてお生まれになっている、というその誕生の事です。まだこの地上に光が創られていなく、天主が「光あれ!」と言ったその前、太陽も月も創られていない前、いわば被造物が全く無であった全く存在していない、天主だけがおられるその永遠において、神秘のうちに、天主御子が御父から永遠の今日お生まれになっているその御誕生です。

天主の御子というのは、今日聖パウロの書簡書によれば、御父のその実体の輝きであって、天使たちがこの聖なる夜、クリスマスの夜に天上を燦然と輝かして、羊飼いたちがあっという間に驚く、その美しさに驚くその光も、或いは私たちがこの人工の光でこのイルミネーションを、クリスマスのイルミネーションを街中に輝かして「あぁ、きれいだなぁ」と思うそのような光も、イエズス様のその燦然とした輝きの前には全く影のようです。

イエズス様の第1の永遠の夜に於ける誕生をまず祝います。第1のミサでは入祭誦に、「父はこう言った、『私は今日お前を生んだ』と。」永遠の御父が永遠の御子を今日、永遠の今日に於いて生み続けている、三位一体の神秘が語られています。

それと同時に夜中のミサでは、「マリア様が御子を、肉に於いて生んだ」という事が語られます。

第2の誕生は、まさにイエズス様が時に於いて私たちの為にお生まれになった、12月、今から2016年前の12月25日の夜に、ベトレヘムで真夜中に、静かなその夜中の夜中に於いて、沈黙に於いて、イエズス様は私たちの救いの為に、贖いの為にお生まれになった、その神秘です。

「天主御父の事は、御子だけが知っている」とイエズス様は言いました。その天主御父の神秘を私たちに教える為にお生まれになりました。天主御父へと行く道を示す為にお生まれになりました。イエズス様は言われました、「私は道であり、真理であり、命である。私を通らずに誰も父のもとへ行く事はできない。」またイエズス様は言いました、「永遠の命とはすなわち、天主、唯一の天主なるあなたと、あなたが送られ給うたイエズス・キリストを知る事にあります」と。天主御父とイエズス・キリストが知らされる為に、お生まれになりました。

では第3の誕生とは何でしょうか?

この第3の誕生こそが核心であり、第1の誕生も第2の誕生もそこに集中しています。それは、イエズス様が実は今日、皆さんの霊魂に於いてお生まれになりたい、と熱烈な愛を以て思っている事です。天主は、天主の愛は見る事ができません、しかしその証拠があります。御父はその御子をこの世に与えるほど私たちを愛されました。目に見えない天主の愛が、幼きイエズス・キリストに於いて目に見えるものとなりました。

もしも私たちが誰かを愛するとしたら、一番愛されやすい形を取るではないでしょうか。天主様の考えた事は、私たちから更に愛される事ができるように、私たちと全く同じ人間の姿で生まれる事を、しかも幼いか弱い赤子として生まれる事を、王宮で生まれる事もできましたけれども、王の王として生まれる事もできましたけれども、私たちが恐れて近寄らないかもしれないから、貧しいまぐさ桶で、動物の間で生まれる事を御望みになった。

何故ならば、私たちの心も動物の小屋のように、天主を迎えるにあまりにも相応しくないものではないからではないでしょうか。そのような私たちでさえもイエズス様を受け入れる事ができるように、恐れなく心配する事なく受ける事ができるように計らってくれたのではないでしょうか。

もちろんマリア様はイエズス様がお生まれになるという事で、そのきれいな場所を準備していたに違いありません。しかしローマ皇帝の勅令によって、人口調査の勅令が出たのですぐに従いました。ホテルもなければ、新幹線もなし、GPSもない、遠い道のりを行かなければなりませんでした。予約もできなかったし、Eメールを送る事もできませんでした。しかし従順に行きました。「あぁ、せっかく私が準備したのに、ちょっと待っていたら子供は生まれるのに、救い主は生まれるのに。」マリア様は御摂理に任せて従いました。

その結果、王の王、天の御父の輝き、天使たちがいつも「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と言う万軍の君主であるイエズス・キリストが救い主が、動物の間でしか、寒い凍える所でしか生まれる所がありませんでした。何故かというと、それは私たちの霊魂にでも生まれたい、どのような所でも生まれたい、と思うあまりの愛の為でした。

使徒信経によると、「聖霊によりて、童貞マリアより生まれ」とあります。聖トマス・アクィナスは、「なぜ聖霊によるのかというと、確かに御子、天主三位一体の御子が人間となって生まれるのは、これは三位一体、聖父と聖子と聖霊の全ての業だけれども、特に御子が人となったのは燃えるような愛の業だったから、人類に対するまさに正気を失ったかのような愛の業だったから、聖霊によりて愛によって宿った、と私たちは使徒信経で言う」と言います。

私たちの主は、三位一体の第2のペルソナは、永遠の天主の御言葉は、最初に天主と共に在り、全てがそれによって創られた御言葉は、私たちを愛するがあまり、私たちと同じ姿を取ろう、と私たちの間でお生まれになりました。

今日イエズス様は、私たちの霊魂にお生まれになりたいと燃えておられます。その愛の火で燃えておられます。

今日の日中のミサを見ると、この私たちの内に生まれる、このお生まれになりたいというこの赤子は、単なる救い主ではないと分かります。永遠の王である、平和の王である、その肩には主権がかかっている。そして集祷文に於いては、「私たちの罪のくびきを取り払って、あなたの主権によって開放して下さい」とあります。「全ての民は、地の果てまであなたの救いを見た」とあります。この救いは全てに全世界に渡らなければならない主権です。聖体拝領の時に私たちはイエズス様を受けて、「確かに地の果てまで、私たちはこの遠い日本も日の本に於いてまでも、主の救いを見た。主は私たちと共におられる」と歌わなければなりません。

それほどまで全世界の霊魂に隅々までお生まれになりたい、という燃えるような願いがこの3つのミサで表れています。最初は真夜中にマリア様の元で生まれた永遠の御父の懐で生まれるイエズス様。そしてそのイエズス様はマリア様に御自分を表しますが、暁のミサでは羊飼いたちに姿を現します、日中で太陽が昇った時には全世界に於いて王として、全ての人の心に生まれたいと思っています。

しかし今日の福音を見て下さい、全てはこの御言葉によって創られたにもかかわらず、主は私たちを愛するが為に、自分を与える為に、宝物を持って私たちのもとに来られたにもかかわらず、こんなにか弱い姿で来たにもかかわらず、人々は、「嫌だ。」「あっち行け。」「来るな。」「出て行け」と主を闇の方に亡き者にしようと、受け入れようとしません。イエズス様の御悲しみはどれほどでしょうか。

イエズス様を信じる代わりに、どれほど多くの方がその愛を、その慈しみを、その天主の燃えるような憐れみを信じようとしないのでしょうか。イエズス様この幼子を礼拝しようとする代わりに、もはやそうではなくて、無関心や、冒瀆や、瀆聖でそれに返答する人がどれほど多いでしょうか。イエズス様に希望する代わりに、「いや、」イエズス様の無い、イエズス様ではない自分の力に、自分のやり方に希望するという人がどれほど多いでしょうか。「世界は自分の周りを中心に回っているのだ。」イエズス様をお愛し申し上げるというよりは、自分の事だけでいっぱい、自分を愛するだけでいっぱいという人がどれほど多いでしょうか。

私たちはでは今日、どのような決心を取らなけばならないでしょうか?

今日は、私たちの為にお生まれになった全知全能の永遠の御父、この天地の創造主、真の天主よりの真の天主、光よりの光、天主よりの天主、人となった永遠の御父の輝き、永遠の知恵、天主の御言葉、イエズス・キリストを心から礼拝致しましょう。

主を信じ、そして礼拝し、希望し、愛する事に致しましょう。イエズス・キリストをどうぞ御聖体拝領によって受けて下さい。私たちの霊魂に生まれる事をどれほど望んでおられるか、この希望を満たして差し上げて下さい。そして私たちが聖体拝領をしたら、イエズス様を信じない人々に代わって、礼拝しない人々に代わって、希望しない人々に代わって、愛さない人々に代わって、信仰と、礼拝と、希望と、愛を捧げて下さい。

三位一体を深く心から礼拝して、イエズス様の御体、御血、御霊魂、御神性をお捧げ下さい。イエズス様の至聖なる聖心の無限の功徳によって、多くの罪人たちが、多くの人々が、特に日本にいる方々が、イエズス様のこの愛を知る事ができますように、イエズス様がますます愛されますように、そして多くの霊魂が天国に導かれますように、その為にお生まれなったイエズス様の望みが叶いますように、お祈り致しましょう。

イエズス様が来られたのはマリア様を通してでした。ですからマリア様を通して、マリア様にお願いして、私たちの霊魂にも生まれて下さるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


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