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1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(つづき)

2007年12月10日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話の続きを紹介します。


1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)

Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.

 音声ファイル:Mgr Lefebvre: Ils l'ont decouronne

(つづき)


 「信教の自由」という原理によって、カトリック的に理解された信教の自由とは何だったのでしょうか? 全ての教皇様たちは第二バチカン公会議までこのこの意味において使っていました。本当の信教の自由とは、市民社会において真の宗教が実践し行使することの出来る自由、真の宗教のもつ自由、ということです。真の宗教が市民社会における行使の自由とは、(今の理解のしかたとは)全く別のものです!

 (カトリック的理解における真の)信教の自由とは、全ての諸宗教の自由ではありません。全ての考え、全ての思想・道徳の自由ではありません。全く違うものです。私たちは今、正に、自由主義(リベラリズム)のまっただ中にいます。これは極めて大変なことです。

 これは私たちの信仰を攻撃します。私たちの主イエズス・キリストの王冠は奪われました。この言い方は決して言いすぎではないと保証します。私たちの主イエズス・キリストはいったい誰によって王冠を奪われたのでしょうか?もう一度言いますが、教会の聖職たちによって、司教たちによって、ローマによって王冠を奪われたのです。ありのままをそのまま言わなければなりません。ローマが教皇大使に、全ての教皇大使に奨励して、国家がもはやカトリックではないように、中立であるように要求するようにさせたのです。

 その結果は? その結果は、ありとあらゆる想像するかぎりのセクトが繁殖したことです。これらのセクトが所有するお金を持って、とくにアメリカのセクトは世界中どこでも広がっていきました。皆さんもご存じでしょう。非常にしばしばいろいろなところでエホバの証人、アドヴェンティスト、モルモン教、などなどの建物が建てられています。今ではどこでもそうです。

 そのために以前、マスメディアは六千万の(ラテン)アメリカ人が、1968年以後、つまり第二バチカン公会議以後、カトリックからセクトに移ったことを報道したことがあります。

 この時以来、正に、カトリック国家を廃止し、聖座がカトリック国家に要求して、全ての宗教に門戸を開くようにさせたのです。その結果、セクトが繁殖したのです。この通りです。これにより六千万の南アメリカ人が背教したのです。セクトに入信するためにカトリック宗教を捨てたのです。これは公式の記録です。何という巨大な数でしょうか!

 もしもヨーロッパで計算すると、数百万のカトリック信者らがイスラム教に、或いは実際上の無神論に移ってしまっている、あるいは宗教を捨ててしまったのをみて驚くでしょう。数百万人もの多くの人々が!

 見て下さい。社会と良心の非キリスト教化の結果です。だから私たちは同意することが出来ないのです。私が枢機卿に言ったのはこのことです。出来ません。私たちは、その反対です。私たちの全存在、私たちの全ての命、私たちの全理想、私たちが持つ全ての手段、私たちがする全ての説教、私たちが建設する全神学校、私たちがたてる全ての修道院、それらは全てが全て、私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。願わくはイエズス・キリストが統治せんことを! 

 私たちはこれを天にましますの祈りの中で祈っています。御国の来たらんことを! これこそ私たちの命です。

 枢機卿様、あなたはイエズス・キリストが減るようにさせています、イエズス・キリストの統治について語らないようにさせています、私たちの主イエズス・キリストの社会統治とその御国について語らないようにさせています。

 厳密に言えば、個人の良心において、厳密に言えば家族において、イエズス・キリストの統治はありうるかも知れない、しかし公にはあり得ない、と?

 何故でしょうか? 何故なら、枢機卿様、あなたはこれが誰かを間違っていることにするので怖ろしいからです。イエズス・キリスト公の統治が、ユダヤ教徒、イスラム教徒、プロテスタントの気に入らないからです。何故なら、エキュメニズムのためです。

 私たちは私たちの主についてあまり語りません。何故でしょうか? 私たちの主に対する敬意がもはやありません。だから至る所で十字架を取り去ってしまいました。

 バチカンにおいてさえ、バチカンの謁見の間でさえです! 今では全ての十字架像を取り除き、何の意味もない絵を飾るようになりました。現代絵画の様式の絵です。これが何を意味しているのか誰も知りません。絵の具を筆につけてチョコチョコっと書き殴ってあるやつです。何の意味なのかよく分からない絵です。

 象牙で出来た素晴らしい十字架像や、極めて精巧に出来た大きな十字架像、「誰それの王からの寄贈」「どこそこの国からの寄贈」「某君主からの寄贈」などと書かれたプラカードがついている十字架像などは全て取り除かれてしまいました。昔は、謁見を待ちながらこの素晴らしい十字架像を鑑賞して眺めていることも出来ました。素晴らしくてうっとりしていたものです。しかしそれらは全て取り除かれてしまいました。私はバチカンで尋ねてみました。私を受け付けてくれた秘書に尋ねてみました。

「何故美しい十字架像を取り除いてしまったのですか?」
「分かりますか、今ではユダヤ教徒、イスラム教徒、などを受け付けているんです。彼らの気に入らないんです。分かりますか。」

 私たちの主を見ることが彼らの気に入らない、だから十字架像を全て取り除いた!

 これが私たちが今どこにいるか、ということです。彼らは私たちの主を外に追い出し追放しているのです。近代の教会建築を見て下さい。祭壇の上にはもはや十字架像がありません。十字架像のようなものはまだありますが、何という十字架像でしょうか! 非常にしばしば怖ろしく醜いもので、祭壇の脇に置かれています。脇に置くのはどこに置いたらいいか分からないからです。私たちの主への尊敬はもはやありません。十字架像への敬意はもうありません。

 私たちの主イエズス・キリストはもう統治していません。私たちの主にはもはや統治する権利がないのです。それでも私たちは同意しません。これに賛成できません。これが私たちのドラマです。ここに現在のローマの態度に対する私たちの立場があるのです。

 そして(今から言うことは)アシジにおいて起きたことについて話すのではありません。京都で起こったことです。

 アシジへ諸宗教の代表者が集まったことも、厭わしいことでした。教皇様御自身も十字架像を身につけていませんでした。教皇様は十字架を胸に掛けていませんでした。教皇様は上着で十字架を隠していました。ユダヤ教徒やイスラム教徒らの目とそこにいた全ての異教徒の目、教皇様の周りにいた人びとの目を傷つけないように。

 教皇様には十字架の印がもはやありませんでした。教皇様が十字架を掛けていたのかいなかったのか私には分かりません、とにかく教皇様は白い上着を着ていました。写真で見ることが出来ます。教皇様の十字架像も教皇様のキリストも見えません。

 京都ではアリンゼ枢機卿(Cardinal Arinze)がバチカン代表者たちの座長となっていました。アリンゼ枢機卿様は私がよく知っているナイジェリアの司教です。何故なら、彼の故郷ル・ビアフラ(le Biafra)を宣教したのは聖霊修道会の私たちの神父たちだからです。アリンゼ枢機卿はどこから来たのでしょうか? 私は彼とその現地で会ったことがあります。確かに彼は立派な人であり、信仰の人です。しかし、彼は聖座によって他の二十名と共に送られてきました。それは京都の諸宗教の議会に聖座を代表するためでした。アリンゼ枢機卿には第四番目の場所が与えられました。まず、日本人、つまり日本の宗教、次に仏教、次にイスラム教、それからカトリックです。

Francis Cardinal Arinze

 私たちの主は神々の第四番目、礼拝される神々の四番目なのです。私たちは今どこにいるのでしょうか?何世紀に生きているのでしょうか?私たちはどのような環境に生きているのでしょうか?一体何がまだ私たちの主イエズス・キリストを信じているのでしょうか?もしも唯一の天主しか存在しないとするなら、(その他の神々を信じて同時に)私たちの主イエズス・キリストが天主であると信じることは不可能です。従って、天主である私たちの主イエズス・キリストしか存在しないことになります。これを曖昧には出来ません。それは不可能です。私たちが死ぬとき、誰が私たちを裁き給うのでしょうか。誰が私たちを天国に受け入れてくれるのでしょうか。誰が私たちを排斥し地獄に落とすのでしょうか。私たちの主イエズス・キリストです。イエズス・キリストです。イエズス・キリストが私たちを想像し給うたのです。イエズス・キリストが私たちを存在において保ち給うのです。イエズス・キリストこそが十字架の上で私たちを救い給うたのです。イエズス・キリストこそが、天国で私たちを受け入れ給うのです。イエズス・キリストが私たちに栄光を与えるのです。イエズス・キリストこそ私たちを喜びのうちに永遠に保ち給うでしょう。その他ではありません。聖父と聖霊と共に一致したもう天主以外のものを探してはなりません。もちろん、聖三位一体であり、唯一の天主しかましません。二柱の天主があるのではなく、唯一の天主のみがまします。

 それではこれらの礼拝されている神々は、何の意味もないのです。全く何でもないのです。つい最近、カルメル会修道女が、私たちのカルメル会修道女ではなく、--- 幸いなことに --- こう言うのです。
「しかし、大司教様、これらの宗教はみな同じ天主に祈っています。」

 カルメル修道女の院長が私にこう言ったのです。どこまで躓きが広がっているか見て下さい。この集会の躓きが。修道女でさえです。何故なら、これは良いカルメル会修道女だからです。彼女は真の天主と偽りの神とを区別することが出来なくなってしまっています。もう区別もありません。「しかし、大司教様、彼らはみな同じ天主に祈っています」と。しかし、ユダヤ教徒は私たちの主イエズス・キリストに祈るのでしょうか? ユダヤ教徒が? イスラム教徒は私たちの主イエズス・キリストに祈るのでしょうか? 仏教徒は私たちの主に祈るのでしょうか? いいえ! いいえ! 祈りません。(こう質問すると)彼らは何と答えて良いか分かりません。もちろん、明らかに彼らは私たちの主に祈らないばかりか、彼らは私たちの主に対立しています、全面的に反対しています。

 彼らは反キリスト教徒です。イスラム教徒と特にユダヤ教徒が反キリスト教徒です。この二つの宗教はユダヤ人によって創立されました。イスラムはユダヤ教を起源にしています。私たちの主イエズス・キリストを十字架につけた人びとに由来しています。彼らがイスラムを創立し形づくったのです。そのためにイスラム教徒の宗教儀式は、ユダヤ教の儀式と良く似ています。こうして彼らは形づくられたのです。私たちの主イエズス・キリストに対立するように。同じように、ユダヤ教徒も私たちの主イエズス・キリストを信じていません。私たちは使徒達とユダヤ人の全ての人びとに感謝しています。それは天主がご存じです。私たちの主はユダヤ民族から生まれました。もちろんです。聖母マリア様もそうです。ユダヤ人たちを通して私たちに贖いの聖寵が伝えられたのです。ただし回心し(て私たちの主を信じ)たユダヤ人です。彼らは回心したのです。ただし、それは私たちの主に反対し私たちの主を十字架につけた人々ではありません。

 私たちの主に反対する人々は私たちの主の神秘体、つまりカトリック教会を十字架に付け続けています。幻想を抱いてはなりません。明らかです。

 ではローマでは? ローマで何が起きているかもう理解できません。大きな神秘です。大神秘です。本当にはかり知ることの出来ない神秘です。

 そこでこの神秘を前にして、お分かりになるでしょうか、私たちの主の王冠を奪う信教の自由の断言を前にして、この間違って定義されたリベラルな自由を前にしているのです。--- 何故なら同じ言葉は使っていますが別の定義を与えているからです --- 信教の自由は全く別のやり方で定義されているからです。

 私は皆さんにカトリックの定義を与えましょう。まず彼らにとっては「宗教に関する強制の不在」です。「強制の不在」「宗教に関する」。ここには真理ということが言われていません。ここでは真理や誤謬との関係がもはやありません。だから(この定義では)どこから始まってどこで終わるのか分かりません。不正確です。「宗教に関する強制の不在」、これは(カトリックの定義する信教の自由とは)全く別物です。全く違っています。彼らもそのことを言っています。そのことを隠そうとはしません。彼らは言います、ああ、そうそう、新しいことです、革新的なことです、その通りです、新しいことだと認めなければなりません、と。

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