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ドモルネ神父様の説教:命をかけてさえも伝えなければならないのは生きたカトリックの信仰である

2020年12月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

ドモルネ神父様の今日のミサのお説教をご紹介いたします。

しもべの忠実さについての短い説教(待降節第四主日)

はじめに
この書簡で、聖パウロは私たちにこう教えています。「私たちをキリストのしもべ、また天主の奥義の管理者だと考えよ。管理者に要求されるのは、忠実である」(コリント前書4章1節)。主が私たちに期待しておられるこの忠実について少しお話ししましょう。

天主の統治
宇宙と私たちのいのちの創造主である天主は、すべての知恵と善の源です。天主は、世の最初の瞬間から最後の瞬間まで、最も細部に至るまでのすべてのことをご存じであり、総攬しておられます。これは、私たちが天主のご計画を受動的に、運命論的に「受ける」以外に何もすることがないということなのでしょうか? そうではありません。なぜなら、天主は、私たちが天主のご計画の実行に、能動的に、自由に、自発的に参加できるように、天主のご計画についての知識と理解をある程度示してくださるからです。ですから、善き主が私たちに期待なさっているのは、一人一人がそれぞれのレベルで、天主のご計画を受け入れて忠実に実行することです。それは、ある家の詳細な計画をつくった建築家が、その家を建てようとしている職人にそれを説明するようなものです。建築家は、職人に何を期待するでしょうか? 示された計画を忠実に実行して、自分のノウハウとエネルギーを注ぎ込むことです。

善き主は、聖書と教会の聖職者の永年にわたる教えを通して、三位一体の栄光と私たちの主イエズス・キリストによる人類の永遠の救いのために立てられた主のご計画について私たちが知るべきことを、私たちに明らかにしてくださいました。天主は今、私たちが、積極的に、忠実に、忍耐をもって、私たちのあらゆるエネルギーと資質をこの計画に注ぐことを期待しておられます。

洗者聖ヨハネの忠実
待降節の間、教会は特に洗者聖ヨハネについて私たちに黙想させます。彼は忠実なしもべの典型であり、私たちすべての偉大な模範です。善き主は、ご托身のご計画、パレスチナでの救い主のご生涯を詳細に示してくださいました。主は、洗者聖ヨハネを救い主の先駆者とし、ご托身の神秘についての知識を彼に導入して、私たちの主イエズス・キリストを迎え入れ、主のもとに送り出すための霊魂の準備ができるようになさったのです。

聖ザカリヤは讃歌の中で、自分の子の計画を預言的にこう表現しています。「主に先立ってその道を準備し、罪の赦しによって救いの来たことを、その民に教える」(ルカ1章77節)。洗者聖ヨハネは、天主のご計画の中での自分の立場を理解し、忠実に自分の使命を果たし、一人一人に救いの真理を説きました。

彼はすべての人に「悔い改めにふさわしい実を結ぶがよい」(ルカ3章8節)、「二枚の上着を持つ者は、持たぬ者に分けよ。食べ物を持つ者も同じようにせよ」(ルカ3章11節)と言いました。彼は盗んでいる役人【税吏】に対して、「決まったもの以外のものを何一つ要求するな」(ルカ3章13節)と、正義の徳を説きました。

また、残忍で抑圧的な警察や軍隊に対しては、「人を困らせたり、偽りの訴えをするな。自分の給料で満足せよ」(ルカ3章14節)と、剛毅の徳を説きました。

高慢で異端的な宗教指導者に対しては、「まむし族の者よ、近く来るお怒りから逃れることを、誰があなたたちに教えたのか」(マテオ3章7節)と、その悪意を非難し、彼らに「私はその履物の紐を解く値打ちもない」(ヨハネ1章27節)と、イエズス・キリストの真のしもべの謙遜を説いたのです。

人をつまずかせる政治的指導者に対しては、「兄弟の妻をめとるのはよろしくない」(マルコ6章18節)と、彼らの腐敗を非難しました。すべての人に対して、洗者聖ヨハネは、「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ。・・・私はそれを見、そして、その方こそ天主の御子であると証明した」(ヨハネ1章29、34節)と、永遠の救いへの道を示したのです。

そして、その忠実な証明のために、彼は殺されました。私たちはこのことにショックを受けるべきでしょうか? 私たちはこれを恐れるべきでしょうか? いいえ、なぜなら「管理者に要求されるのは、忠実である」からであり、これは殉教へと至らせるからです。洗礼者ヨハネは最後まで忠実でした。「まことに私は言う、女から生まれた者のうちで、洗者ヨハネよりも偉大な人は出なかった」(マテオ11章11節)彼に栄光あれ。

私たち自身の忠実さ
聖パウロの「管理者に要求されるのは、忠実である」というこの言葉は、私たち一人一人にも当てはまります。私たちは、それぞれのレベルで、信仰の宝の管理者です。善き主は、私たちの主イエズス・キリストを通してのみ、いかにしてすべてのほまれが主に捧げられるか、また、いかにして人類の救いが私たちの主イエズス・キリストを通してのみ可能であるかを、私たちに知らせてくださいました。使命を探す必要はありません。私たちに行うよう求められているのは、個人生活、家庭生活、社会生活、政治生活において、忠実なキリストの証人となることです。そして、それが現代の市民社会や宗教社会の税吏、兵士、ファリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党を喜ばせないのであれば、あまりにも残念なことです。

親愛なる信徒の皆さん、待降節の期間中、私たちは二つのことを準備しています。

一つは過去についてのこと、もう一つはクリスマスの日の救い主の誕生日です。イエズスをたたえて、皆さんは、皆さんの子どもたちや親戚、友人にさまざまな贈り物をするでしょう。それは良いことです。

第二のことは未来に関するもので、この世の終わりに同じ救い主が来られて、生ける人と死せる人を裁かれることです。この瞬間を考慮しながら、皆さんの子どもたちや両親、友人に贈るべき非常に大切な贈り物があります。それはカトリックの信仰です。私たちの主は福音書の中で、このように恐ろしい警告をなさいました。「人の子の来る時、地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18章8節)。これは、私たちが生ぬるさと不信仰に陥ることを暗示しています。

ですから、クリスマスプレゼントを包んでいる間に忘れないでいただきたいのは、何よりも、どんな困難に直面しても、そして命をかけてさえも、皆さんが伝えなければならないのは、生きたカトリックの信仰であるということです。





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1 コメント

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Unknown (ヨハネ)
2020-12-20 23:26:16
2006年夏から2020年の灰の水曜日まで聖イグナチオ教会で日曜のミサに与っていましたが、このような説教は聞いたことがありません。

このような、というのは本当のことを言うということ、神父として信者に言わなければならないこと、伝えなけれなならないことを、はっきりと言うことです。聖イグナチオ教会に限らず、今の日本の教会には、このような姿勢が弱いように思います。私たちは、善い神父様を得て幸せです。私たちも善い神父様に見合う善い信者になる覚悟が問われていますね。努力しないと。
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