アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは! ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビューを日本語に翻訳して下さった方がおられるので、感謝しつつこれを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
イタリア語の原文は次で読むことが出来ます。
Intervista a don Davide Pagliarani
フランス語の翻訳は次にあります。
Entretien avec M. l’abbé Pagliarani à propos des entretiens théologiques
英語版は、次にあります。
Interview with Fr. Davide Pagliarani
ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー その3
(続き)
この文書 [ウニヴェルセ・エクレジエ] の中で、この様な<信徒の良心の>統制を行おうという意図を著した箇所が他にあるとお考えですか?
私のつまらない考えでは、特に一つあります。モートゥ・プロプリオ が、<1962年版>ミサ典書に加え、全ての<旧>典礼書の自由な使用を復活させたにもかかわらず、この指導文書はある非常に特殊な場合に於いては、聖伝の典礼書の使用を禁じています。それは エクレジア・デイ 委員会の傘下にあるか、既にトリエント典礼を使用している修道会組織向けの特例は除いた、司祭叙階の場合です(第31項)。
このことは、却って驚くべき事であります。特に教区の叙階式の場合には(当然、司教が自由に自分の好みの典礼書を使うことができるべきであるのにそうではないので)驚きです。何故なら、現代の教会論が、司教が使徒たちの後継者である事を理由にして、教区司教を典礼に関するの調停役かつ真の典礼専門家と見做す事を極めて強く主張しているからです。しかしながら、もし私たちが古典的かつ典型的な聖座による<聖伝のミサに反対している勢力との>妥協を考察するなら、この<一部適用禁止に関する>説明は、むしろ言う必要のない明白な事に思えます。
一方で、エクレジア・デイ 委員会傘下にある修道会は、双方の署名のなされた憲章を持ち、バチカンの担当機関によって直に統制されているのですが(私が後で説明します)、他方で、1962年版の典礼書を使う司教は、<エクレジア・デイ 委員会傘下にある修道会と>同じ条件で統制を受ける事はあり得ません。
その結果、新典礼による叙階式を執り行うようにとの厳格な有無を言わせない要求は、聖職受任候補者たち(と司教自身)が、自らの人生や教区生活に於いては間違いなく最重要かつ重大なものである<叙階という>式典に、新典礼を採用する事を以って、この指導文書第19項に完全な承諾を示している事を十分に証明するものと思われる外的印なのです。
従って、この要求は、1984年度発行の特典(Indult)の適用に関わったほぼ世界的な慣例に似た効力を持っています。この特典が授与された様々な多くの教区では、信徒たちが自分の教区への繋がりや、この繋がり故に、パウロ六世の典礼様式に対する承諾の表明を可能にするために、御降誕祭と御復活祭には聖伝のミサが執り行われないよう要求されました。
これと同じやり方が用いられたものの中でもかなり意義深かったのが、聖ペトロ会に強要された2000年の命令です。これは、教区長と自分たちとの交りや、自分たちが公にそして心から新しいミサを受け入れていることを表明する為に、少なくとも聖木曜日には教区司教と共に共同司式をすることという温かい招待とともに、聖ペトロ会会員たちが新典礼様式に則ったミサを自由に捧げる事ができると会が同意しなければなりませんでした。聖ペトロ兄弟会はエクレジア・デイ傘下の修道会であるにも拘らず、この修道会内に存在する一部の強情な会員たちが、パウロ六世のミサ様式に対する反感をより声だかに表明したまさにその時、この措置が必要だと証明したことに注目してください。その時この困難な状況下にあった当時の総長<ジョゼフ・ビズィグ(Fr. Josef Bisig)神父>は、直接 エクレジア・デイ 委員会から総長職を取り上げられ、修道会総会による選出には拠らず、却って エクレジア・デイ 委員会自身の押し付けた司祭と取り替えられてしまいました。
当時、典礼秘蹟聖省の長官はメディナ・エステヴェス(Medina Estevez)枢機卿でしたが、その少し前にカストゥリオン・ホヨス(Castrillon Hoyos)枢機卿がエクレジア・デイ 委員会の委員長に任命されていました。
そういう状況なので、例の指導文書<ウニヴェルセ・エクレジエ>履行命令は、先ほど申し上げた第19項と共に、ベネディクト十六世による<2007年公布の>モートゥ・プロプリオ 以上に、ヨハネ・パウロ二世による特典(インダルト)からの影響をさらに受けているように考えられます。
ところで、それにも拘らず、ベネディクト十六世御自身によって宣言されたのは言ってみれば、「実際に一度として廃止された事のないミサ典書の使用を、1984年の特典は、幾つかの事例と限定された正確な条件に基づく場合には、寛大に認めると断言している」という事です。そして、ウニヴェルセ・エクレジエは、これと同じ教会法的かつ道徳的な不合理に逆戻りしているように見えるのです。この不合理は、トリエント<公会議>に少しでも結び付くもの全てに対する軽蔑と恐れ ---- 私は「憎しみ」とは言わないでおくことにします ---- という文脈の中に置かれてようやく理解出来るものなのです。
Dulcis in fundo [大事な事を一つ言い残しましたが]、全ての人々は司祭会が第31項も第19項も決して受け入れないとよく知っているので、
一方で、全ての不平分子は聖ピオ十世会を“不従順”だと批判する事により、自分たちの“教会法厳守”を見せびらかそうと努め、他方ではそう批判はしておきながらも、聖ピオ十世会の非妥協的な態度も自分たちの為に何か建設的なものを間接的に手に入れてくれるだろうと期待しながら聖ピオ十世会を観察しているわけです。
ですから私たちは、再度「成り行きを見ようと遠くから付いて行った“sequebatur a longe ut videret finem”」<マタ26:58>と、私たちが先ほど言及した聖ピオ十世会に対する功利主義的期待というテクニックが見えます。
マルセル・ルフェーブル大司教様の御逝去二十周年記念式典が2011年<3月25日>に行われました。二十年が経っても、この人物像は議論を巻き起こし続けており、時の流れと共に、ますます教会と文化の範囲内に関心を呼び起こしているようにさえ思えます。神父様のお考えでは、一昔は多くの人々が古臭く時代遅れなものとしてさっさと片付けてしまっていた高位聖職者のこの“第二の青年期”(返り咲いたような関心や人気)は一体何の理由なのでしょうか?
ルフェーブル大司教様は何か不滅なものを体現化しました。それは公教会の聖伝です。また(私にこの表現を使う事が許されるならですが)もし聖伝がその人の中で“生きる”のを決して止めなかった司教がいるとすれば、それは間違いなく“反逆の”司教です。例えば、当時誤って廃止され禁じられたものとして見做されていた聖伝ミサの執行を公然と一度も止めなかった唯一の高位聖職者が、聖ピオ十世会の創立者でした。彼はただ単に印刷され、埃をかぶったミサ典書を新しい世代に譲り渡しただけではなく、御自分が完全にかつ個人的にそれと関わって、祭壇上に日々現存される正真正銘の生きる宝物を守りそして伝えたのです。
もし誰かが、何よりも先ず司祭職と典礼の危機にこそ、公教会の危機は根を張っており、またそこにこそこの危機が示されている事を本当に気付き始めるとすれば、人間を救うために、そして司祭職と典礼の両者を救うために、全精力を使い果たした方に言及する事は避けられません。
ですから、もしも誰かがトリエント・ミサ又は聖伝について語る時、単にこの方から距離を置き、政治的に正しいと自己証明をするためだけだったとしても、全く乗り気のしない評論家でさえ彼について語るよう強いられるでしょう。
ところが、彼について良かれ悪しかれ語る人は、聖伝を語らずしてそうする事は出来ません。この聖伝こそが、“ルフェーブル派”などとはほど遠く、それどころか、単にそして永遠に、カトリック的なのです。
(了)
愛する兄弟姉妹の皆様、
こんにちは! ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビューを日本語に翻訳して下さった方がおられるので、感謝しつつこれを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
イタリア語の原文は次で読むことが出来ます。
Intervista a don Davide Pagliarani
フランス語の翻訳は次にあります。
Entretien avec M. l’abbé Pagliarani à propos des entretiens théologiques
英語版は、次にあります。
Interview with Fr. Davide Pagliarani
(続き)
この文書 [ウニヴェルセ・エクレジエ] の中で、この様な<信徒の良心の>統制を行おうという意図を著した箇所が他にあるとお考えですか?
私のつまらない考えでは、特に一つあります。モートゥ・プロプリオ が、<1962年版>ミサ典書に加え、全ての<旧>典礼書の自由な使用を復活させたにもかかわらず、この指導文書はある非常に特殊な場合に於いては、聖伝の典礼書の使用を禁じています。それは エクレジア・デイ 委員会の傘下にあるか、既にトリエント典礼を使用している修道会組織向けの特例は除いた、司祭叙階の場合です(第31項)。
このことは、却って驚くべき事であります。特に教区の叙階式の場合には(当然、司教が自由に自分の好みの典礼書を使うことができるべきであるのにそうではないので)驚きです。何故なら、現代の教会論が、司教が使徒たちの後継者である事を理由にして、教区司教を典礼に関するの調停役かつ真の典礼専門家と見做す事を極めて強く主張しているからです。しかしながら、もし私たちが古典的かつ典型的な聖座による<聖伝のミサに反対している勢力との>妥協を考察するなら、この<一部適用禁止に関する>説明は、むしろ言う必要のない明白な事に思えます。
一方で、エクレジア・デイ 委員会傘下にある修道会は、双方の署名のなされた憲章を持ち、バチカンの担当機関によって直に統制されているのですが(私が後で説明します)、他方で、1962年版の典礼書を使う司教は、<エクレジア・デイ 委員会傘下にある修道会と>同じ条件で統制を受ける事はあり得ません。
その結果、新典礼による叙階式を執り行うようにとの厳格な有無を言わせない要求は、聖職受任候補者たち(と司教自身)が、自らの人生や教区生活に於いては間違いなく最重要かつ重大なものである<叙階という>式典に、新典礼を採用する事を以って、この指導文書第19項に完全な承諾を示している事を十分に証明するものと思われる外的印なのです。
従って、この要求は、1984年度発行の特典(Indult)の適用に関わったほぼ世界的な慣例に似た効力を持っています。この特典が授与された様々な多くの教区では、信徒たちが自分の教区への繋がりや、この繋がり故に、パウロ六世の典礼様式に対する承諾の表明を可能にするために、御降誕祭と御復活祭には聖伝のミサが執り行われないよう要求されました。
これと同じやり方が用いられたものの中でもかなり意義深かったのが、聖ペトロ会に強要された2000年の命令です。これは、教区長と自分たちとの交りや、自分たちが公にそして心から新しいミサを受け入れていることを表明する為に、少なくとも聖木曜日には教区司教と共に共同司式をすることという温かい招待とともに、聖ペトロ会会員たちが新典礼様式に則ったミサを自由に捧げる事ができると会が同意しなければなりませんでした。聖ペトロ兄弟会はエクレジア・デイ傘下の修道会であるにも拘らず、この修道会内に存在する一部の強情な会員たちが、パウロ六世のミサ様式に対する反感をより声だかに表明したまさにその時、この措置が必要だと証明したことに注目してください。その時この困難な状況下にあった当時の総長<ジョゼフ・ビズィグ(Fr. Josef Bisig)神父>は、直接 エクレジア・デイ 委員会から総長職を取り上げられ、修道会総会による選出には拠らず、却って エクレジア・デイ 委員会自身の押し付けた司祭と取り替えられてしまいました。
当時、典礼秘蹟聖省の長官はメディナ・エステヴェス(Medina Estevez)枢機卿でしたが、その少し前にカストゥリオン・ホヨス(Castrillon Hoyos)枢機卿がエクレジア・デイ 委員会の委員長に任命されていました。
そういう状況なので、例の指導文書<ウニヴェルセ・エクレジエ>履行命令は、先ほど申し上げた第19項と共に、ベネディクト十六世による<2007年公布の>モートゥ・プロプリオ 以上に、ヨハネ・パウロ二世による特典(インダルト)からの影響をさらに受けているように考えられます。
ところで、それにも拘らず、ベネディクト十六世御自身によって宣言されたのは言ってみれば、「実際に一度として廃止された事のないミサ典書の使用を、1984年の特典は、幾つかの事例と限定された正確な条件に基づく場合には、寛大に認めると断言している」という事です。そして、ウニヴェルセ・エクレジエは、これと同じ教会法的かつ道徳的な不合理に逆戻りしているように見えるのです。この不合理は、トリエント<公会議>に少しでも結び付くもの全てに対する軽蔑と恐れ ---- 私は「憎しみ」とは言わないでおくことにします ---- という文脈の中に置かれてようやく理解出来るものなのです。
Dulcis in fundo [大事な事を一つ言い残しましたが]、全ての人々は司祭会が第31項も第19項も決して受け入れないとよく知っているので、
一方で、全ての不平分子は聖ピオ十世会を“不従順”だと批判する事により、自分たちの“教会法厳守”を見せびらかそうと努め、他方ではそう批判はしておきながらも、聖ピオ十世会の非妥協的な態度も自分たちの為に何か建設的なものを間接的に手に入れてくれるだろうと期待しながら聖ピオ十世会を観察しているわけです。
ですから私たちは、再度「成り行きを見ようと遠くから付いて行った“sequebatur a longe ut videret finem”」<マタ26:58>と、私たちが先ほど言及した聖ピオ十世会に対する功利主義的期待というテクニックが見えます。
マルセル・ルフェーブル大司教様の御逝去二十周年記念式典が2011年<3月25日>に行われました。二十年が経っても、この人物像は議論を巻き起こし続けており、時の流れと共に、ますます教会と文化の範囲内に関心を呼び起こしているようにさえ思えます。神父様のお考えでは、一昔は多くの人々が古臭く時代遅れなものとしてさっさと片付けてしまっていた高位聖職者のこの“第二の青年期”(返り咲いたような関心や人気)は一体何の理由なのでしょうか?
ルフェーブル大司教様は何か不滅なものを体現化しました。それは公教会の聖伝です。また(私にこの表現を使う事が許されるならですが)もし聖伝がその人の中で“生きる”のを決して止めなかった司教がいるとすれば、それは間違いなく“反逆の”司教です。例えば、当時誤って廃止され禁じられたものとして見做されていた聖伝ミサの執行を公然と一度も止めなかった唯一の高位聖職者が、聖ピオ十世会の創立者でした。彼はただ単に印刷され、埃をかぶったミサ典書を新しい世代に譲り渡しただけではなく、御自分が完全にかつ個人的にそれと関わって、祭壇上に日々現存される正真正銘の生きる宝物を守りそして伝えたのです。
もし誰かが、何よりも先ず司祭職と典礼の危機にこそ、公教会の危機は根を張っており、またそこにこそこの危機が示されている事を本当に気付き始めるとすれば、人間を救うために、そして司祭職と典礼の両者を救うために、全精力を使い果たした方に言及する事は避けられません。
ですから、もしも誰かがトリエント・ミサ又は聖伝について語る時、単にこの方から距離を置き、政治的に正しいと自己証明をするためだけだったとしても、全く乗り気のしない評論家でさえ彼について語るよう強いられるでしょう。
ところが、彼について良かれ悪しかれ語る人は、聖伝を語らずしてそうする事は出来ません。この聖伝こそが、“ルフェーブル派”などとはほど遠く、それどころか、単にそして永遠に、カトリック的なのです。
(了)