Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2023年12月6日は、十二月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年12月06日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年12月6日は、聖ニコラオの祝日であり、初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


【参考情報】イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

2023年11月29日 | カトリック・ニュースなど

イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

Italian priest suspended for criticizing errors of Amoris Laetitia in new book

「私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです」。

マイケ・ヒクソン

米東部標準時夏時間2023年5月1日午後5時2分

(LifeSiteNews)―2004年に叙階されたイタリア人カトリック司祭ドン・トゥリオ・ロトンド【ドンとは神父という意味】は、2016年の教皇フランシスコのシノドス後の使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Laetitia)に含まれる誤謬に反対する著書を出版したことで、司教から「聖職」(a divinis)停止処分を受けました。ドン・ロトンド【ロトンド神父】の本の序文を書いた世界的に有名な古典哲学者であるジョン・リスト教授は、LifeSiteに対して、彼の聖職停止処分は「全く不当なもの」であると語り、付け加えて、ドン・ロトンドは「何百年もの間、カトリックの道徳神学であると信じられてきたものを擁護したために罰せられた」と述べました。彼の聖職停職処分は、カトリック教会にはふさわしくない、一種の権威の隷属的濫用の一例です。

ドン・ロトンドはLifeSiteのインタビューに応じ(全文は下部参照)、その中で「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題した自著の論旨を詳しく説明しています。ドン・ロトンドによれば、この著書は「告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と協力者たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬」を浮き彫りにしています。この司祭は、いかなる秘跡の執行も禁じられるという聖職停職処分を受けていますが、心は平安です。

「今は私の人生で最も幸せな時間です」と彼はLifeSiteに語ります。「なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています」。イゼルニア=ヴェナフロ教区のカミッロ・チボッティ司教から著書の出版を撤回するように言われたとき、彼はそうするのを拒否しました。

教皇フランシスコがチボッティを司教に指名した後、チボッティは2014年にブルーノ・フォルテ大司教一人だけによって聖別されましたが、この大司教は2014年の家庭に関するシノドスにおいて、異端的な行動計画(アジェンダ)を押し進めるために教皇フランシスコと密接に協力し、重要な役割を果たしました。

LifeSiteNewsは、チボッティ司教が署名した2023年2月2日付の聖職停止命令を確認することができました。この命令は、「正当な教区長に対する不従順」について明確に言及しており、「警告後も不従順にとどまる」司祭は処罰される可能性があることを述べている教会法典1371条を引用しています。

イタリア人ジャーナリストのアルド・マリア・ヴァッリによって発行された自著の解説の中で、ドン・ロトンドは2022年6月、従順についての自分の理解をこう説明しました。

私はこの点に関して、明らかに法的に無能力な一部のキリスト信者が、聖書本文の誤った解釈のせいもあって、キリスト信者の従順とは、常に長上の言うこと、特にそれが教皇である場合には、それに従うことであると信じており、従って、彼らは、教皇の発言や裁定に反対する者は誰でも不従順であると指摘します。キリスト信者は、何よりもまず天主なる至高の長上に従わなければならず、従って、他の長上の指示や命令に従わなければならないのは、これらの指示や命令が天主の指示や命令と対立しない限りにおいてのみです。聖トマスはこの点について非常に明確です。

リスト教授――リスト教授自身も2019年、教皇フランシスコの異端を告発する公開書簡に署名したことで、ローマのすべての教皇庁立大学から教えることを禁じられる処分を受けた――は、ドン・ロトンドの著書の序文にこう書いています。

「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされた。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかだ。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂された。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)である。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証した」。

リストはこう付け加えています。「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすだろう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすだろう」。

LifeSiteへのコメントで、リストはこの著書が「教皇フランシスコが、教会内にある深くて実際には根本的な分裂をいかにして挑発したか(実際には、むしろ露呈させて助長したか)」を示していると説明しています。ドン・トゥリオは、細心の注意とプロ意識をもって、『愛のよろこび』に関する論争の両面を記録している」。この英国人リスト教授は、ドン・トゥリオ・ロトンドに対する司教の聖職停止処分が不当である理由を説明し、次のように述べています。「司教はドン・トゥリオに著書を撤回するよう命じた。それよりもむしろ司教は、聖伝のカトリックの教えを熱烈に擁護するドン・トゥリオを称賛すべきだったのだ」。

リストは続けてこう述べています。「司教は、そう行動することで、教皇に、正統神学の第一の守護者(唯一の守護者ではない)としての正しく聖伝的な役割に戻るよう促すのではなく、教皇が聖伝である(すなわち、教皇が主張することがカトリックの真理である)と信じている司教団の中のかなりのグループと足並みを揃えたのだ」。

「愛のよろこび」は、多くの聖職者や平信徒にとって懸念と苦悩の原因となっています。なぜなら、教会の道徳的戒律(例えば結婚に関して)に従って生活していないカトリック信者が、それにもかかわらず悔い改めることなく秘跡にあずかる道を開くものだからです。この文書に触発されて、2016年11月にカトリック教会の4人の枢機卿は、彼らの「ドゥビア」を発表しました。彼らはすでに、教皇フランシスコに個人的にこの文書を送りました。彼らの疑問は今日に至るまで教皇によって回答を与えられていません。

ドン・トゥリオ・ロトンドはLifeSiteとのインタビューの中で、オーストリアの国際的に有名な哲学者であるヨゼフ・ザイフェルト教授が当時、この教皇文書をどのように評価していたかを読者に思い起こさせています。
「ザイフェルト教授は、『愛のよころび』の303番は、『十戒とカトリックの道徳的教えという道徳的建築物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾である』と述べました」。ザイフェルト教授自身もまた、自分の批判に対して、2017年に自分が教えていたスペインのグラナダ教区から処分を受けました。地元の司教であるハビエル・マルティネス・フェルナンデス大司教は、彼が大学で教えることを禁じたのです。

これらすべてのカトリックの証人たちは、平信徒も聖職者も同様に、教会の道徳的教えを守るために苦しんだという事実のために、いつかたたえられる日が来るでしょう。

法学と道徳神学の大学の学位を持ち、神学博士でもある56歳のドン・トゥリオは、LifeSiteとのインタビューで、霊魂の救いのために誤った教えに抵抗するようすべての人にこう呼びかけています。

私はあえて公に言います。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広まっている非常に深刻な誤謬や関連するつまずきを明らかにするために、また、知っていながら声を上げない人々、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関して霊魂にもたらす大きな害を理解しながらも、声を上げず、反対しない人たちを非難するために、「石が叫ぶ」でしょう。

ドン・トゥリオ・ロトンドとのインタビュー全文は以下をご覧ください。

【問い(LifeSiteNews)】神父様がどの教区に籍を置いておられるのか、また神父様の教会における現在の状況を教えてください。

【答え(ドン・トゥリオ・ロトンド)】私はイゼルニア・ヴェナフロ教区に籍を置いており、現在は聖職停止状態です。ですから、私は家におります。

【問い】神父様を聖職停止処分にしたのは誰ですか。神父様の司教様がご自分で行ったのですか、それともローマからの介入があったのですか。

【答え】責任は司教様にありますが、司教様がローマと話し合って私にこの制裁を下したことは確実です。

【問い】聖職停止の理由は。

【答え】聖職停止命令は次の点を強調しています。

(a)2022年、私は「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題する本を出版した。この本の中で私は、教皇と協力者たちのうちの何人かが、特に「愛のよころび」を通して広めている重大な誤謬を示している。
(b)司教様はこの本を公式に撤回するよう私に求められた。
(c)私はそのような撤回をしなかった。
(d)その結果、司教様は私に聖職停止処分の制裁を課された。

したがって

(a)私は、公的に役職、地位、役務を行使できない。
(b)私は、叙階の権能や、統治の権能を行使できない。
(c)また、私は、いかなる権利や特権も行使できず、いかなる記章や称号も使用できない(したがって、私は教会の衣服も着用できない)。

この制裁にせいで、私の「ミサ執行許可書」(celebret)は撤回されました。私はすべての秘跡を執行することを禁じられています。

最初に明確にしておきたいのは、この本は、教皇と協力者たちのうちの何人かがさまざまな形で広めた重大な誤謬に焦点を当てた、私が執筆中の数冊のうちの最初の一冊であることです。PDF形式のこの本は無料であり、このサイトからダウンロードすることもできます

このサイトでは、ニューラル技術を使ったさまざまな言語への自動翻訳が提供されており、この技術は自動ではありますが特に優れているはずです。英語のサイトと本はこちらから。この本の参考文献は、現在約40ページですが、今後増える予定であり、こちらで略語とともに見ることができます。

参考文献の記事の多くはLifeSiteNewsから引用されており、私はLifeSiteNewsに対して、特に教皇フランシスコの誤謬に言及し、生命と健全なカトリックの教理を守るための素晴らしい活動に心から感謝しています。このサイトのおかげで、教皇フランシスコの誤謬に勇気をもって反対しているカトリックの高位聖職者や学者たちの多くの重要な声明について知ることができました。このサイトが無料でコンテンツを提供していることは、私の仕事に大いに役立っています。

【問い】神父様の著書で、おそらく神父様の聖職停止処分の原因となったと思われる主な主張は何でしょうか。

【答え】この聖職停止処分の原因となった私の本の主な論点は、教皇の誤謬、すなわち、教皇が聖伝と聖書に反していることを強調したことです。本書の第3章から、私は、告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と仲間たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬を強調しています。これらの誤謬はカトリックの教理の破壊転覆であって、進化ではありません。それらは霊魂の救いに大変有害であるため、私たちが反対すべきものです。

【問い】この本の概要を簡潔に教えていただけますか。

【答え】序章で説明しているように、第1章では教理上の問題での教皇の権力の限界について語っています。教皇が異端の可能性がある問題についてもいろいろ考えています。また、歴史が教皇の明白な誤謬をどのように記憶しているか、教皇の死後、エキュメニカル公会議によって教皇【の教え】が異端とされ、排斥されことさえあることを示しています。この第1章では、教皇フランシスコに非常に近く、使徒的勧告「愛のよろこび」のゴーストライターとされるアルゼンチン人高位聖職者、モンシニョール・V・M・フェルナンデスの発言を検証しています。本書の中で私は、「愛のよろこび」が述べていることをよりよく理解するために、モンシニョール・フェルナンデスの著作を何度か利用しています。

第2章では、「愛のよろこび」にまで至った教皇の明白な戦略と、それに続く深刻な結果を示しています。この戦略は、曖昧な発言と「暗号」(言葉と行動)から構成されており、この戦略によって、教理の変更および教皇が実行しようとしている「パラダイム・シフト」が目立たないように広まっているのです。

教皇フランシスコに最も近い協力者たち自身が、教皇フランシスコは「パラダイム・シフト」を実行していると述べています。一方、ミュラー枢機卿は、「『パラダイム・シフト』というまがいものの知的言説の背後には、天主のみ言葉を改ざんする隠しようのない異端しかありません」と述べています。教皇フランシスコの戦略は、まさにこの「パラダイム・シフト」を実行するために、2014年と2015年の2回のシノドスにおける「操作」によっても実行されました。

それ以降の章では、このような「パラダイム・シフト」がどのように実現されたのか、そしてそれゆえにカトリックの教理のさまざまな点に関して、「愛のよろこび」を通して「パラダイム・シフト」から生じる誤謬を示しています。これらの章では、教皇フランシスコと支持者たちが、誤った道徳を神学的に受け入れられるものとして罷り通らせるために、特に次の二つの手段を用いてきたことを示しています。

1.一つは、啓示された天主の法と、それとともに十戒の否定的戒律には絶対的な義務性があることを、特定の部分において、実質的に脇に置くものです。ザイフェルト教授は、「愛のよころび」の303番は、「十戒とカトリックの道徳的教えからなる道徳的建造物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾」であると述べています。

2.一つは、特定のケースに対する不正確で誤った識別を広め、その結果、人間の行為の情状酌量すべき事情をあいまいで不正確で逸脱した表現にしたことです。これらの事情は、実際には教皇とその協力者の一部によって狡猾に拡大され、真の重大な罪を小罪や不完全なものとみなすように導くことによって、天主の戒律を実質的に破壊することができるようにされています。
これに沿って、シュナイダー司教は、「過去2回のシノドス総会(2014年と2015年)において、新たなモーゼの弟子たちと新たなファリザイ人たちは、あわれみの概念を装って、結婚の不解消性とケース・バイ・ケースでの第六戒の一時停止を実践的に否定するのを覆い隠したこと、「識別の方法」、「同伴」、「司教の方向づけ」、「司祭との対話」、「内部フォーラム」、「さらに完全な教会生活への統合」、非正規の結合による同棲に関して責任を負わせることを廃止する可能性があること、といった表現を使っていました(最終報告書、84-86番参照)」。(これらはモンシニョール・シュナイダーの言葉であり、メールで私に送られてきたものです。2023年4月28日付のRorate Caeliの記事に同じような内容あることが明記されています。この記事には実際にはミスプリントがあります。)

教皇と協力者たちの中の何人かは、こうした道筋をたどりながら(その道筋だけではありませんが)、同性愛行為、避妊行為、姦淫行為を容認する道をも実質的に開いてしまいました。… したがって、そうした行為を実践しながら悔い改めない人々に対する秘跡としての赦免と聖体拝領を実質的に容認する道も開いたのです。中絶過激派のバイデン米大統領が、フランシスコと会見した際、教皇によれば、自分【バイデン】は「善きカトリック信者」であり、ご聖体を受けることができる、と述べたのも不思議ではありません。聖座はそれを否定していないのです!

もしバイデンのような中絶推進派の同性婚擁護者が合法的にご聖体を拝領できるのであれば、事実上誰でも、悔い改めない大いなる罪人であっても、そうすることができることは明らかです。なぜなら、バイデンは彼が行う悪を明らかに悔い改めていないからです。このことはすべて、痛悔、つまり罪を犯さないという意向が、もはや秘跡としての告解に絶対必要というわけではないという誤謬と関連しています。本書は第3章で、教皇フランシスコと協力者たちの主張が、悔悛者の痛悔を欠く限りにおいて、いかに無効な秘跡としての赦免と無効な告解につながるかを指摘しています。これらの無効な赦免と無効な告解は罪を赦すのではなく、単に悔悛者を欺くだけです。悔悛者の真の痛悔がなければ、真の赦免も、真の悔悛の秘跡も、秘跡による真の罪の赦しもないからです。

第6章は、死刑に関する教皇の誤謬を検証します。死刑の合法性は、場合によっては、自然法と啓示された法によって明確に肯定されており、教皇が死刑を「許されない」と宣言した際、教皇は明らかな誤謬状態にあります。

私が強調しているのは、本書で十分に示したように、教皇が「愛のよろこび」はトミズムの道徳的教理に忠実に従っていると主張していることは真実ではなく、実際には、この勧告は多くの箇所でアクィナスの道徳に完全に反している、ということです。たとえそれが、「トミストの文書」という肩書をまとって、あたかも確かな教理のように見せかけようとしていてもです。
天主の法とその絶対的な否定的命令をさまざまな戦略で実質的に踏みにじり、健全なカトリックの教理を捻じ曲げる教皇が、明らかに偽りのことを述べながら、それを至高の真理であるかのように見せかけるのは、奇妙ことではありません。十戒の否定的な命令に対して、場合によっては合法的な方法で実質的に違反することが可能なのであれば、場合によっては人は、合法的な方法で実質的に嘘をつくことさえできてしまうことは明らかだからです。

【問い】神父様はこれまで、教会の位階階級と問題を起こしたことはおありですか。

【答え】私はこれまで制裁を受けたことはありません。私は常に教皇と司教に従順であり、聖なる生活を送り、健全な教理についてもっともっと学ぼうとしてきました。実際、私は1992年にローマのサピエンツァ大学で法学の学位を取得し、2002年には道徳神学の免許状を取得しました。2008年には、ご聖体に関する聖トマスの教理とキリスト信者の道徳生活との関係に関する論文で神学博士号を授与されました。まさに私の神学的訓練のおかげで、また祈りによって天主が私に与えてくださった光のおかげで、私は教皇フランシスコが教皇在位期間の間に、私たちが知っていることに一致しない教理を広めていることに気づきました。そのため、私は「聖伝」を深く学んでから、教皇フランシスコの発言と比較することにしました。私は、偉大な専門家たちが述べていたことを読み、教皇フランシスコが、専門家たちが真の異端と表現する非常に深刻な誤謬を広めていることを確信するようになりました。

【問い】神父様の恐ろしい運命を考えれば、この重大な不公正にもかかわらず、神父様はどのようにご自分を支え、信仰を強く保っておられるのでしょうか。

【答え】恐ろしい運命ではありません。実際、私の人生の中で非常に幸せな時間です。なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています。基本的に、私は自分がしていたことを続けています。つまり、キリストに従い、キリストのみ言葉を広め続けています。私は祈り続け、教皇と仲間たちが広めている非常に深刻な誤謬のことを明確に語り続けています。

何人かの人々と、オンラインで祈りのグループを作って、私たちが教会で生きている状況のために祈っています。(このグループは私のYouTubeチャンネルにもあります。)私はその日の典礼について考え、また健全なカトリックの教理に反する教皇の誤謬について語っています。

昨日、例えば、私は次のようなことを観察していました。聖ユスティヌスは、「私たちが教えることを真理と信じ、罪の赦しと再生のために制定された洗礼によって清められ、キリストが教えられた通りに生きる者以外の者にとっては、ご聖体にあずかることは合法的でない」(殉教者聖ユスティヌス「キリスト教徒を擁護する第一弁明」66-67参照PG6、427-431)と述べています。
教皇フランシスコは、バイデン大統領やナンシー・ペロシ夫人のような中絶推進派の政治家もご聖体を受けることができると明確に主張しています。実際、米国の司教たちは、中絶推進派で同性婚推進派のバイデン大統領がご聖体を(拝領するのを)阻止したかったのですが、教皇は司教たちがそうするのを明確に止めました。

バイデン大統領が教皇のもとを訪れた際、教皇によれば彼は「善きカトリック信者であり、聖体拝領を受けることができる」と報告しました。聖座はこれらの主張を否定していません。バイデン大統領は、カトリックの教理に明らかに反して、継続的にご聖体を拝領しています! ナンシー・ペロシ夫人は中絶推進派として、またその他の不道徳行為の支持者として広く知られていますが、ローマに来たとき、もちろん教皇の許可を得て、ご聖体を受けました。これは誤謬であり、聖伝に反するだけでなく、重大なつまずきです!

私たちはこの小さなグループで、天主が介入され、教会がこうした誤謬や不祥事から解放されるよう祈っています。私は、天主が介入され、霊魂をひどく傷つけるこれらの非常に深刻な誤謬から私たちを解放してくださるよう、語り続け、祈り続けます。天主の思し召しにより、いかなる制裁を受けても、私はやめません。有名なリスト教授が私の著書の序文で述べてくださっているように、また、有名なオックスフォード大学のジョン・フィニス教授(1986年から1991年まで聖座の国際神学委員会の元委員、1990年から1995年まで教皇庁正義と平和評議会メンバー、2001年から2016年まで教皇庁生命アカデミー会員)が述べておられるように、私たちは教理レベルにおいて史上最悪の教皇職に直面しているのです。

フィニスは、この著書について次のように述べています。「賞賛すべき明晰さと豊富な証拠と論証によって、この時宜を得た本は、『教皇フランシスコによって意図的に広められた異端が今日、キリスト教史上最悪の危機の主要な原因かつ現れである』と主張する主な公表文書を集めたものです」(ジョン・ラモント、クラウディオ・ピエラントーニ著「現在の異端から信仰を守るDefending the Faith Against Present Heresies」[アローカ出版Arouca Press、2021年]の編集者書評)。

私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです。このような状況において、私は、天主が介入され、人々が理解し、この雪崩のような誤謬を止めるために動くように、祈り、語らなければならないと理解しました。天主はこのような誤謬を憎まれ、私たちを誤謬から救い出すために介入されます。天主はご自身ですべてをなさることを望んでおられるのではなく、そのような教理的・道徳的倒錯から私たちを解放するために、私たちの協力を望んでおられるのです。健全な教理は、私たちにこのことを理解させ、教会の歴史も理解させるのです。

【問い】カトリック信者、特に司祭や司教におっしゃりたいことは。

【答え】私はすべての人に、これらのテーマについて祈り、私の著書や他の同様のテキストを読んで、物事の本当の姿を理解する努力をしてくださるよう強く求めます。そして、これらの誤謬が消し去られ、否定され、教皇と協力者たちによって健全な教理が再び教えられるよう、祈り、行動するよう強く求めます。

人々が教皇のせいで広まっている誤謬に気づき、それに従わないようにするために、私は今の状況を理解した人々が大胆に発言するよう呼びかけます。天主は、私たちをこうした誤謬から救い出したいと望んでおられますが、私たちを使いたいと望んでおられるのです! イエズスは福音の中でこう述べておられます。「私は言う、もし彼ら(私の弟子たち)が黙ったとしても、石は叫ぶだろう」(ルカ19章39-40節)。

このテキストに関するオリゲネスの解説は照らしを与えてくれます。
Quando nos loquimur, lapides silent: quando nos tacemus, lapides clamant. Potest enim Dominus de lapidibus istis suscitare filios Abrahæ. ” Quo tempore nos tacebimus? Quando refrixerit charitas multorum, quando illud quod a Salvatore prædicatum est, fuerit impletum: Putas veniens Filius hominis inveniet fidem super terram? Propterea Domini misericordiam deprecemur, ne, nobis tacentibus, lapides clamitent; sed loquamur et laudemus Deum in Patre, et Filio, et Spiritu sancto: cui est gloria et imperium in sæcula sæculorum . Amen (オリゲネス「ルカ福音書講話」37:5)。
「われらが話すと石は黙り、われらが黙ると石は叫ぶ。なぜなら、天主はこの石からアブラハムの子らを起こすことがおできになるからだ。われらが黙るべきは、いかなる時か。愛徳が多くの者の中で冷えてしまった時、主が『人の子が来るとき、地上に信仰があると思うか』[ルカ18章8節]と予告されたことが成就する時である。それゆえ、われらは主のあわれみをもとめて祈る。それは、われらが黙っていても石が叫ぶようなことがなく、われらが語り、父と子と聖霊によって天主を賛美するためである。天主に栄光と力が永遠にあらんことを。アーメン」。

私はあえて公に述べます。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広がっている非常に深刻な誤謬とそれに関連するつまずきを明らかにし、知っていながら声を上げない者たちを、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関わる霊魂に大きな害をもたらすことを悟っていながら声を上げず、反対しない者たちを非難するために、「石が叫ぶでしょう」。

霊魂の救いは教会生活における基本原則であり、その救いのためにキリストは命を捧げられましたから、すべてのカトリック信者、とりわけ私たち天主の役務者は自分の命を捧げなければなりません。不幸なことに、私の著書で示したように、フランシスコの誤謬が霊魂の救いにとっていかに大きな害悪であるかを私たちは目の当たりにしています。例えば、痛悔がないために無効な告解さえももたらすのです。ある意味で、「石」はすでに「叫んでいます」。なぜなら、司祭でも司教でも神学者でもない多くの人々が事態をよく理解し、教皇の誤謬に反対して明確に語り、多くの神学者たちや天主の役務者たちの沈黙について不満を述べているのですから。

私の望みは、他の2巻を出版することに加えて、以下の通りです。

(a)教皇フランシスコと協力者たちの誤謬を暴き、それに反対するために、恒久的に介入できる専門家グループを創設すること。

(b)教皇フランシスコと協力者の誤謬が終わり、彼らの言葉を通して真理の光が戻ってくるように、祈りと償いの大きな世界的ネットワークを作ること。

私が望んでいるのは、教皇の死ではなく、教皇がこれらの誤謬から回心なさって、霊魂が聖なるカトリックの真理に生きるのを助けてくださることだということ強調したいと思います。

【問い】リスト教授は神父様の著書の序文を書いておられます。教授の主な主張は何だったのでしょうか。

【答え】まず第一に、私はリスト教授の勇気と証言に公に感謝しなければなりません。私は教授を、一種の現代の預言者とみなしています。教授は、教皇フランシスコの誤謬に反対する多くの公になった文書に署名され、そのために、大きな報復を受けなければなりませんでした。ですから、リスト教授が私の著書の序文を書こうと望まれたことを大変うれしく思っています。私にとっては大いなる名誉です。その序文で教授はまず、教皇フランシスコの在位中に教理レベルで生じた非常に深刻な状況を浮き彫りにされ、教会の一部が現教皇の広めた誤謬に追随し、別の一部がそれに反対していることを指摘され、私が書いた本がこの状況において有用性があることを強調しておられます。リスト教授が言われるように、「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされました。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかです。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂されました。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)です。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証しました」。

この仕事を私自身のものではなく、天主のものだと考えていることを明確にしておきます。この著書は祈りのうちに生まれ、祈りのうちに私はこの仕事を遂行しなければならないと悟り、祈りのうちに私はこの仕事を続けています。少なくとも私にとって、その仕事は本当に途方もないもので、ある意味では不可能なことです。そして今、私はその仕事に完全に専念しています。今のところ、たくさんの注のある約750ページの第1巻しか出版していませんが、もう少しすれば、たくさんの脚注のある約350ページの第2巻、そしてその後、同じくたくさんの脚注のある約500ページの第3巻を出版するつもりです。私が脚注を強調するのは、私自身が創作したことを書いたのではなく高名な神学者や高位聖職者が言っていることだということを、また、聖伝が述べていることを私が繰り返したということを、明確にするためです。

リスト教授の称賛は私のものではなく、私を執筆に駆り立ててくださり、続けることを助けてくださる天主のものです。リスト教授がご覧になった文章を、すべての人に状況を明確にするために、私は今も拡充しているところです。そのため、ページ数は今も増え続けていますが、教理的な内容は常に同じです。参考文献は行間の空白がない状態で、すでに40ページありますが、さらに増えることが分かっています。

リスト教授が私の著書について述べておられるように、「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすでしょう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすでしょう」。私は以下のことを付け加えたいと思います。教皇の教理的倒錯がどこまで進み得るのか、また、司教たち、天主の役務者たち、そして天主の民が、これらすべてに対してどんな反応を示したのかを証明する膨大な資料を、私たちの後に続く人々に残しておくことは重要だということです。それは、二度とこのような事態が起こらないようにするために重要なのは何かということを、未来の学者や高位聖職者たちが理解するためです。従って、参考文献の拡充に協力したいと思われる方は、Facebookの私のページ「Don Tullio Rotondo」または「Betrayal of Sound Doctrine」、あるいは私のYouTubeチャンネル「Don Tullio Rotondo」からご連絡いただけます。

結論

私はこの仕事を聖母に、聖母の汚れなき御心にお委ねしてきましたし、お委ねし続けます。教皇フランシスコが広めたこれらの誤謬に対して、聖母の汚れなき御心の凱旋をもたらす助けとなりますように。私は、私たちが生きているこの状況は天主の御手の中にあることを強調します。天主は、これまで言われてきたように、教皇のこのような異端的な誤謬さえも許されたのであって、望まれたのではありません。「カトリック教会のカテキズム」(412)には、聖トマス・アクィナスの文章があり、こう述べています。「天主はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかった。聖パウロはこれを、『罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた』(ローマ5章20節)と言っている」。ですから、復活ろうそくの祝別【実際には、その後の「Exsultet」】において、「このような偉大な贖い主をもたらした幸いなる過失よ」と言われています。天主は、霊魂の救いと天主の栄光のために天主の真理がより強く輝くように、私たちの協力によって、このような教理の曲解を一掃されるでしょうし、この悪をより大きな善に変える方法を承知しておられるのです。


煉獄という言葉の意味、煉獄にいる霊魂の状況

2023年11月21日 | カトリック・ニュースなど

「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」

フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著

第一部 煉獄、正義の神秘

第3章

煉獄という言葉 - カトリックの教義 - トレント公会議 ー 論争されている問題点

煉獄という言葉は、地獄と天国の中間的な場所を意味することもあれば、状態を意味することもある。これは、死の瞬間に、自分自身が成聖の恩寵の状態にあるが、自分の過失を完全に償ったのでもなく、天主を至福直感で見ることを享受するのに必要な清さの程度に達したわけでもない霊魂の状況である。
したがって、煉獄は一時的な状態であり、至福の生命で終わる。煉獄は、もはや、功徳を積んだり、罪を犯したりする試練ではなく、正義を満足させる償いの状態なのである。この世の死すべき生は試練の時であり、霊魂が功徳を積む時であり、天主の憐みの時であった。この時が過ぎれば、天主には正義があるだけであり、霊魂はもはや功徳を積むことも反省することもできない。霊魂は死の時にあったそのままの状態に固定され、聖化された恵みの中に見出されたのならば、この至福な状態から落ちることはなく、天主を変わることなく所有するに到ることは確実である。しかし、霊魂は一時的な罰という負債を負っているため、あらゆる厳罰を受けることによって、天主の正義を満足させなければならない。
これが煉獄という言葉の意味であり、煉獄にいる霊魂の状況である。

ところで教会は、このことについて、信仰の教義によってはっきりと定義された二つの真理を提示している。第一に、煉獄が存在すること、第二に、煉獄にいる霊魂たちは信者の祈り、特にミサの聖なる犠牲によって助けられること、この二つである。

これら2つの教義上の問題に加えて、教会が決定していないいくつかの教義上の問題があり、それらは博士たちによって多かれ少なかれ明確に解決されている。それらの問題とは次に関することである。1.煉獄の場所、2.罰による苦しみの本性、3.煉獄にいる霊魂たちの数とその状態、4.煉獄にいる霊魂たちの救霊の確実性、5.罰による苦しみの期間、6.煉獄の霊魂たちのために地上に生きている人々ができる介入、さらに、教会の祈りの適用である。


【参考情報】テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

2023年11月21日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

Terry Barber reveals US nuncio Cardinal Pierre told Bishop Strickland ‘there is no deposit of faith’

テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

テリー・バーバーは、教皇フランシスコの駐米教皇大使であるクリストフ・ピエール枢機卿が、ストリックランド司教に「信仰の遺産について話すのをやめるべきだ。信仰の遺産はない」と述べたと言う。
エミリー・マンジャラシーナ

米東部標準時間2023年11月13日午後3時13分

(LifeSiteNews)―「Virgin Most Powerful Radio」(力ある童貞ラジオ)のテリー・バーバーは【2023年11月12日】日曜日に、教皇フランシスコの駐米教皇大使であるクリストフ・ピエール枢機卿が、3年前にジョゼフ・ストリックランド司教に対して「信仰の遺産はない」と語ったことを明らかにしました。

バーバーは、自分のラジオ番組「ストリックランド司教の時間」で、忠実で、最近退任させられたこのタイラーの高位聖職者と定期的に話をしていますが、ストリックランド司教によれば、ピエールは米国カトリック司教協議会の会議で、「ショッキングな」主張をしたと言いました。

「ストリックランド司教が私に伝えてくれましたが、…ピエールは(彼に)面と向かってこう言いました。『信仰の遺産について話すのをやめるべきです。信仰の遺産はありません』と」。

「さて、教皇大使が信仰の遺産はないと言うのを聞いて、それがどれほどショッキングなことか想像できるでしょう」とバーバーは言いました。「それは単に私の意見ではありません。それは教会の教えなのです」。

カトリック教会のカテキズムは信仰の遺産について明確に言及しており、「聖書と聖伝の中に含まれる信仰の『聖なる遺産』(depositum fidei)は、使徒たちによって教会全体に託されています」と述べています。

このラジオ司会者は、ストリックランド司教のための祈りと同時に、カトリック教会の指導者たちのための祈りと償いを求めました。

「彼は重い十字架を背負うことになり、聖人たちが真理を語ったために迫害されたように、彼も迫害されているのです」とバーバーは言い、リスナーに教皇フランシスコが決定を覆し、自分の役割が「群れを守ること」であることを理解するようになるよう祈ってほしいと続けました。

「それがなされていません。信仰の遺産を弱体化させる近代主義者の司教たちが世界中にいるのに、彼らには何もなされないのです」とバーバーは言いました。

実際、異端を推進する近代主義者の聖職者たちは、教皇フランシスコによって頻繁に昇進させられてきました。直近では、教皇フランシスコが選んだシノドスの投票メンバーに、LGBT推進やその他の異端的なスタンスで知られる聖職者や、ラテン語ミサへの反感を持つ聖職者が含まれていることからも明らかです。

一方、プエルトリコのアレシボ教区のカトリックの教えを率直に主張するダニエル・フェルナンデス・トーレス司教のような忠実な牧者は処罰されています。フェルナンデス・トーレス司教は、教皇フランシスコから説明もなくその地位を解任されており、報道によれば、新型コロナウイルスのワクチン義務に対する良心からの異議申し立てを支持したためだといいます。

バーバーは続けて、「私は、教会の指導者たちにそれが容認できないことを知らせるために、教会法212条を行使しているのです。私たちは、自分の群れのために命を捨てることを厭わない司教を求めています。妥協は求めません」と宣言しました。

教会法212条は、「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由がある」とし、また「各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権限及び時として義務を有する。同時にまた、…自己の意見を他のキリスト信者に表明する権利及び義務を有する」と述べています。

バーバーは、信者が「私たちがこのことに満足していないことを、バチカンに伝える必要がある」と考えています。

教皇フランシスコは11月11日(土)、理由を述べることなく、ジョゼフ・ストリックランド司教を、テキサス州タイラー教区の司教としての役割から解任した、と聖座の日報で発表しました。

フランシスコは、米国で最も率直で発言力のある司教の一人に対して、衝撃的な行動を取りました。同司教は、聖伝のカトリックの教えを推進することで教区内外から大きな支持を集めてきました。

ストリックランド司教の道徳的・教理的問題に関する公の立場には、教皇の「信仰の遺産を弱体化させるプログラム」を非難したり、ジェームズ・マーティン神父(イエズス会)による著名なLGBT推進の「冒涜」を非難したり、中絶支持をめぐるナンシー・ペロシ前米下院議長の聖体拝領を拒否するようフランシスコに求めたりするものがあります。

また、バイデン政権によるカトリック教徒へのスパイ行為や、自称「悪魔崇拝」グループによる公の場での展示など、米国の政治や文化における道徳的な論争にも率直な意見を述べています。今年の夏には、ロサンゼルス・ドジャースが、グロテスクな修道女に扮した「Sisters of Perpetual Indulgence」と呼ばれる反カトリックのドラッグ・クイーン劇団を主催したことに対する抗議デモで演説しました。

自分の解任のニュースに対するストリックランド司教の反応は驚くほど穏やかなものでした。その直後、彼はLifeSiteNewsの編集長ジョン・ヘンリー・ウェステンに、「私は、私に対する不平として挙げられたすべてのことを支持します。『トラディティオーニス・クストーデス』(Traditionis Custodes、聖伝のラテン語ミサを制限する教皇フランシスコの教令)を私が実施しなかったことは承知しています」と述べました。

ストリックランド司教は、「私は主と、主がそのために亡くなられた真理において、とても平安を感じています」と付け加えました。


死者のための祈り。- 死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。

2023年11月20日 | カトリック・ニュースなど

第一部 煉獄、正義の神秘

第2章

死者のための祈り。- 恐れと信頼。
死者のための祈り、死者のためのいけにえや祈りは、すべてキリスト教の礼拝の部分をなす。煉獄の霊魂への信心は、聖霊が愛徳をもって信者の心に広める信心である。聖書によれば、死者が罪から解放されるように、死者のために祈ることは、聖なる有益な考えである(1)。
(1) II マカベオ12:46

それが完全であるためには、死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。一方では、天主の神聖さとその正義が、私たちに有益な恐れを抱かせ、他方では、天主の無限の憐みが、私たちに限りない信頼を与えてくれる。

天主は、太陽が光である以上に聖であり、その御顔の前には罪の陰であっても全くありえない。あなたの目は清く、御目は不義を見るに耐えられない、と預言者は言う(1)。だから、被造物に不義が起こるとき、天主の聖性はそれに対する贖いを求める。この贖いが正義の厳しさをもってなされるとき、それは恐ろしいものとなる。この贖いが正義の厳しさを尽くしてなされるとき、それは恐ろしいことである。だから聖書はまた、「天主の御名は聖く、恐ろしい(2)」と言うのである。あたかも聖書は天主の正義は、その正義が無限であるので恐ろしい、とでも言っているかのようである。

天主の正義は恐るべきものであり、どんなに些細な過ちであっても極めて厳しく罰せられる。その理由は、私たちの目には軽いこれらの過ちも、天主の前ではまったくそうではないからである。ほんの些細な罪も、天主にとっては無限に不愉快なものであり、無限の神聖さを害されるため、ほんの些細な違反が巨大な割合を占め、巨大な償いを必要とするのである。これが、あの世での罰の恐るべき厳しさを説明するものであり、私たちを聖なる恐れで満たすべきものなのだ。

煉獄の恐れは救いに有益な恐れである。その効果は、苦しむ霊魂に対する愛徳に満ちた同情心だけでなく、自分自身に対する警戒心に満ちた熱意を私たちに起こさせることだ。煉獄の火を思い浮かべれば、些細な過ちも避けようとするだろう。煉獄の火を思い浮かべれば、償いを実践し、来世よりも現世で天主の正義を満足させようとするだろう。

しかし、過度の恐れに注意し、信頼を失わないようにしよう。天主の憐みを忘れてはならない。天主の憐みは天主の正義に劣らず無限である。「主よ、あなたの慈しみは天の高さにまさる(3)」と預言者は言い、また別の箇所では、「主は慈しみと寛容に満ち、忍耐強く、惜しみなく慈しんでくださる(4)」とある。この計り知れない慈しみは、私たちの強すぎる不安を鎮め、聖なる確信で満たしてくれるはずだ。In te Domine speravi, non confundar in aeternum. 主よ、私は御身に希望した、永遠に恥ずることなからん。

もしも私たちがこの二つの感情に基づくならば、つまりもしも、天主の憐みに対する信頼が、天主の正義がわれわれに抱かせる恐れと同じであるならば、われわれは死者に対する真の信心の精神を持つことになる。
さて、この二重の感情は、正しく理解すれば、正義と憐みの二重の神秘を含む煉獄の教義から自然に引き出される。この2つの観点から煉獄を考察し、その教義を説明しよう。

(1) ハバククI, 13 - (2) 詩篇110篇。- (3) 詩篇107篇 - (4) 詩篇144篇。- (5) 詩篇70篇。


【参考文献】中国の信者から教皇フランシスコへの公開書簡「あなたは私たちを殺そうとしている!」

2023年11月13日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】中国の信者から教皇フランシスコへの公開書簡「あなたは私たちを殺そうとしている!」

――― あなたは、民主主義より共産主義を、資本主義より社会主義を、人間より気候を大切にしておられる!

Open Letter to Pope Francis from Chinese Faithful: "You are killing us!"

2023年11月3日(金曜日)

中国の信者から教皇フランシスコへの公開書簡「あなたは私たちを殺そうとしている!」

報道発表

親愛なるフランシスコ教皇聖下

私たち、中国の地下教会と公認教会にいる目覚めつつあるカトリック信者は、あなたが私たちの教会を裏切って、私たちの国を破壊しておられることを嘆くために、この公開書簡をあなたにお送り申し上げます。

1949年の共産党による占拠以来、今日に至るまで、数え切れないほどの殉教者たちが、聖座に忠実であり続けるために、すべてを犠牲にすることを選びました。教皇ピオ十二世、教皇聖ヨハネ・パウロ二世、教皇ベネディクト十六世は、私たちに感謝し、励まし、慰めを示してくださいました。彼らは共産主義の悪を非難し、「愛国協会」が違法であることを確認し、中国共産党との不道徳な協力に抵抗するよう戒められました。

フランシスコ教皇様、あなたは私たち忠実な信者を以下のように裏切っておられます。

  • あなたは、地下社会のために新しい司教を叙階なさっていません。あなたは、中国共産党と協力しており、忠実な信者を絶滅に追い込もうとしておられます。あなたの認可なしに「司教」を叙階し始めた者もいます。
  • あなたは、聖職者たちが政府に登録するよう励まし、そうすることで離教状態の中国共産党支配の「愛国」教会の一部となるよう奨励されました。(あなたは、陳枢機卿との会談で、公認教会の離教的性格を認められました)。
  • あなたは、7人の破門された司教たち(その内少なくとも2人には子どもがいます)を合法化して彼らを教区に配置し、忠実な地下司教を追放することで、あなたの7人の悔い改めていない中国共産党の傀儡たちのために教区を明け渡されました。
  • 失踪して最後に目撃されたのが2003年である蘇志明司教、失踪して拷問を受けた崔泰司教、20年近く自宅軟禁された刘红更(Liu Honggeng)神父、中国共産党によれば「溺死」した若く率直な蔚和平(Yu (Wei) Heping)神父、その他多くの人々を擁護するのを拒否なさいました。

刘红更(Liu Honggeng)神父

  • 中国共産党がしている、複数の教会の大規模な取り壊しや教会への子どもの立ち入り禁止(これらは公認教会に対することか地下教会に対することかを問わずになされています)に対して、あなたは非難するのを拒否なさいました。
  • あなたは、上海司教や他の公認の司教・司祭など(例えば、あなたのシノドスに出席するよう招待された人々や深セン [深圳] の张天路(Zhang Tianlu)神父ですが、彼らは習近平の無神論思想や残酷な政策を賛美しています)の違法な就任を非難しようとしませんでした。

フランシスコ教皇様、あなたは、私たちの最も愛する陳枢機卿と何百万人もの香港人を、以下のように裏切っておられるのです。

  • あなたは、中国共産党による、陳枢機卿の逮捕、裁判、そして現在の自宅軟禁を非難することを拒否されました。あなたは、彼の事件の本質を知らなかったとか無登録車に対する罰則のようなものだと思ったと主張なさいました(パロリン枢機卿はあなたにすべてを伝えたのではなかったのですか?!)。
  • あなたは、陳枢機卿が逮捕された後、ローマで開かれた世界の枢機卿の集会で、陳枢機卿への連帯や祈りを勧めることを表明するのを拒否されました。
  • あなたは、2020年、あなたの88歳の兄がローマで4日間もあなたの返事を待っていたのに、会うことを拒否されました。
  • あなたは、2020年が終わろうとするときに、香港の宗教的自由への憂慮を表明することを拒否されました。現在と過去の香港の「カトリック」指導者たちであるジョン・リーとキャリー・ラムについて、中国共産党が彼らの人権を無視し、法の支配を破壊していることに沈黙なさっています。
  • あなたは、香港の民主主義と自由のために闘い、終身刑に直面しているカトリックの大物、ジミー・ライ(75才)が収監(1日23時間独房)されていることについて、沈黙なさっています。
  • あなたは、陳枢機卿とサビオ韓大司教を中国との交渉に参加させるのを拒否されました。あなたは、元福音宣教省次官の韓大司教をローマからある島【グアム島】に追い出しました。(あなたは、パロリン枢機卿や他の官僚が、この二人の忠実な中国の子らよりも中国を愛し、中国について知っているとでも思っておられるのですか?!)
  • あなたは、陳枢機卿が次期香港司教に指名した、正統派で勇気ある夏補佐司教を【司教に任命するのを】拒否されました。その代わりに、あなたは、イエズス会の中国共産党支持者で進歩派の周司教を選び、彼を枢機卿に昇格させられました。

フランシスコ教皇様、あなたは以下のように私たちの国を滅ぼしておられるのです。

  • あなたは、中国共産党の下では、組織的で重大な人権侵害はこれまで起きておらず、今も起きていないと思っておられるのですか。あなたは、中国を除いて、他の国々を名指しで非難されました。あなたは、民主主義より共産主義を、資本主義より社会主義を、人間より気候を大切にしておられるのです。
  • プロテスタントや非キリスト教の反体制派(大量虐殺や焼身自殺を経験したチベット人やウイグル人を含みます)は、あなたが、中国共産党と結託してすべてを取り締まっているのを見ています、さらには中国国内にいるローマ・カトリック信者をも裏切っておられるのを見ています。そのため、彼らはカトリック信者を一層遠ざけています。特に福音派は、性に関する問題や宗教的無関心主義に関するあなたの言動が異端的で非道徳的だと判断しています。
  • あなたは、カトリックの社会教説が私たちの【中国内の】教会で教えられていないことをご存じないのですか。中国共産党はそれを禁じており、洗脳された信者はそれを恐れています。あなたの司教マルセロ・サンチェス・ソロンドは、2018年の中国訪問の後、「まさに今、教会の社会教説を最もよく実践しているのは中国人です」と偽りの賛美をしました。なんと邪悪なことでしょうか。
  • あなたは、中国初のノーベル平和賞受賞者である劉暁波博士の殺害や、中国のボンヘッファー【ボンヘッファーはプロテスタントの牧師でナチスに抵抗して強制収容所で処刑された】王怡牧師の投獄を非難されませんでした。あなたが軽蔑するトランプ大統領でさえ、陳枢機卿と王牧師を、特にその道徳的勇気特のために称賛しています。
  • あなたは、「私は中国を非民主的だとは思いません」だとか「(中国人は)善きキリスト教徒であり、(同時に)善き市民であることができます」などと、つまずきを与えるようなことを述べられました。あなたは、中東で独裁者たちを排除し民主主義を構築している西洋を嘲笑的に批判されました。イエズス会北京センターは、おそらく中国共産党に排斥されていない唯一の教会の団体ですが、そのウェブサイトにあるQ&Aページには、次のように書かれていて、米国人の訪問学生たちを安心させています。「共産主義の国で生活することは、民主的な政治体制の国で生活することと、必ずしも大きく異なるとは感じられません」。常識や基本的な事実に反するこれらの全ての嘘は、良心を持つすべての人間をひどく傷つけるものです。

親愛なる教皇様、私たちは自分の心配事以前に、私たちの聖にして母なる教会、より正確にはあなたの教皇職の道徳的な偽善と腐敗を最も心配しております。陳枢機卿は悲痛な真実をこう語りました。「いつか中国が自らを再建するとき、誰もカトリック教会を信用しなくなるでしょう」。私たちが切実に支援を必要としているときに、あなたは私たちを裏切られたのです。今、あなたは中国における組織的迫害への無言の協力に加えて、私たちの国を西洋の無秩序と同じ道に誘い込むであろう性的不道徳を声高に推進しておられます。(中国共産党でさえ、同性婚、トランスジェンダー、LGBTなどを推進してはいません)

教皇様、私たちはあなたの終わりのないつまずきを前にして、どこでどのように嘆願を始めればよいのか分かりません。私たちの教皇様であり、キリストの代理人であるあなたが、私たちを殺そうとしておられるなどとは信じられません。それはあなたの決断でしょうか。あなたの背後には誰かがいるのでしょうか。あなたは、中国共産党から金銭を受け取っておられるのですか、それはどのような条件なのですか。気候の権利やパンダの権利は人権よりも重要なのでしょうか。なぜあなたは悪しき者を助長し、徳のある者を迫害なさるのですか。

教皇様、多くの人が私たちに「歎願をしても犠牲をしても無駄だ、フランシスコにとってはどうでもよいのだ」と言いました。私たちにはあなたに差し上げてなだめるものは何もありません。もしあなたがこのまま私たちを裏切り破壊し続けられるのでしたら、ついには轟(とどろ)いて流れあなたの手に渡る私たちの血以外にはありません。私たちは謹んであなたに次のことを懇願し促すために叫びます。

  • 中国共産党との現在の密約を終りにしてください。その密約は、さらなる中国共産党の迫害と教会内部の混乱・分裂をもたらしました。あなたがなさるべき最も緊急なことは、中国共産党に訴えて良心の囚人を直ちに釈放させ、私たちへの迫害をやめるよう促すことです。
  • 強姦犯ルプニクや異端者ジェームズ・マーティンのような、あなたのイエズス会の友人らを昇進させたり保護したりすることをやめてください。バイデン、クリントン、ペロシ(しかしペロシでさえ、中国での人権を擁護することに生涯を費やしました)のような赤ん坊殺しへの支持をやめることです。
  • マッケルロイ、スーピッチ、トービン、フェルナンデス、周、などなどの教会の教えに忠実でない枢機卿らを排除してください。ストリックランド司教のような真理に忠実な人物への嫌がらせをやめてください(米国の多くの真の信者は、あなたのストリックランド司教へのいかなる動きにも対抗するでしょう)。
  • 悔い改めていない7人の公認司教を破門状態に戻してください。沈黙と引き換えに中国共産党からどれだけの現金を受け取ったのかを世界に向けて認めてください。霊魂たちを同性愛と過激な左翼イデオロギーの地獄に導いたことを告白し、謝罪してください。

あなたの取るに足らない、
聖座には忠誠を誓うが、中国共産党には忠誠を誓わない、中国のカトリック信者の一部

2023年10月22日、教皇聖ヨハネ・パウロ二世の祝日

追伸。

教皇様、私たちはここにあなたへの新しい贈り物を掲載します。あなたの信頼する上海司教であり、違法な中国司教協議会の会長であり、違法な中国愛国カトリック協会の副会長である沈斌によって、彼の司教区出版物「Divine Love」による最近のインタビューの中で、正直な発言がなされました。あなたはパロリンのお世辞と嘘に騙され続けることもおできになりますし、あるいは、陳枢機卿と私たち皆の涙と血に耳を傾けることもおできになります。

「1980年から2000年にかけて増加した中国人の召命がなぜ減少したのでしょうか。その理由の一つは、上の世代の聖職者たちのリーダーシップにあると思います。【1980年から2000年にかけては】彼らのカリスマ性と証しが、私たちのような若者を教会に惹きつけたのです。2000年以降、私たちは【神学校を】卒業して教会を引き継ぎましたが、私たちはおそらくうまくやらなかったのでしょう。私たちは反省する必要があります。

私はこのことを強調しなければなりません。それは、司祭、修道女、神学生、そして主要な信者は、政治において信頼でき、信仰において成し遂げられ、徳において説得力があり、重要な局面で効果的でなければならないことです。中国人民政治協商会議全国委員会の汪洋主席はこう指摘しました。『宗教指導者の育成においては、政治的資質と姿勢を重視しなければならない。これこそが[1]【有意義な一点】であり、それ以外は[0]【無価値:ゼロ】である。これはいかに重要なことだろうか。上海教区はこの分野で間違いを犯し、われわれに重大な教訓を与えた。われわれは、中国教会運営の原則である、独立、自律、自治、民主、中国化を堅持しなければならない。これは最低限の条件であり、誰も違反することはできない』と」。


【参考文献】ルイーザ・ピカレッタの著書『天上の書』と「神の御旨の霊性祈祷会」に関する韓国カトリック司教協議会の信仰教理委員会が作成した意見書

2023年11月11日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ルイーザ・ピカレッタの著書『天上の書』と「神の御旨の霊性祈祷会」に関する韓国カトリック司教協議会の信仰教理委員会が作成した意見書が発表されました。ご参考までにご紹介致します。

CBCK
韓国カトリック司教協議会-韓国カトリック中央協議会 
CATHOLIC BISHOPS CONFERENCE OF KOREA
04918 서울시 광진구 면목로 74
TEL 02-460-7500 FAX 02-460-7505 www.cbck.or.kr cbck@cbck.kr 

中協司: 第2023-662号
2023. 10. 17.
受信 韓国男子修道会使徒生活団長上協議会会長 ユ・ドクヒョン大修道院長様
韓国カトリック女子修道会会長上連合会 会長 ナ・ヒョンオ修道女様
参照: 事務局長 キム・テワン神父、シスター キム・ウムジン様
タイトル: 『天上の書』と「神の御旨の霊性祈祷会」に関する司教会の信仰教理委員会の意見書伝達

+ 主の平安が共にありますように。

これまで司牧局長会議と総代理会議では、「神の御旨の霊性祈祷会」とここで教材として使用している『天上の書』ハングル翻訳書(1-20巻、カトリック出版社発行)についての議論があり、これらの会議の要請により、司教会の信仰教理委員会は何度か会議を行い、意見書をまとめました。

信仰教理委員会は『天上の書』に現れた深刻な誤りを提示し、「公的啓示よりも私的啓示に重要な位置を与えており、深刻な誤りがあるルイーザ・ピカレッタの著書を拡散させないようにし、「神の御旨の霊性祈祷会」の集まりも中止することが教会の善益のために必要であり、ソウル大司教区で取られた出版許可も撤回することが望ましい」という意見を伝えてきました。

司教会の2023年秋季定期総会は、このような意見に同意し、信仰教理委員会の意見書を教区と修道会に伝達し、信者の注意を促すこととし、ソウル大教区には『天上の書』の出版許可を撤回するよう要請することを決定したことをお知らせします。

つきましては、『天上の書』と「神の御心霊性祈祷会」に対する信仰教理委員会の意見書をお送りいたします。

主の豊かな恵みを祈ります。

添付:司教会議信仰教理委員会の意見書

          イ・チョルス
司教会議事務総長 イ・チョルス神父

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【訳者注】『天上の書』と「神の御心霊性祈祷会」に対する、韓国カトリック司教協議会の信仰教理委員会が作成した意見書によると、その概要は次の通りです。この意見書の日本語全訳については、あらためてご紹介いたします。

●『天上の書』は、ルイーザ・ピカレッタに起こった「私的啓示」を基にした一種の終末と予言の書である。その私的啓示は、ピカレッタの神秘体験、幻視、イエズスとの会話を主な内容としているが、ピカレッタに関する預言の言葉を主に含んでいる。
●天主の御旨が成就することを意味する 「フィアット( fiat)」 は聖書(聖母マリアの Fiat voluntas tua!)に根拠を置いているが、本書では特にピカレッタと共に開始された新時代の救い事業である「フィアット」事業を意味する。したがって、天主の御旨「フィアット」に従うとは、最終的にはピカレッタを通して開始される新しい時代についての預言の言葉に従うことをいう。
●この本では「フィアット」事業を通じて、ピカレッタが救いの歴史においてイエズスと聖母に匹敵する、さらにはそれらを上回る特別な場所に位置づけられている。ピカレッタは、単に救いの協力者や天主の特別な啓示を受けた者ではなく、救世主を完成させるために派遣された者、救霊事業の「道具」、天主の御心の「長女」、「新しい時代」を開く存在などとして描写されている。ピカレッタは聖母マリアと同じく救い事業の「道具」であるが、新しい救い事業をこの時代に展開するための「特権的な道具」として選ばれた人とされている。
●したがって、ピカレッタに下された「私的啓示」の根本的な特徴は、救いの歴史の中でピカレッタの「フィアット」事業の根源的な役割を強調することにある。このような主張はキリスト信仰にとって非常に深刻な結果につながるが、キリストを通して実現された救いの業績を退色させるだけでなく、キリストの救いを「 フィアット」事業に従属させるからである。
●新時代の救霊事業である「第三のフィアット」を強調し、それに伴うピカレッタの神性と使命を格上げしているため、イエズスの救いを軽視ないし無視する結果につながっている。実際に『天上の書』は、キリストの救霊事業よりもピカレッタ個人の位相と役割を浮き彫りにすることに重点を置き、ピカレッタをイエズスの救霊事業を完成させるために不可欠な存在として描写するため、イエズス様を通じて実現された救霊の経綸(けいりん:計画)をおとしめたり、未完成のものとする。まるでキリストの救いの業が不十分で、ピカレッタなしでは救いが実現しないかのように描写する。待望の「フィアット」(ルイサ・ピカレッタ)が待望の救い主(イエズス・キリスト)を上回るとまで言われる。
●このようなピカレッタの私的啓示に対する主張は、イエズス・キリストを通して実現された公的啓示を侵害するだけでなく、公的啓示が持つ唯一無二の決定的な特性を無視する結果につながる。


ヴィガノ大司教「私たちがこの世の虚栄を拒絶するようアッシジの聖フランシスコに霊感を与えてもらおう」

2023年11月08日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教「私たちがこの世の虚栄を拒絶するようアッシジの聖フランシスコに霊感を与えてもらおう」

Archbishop Viganò: Let St. Francis of Assisi inspire us to reject the vanity of earthly things

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教

米東部夏時間2023年10月5日午後12時13分

(LifeSiteNews)―以下は、アッシジの聖フランシスコの祝日である2023年10月4日に公表されたカルロ・マリア・ヴィガノ大司教の説教です。

アッシジの聖フランシスコ

2023年10月4日

尊者教皇ピオ十二世は1939年6月18日、アッシジの聖フランシスコとシエナの聖カタリナをイタリアの守護聖人と宣言しました。その記念の訓話の中で、教皇は「ポヴェレッロ」【清貧の人、聖フランシスコの別名】を「聖人の中で最もイタリア的な人、イタリア人の中で最も聖なる人」と呼びました。そこで、この偉大な聖人についての短い黙想を皆さんと共有したいと思います。それは、彼の徳がどんなものかをもっとよく理解し、それを模範、モデルとするためです。

まず最初に、聖フランシスコが何者でなかったかを言わせてください。何千人もの司祭、修道士、修道女がその女々しいような平和主義的な(pacifist)モデルに酔っているにもかかわらず、彼はゼフィレッリ監督が生んだあの無政府主義的な思春期の若者ではありません【映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」】。聖フランシスコは、近代主義者たちが高く評価するような憂鬱で侮辱的な「甘美な感情」(Sweet Feeling)とは何の関係もありません。聖フランシスコは、大スルタンに会って、改宗させずに対話するあのエキュメニカルな修道士ではありません。また、左翼の知識人や路上司祭に愛される前衛的な(ante litteram:名前が付けられる前にあった存在)「フラワー・チャイルド」(flower child、1960年代に花を身に着けて平和を訴えたヒッピーの若者たち)でもなければ、聖エジディオ【共同体】の平和主義者の先駆者でもなければ、新旧の貧困主義(pauperism)に霊感を与える者でもありません。要するに、ペトロの玉座を占めた者が名前を選ぶに際して、その正確なモデル――偽りで、イデオロギー的に操作されたもの――を参考にしたとしても、彼は、「第二バチカン公会議の」聖人ではないのです。このように、一つの「イコン」――実に、私はこのことを、第二バチカン公会議の信奉者たちを喜ばせるために、それにかたどって聖人たちが描かれるべき「原型」と言いたい――があるのです。聖ピオ十世を第二バチカン公会議の先駆者と平気で呼ぶ人々がいたのならば、アッシジのポヴェレッロでさえ、この種のイデオロギー的化粧から逃れられなかったことは皆さんも十分に想像できるでしょう。

そのような姿ではなく、同時代の人々の年代記や証言からフランシスコのことが分かっているのですから、彼が現実にどのような人物だったかを見てみましょう。彼は若くして家出をした人であり、この世の財物がいかに聖性への妨げであるかを理解していました。また、ダンテが回想しているように、熾天使修道会【フランシスコ会】の会則にある福音的勧告を生きながら、「あの声高の叫びを発した方【キリスト】が、自らの祝福された血により縁(えにし)を結ばれた新婦」la sposa di colui ch’ad alte grida / disposò lei col sangue benedetto(神曲天国篇11歌32-22)である「淑女なる清貧 Donna Povertà」と結ばれることを選びました。ですから、フランシスコは貧しかったのです。聖なる貧しさとは、みじめでも卑しいものでもなく、御摂理の助けを信じるがゆえに、崇高で誇り高いものです。

彼はたゆまぬ福音の宣教者でした。1219年、彼は遠くカイロまで行き、アル=マリク・アル=カミルの宮廷に赴きました。その際、彼はカトリック信仰の真理を証明するために火の試練に立ち向かい、スルタンに対して、改宗して第五回十字軍に従事するキリスト教徒との戦いをやめるよう説得することを望みました。聖フランシスコは、典礼の礼儀と尊厳の推進者でした。聖フランシスコの著作には、祝されし秘跡への敬意と礼拝に関する多くの勧告が記されており、彼が貧しい教会に寄贈するための聖体容器や聖具の購入に努力を惜しまなかったことも知られています。修道会独自のある応誦は、彼を「Vir catholicus et totus apostolicus」(カトリック的かつ完全に使徒的な男)と呼び、次のように思い起こしています。「Ecclesiæ teneri Fidei Romanæ docuit, presbyterosque monuit præ cunctis revereri...」(彼はローマ教会の信仰を保持するよう教え、誰よりもまず司祭たちを敬うよう諭した)。いと高き御者の役務者に対する崇敬の念は、自分のことを司祭職にふさわしくないと考えて、司祭職を受けることを拒否させるほどでした。

銀行家が行う高利貸しや商人の投機から貧しい人々を救うために、「慈悲の山」【低金利で貸出をする】と「フルメンタリ・モンティ」(frumentari monti、穀倉の山=15世紀末に貧しい農民に播種に必要な小麦や大麦を分配するために設立された)を制定したのは、熾天使修道会【フランシスコ会】でした。福音に従った経済についての考え方は、今日、フランシスコ会の修道服を着た人々の無謀な投資とは、まったく違うものなのです。

要するに、フランシスコは、危機や戦争の時代に聖なる教会を改革するこれらの徳の英雄的模範だったのです。この理由で、ダンテは、聖フランシスコと聖ドミニコを、改革的使命と福音的清貧によって結びつけて私たちに示します。「一人は熱情において熾天使のごとく、他の一人は学識において地上における智天使の光輝かと思われた」 L’un fu tutto serafico in ardore; / l’altro per sapïenza in terra fue / di cherubica luce uno splendore(神曲天国篇11歌37-39)。一日の終わりにパン屋に余ったパンを乞い求めるため、袋を肩に担いで通りを行き交う物乞いの修道士たちを今でも覚えていて、無言でほほ笑んでいる人がいるかもしれません。その控えめで諭すような存在は、「姉妹なる清貧 Sorella Povertà」への愛の最後の痕跡でしたが、今や公会議の聖像破壊運動的な怒りによって消し去られてしまいました。今日、フランシスコ会は大胆な金融投機によって富を蓄え、浪費し、召命の本質と創立者の模範を否定しています。しかし、フランシスコ会の貧しさは、ぼろぼろのみじめさではありません。それはむしろ、物質的な財から離れて、自分の快適さのためではなく、貧しい人々と主のために使われるようにするものなのです。

では、聖フランシスコは「聖人の中で最もイタリア的な人、イタリア人の中で最も聖なる人」だったのでしょうか。私たちが、彼が聖人の中で最もイタリア的な人だったと言えるのは、彼の中に、最も貧しい人々や困窮した人々に対する穏やかな慈愛、聖霊の息吹の下で何世紀にもわたって非常に多くの修道会や修道団体が誕生してきた慈愛からつくり上げられた、私たち国民にふさわしい気質が示されていたからです。愛徳と天主への愛、堅固で汚れのない信仰、模範となる日々の証しからつくり上げられた人格です。フランシスコの中には、「キリストがその民であるあの[天上の]ローマ」 di quella Roma onde Cristo è romano(神曲煉獄篇32歌102)の永遠の真理に対する揺るぎない確信も見いだされ、それは、近代主義の位階階級が壊滅的な打撃を与えたにもかかわらず、今でも私たち国民の中に生き残っています。彼は、イタリア人の中で最も聖なる人でしたが、それは、彼の生涯が、主のご受難に肉体をも同化させる聖なる聖痕を受けるという段階まで、真の謙遜、聖なる清貧、天主への、そして天主においての完全な放棄の模範であり、モデルだったからです。彼はキリストの無限の慈愛のしるしを身に受けていたのであり、キリストの前では、地上のあらゆる善、あらゆる富、あらゆる快楽は消え去って消滅し、善と永遠の救いに向かう場合にのみ意味を持つのです。すると、貧困主義ではなく、自己のための貧しさであり、すべてはキリストのための貧しさなのです。信仰の真理を取引材料にするエキュメニズムではなく、遠くにいる霊魂の回心のための使徒的熱意です。平和主義ではなく、「in justitia et sanctitate veritatis」(正義と真実の聖徳において)(エフェゾ4章24節)、平和を追求することです。

今日の世は、キリストと彼の聖人たちに反抗して、アッシジのポヴェレッロ【貧者】を装った偶像を自作しています。他の偶像と同じように、偽の、そして嘘の模造品であり、そこでは、フランシスコの清貧の魂が取り去られ、清貧の最初の原因にして究極の目的である天主が奪われているのです。

私たちが天主のみわざに見いだす不変のものとは何でしょうか。自らを完全かつ単純に真実なものとして示す愛の無償性です。では、サタンのわざに見られる不変のものとは何でしょうか。自らを猥雑に偽り、欺くものとして現れる憎悪の代価です。サタンは、この世の富、権力、成功、同意、快楽など、自分のものではないものを私たちに差し出します。そしてサタンは私たちにそれらを売りつけ、自分のがらくたを私たちの不滅の霊魂という宝と引き換えにするのです。私たちの霊魂は、私たちに属するものではなく、私たちには審判の時のために清く聖なるものとして保つ義務があるのです。しかし、霊魂の目が感覚によって目隠しをされたり、罪や悪徳によって曇ったりしていない者にとっては非常に明白なこの現実も、自分が自由であると思い込んで、その代わりに、自分自身の奴隷、この世の奴隷、悪魔の奴隷となっている者には見過ごされるのです。

聖フランシスコの生涯から、この惑わされ、裏切られた世界でなお模倣されるべきものがあるとすれば、それは、天主の真理の光に照らされ、天主の超自然の愛に燃える、天主に完全に方向づけられた霊魂における成聖の恩寵の行いという奇跡です。地上のものの虚しさと、霊的なものの絶対的な優位性を理解する霊魂です。寛大な霊魂は、すでにすべてを持っているため、すべてを奪われることができ、真の命はキリストご自身であることを知っているため、キリストを宣べ伝えることに命を懸ける準備ができています。唯一の必要なものを発見したため、すでに余分なものを取り除いてしまい、奪われることを恐れない霊魂です。

この偉大なイタリアの聖人という模範に目を向けましょう。それは、私たちの共通のルーツを誇りをもって再発見し、そこから、私たちの愛する祖国のキリスト教文明を大きく繁栄させた福音の木を生まれ変わらせるためだけではありません。それはまた、天主に祝福され、ペトロの座の存在によって祝福されたこの土地の子である私たち自身の中に、純粋にカトリック的でローマ的な気質を再発見するためでもあります。この気質こそが、福音的清貧の実践、真の信仰の告白、そして慈愛の実践を通して、私たちがキリストの教会が生まれ変わるのを見ることを、過去においてすでに可能にしてきたのですから。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

October 4, MMXXIII
2023年10月4日

英語版 Archbishop Viganò: Let St. Francis of Assisi inspire us to reject the vanity of earthly things - LifeSite

イタリア語版 Mons. Viganò: San Francesco tradito da un mondo ribelle a Dio e ai suoi santi.


【参考資料】ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」

2023年10月31日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」

2023年9月13日(水曜日)

Cardinal Müller Interviewed: "False prophets claim they will turn the Church into an Aid Organization for the 2030 Agenda."

ミュラー枢機卿インタビュー「偽預言者らは教会を2030アジェンダの支援団体に変えようとしていると主張」

ゲルハルト・ミュラー枢機卿とInfoVaticana

「シノダリティーに関するシノドス」の最終段階が近づいており、今年10月に始まります。400人の参加者(枢機卿、司教、信者、修道者)の中には、元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿も含まれています。

バチカンが、ジャーナリストはバチカンが提供する情報しか見ることができないと発表しているため、私たちは、教会の大部分を緊張させている近々行われるこの教会行事について、このドイツ人枢機卿【ゲルハルト・ミュラー枢機卿】に話を聞きたいと思います。

インタビュー(枢機卿は今週ポーランドに滞在しているため、書面でのインタビューとなりました)を通してお分かりのように、ミュラーは提起された疑問に逃げることなく取り組んでおり、問題の核心に迫っています。

ミュラー枢機卿とのインタビュー

【問い】今年10月、「シノダリティーに関するシノドス」の最終段階が始まります。どのように対応なさいますか。

【答え(ミュラー枢機卿)】このすべてが教会にとって祝福となり、害とならないよう祈っています。また、キリストの周りに集う教会が、不可知論的な時代精神という金の子牛の周りでの政治的な踊りにならないよう、神学的な明瞭さにも力を注いでいます。

【問い】教皇フランシスコは、シノドスで発言権を持つ参加者リストに猊下を含めています。このニュースをどのように受け止められましたか。

【答え】私がこれまで生涯を捧げ、考え、働いてきた教会のために、できる限りのことをしたいと思います。

【問い】シノドスの集会で伝えるおつもりのメッセージについて考えておられますか。

【答え】何よりも、【世界青年の日で】リスボンの若者たちが大変失望していることを踏まえて言いたいと思います。生ける天主の御子イエズス・キリストを信じない教会は、もはやイエズス・キリストの教会ではありません。各参加者はまず、三位一体の天主の救いの計画における教会の神秘を扱った「教会憲章」(Lumen Gentium)の第1章を学ぶべきです。教会は、「天主なきヒューマニズム」のイデオローグたちや、ブロック政党の戦略家たちの遊び場ではありません。

救おうという天主の普遍的なご意志こそが、天主と人間との間の唯一の仲介者であるキリストにおいて私たちが出会い、歴史的かつ終末論的に実現されるもので、これこそが、天主の教会の将来のプログラム【活動の計画】です。慈善家の仮面の下に無慈悲な個人の富を隠している億万長者の銀行家たちである無神論者・グローバリストの「エリート」による「グレート・リセット」が教会のプログラムなどではありません。

【問い】ジャーナリストたちが、(シノドスで)起きていることを生で追うことを許されない動きについて、どう思われますか。

【答え】私にはこの措置の背後にある意図は分かりませんが、450人の参加者が状況を隠し通すことはまずないでしょう。多くの参加者は、自分たちの利益のためにジャーナリストたちを利用するか、あるいはその逆かのどちらかでしょう。これは、教会にとって良いことよりも害になることの方が多い行動計画(アジェンダ)を操作し、宣伝するという大いなる時なのです。

【問い】今回のシノドスの集会に平信徒が出席することを批判する声もあります。

【答え】司教たちは、教皇とともに全教会に対する団体責任を行使することで、その職責にあずかっています。平信徒が投票権をもってそれ【シノドス】に参加するのであれば、それはもはや司教シノドスでも教会会議でもなく、また司教団の持つ使徒継承の教える権威もありません。第三バチカン公会議について語ることができるのは、無知な人だけです。なぜなら、最初から、ローマ司教シノドスはエキュメニカル公会議ではないからです。ですから教皇は、これを後付けでエキュメニカル公会議――第二バチカン公会議で低迷したとされている教会を凌駕する、あるいは、補足完成させる、新しい教会を打ち立てることができるような公会議――であると宣言することはあり得ません。そうすることは、第三バチカン公会議に対して司教たちが持っている神聖な権利を無視することです。

大衆迎合主義(ポピュリズム)の影響によって、このような自然発生的な決定の方にバランスが傾くたびに、教会の秘跡的な性質および教会の使命が見えなくなるのです。たとえその後で、すべての信者の共通司祭職によってそのような決定を正当化しようとし、信徒の共通司祭職と秘跡的な叙階による司祭職との実体的な違い(「教会憲章」10条)をなくそうとする試みがなされたとしても、です。

【問い】今回のシノドスで何が起こるのかと懸念を表明する司教や信者がますます増えているのでしょうか。

【答え】そうです、進歩派を自称する偽預言者(漠然としたイデオローグ)たちは、カトリック教会を2030アジェンダの支援団体に変えると発表しています。彼らの考えでは、天主のいない世界にふさわしいのは、キリストのいない教会だけなのです。リスボン【世界青年の日】から戻ってきた多くの若者たちは、もはやキリストにおける救いではなく、この世的な救いの教理に焦点が当てられていることに失望しました。どうやら、人間の起源にして終末、世の救い主としての天主をもはや信じず、汎自然主義的あるいは汎神論的なやり方で、いわゆる母なる大地を存在の始まりと考え、気候中立を地球の目標と考える司教さえいるようです。

【問い】教会内のいくつかのグループや運動が主張するように、信仰や教理に関する事項の変更は承認されると思われますか。

【答え】地上の誰であっても、天主の言葉を変えたり、それに付け加えたり、それを取り去ったりすることはできません。使徒の後継者として、教皇と司教たちは、唯一の教師である地上で復活されたキリストが命じられたことを人々に教えなければなりません。そして、天の軍勢とキリストの【神秘】体のかしらが常に弟子たちとともにとどまるという約束(マテオ28章19節)は、この意味においてのみ成り立ちます。人々は――司教の間でさえ基本的な神学教育が欠如していることを考えれば当然のことですが――信仰の内容とキリストにおけるその比類なき完全性を、教会の聖伝を通して教会の信仰理解が漸進的に神学的に反映・成長することと混同しています(「啓示憲章」[Dei Verbum]8-10条)。教導権の不可謬性が拡大されるのは、教会にただ一度だけ委ねられた信仰の神秘(depositum fidei[信仰の遺産]すなわち健全な教理、使徒たちの教え)を保存し、忠実に解釈するときだけです。教皇と司教たちは新しい啓示を受けることはないのです(「教会憲章」25条、「啓示憲章」10条)。

【問い】例えば、シノドスの集会が同性愛カップルの祝福、性道徳の変更、司祭の独身制の撤廃、女性の助祭職の許可などを承認したらどうなりますか。猊下は、それを受け入られますか。

【答え】司祭の独身制はこのリストから除外されなければなりません。なぜなら、聖なる叙階の秘跡と、自発的な結婚の放棄というカリスマとの関連は教義上必要ではないものの、バチカン公会議で公会議の教父が明確に強調したように(「司祭の役務と生活に関する教令」[Presbyterorum Ordines]16条)、ラテン教会のこの古くからの聖伝をペンの一筆で恣意的に廃止することはできないからです。そして、騒々しい扇動家たちは、司祭のいない共同体が救われることにはほとんど関心がなく、むしろ、彼らは性的に啓蒙された時代には時代錯誤、あるいは非人道的でさえあると考えて、この福音の忠告を攻撃しています。同性または異性の不道徳な行為を祝福することは、天主の言葉と意志に真っ向から反することであり、重大な罪深い冒涜です。司教、司祭、助祭のレベルの聖なる叙階の秘跡は、天主の力を与えることができるのですから。

召命が真正なものであることが教会によって確認された受洗者のみが、その権利を受けることができます。このような多数決を受け入れるという要求は、先験的に(a priori)廃れたものなのです。また、そのような要求は、(天主の)啓示と教会の明確な告白に反するため、教皇とともに司教団全体によって、あるいは教皇のみによって、教会法で実施されるということはあり得ません。

教皇の公式な権威は、聖書、使徒継承の聖伝、教皇に先立つ教導権の教義的決定との実質的関連から切り離すことはできません。そうでないなら、ルターが教皇権を誤解していたように、教皇は、キリストの権威のもとに、啓示された信仰を忠実にありのままに証しし、それを教会に真正に提示するのではなく、啓示された真理の唯一の作者である天主の立場に自らを置くことになってしまいます。

このような極端な状況では、天主は私たちをその状況から救うことがおできになるものの、すべての教会当局者はその権威を失ってしまい、カトリック教徒はもはや異端または離教の司教に宗教的に従う義務はなくなるでしょう(「教会憲章」25条、1875年、第一バチカン公会議に関するビスマルクの誤った解釈に対する司教団の回答を参照)。

【問い】今日議論の下にある真理を擁護するために、教会で十分なことが明確に行われていると思われますか。

【答え】残念ながらそうではありません。教会の内外で福音の真理を大胆に宣べ伝えることが神聖な任務です。パウロでさえも、ペトロのあいまいな振る舞いに公然と反対したことがありました(ガラツィア2章)が、もちろん、キリストが立てられたペトロの首位権に疑問を呈したのではありません。

私たちは、教会内で威圧されたり、上から望まれる善い態度【おべっか】の競争の見通しに誘惑されたりするのを許してはなりません。司教と司祭はキリストから直接任命されており、そのことを位階階級のそれぞれの長上が考慮しなければなりません。しかし、彼らは互いに共同体の中にあり、共同体には、信仰の問題における宗教的従順と、教会の統治における教会法的従順があります。しかし、このことは、信者を聖化し、教え、導く権威を持つ牧者にして教師であるキリストに対する直接の良心的責任を免除するものではありません。

また、教皇と教皇大使やバチカン職員との関係と、教皇の部下ではなく同じ使徒職の兄弟である司教たちとの団体制の関係とは厳密に区別しなければなりません。

【問い】今、教皇はどのような役割を果たすべきでしょうか。

【答え】教会の歴史の中で、教皇が政治家のように感じたり振る舞ったりするたびに、物事はうまくいかなくなりました。政治においては、【統治者の役割とは】人民に対する人間の権力に関することです。キリストの教会においては、【教皇の役割とは】人間の永遠の救いに奉仕することに関することです。この永遠の救いのために主は人間らを御自分の使徒として召されたのですから。教皇はペトロの椅子に座っています。新約聖書に登場するシモン・ペトロの浮き沈みの激しい様子は、すべての教皇を強めるもの、また戒めるものでなければなりません。ご受難の前の高間の部屋で、イエズスはペトロにこう言われました。「あなたは心を取り戻し、兄弟たちの心を固めよ」(ルカ22章32節)、すなわち、「キリスト、生ける天主の子」(マテオ16章16節)への信仰に固めよ。こうしてこそ、ペトロはイエズスが教会を建てる岩となり、地獄の門も勝てない岩となるのです。

スペイン語の原文はこちら
Cardenal Müller a InfoVaticana: «Los falsos profetas que se presentan como progresistas han anunciado que convertirán a la Iglesia Católica en una organización de ayuda para la Agenda 2030


【報告】上野の藝大アートプラザで「キリストサンドバッグ」と題された冒涜物について、私たちのとった行動と祈り

2023年10月28日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

上野の藝大アートプラザで「キリストサンドバッグ」と題された冒涜物が、9月30日から11月27日まで展示されると、私たちに悲しみと驚きをもって知らされたのは10月9日のことでした。

私たちは、この知らせを受けた直後に、御聖体降福式を償いのためにお捧げ致しました。
2023年10月9日、上野の藝大アートプラザでの冒涜の償いのための御聖体降福式

また同日、御聖体降福式の後に、有志の信徒の方々と藝大アートプラザに駆け付けて償いのためのロザリオをお捧げ致しました。

私たちの呼びかけを受けて、驚くほど多くの方から、償いのために祈る、作者のために祈るというメッセージをいただきました。病気の方々も、御自分のつらい痛みや苦しみを償いにお捧げする、辛抱強く痛みをこらえる、とのメッセージを送ってくださいました。

10月15日には、ドモルネ神父はお説教で、冒涜の罪とつまずきの罪について話しました。

またその後、何回か、有志の信徒の方々や、ドモルネ神父や小野田神父は、藝大アートプラザでなされた公けの冒涜に対して、公けの償いを行うことを試みました。それらについての詳細はここでは省略いたします。

私たちは、冒涜物を制作した 許允(ホ・ユン)さんに直接面会して、私たちの深い悲しみ、胸が張り裂けるような悲痛を感じているのか、私たちの理由を伝えたいと思いました。何故なら、お手紙を書くよりも、メールで説明するよりも、直接にお会いして目と目を合わせて真剣に訴えるならば、耳を傾けてくれるのではないかと、考えたからです。

特に、作者が来年は同じことを韓国で行うと意思表示しているので、日本に災いが起こらないためのみならず、韓国にとっても不幸なことが起こらないように、彼女が考えを改めて、このような冒涜物は自ら進んで撤去してくれることを願ったからです。そこで、藝大アートプラザの責任者の方を通して制作者との面会をお願いしました。

10月26日(木曜日)午後5時から午後6時45分まで、私たちは上野の藝大アートプラザのすぐ近くの喫茶店で、制作者の方と展示責任者の方と直接に会って話をしました。小野田神父が代表となって、私たちの悲しみを伝えようとし、二人の信徒の方々も神父と同席しました。

最初に制作者が自分の制作物についての説明をしたいと言ったので、私たちはまずその長い話を聞くことにしました。彼女の長いモノローグの中には、なぜキリストがなぜ殴られなければならないかについては一切説明がありませんでした。

次に私たちは次の8つの点を制作者に伝えました。私たちは紙に書いた原稿を読み上げたのではありません。心からの訴えを相手に伝えようとしました。ですから以下の8つのポイントは、私たちが発音したものではなく、私たちが心に響かせようとした内容です。

私たちが伝えようとした第一の点は、たんなる導入で、もしも誰かを愛することがあった人なら、誰でも分かると思った論点です。しかし最も重要な論点は第二の点です。第二の点があったからこそ、私たちは行動を起こしました。

私たちは祈りをもってこれを行いました。何故なら、私たちが求めたのは、制作者とアートプラザの責任者、また東京藝大の方々の本当の善だからです。私たちが直接会って話をしたのは、私たちの心が伝わり、制作者が考えを改めてくれることを願ったからです。ただし、心を変えることができるのは、天主の恩寵であり、聖霊の導きであると確信しています。ですから、祈りつつ、祈りに信頼して行いました。

私たちの論点の基礎にあるのは、人間の文化・文明と美術・芸術を成り立たせている前提です。つまり、何かが別のものを象徴し、意味するという、私たちが常識的に受け入れている事実です。ウ・マという二つの音節自体は馬ではありませんが、動物の馬を意味し、それを私たちは受け入れて人間としての生活や文化や芸術として成立させています。シ・カならば、たとえば動物の鹿です。声の音節の組み合わせで、人は馬鹿にされたり、あるいは、称賛されたりします。
白い背景の長方形に赤い丸があれば日の丸となり、日本の象徴になります。金メダルを受けた選手が日の丸の旗を高くそびえさせれば、誇らしくなります。
私たちの手のしぐさや体のジェスチャーも、軽蔑や威嚇を表現したり、愛情を表現したりすることができます。

最後に、私たちが今、ここで、こうやって、今回の出来事を、愛する兄弟姉妹の皆様に紹介するのは、今必要とされている祈り、冒涜の償いの祈り、制作者が考えを改めるように促す祈りへとお招きするためです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【2023年10月30日追記】

今回の展示は、藝大アートプラザの企画展「境界ーborderー」前期(2023年9月30日(土)〜10月22日(日))で終了し、後期からはその他の作品と共にすべて別のものに変えられました。ご報告いたします。

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論点

【1:導入:私たちの愛の対象】
イエズス・キリストは私たちの愛と尊敬の対象だ。私たちの天主・救い主・贖い主・王である。
私たちの愛の対象が、作者によって「グローブを着用しキリストサンドバッグを殴ってください」とされている。「殴ることによって崩れて壊れて」しまうこと、つまりキリストをノックアウトすることと破壊が想定されている。
これの意味することは、十字架像が象徴することに対する暴力と攻撃である。イエズス・キリストその人と、そのおっしゃった教え、主がなさったこと、全てに対する暴力であり、憎悪と侮辱の現れである
愛の対象を侮辱された人が、どれほど悲しむかは、良識のある人間であれば理解できる。
私たちカトリック信者は、愛するイエズス・キリストが暴行され侮辱されて、胸が張り裂ける程に悲痛を覚え、傷ついている。
韓国の方々は、国を代表する・国民の敬愛の対象が侮辱されたならば、どれほど悲しむことだろうか。
韓国には侮辱することが決して許されない対象があるのではないだろうか?
制作者ご自身は、自分の愛する人々が侮辱されるならば、作者はどう思うのか?
私たちは、この展示物によって非常に傷ついた。

【2:冒涜】
イエズス・キリストはこの世の創造主・天主であり贖い主であり救い主だ。
十字架のキリスト像を使うことは、宗教を取り扱っていることだ。作者は、宗教をテーマにして、キリスト像を冒涜している。

冒涜とは、天主を傷つけるなんらかの言葉や行いのことだ。天主の御稜威にふさわしくないことを述べたり行ったりすること、それが冒涜だ。つまり天主を軽蔑したり侮辱したりすることだ。
とりわけ十字架は天主が私たちのためになさった愛の業だった。主の憐れみ深い愛の極みの業である十字架が殴られて、冒涜されている。憐れみが冒辱されている。

冒涜の対象は、それが聖であればあるほど、その罪は重大になる。
冒涜を見てそれを止めないならば、それは冒涜の幇助罪にあたる。冒涜をするものと同等の責任をもつ。冒涜には、最も恐ろしい罪だ。厳しい罰が、現世と来世に待っている。

十字架像を殴る(しかも破壊するまで殴りつける)のは、誰が見ても(カトリック信者でなくとも)、神聖なものに対する冒涜だ。聖なるものに対する暴力であり、侮辱だ。良識がある人ならそれが理解できるはずだ。

冒涜の結果、町全体が滅んでしまったという例は歴史上存在してる。最近の例でいえば例えばマルティニーク島のサンピエールという町がそうだ。
1902年3月28日(聖金曜日)西インド諸島のフランス領マルティニーク島のサンピエール市では、一部の人々によってキリストの十字架像が嘲笑された。彼らは町をでてプレ山へと向かった。道すがら十四回留まって、冒涜を繰り返した。ついには、私たち人間の霊魂を贖うために十字架上で亡くなったキリストの十字架像をプレ火山の噴火口に投げ捨てた。しかし、これについて抗議する人はいなかった。1902年5月8日(キリストの昇天の祝日)、マルティニーク島にあるプレー火山が噴火して、山麓のサンピエール市は壊滅し、約4万人が死亡した。

【3:キリスト教信者たちに対する暴力】
十字架像(キリストの磔刑像)は、カトリック教会の信仰の中心でありシンボルだ。
これに対する暴力は、キリストの十字架による贖いの業を信ずる全てのキリスト者に対する攻撃だ。十字架像の後ろにいる私たちに対する暴力であり脅迫だ。私たちはキリストの神秘体の一員で、キリストは神秘体の頭だ。だから十字架像は、私たちキリスト信者をも象徴している。
特にキリスト教徒の少ない日本では、キリスト者として肩身の狭い思いをしている人々も多い。
磔刑像に対して破壊しつくすまで殴ろうとすることは、キリスト者たちに対する憎悪とヘイトと暴力を助長させている。

【4:日本カトリック信者の祖先に対する侮辱】
私たちカトリック信者たちは、日本において、250年以上にわたる迫害と差別と涙と苦しみの歴史を持っている。
私たちの祖先は、踏み絵を踏むことを強制させられ、数十万人ものカトリック信者たちがそれを拒否して殉教していった。つまり、イエズス・キリストと聖母を御姿を足で踏んで侮辱することを拒んで拷問を受け、血を流し、命を落としていった。
制作者は、差別され迫害されてきた私たちの祖先が命がけに守ろうとしてきたものを馬鹿にし、侮辱している。

【5:残酷であり非人間的】
イエズス・キリストは、実在した歴史上の人物である。ローマ総督ポンシオ・ピラトはキリストについて何度も無罪を宣告した。キリストは、冤罪により十字架の死刑を受けた。
無抵抗で傷ついている人間を殴るのは、普通の人にはできない。動物に対してさえもできない。ましてや人間に対してはいう必要もない。
人間としての普通の反応は、そのような人を憐れみ、助けの手を差し伸べることだ。野生の動物たちでさえも助け合うことが観察されている。
しかし、制作者は、観客に異常なことを求めている。観客に残酷でかつ非人間的な態度をとることを求めているからだ。

【6:美術】
美術とは、美を表現しようとする芸術である。
美とは何か。私たちは何を美しいと思い感動するだろうか?
天主の造った雄大な山や野の花々、星々、動物など、大自然は美しいと感じる。何故なら自然は、天主の偉大さや崇高さを反映しているからだ。芸術家は、大自然をテーマに美術品を作ろうとしてきた。
大自然よりもさらに崇高なのは、人間だ。何故なら、人間は天主の肖像と似姿に寄せて創られているからだ。自分を忘れる程に英雄的な犠牲心と愛と善にあふれ、尊厳がある人物に出会う時、私たちは感動を覚える。
それに引き換え、残酷で心が醜い人、裏切りや自惚れの人を見る時、私たちは軽蔑を覚え、みにくいと感じる。悪魔に心を渡してしまったような邪悪さを見るからだ。

イエズス・キリストの生涯は、天主御父と私たちとの愛に、英雄的な程、満ちていたがゆえに、キリストの尊厳や愛や崇高さが私たちに伝えられる時、それは私たちに礼拝と賛美と感謝と祈りを引き起こす。
イエズス・キリストは、古代カタコンベのイコンから始まって、2000年にわたって、多くの芸術家たちや修道者たちに、偉大な息吹(インスピレーション)を与えてきた。キリスト教美術である。
芸術、音楽、文学、演劇、建築のみならず、家庭生活、経済活動、法律、裁判、行政など、社会全体に美しい影響を与えてキリスト教世界を作り上げてきた。

しかし、この展示物は、過去の偉大な芸術家たちの表そうとしてきた大切なものを攻撃することを求めている。鑑賞者に暴力と憎しみを持つことを求めている。

【7:表現の自由】
この展示物は、反キリストの装置、反キリスト教を助長する憎しみの装置だ。殴る要請と命令だけがある。
自由とは真理と善とのためにある。冒涜の自由はない。罪や犯罪を犯す自由などは存在しない。

【8:公けの展示】
制作物は、誰にでも見て殴ることができるように、公けに展示されている。言い換えると、制作者が自分の家で自分のためだけに作ったプライベートなものではない。
教皇ピオ十二世が訴えたカトリック教会のおしえによれば、公然の行為については、客観的な真理とに従って、それがもっている悪を権威当局が制限することができるし、そうしなければならない。権威当局は、客観的な共通善(皆のための善)を配慮しておこなわなければならない。

【結論】
ただちに、このような冒涜の展示を中止すべきだ。冒涜は、それを行う人と、それを許容する人に、現世であるいは来世で災いを引き起こすものからだ。とても危険なことだ。

制作者の 許允(ホ・ユン)さん、私たちはあなたのために祈っている。冒涜物ではなく、後世にわたって多くの人々を感動させるような歴史に残る美しい作品を作っていただきたい。そのために応援している。あなたのために祈っている。


【ブラントミュラー枢機卿 バーク枢機卿 イニゲス枢機卿 サラ枢機卿 陳日君枢機卿】再作成して教皇フランシスコに提出された質問(Dubia)

2023年10月24日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】再作成してローマ教皇に提出した Dubia (2023年8月21日付)

Reformulated Dubia

フランシスコ教皇聖下

教皇聖下、

私たちは、聖下が私たちに提供しようとお望みになったお答えにとても感謝しております。私たちが最初に明確にしたいと思っておりますことは、私たちが聖下にこのような質問をいたしましたのは、私たちが生きる現代の人々との対話を恐れてのことでも、キリストの福音について彼らが私たちに質問することを恐れてのことでもないということです。実際、私たちは、聖下と同様に、福音が人間の生活に充満をもたらし、私たちのあらゆる質問に答えてくれると確信しております。私たちを動かす懸念は、それとは別のものです。私たちが懸念しておりますのは、福音が人の心を変容させる能力を疑い、もはや健全な教理ではなく「耳に快い教え」(ティモテオ後書4章3節参照)を提案することに終始する司牧者たちがいるのを見ていることです。私たちにはもう一つ懸念があります。天主の御あわれみとは、私たちの罪を覆い隠すことにあるのではなく、それよりもはるかに偉大なこと、つまり、私たちが天主の掟を守ることによって天主の愛にお応えできるようにさせてくれること、すなわち、私たちが「悔い改めて福音を信じる」(マルコ1章15節参照)ことができるようにさせてくれることにある、と私たちが理解することです。

聖下が私たちにご回答くださったのと同じ誠意をもって、私たちが付け加えなければならないのは、聖下のご回答が、私たちが提起した疑問を解決しておらず、どちらかといえば疑問を深めていることです。ですから、私たちは、ペトロの後継者として、兄弟たちを信仰において固めるよう主から使命を受けておられる聖下に対して、これらの質問を再提出し、再整理しなければならないと感じております。まさにこのことが、今度のシノドスの観点から言えば、もっと緊急を要することです。多くの人々が、私たちの「dubia」(質問)が懸念しているまさにその問題について、カトリックの教理を否定するためにこのシノドスを使おうと望んでいるのですから。それゆえ、私たちの質問を、簡単に「はい」か「いいえ」でお答えいただけるようにして、聖下に再提出させていただきます。

1.聖下は、教会が信仰の遺産についての理解を深めることができると主張しておられます。これは確かに「啓示憲章」(Dei Verbum)8条が教えていることであり、カトリックの教理に属するものです。しかし、聖下のご回答は、私たちの懸念を捉えてはおりません。司牧者たちや神学者たちを含む多くのキリスト信者は、私たちの時代の文化的かつ人間学的な変化は、教会が常に教えてきたこととは正反対のことを教えるよう、教会を後押しすべきだと主張しております。このことは、信仰告白、秘跡を受けるための主観的条件、道徳律の遵守といった、私たちの救いにとっては、二次的な問題ではなく本質的な問題に関わるものです。
ですから、私たちの「dubium」(質問)をこう言い換えましょう。教皇の「教皇座宣言」(ex Cathedra)によるにせよ、公会議の定義によるにせよ、世界中に散在している司教たちの通常の普遍的教導権によるにせよ(「教会憲章」[Lumen Gentium]25条参照)、信仰と道徳の事柄において、今日の教会が、教会が以前に教えてきたことと反対の教理を教えることが可能なのでしょうか。

2.聖下は、結婚と他の形態の性的な性質を持つ結合との間に混同があってはならず、それゆえに、そのような混同を生じさせるような同性カップルの儀式や準秘跡の祝福は避けるべきであるという事実を主張しておられます。しかし私たちの懸念は、それとは異なるものです。私たちが懸念しておりますのは、同性カップルの祝福が、結婚に類似しているように思わせるだけでなく、同性愛の行為が実質的に一つの善として、あるいは、少なくとも天主が人々に天主への旅において求める善の可能性のあるものとして提示されるのではないかという点で、いずれにしても混同を生み出す恐れがあるということです。
ですから、私たちの「dubium」を言い直しましょう。状況によっては、司牧者が同性愛者同士の結合を祝福し、同性愛の行為が天主の法やその人の天主への旅に反しないかのようにほのめかすことは可能でしょうか。
この「dubium」と関連して、もう一つの「dubium」を提起する必要があります。普遍的な通常教導権が支持する教え、すなわち、結婚外のあらゆる性的行為、特に同性愛の行為は、それが起こる状況やそれが行われる意向にかかわらず、天主の法に反する客観的に重大な罪を構成するという教えは、有効であり続けるのでしょうか。

3.聖下は、信徒を含むすべての人が参加し、声を上げるよう求められているという点で、教会にはシノドスの次元があると主張してこられました。しかし、私たちの困難は別のところにあります。今日、これからの「シノダリティー」に関するシノドスは、教皇との交わりにおいて、あたかも教会の最高権威を代表するかのように提示されています。しかし、司教シノドスは教皇の諮問機関であり、司教団を代表するものではなく、シノドスの決定を批准する義務を負うローマ教皇が、場合によってはシノドスに決議権を明示的に付与しない限り(教会法343条を参照)、シノドスで扱われる問題を解決することも、それに関する教令を発することもできません。これは、次のシノドスが提起しようとしているような、まさに教会の構造そのものに触れるような問題に司教団を関与させないということは、まさにシノドスが促進させたいと主張しているシノダリティー【共に歩むこと】の根幹に反することになるという点で、決定的なポイントです。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い換えましょう。牧者や信徒の中から選ばれた代表者だけしかいない、ローマで開催される司教シノドスは、自らを表現するよう求められる教義的あるいは司牧的な事柄において、独占的にローマ教皇および「かしらとともに」(una cum capite suo)司教団に属する教会の最高権威を行使するのでしょうか(教会法336条を参照)。

4.ご回答の中で、聖下は、聖ヨハネ・パウロ二世の「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)での決定が確定的に保持されるべきものであることを明確にされ、また、司祭職を権力という観点ではなく、奉仕という観点で理解することが、司祭職を男性のみに限定するという主の決定を正確に理解するために必要であることを正しく付け加えられました。他方で、ご回答の最後の点で、この問題はまだ検討の余地があると付け加えられました。私たちは、この発言によって、この問題がまだ決定的な形で決定されていないことを意味すると解釈する人がいることを懸念しております。実際、聖ヨハネ・パウロ二世は「オルディナーチオ・サチェルドターリス」の中で、この教理は通常の普遍的な教導権によって不可分に教えられてきたものであり、したがって、この教理は信仰の遺産に属するものであると断言しています。これは、この使徒的書簡について提起された「dubium」に対する教理省の回答であり、この回答はヨハネ・パウロ二世自身によって承認されました。
ですから、私たちの「dubium」を再定義しなければなりません。つまり、教会は将来、女性に司祭叙階を授ける権限を持つことができるのでしょうか。そうする結果として、叙階の秘跡が洗礼を受けた男性だけに独占的に留保されることが、叙階の秘跡の本質そのもの――これについて教会は変更することができない――に属していることに、反することになるのではないでしょうか。

5.最後に、聖下は、トリエント公会議の教えを確認されました。この教えによれば、秘跡による赦しが有効であるためには、もう二度と罪を犯さないという決意を含む罪人の悔い改めを必要とします。そして聖下は、天主の無限の御あわれみを疑わないよう、私たちを招かれました。私たちの質問は、天主の御あわれみの偉大さを疑うことから生じているのではなく、逆に、この御あわれみがあまりに偉大であるがゆえに、私たちは天主に立ち返り、罪を告白し、天主の教えに従って生きることができるのだという自覚から生じているのだということを、改めて申し上げたいと思います。次に、罪の告白と悔い改めが暗黙のうちに含まれている可能性がある以上、単に告白に近づくことが赦しを受けるための十分な条件であると、聖下のご回答を解釈する人もいるかもしれません。
ですから、私たちの「dubium」をこう言い直したいと思います。罪を認めながら、二度と罪を犯さないという意向をいかなる形でも拒否する悔悛者は、秘跡による赦免を有効に受けることができるでしょうか。

2023年8月21日、バチカン市にて

Walter Card. BRANDMÜLLER         Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ      Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿   レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿  ロペール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿

この写しはルイス・フランシスコ・ラダリア・フェレール枢機卿猊下(イエズス会)にも送った。


【ブラントミュラー枢機卿 バーク枢機卿 イニゲス枢機卿 サラ枢機卿 陳日君枢機卿】教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知

2023年10月24日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知

Notification to Christ’s Faithful (can. 212 § 3) Regarding Dubia Submitted to Pope Francis

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教皇フランシスコに提出された「Dubia」(質問)に関するキリストの信者への告知(教会法212条3項)

キリストにおける兄弟姉妹の皆さま、

私たち聖なる枢機卿会のメンバーは、「教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する」(教会法212条3項)全信徒の義務に従って、また何よりもまして「個別的に…特に普遍教会の日常的な関心事について、ローマ教皇を援助する」(教会法349条)べきである、枢機卿の責任に従って、次の司教シノドス――これは、教会の不変の教理と規律に公然と反しており、信徒やその他の善意の人々の間に大きな混乱と誤謬への転落をこれまで生み出しましたし、また生み出し続けています――の挙行に関わる高い地位にある高位聖職者のさまざまな宣言を考慮して、ローマ教皇に深い懸念を表明しました。

2023年7月10日付の私たちの書簡によって、私たちは、教会の教理と規律を「responsa」(回答)によって明らかにする機会を長上に提供するために、長上への「dubia」(複数の質問)の提出という実績ある慣行を用いて、教皇フランシスコに五つの「dubia」(下の部分を参照)を提出しました。教皇フランシスコは、2023年7月11日付の書簡によって、私たちの書簡に回答されました。

教皇の書簡を読むと、これは「Responsa ad dubia」(質問に対する回答)の慣例に従っておらず、私たちは、教会の永代にわたる教理と規律に基づく明確な回答を引き出すために、「dubia」を再作成しました。2023年8月21日付の書簡によって、私たちはローマ教皇に再作成した「dubia」(日本語訳)を提出しました。現在までのところ、私たちは再作成された「dubia」に対する回答を受け取っていません。

「dubia」のテーマの重大性、特に司教シノドスの総会が間近に迫っていることを考慮すると、私たちは、信徒の皆さんにお知らせすることが私たちの義務であると判断します(教会法212条3項)。それは、皆さんが、混乱、誤謬、落胆に陥ることなく、むしろ、福音がこれまで以上に明確に教えられ、これまで以上に忠実に守られるよう、普遍教会、特にローマ教皇のために祈ることができるようにするためです。

キリストにおいて、
ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿
レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿
ロベール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿

2023年10月2日、ローマにて

同封物:2

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「質問事項」(DUBIA)

1 文化的・人類学的な流行の変化に応じて天主の啓示を再解釈すべきだという主張についての質問(Dubium)。

数人の司教の発言は訂正も撤回もされていませんが、私たちは次のことを問います。教会において、天主の啓示は私たちの時代の文化的変化と、この変化が促す新しい人間学的展望に従って再解釈されるべきなのでしょうか、それとも、天主の啓示は永遠に拘束力を持ち、不変であり、それゆえ、矛盾してはならないものなのでしょうか。第二バチカン公会議の宣言に従えば、啓示を垂れる天主に「信仰の服従」(「啓示憲章」[Dei Verbum]5条)をするのが当然であること、また、すべての人の救いのために啓示されたものは「完全に、代々にわたって」生き生きと留まらなければならず、かつ「あらゆる世代に伝達され」(7条)なければならないこと、また、信仰は「永久に一度だけ伝えられ」(8条)ているがゆえに、【信仰に関する】理解の進歩は、事や言葉の真理のいかなる変化も意味しないこと、また、教導権は天主の言葉に優越するものではなく、伝えられてきたものだけを教えること(10条)を述べています。


2 いま広がっている同性の結合を祝福することが、啓示および教導権と一致するとされる主張(カトリック教会のカテキズム2357条)についての質問(Dubium)。

聖書で確認された、天主の啓示――これを教会は「天主の命令と聖霊の援助によって、…天主の言葉を敬虔に聞き、聖く保存し、忠実に説明する」(「啓示憲章」10条)のですが――によると、「初めに」天主は人をご自身の像にしたがって創造され、男と女を創造され、彼らが増えるように祝福されました(創世記1章27-28節参照)。このことについて使徒パウロが教えているのは、性別を否定することは創造主を否定することの結果であること(ローマ1章24-32節)です。そこでこう問います。教会は、啓示された教理を裏切ることなく、この「原理」から逸脱し、「真理の輝き」103条が教えたことに反して、それを単なる理想とみなし、"同性の結合"のような客観的に罪深い状況を「可能な善」として受け入れることができるでしょうか?

3 シノダリティーは「教会の構成要素」(使徒的憲章「エピスコパーリス・コムーニオ」[Episcopalis Communio]6条)であり、教会はその本質からしてシノドス的であるという主張についての質問(Dubium)。

司教シノドスは司教団を代表するものではなく教皇の諮問機関に過ぎない――何故なら司教たちは信仰の証人として、真理の告白を委任することはできないからです――ことを考えて、私たちは次のことを問います。シノダリティーは、教会の創立者【イエズス・キリスト】が意志した教会の構成秩序を歪めることなく、教会の永続する統治における最高の規定基準でありうるのでしょうか。主の意志によれば、教会の最高かつ完全な権威は、教皇がその職責の力によって、また、その長であるローマ教皇とともにある司教団によって、行使され(「教会憲章」22条)ます

4 「教会の神学は変わった」、したがって女性に司祭叙階を授けることができるという説を牧者や神学者が支持していることについての質問(Dubium)。

第二バチカン公会議によって教会の神学とミサの意味が変わったとする、訂正も撤回もされていない一部の高位聖職者の発言の後で、第二バチカン公会議の次の発言がまだ有効であるのか否かを問います。すなわち、(信徒の共通司祭職と役務的または位階的司祭職が)本質的に異なるものであって、程度においてのみ異なるものではない」(「教会憲章」10条)、また、「いけにえをささげ、罪を赦すという叙階の聖なる権能」(「プレスビテロールム・オルディニス」[Presbyterorum Ordinis]2条)の力により、司祭は、仲介者キリストの名とそのペルソナにおいて行動し、キリストを通して、信徒の霊的犠牲が完全なものとされる、ということの有効性です。

さらに問うべきことは、聖ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「オルディナーチオ・サチェルドターリス」(Ordinatio Sacerdotalis)の教えは、女性に司祭叙階を授けることは不可能であることを決定的に保持すべき真理として教えていますが、これはまだ有効であるのでしょうか。なお有効ならば、この教えはもはや変更されることなく、司牧者や神学者の自由な議論の対象でもありません。

5 「赦しを得るのは人間の権利である」という声明と、告解の秘跡で痛悔が必要な条件ではなく【司祭は告解で無条件に】すべての人に常に赦しを与える義務があるとする教皇の主張についての質問(Dubium)。

トリエント公会議の教えによれば、もう罪を犯さないという意向をもって犯した罪を憎むことからなる悔悛者の痛悔(第十四総会第四章:DH1676)が、秘跡としての告解が有効であるために必要です。この条件が満たされていないことが明らかな場合、司祭は赦しを延期しなければならないと、トリエント公会議は教えています。ここで私たちの質問はこれです。このトリエント公会議の教えは、今でも有効であるのでしょうか。

2023年7月10日、バチカン市にて

Walter Card. BRANDMÜLLER           Raymond Leo Card. BURKE
Juan Card. SANDOVAL ÍÑIGUEZ        Robert Card. SARAH
Joseph Card. ZEN ZE-KIUN, S.D.B.

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿   レイモンド・レオ・バーク枢機卿
フアン・サンドヴァル・イニゲス枢機卿  ロベール・サラ枢機卿
ジョゼフ陳日君枢機卿(サレジオ会)


【参考情報】ミュラー枢機卿、バチカンがフェルナンデス大司教について警告のファイルを持っていることを認める

2023年08月10日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】ミュラー枢機卿、バチカンがフェルナンデス大司教について警告のファイルを持っていることを認める

2023年7月28日

Cardinal Müller Confirms Vatican Had File Warning About Archbishop Fernández

エドワード・ペンティン

【解説】教皇フランシスコは、つい最近、教理省のトップにフェルナンデス大司教を任命した。ところが、アルゼンチン出身のフェルナンデス大司教は、ベルゴリオ枢機卿(将来のフランシスコ教皇)がアルゼンチンにいた時から、婚姻と同性愛に関することで異端の疑惑をかけられていた。ベルゴリオ枢機卿はそれでもフェルナンデス神父(当時)をカトリック大学の学長と任命しようとした。フランシスコ教皇は、教皇になると同じフェルナンデス神父を、信仰の正統性をチェックせずに、司教と任命し、今回は教理省の長と任命した。

エドワード・ペンティン―バチカン市国】ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、バチカンの教理省が、教皇フランシスコが(今月)教理省のトップに任命したビクトル・マヌエル・フェルナンデス大司教に関する神学的懸念を含むファイルを持っていたことを認めた。

このファイルは、ブエノスアイレスのホルヘ・ベルゴリオ枢機卿が2009年に当時のフェルナンデス神父をアルゼンチンの教皇庁立カトリック大学の学長に任命した時のものであることが、第二の教会の情報源によっても確認されている。

フェルナンデス大司教は7月5日付の「レジスター」へのコメントで、このファイルの内容を軽視し、自分の著作に基づく「告発」に関するバチカンの懸念は「さほど重要なものではなかった」と述べ、バチカン当局者との手紙のやり取りで、自分の「本当の考えを明らかにした」後、「すべては穏やかに解決された」と述べた。

教皇フランシスコは7月1日、教皇の側近の助言者の一人であり、フランシスコの使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Laetitia)の最も論争となっている箇所の起草者とされているフェルナンデス大司教教理省長官に任命した。大司教は、すでに発表されていた9月中旬の開始予定から前倒しされ、8月に就任する。

ミュラー枢機卿は2012年から2017年までこの部署(旧教理省)の長官を務めていたが、7月4日付の「レジスター」は、このファイルはベルゴリオ枢機卿が当時のフェルナンデス神父を大学の学長に推薦した後、当時のカトリック教育省次官だったジャン=ルイ・ブリュゲ大司教によって2000年代後半のころに作成されたものだと書いている。

このファイルの目的は、教理省に十分な情報を提供し、カトリック大学の新学長の必要条件の一つである「nihil obstat」(障害なし)宣言を授与するか保留するかを決めることだった。

ミュラー枢機卿は、「教理省は、常に決定的な言葉を与えることに関与している。従って、カトリック教育省は、正式な『了承』を与える際に、このような任命に問題がないことを、教会が絶対的に確実であるように、教理省に『nihil obstat』を求めなければならない」と言う。

このファイルの内容のために、当時のウイリアム・レバーダ枢機卿が率いる教理省は、懸念が解決されるまで「nihil obstat」の交付を遅らせた。

そのため、フェルナンデス神父が就任宣誓を行うことができたのは、非公式の学長就任から2年半後の2011年5月のことだった。それは、彼の神学的見解の一部について、ファイル内で継続的な懸念が提起されていたからである。

ミュラー枢機卿は「レジスター」に対し、ファイルが存在するにもかかわらず、フェルナンデス神父が教理省に「より良く行うことを誓う」手紙を送った可能性があることを強調し、これは「疑念を払拭するための、このようなことの常套手段だ」と付け加えた。

フェルナンデス大司教は、そのようなアプローチを取ったようだ。彼は、「レジスター」に対して、2009年に学長に任命された後、自分が書いたいくつかの記事が「ローマに届き」、「その瞬間から手紙のやりとりが始まり、その中で私は自分の本当の考えを明確にし、すべてが穏やかに解決された」と語った。

「ローマの仕事のペースでは一年以上かかったが、告発はそれほど重いものではなかったことを明確にしておきたい」と彼は語った。「例えば、彼らは私がアルゼンチン内陸部にある私の街の小さな新聞に書いた半ページに疑問を投げかけた。そのページで私は、私たち司祭は、結婚に対する一定の観念を持っているため、同性愛者の結合を祝福することはできないと説明した。しかし、それにもかかわらず、私たちは人々を裁いたり、非難したりはしなかった」。

フェルナンデス大司教は続けて、「告発者たちは、私が結婚についての教会の理解を十分に説明していないと言った。信じられないかもしれないが、このことに私は、数カ月の時間を取られた」」と述べた。

彼は付け加えて、自分は「この問題の専門家ではない」と説明したため、この件に関する訂正記事を発表することが「必要または適切」とはみなさなかったと述べた。一般的に「神学者は、私たちが専門にすることができたテーマについて記事を書こうとする」と彼は言った。

フェルナンデス大司教は7月3日、アルゼンチンのラジオ局「Perfil」とのインタビューで、教理省がかつて異端審問の検邪聖省であったことを思い出しながら、教理省は「私のことさえ調査した」と述べて、この経験を振り返った。彼は、そのプロセスは「実に腹立たしいもの」であり、自分自身を正当化するために「無意味なことに何カ月も費やした」と語った。

フェルナンデス大司教は、物議を醸している同性愛関係にあるカップルの祝福について、引き続き意見を述べている。彼は7月5日、スペインのカトリックウェブサイト「Infovaticana」に対し、男女間の「厳密な意味」での「結婚」に匹敵するものはなく、「その混乱を助長するような儀式や祝福を避けることが、取るべき最大の注意点である」と述べた。しかし、彼はこうも付け加えた。「今、もし祝福がそのような混乱を引き起こさないような形で与えられるのであれば、それは吟味され、検証されなければならない。お分かりのように、言いたいポイントは、私たちは純粋に神学的な議論を離れ、もっと賢明で規律的な問題に移っているということだ」と。

彼はまた、インタビューで、教会の教理を変えることはできないものの、教理に対する「私たちの理解」は変わり得るし、「事実、それは変わった、これからも変わり続けるだろう【ソノママ!】」と述べた。

フェルナンデス大司教は、バチカンの懸念が取り除かれたのは、ベルゴリオ枢機卿からの圧力によるものではないと述べた。「彼は、私に送られた質問に私が答えれば、遅かれ早かれすべてが解決するだろうと確信していた」。

しかし、ブリュゲ大司教にとっては反響があったようだ。教皇フランシスコは、彼が2012年から2018年まで、聖なるローマ教会の記録係兼司書――18世紀以来その地位に就く人は枢機卿である権威ある役職――を務めていたにもかかわらず、このフランス人高位聖職者を枢機卿にすることはなかったからだ。

教皇フランシスコは教皇に選出された2カ月後、フェルナンデス神父を大司教に昇格させたが、当時はミュラー枢機卿が長官であった教理省には報告しなかった。教皇には司教を任命する前に教理省に「nihil obstat」を求める義務はないが、ミュラー枢機卿は、候補者が教理的に健全であることを確認するため、通常はそうすると言っている。

教皇フランシスコは、フェルナンデス大司教の任命に際しての書簡の中で、フェルナンデス大司教の下にある教理省が、フェルナンデス大司教自身が受けていたのと同じ程度に神学者の正統性を精査することはもうないだろうと示唆しているように見えた。

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【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2

2023年08月08日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2

  • 高品質の製品とは、カトリックの教理、道徳、典礼を象徴しています。低品質の商品との競争とは、近代主義的なイデオロギー的ながらくた、つまり主に改革されたミサ典礼のことです。…ほとんどすべての販売拠点を閉鎖し、…輸入製品が粗悪品であることを人々に見抜かれないようにするため、高品質の製品を単になくしてしまうことで比較を回避しています。
  • もし「顧客」が「大規模小売業者」によって押しつけられたものを買うことを諦めるとすれば、それは詐欺や市場操作によって自由な選択の可能性を奪われたからに他なりません。
  • 地獄の門は遊園地のお化け屋敷と同じように、すでに私たちの主によって決定的に征服された者たちによって作られた印象的な舞台装置に過ぎないことを私たちは理解するでしょう。

Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その2
第2部(7月28日追加)

【解説】ヴィガノ大司教は、カトリック教会の高位聖職者です。以前はバチカンの行政機構の上層部で働き、ベネディクト十六世によって在米教皇大使を任命されました。聖ピオ十世会という修道会に所属する司教ではありません。聖ピオ十世会の考えを代弁しているというわけでもありません。ただし、以前、新しいミサを行っていたけれどもその弊害に気が付き、聖伝のミサに立ち戻った高位聖職者であり、第二バチカン公会議の実りとは何かを直視することができるようになった司教の一人です。そこで参考情報として最近のヴィガノ大司教の発言を日本語で紹介します。私たちは教皇さまのことは普通は教皇としての名前で呼ぶ習慣があります。たとえばベネディクト十六世とか、フランシコとかです。しかしイタリア語では、時として教皇の苗字で呼ぶこともなされるとのことです。例えば、パパ・パッチェリ(ピオ十二世)、モンティーニ(パウロ六世)など。

【問い】大司教様、第1部の終わったところから続けましょう。教会で起きていることと世俗の領域で起きていることは、明白な並行関係にあります。大司教様がよく使われる表現に、「すべてが一つで説明がつく」“everything holds together.”というものがあります。これについてもう少し説明していただけますか。

【ヴィガノ大司教】民主的な国家機関や超国家機関の権威主義(昨日は口実のパンデミック緊急事態、今日は不条理な環境緊急事態)は、シノドスのバチカン機関の権威主義(昨日は口実のエキュメニカル対話、今日はそれに劣らない口実である性的・道徳的逸脱の奨励)とまったく変わるところがありません。どちらも真の権威が腐敗したものの表現であり、一方は世界的なクーデターのディープ・ステート、他方はザンクトガレン・マフィアのクーデターのディープ・チャーチです。どちらにおいても、メンバーの腐敗が、彼らが従属的であり続けることを保証しています。なぜなら、その腐敗のせいで彼らを脅迫するのは簡単なことだからです。この理由で、これらの機関で一定のレベルに昇進している人々が正直であることは不可能です。なぜなら、正直であれば、腹話術師の手中にある操り人形のような、重要な役割を担う操作しやすい操り人形を欲する人々の支配から逃れることができるはずだからです。

ですから、離教がベルゴリオの究極の目標です。なぜなら、それはファリザイ派のやり方、つまり、偽善的で偽りの形式主義というやり方であり、教会から善きカトリック信者を追い出して、教会を裏切り者や反逆者の権力に完全に委ね、その時点で彼らが望むことを教会に対して自由にできるようにするからです。

同じことが世俗の領域でも起きています。西側諸国の支配者や支配階級全体が、誰も選んでいない権力に完全に隷属しています。国家の利益に反してでも、また市民の基本的権利を侵害してでも、彼らはこの権力に従っています。そして、彼らを大逆罪で裁いて断罪する意思も能力もある機関や司法は存在しません。

ベルゴリオの保守派に対する排斥は、グローバリストのエリートが新型コロナウイルス感染症や地球温暖化の「否定派」に対して行う排斥と同じです。サイコパンデミックや環境の茶番劇に科学的根拠がなく、著名な科学者や反論の余地のない証拠によって否定されていることは問題ではありません。科学は科学主義に取って代わられ、これらのテーマに関するあらゆる科学文献は今や削除され、取り消され、検閲されています。ですから、カトリックの教導権に関して第二バチカン公会議以降の「教導権」があからさまに矛盾していることを考えれば、ここでも教会との並行関係があらゆる証拠によって見えてくるのです。教理は異端に、道徳は個人の主観に、典礼儀式は冒涜的な即興に取って代わられました。そして、たとえば、ワクチンを受けた者だけの突然死や、公会議後の期間の召命の危機を強調することによって、公式の物語(ナラティブ)に疑問を呈する者たちは犯罪者とされます。なぜなら、彼らの反対意見は理性的かつ合理的であり、反論できないものだからです。反論する代わりに、その反対意見を表明する各個人を攻撃することによって、その意見を委縮させるのです。


【問い】この時点で、「どうすればこの状況から抜け出せるのか」という問いに戻ります。ここ数日間、ここ「Duc in altum」では、多くの読者の参加を得て、このテーマについて幅広い議論が交わされてきました。ベルゴリオと彼の部隊がカトリック世論にクロロホルムをかがせることに失敗したのは明らかなようです。

【ヴィガノ大司教】祈りによってそこから抜け出さなければならない、と提案する人々もいます。それは正しいことです。全能の天主に歴史の手綱を握っていただくことは、確かに効果的な手段です。しかし、同時に、それだけでは十分ではありません。祈り(それは常に欠かすことのできないものです)はまた、私たちの信仰の父祖たち(使徒たち、初期キリスト教徒たち、そしてすべてのカトリック信者たち)が常に行ってきたように、暴君たちやサトラップたちに、過去二千年にわたって立ち向かってきたように、行動を伴っていなければなりません。この暴君たちは、ヴォルテールが冒涜して言った「"恥知らず"を粉砕せよ」(écrasez l'infame)が可能だと確信していました。しかし、教会の敵どもは今やすべて死んで葬られたものの、教会は今でも生きています。

最初のインタビューで述べたように、この行動はまず第一に、聖伝の運動の戦略的分断化を見越しておかなければなりません。聖伝の運動は、一撃で全体を攻撃されるのを不可能にするために、協調しつつも独立した状態のままでいなければなりません。私の考えでは、聖伝の運動を分断化しておくことが、現在の攻撃に対する唯一の可能な対応策です。私たちは、新たな教会に似たような組織を設立してはならず、むしろ、異なる勢力間で最小限の協調を維持するのです。そうすれば、真のカトリック信者がとどまるべき唯一の真にして合法的な場所である教会において、遅かれ早かれ、自分たちが完全な市民権を取り戻すことが分かるでしょう。明らかなことですが、このことは、沈んでいく船の乗客として、起きていることを傍観して見守っていることではありません。それどころか、教会にとどまることで、私たちは教会の子として、内部から敵の第五列【反逆者、スパイ】として行動する人々の攻撃から教会を守るように駆り立てられなければなりません。

一方でベルゴリオが私たちの逃げ道をすべてふさぎたいと思っているのなら、他方で私たちは他の逃げ道を開ける必要があります。もしベルゴリオの行動が、私たちを孤立させることで、臆病にさせて【活動を】思いとどまらせることを目的としているのであれば、私たちは使えるあらゆる手段で横領を糾弾しなければなりません。そして、遅かれ早かれ、迫害は「必然的に」、もう一度言います、必然的に、バチカンの報復の可能性から何とか守られていると信じ込んでいる人々にも広がっていくでしょう。ですから、彼らも今や、信者に聖なるミサと秘跡を保証することになる、ますます切迫した「必要性の状態」によって強化された抵抗の形態を組織し始めることができるようになるでしょう。

【問い】この点に関して、大司教様は、司教としての兄弟の方々にどんな提案をなさいますか。

【ヴィガノ大司教】私は彼らに、良心の呵責をもって(onerata conscientia)、このことを検討するように勧めます。つまり、ベルゴリオによる更なる策略の可能性や、世俗当局が聖伝のカトリック信者を公然と迫害する行動に出ることを考慮して、自分たちの保守的な司祭のために秘密の形態の役務を考えることが適切かどうか、を検討することです。米国でトリエント・ミサに関連する信者のグループをFBIが調査したことは、諜報機関の逸脱した部分がカトリック信者を彼らの破壊転覆的計画にとって脅威とみなしていることを示唆していますが、一方で彼らはベルゴリオの教会に味方を得ています。

聖伝の修道共同体、特に観想生活の女性たちの共同体は、物質的・霊的な相互支援と援助を与え合うために、常に連絡を取り合っていなければなりません。教会の最高レベルを占拠しているこの異端者たちや変質者たちの集団に反対する非主流派が、メディアやソーシャル・ネットワーク・プラットフォームでますます存在感を増すことが重要であり、そうすることで、背教に対する諦めたような沈黙と必要とされる反対との間でまだ躊躇している人々を励ますことができます。これらの司祭たちに語ってもらいましょう。彼らに声を与え、彼らを慰め、彼らに家庭や教会、修道院で歓迎されていると感じてもらいましょう。

忘れてはならないのは、グローバリストのエリートたち、そしてその手先であるベルゴリオのセクトを動かしているメンタリティーは、商業的なもの、つまり典型的なプロテスタント的かつ高利貸的なものだということです。支配的な考え方は、権力と利益であり、これはあらゆるものを商品化することによって、つまり、生活のあらゆる面を、売却したり購入したりできる商品に変えることによって得られるものです。そして、商業戦略は常に、市場を征服するための明確に決められたプロセスに従います。

【問い】例を挙げていただけますか。

【ヴィガノ大司教】承知しました。二つの会社があると考えてください。一つは、第三世界で質の悪い製品を低価格で生産している外国の多国籍企業で、もう一つは、同じ製品をイタリア国内だけで生産された高品質の原材料を使い、熟練した技術と適正な価格で生産しているイタリアの職人企業です。このような状況では、多国籍企業が新たな外国市場で自らを押しつけることができる見込みがないのは明らかです。通常の条件下では、政府は自国の国内企業家の優秀性を保護する形をとり、輸入品に重い関税を課しているからでもあります。しかし、欧州連合(EU)に加盟すると、加盟国は自国企業を優先することを禁じられ、過酷な税金や関税が課され、原材料や生産のコストが上昇し、多国籍企業への信用供与が容易になり、中小企業への利用が大幅に制限されます。こうした経済・財政政策の背後には、もちろん大金融グループのロビイストがいます。この時点で、イタリアの企業は値上げを余儀なくされ、多国籍企業は直ちに競争力を持つようになります。そこで多国籍企業は、イタリア市場に参入し、印象的なメディア・キャンペーンを展開しますが、小さな競合企業にはそんな余裕はありません。しばらくすると、多国籍企業はその小さな会社を買収し、しばらくの間その会社に仕事をさせます。多国籍企業は何を得たのでしょうか。代替製品の消滅と全般的な製品の品質低下です。競争は排除され、製造された製品は、市場で唯一提供されているという理由だけで、価格を上げることができます。このプロセスでは、高品質の製品を排除することが不可欠です。なぜなら、中国の刑務所やインドの村で大量生産される製品との比較は、迷惑な話だからです。そうなれば、貴重な職人製品を排除し、質の悪い製造品を優先することになります。

では、外国との競争に対処するために、どのような解決策が提案されているのでしょうか。原材料コストを下げた後に残るのは、人件費コストの削減だけであり、それは賃金の引き下げと低賃金の外国人労働者の導入により、また北アフリカからの不法移民の上陸や、トルコから欧州に入国した移民の圧力のせいでもあります。この協調攻撃に、エネルギーコストの上昇(これらはすべて意図的に引き起こされたものです)とEU加盟国(あるいは少なくとも一部の国)の財政均衡の義務を加えると、この場合も、唯一の望ましい道を除いて、すべての逃げ道が閉ざされていることが分かります。でも、その望ましい道は、それを選んだ者にとっては致命的です。

【問い】大司教様、口を差しはさむのをお許しください。しかし、このような表現をされると、次のように言う人々がいます。「ヴィガノ大司教は司牧者としての自分に関係のないことを話している」と。

【ヴィガノ大司教】ここで、司教として発言しているテーマに対して、私たちが少なくとも「通常ではない」土台にいることを、私は理解しています。私は、かつてバチカン市国行政庁次官として、経済問題にも取り組まなければなりませんでした。お気づきのように、私が今説明した商業戦略は、教会の領域でも採用されています。高品質の製品とは、カトリックの教理、道徳、典礼を象徴しています。低品質の商品との競争とは、近代主義的なイデオロギー的ながらくた、つまり主に改革されたミサ典礼のことです。「顧客」は、比較にならないほど劣ったものと引き換えに、いつも持っている高品質の製品を自由に手放そうとはしないため、「公会議の多国籍企業」が「小さな職人会社」を買収し、その製品を「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の下で提供させますが、その後、ほとんどすべての販売拠点を閉鎖し、「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)という法を押し付けることによって、伝統的な「学事規定」(ratio studiorum)に従った聖職者や修道者の教育形成を妨げます。また、輸入製品が粗悪品であることを人々に見抜かれないようにするため、高品質の製品を単になくしてしまうことで比較を回避しています。しかし、このような作戦は、組織的な観点からは効果的であったとしても、二つの選択肢の間の溝が非常に明白になるのを防ぐことはできません。もし「顧客」が「大規模小売業者」によって押しつけられたものを買うしかないと諦めるとすれば、それは詐欺や市場操作によって自由な選択の可能性を奪われたからに他なりません。

宗教的な問題において、このような「小売店主」的なアプローチが不適切で不快なものであることはよく承知しています。特に、信仰の善は計り知れない価値があり、天主の壮大さによって私たちに惜しみなく与えられている一方で、私たちに提案されているもう一つのものは少なくとも競争不可能なものであり、その代価は私たちの永遠の滅びであるからです。しかし、異端や倒錯の販売者たちの高利貸的な冷笑主義が、この問題を商業的な交換とみなして、あらゆるものに値段をつける、ということを超えることができないことは、私たち誰もが気づくことだと思います。ユダの裏切りに対して最高法院(サンへドリン)が支払った30デナリオはこのことを裏付けており、この金額を支払う用意のある大司祭や、神殿の衛兵に接吻して進んで主を引き渡す反逆の使徒が常にいるということです。

これが商人を動かして方向づけるメンタリティーです。世界経済フォーラムは、社会に新たなライフスタイルの採用を強制する場合には、金と権力を渇望する企業家のロビーであることを忘れてはなりません。社会的操作はマーケティング活動に不可欠な部分であり、販売される「製品」が実験的な血清や電気自動車である場合、需要を喚起して市場に投入する方法には、マスコミ、個々のジャーナリスト、いわゆる「専門家」(たとえばウイルス学者や気候学者)や政治家の協力による、パンデミックや環境社会への警鐘を鳴らすメディア・キャンペーンが含まれます。彼らのすべてが、事実上、世界経済フォーラムの技術ロビーに雇われています。なぜなら、彼らはバンガード、ブラックロック、ステート・ストリートといった大手投資ファンドに所有されているか、あるいは直接・間接的にスポンサーになってもらっているからです。

新聞が特定のニュースを流すとすれば、これやそれやの多国籍企業がその新聞を支配しているから、あるいは広告スペースを買い、イベントに資金を提供しているからです。また、研究機関や大学、財団にも同じことが当てはまり、その物語(ナラティブ)を裏付けるような研究を発表する任務が割り当てられています。これは、公的機関への干渉やロビー活動を伴うものであり、公的機関の職員は民間団体と協定を結んでおり、よく知られた回転ドアの慣行に従って、見返りとして活動に資金を提供したり、任期終了後に雇用したりしています。

このサークル(円形)は、欠けていた最後のピース(部品)で閉じられます。それは、グローバリスト・エリートのクーデターに対するカトリック教会と他の宗教の協力ですが、完全に副次的なやり方です。ディープ・チャーチは、この醜い同盟に役立つのを一瞬も躊躇しません。なぜなら、ディープ・チャーチは、完全にディープ・ステートにつながる人物によって占められているからです。サイコパンデミックの茶番劇に迎合し、次にウクライナ危機に足並みを合わせ、次にパチャママ崇拝を通じてアマゾンの香りのグリーン物語(ナラティブ)を受け入れ、ついにはシノドスを目覚めた(woke)イデオロギーに身売りさせたのです。

そして、サンタ・マルタ館のセクトのこの「奴隷根性」(libido serviendi)が自発的でなかった場合でも、私たちは、主要な人物の恐喝によって、息をつく間もなく足並みを揃えるように説得されたであろうことをよく知っています。元枢機卿マカリックと、まだ権力を握っている彼の手下たち(スーピッチ、グレゴリー、ファレル、トービン、マッケルロイ…)のスキャンダルは、ジョー・バイデンの息子のスキャンダルと大差はありません。

検閲や隠蔽という、あわれでグロテスクな試みは、現在権力を握っている小児性愛者・悪魔崇拝者の集団を待ち受けている「会計の報告」(redde rationem)を先延ばしにすることはできるかもしれませんが、真実がその恐るべき重大性で明らかになったり、悪しき者【悪魔】に自らを捧げるこれらの変質者たちに正義を行ったりするのを阻止することは成功しないでしょう。私たちはこの局面で、広大な共謀ネットワークに目を見開く用意をしておかなければなりません。そうなれば、この地獄のマシーンがなぜここまでうまく機能しているのかが明らかになるでしょう。

【問い】しかし、このような広範で組織化されたネットワークに、どのようにして効果的に対処すればいいのでしょうか。それに反対する人々の力は、大きな情熱と犠牲の精神に支えられているとはいえ、はるかに不十分なように見えます…。

【ヴィガノ大司教】いいですか、私は、敵【悪魔】の勢力が非常に効率的に組織化されていることは、私たちの無秩序と分断に比べれば、確かに強みであると思っていますが、同時に、そのことは敵【悪魔】のアキレス腱であるとも思っています。私たちが無秩序であること、私たちに自律的に動く能力があること、私たちの動きが予測不可能であることが、ディープ・ステートが私たちを教会から追い出そうとする企てを成功させるのを阻むことになり、同様に、私たちを世俗社会から追い出そうとするディープ・ステートの努力をも阻むことになるのです。そしてその逆もまた然りで、まさに彼ら組織に霊魂がないこと、そして彼らの指揮系統が特定可能であることが、私たちが彼らの計画を妨害し、その計画の作者を糾弾し、彼らの行動を挫折させることを可能にするのです。

ですから、短期的なプロジェクトと長期的なプロジェクトを検討し始めましょう。私たちは、ただ抵抗するだけであってはなりません。反応する者(reactors)になるのではなく、行動する者(actors)にならなければなりません。私が各地で起きていると思っているように、主導権を取らなければなりません。そうすることによってのみ、「小さな群れ」(pusillus grex)はそれほど小さくはないこと、地獄の門は遊園地のお化け屋敷と同じように、すでに私たちの主によって決定的に征服された者たちによって作られた印象的な舞台装置に過ぎないことを私たちは理解するでしょう。

最後に、ベルゴリオの軍事政権(junta)によって迫害されている司祭、神学生、男女の修道者を支援するために私が設立した団体「Exsurge Domine」(主よ立ち上がり給え)の活動を支援してくださるようお願いしたいと思います。皆さんのご支援があれば、信仰を持たず、何よりも愛徳を持たない恥知らずの傭い人の標的となっている、これらの善き霊魂に対する多くの差別状況に対応することができます。ウェブサイトwww.exsurgedomine.orgを訪問していただければ、すべての情報と寄付の方法をご覧になれます。

英語版 UPDATED: Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

イタリア語版(第1部)Intervista a monsignor Carlo Maria Viganò (prima parte) / “Ecco come Bergoglio lavora per lo scisma. E usa la sinodalita’ per i suoi scopi” - Aldo Maria Valli

イタリア語訳(第2部)Intervista a monsignor Carlo Maria Viganò (seconda parte) / “Questo il momento di agire. La nostra apparente disorganizzazione è una forza. E la frammentazione una risorsa” - Aldo Maria Valli


【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その1

2023年08月06日 | カトリック・ニュースなど

【参考文献】ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)その1

2023年7月26日(水曜日)

Viganò Interviewed on the Conclave, Continued...

ヴィガノ大司教インタビュー、コンクラーベについて(続き)

アルド・マリア・ヴァッリ

親愛なる友人の皆さん、数日前にカルロ・マリア・ヴィガノ大司教が私と行ったインタビューが大きな反響を呼んでおり、数カ国語訳されています。この対談は、特にベルゴリオが追求した戦略と、その結果として、信仰と正しいカトリックの教理を擁護するために取るべき種類の対応について、多くの重要な考察ポイントを提供しました。インタビューで取り上げたテーマをさらに掘り下げるために、私たちはヴィガノ大司教に再び接触し、2回目の対談を行いました。2部に分けて掲載します。

【問い(アルド・マリア・ヴァッリ)】大司教様、今回の対談は、ベルゴリオが最近の枢機卿の指名で従った論理に関して、私の質問に大司教様がお答えになった発言から再開するのが適切だと思います。大司教様はこう言われました。

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】ベルゴリオの論理は完全に明らかです。彼は、離教(schism)の口実を作り出そうと望んでいるのです。言葉では離教を否定して嘆いてはいるものの、しばらく前から離教を準備しているのです。ベルゴリオは何とかして、信者や聖職者の善き部分を公式の教会から分離させたいと思っています。そしてこれを成し遂げるために、その人々が近代主義の最高法院(サンヘドリン)から距離を置くのを確実にするために、ローマ教皇庁の重要な地位に、部署の管理を可能な限り悪いものにするのを保証する人物たちを配置して、教会の体にとって可能な限り最も悪い結果と最も大きな損害をもたらすようにしたのです。

古代の典礼の挙行を漸進的に制限することは、保守派を"狩猟保護区"に閉じ込めて、その後、聖ピオ十世会へ向かわせるのに役立ちます。シノドスが、現在進行中の教理的、道徳的、規律的な変更という悲劇的な結末を迎えるや否や、-- エクレジア・デイ団体の廃止または正常化【新しいミサを受け入れさせること】の後 ---、聖伝の独占者となるであろうもの【聖ピオ十世会】へとカトリック信者らの大脱出が起こるでしょう。しかし、その時、つまり、聖伝のカトリック信者たちが聖ピオ十世会に移行して、同会の指導者たちが、廃止された「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)との競争に勝利したと信じるとき、新たな耐え難い挑発がなされ、聖ピオ十世会の少なくとも一部は、ベルゴリオのローマから距離を置くのを余儀なくさせることでしょう。これにより聖伝主義は「破門」されます。聖伝主義は、公式の教会内では代表することは――過去にはそうだったとしても――もはやなくなるでしょう。このような理由から、私の考えでは、聖伝のカトリック信者を教会の体から追放するという悪意ある作戦をさらに複雑にするために、何らかの抵抗の断片化を維持することが重要です。

女性助祭、教会の独身制の廃止、同性愛カップルの祝福、一夫多妻制の容認、ジェンダー論、LGBTQイデオロギー、テイヤール・ド・シャルダンのような環境保護主義的な汎神論。これらは、ベルゴリオが意図的に拡大している保守派(すでに距離を置いていて、構図から外れている聖伝派ではありません)と超進歩派の対立点です。彼の目的は、対立を作り出して、それを大きくさせ、最も極端な要求の支持者を励まして任命したり昇進させたりし、残っている数少ない良き司教、司祭、修道者らが非難されることへの予想通りの反応を目にすることなのです。良き司教や司祭らは、ベルゴリオの落とし穴に直面して、二者択一を迫られることになるでしょう。つまり、沈黙のうちの苦しみに戻るか、それとも、立ち上がってカトリックの真理に対する裏切りを糾弾し、自分の地位を辞さざるを得なくなり、地下で役務を行使するか、あるいは、少なくとも見かけ上は教会法的には正常ではない立場におかれるか、です。

いったん不都合な牧者たちが追放され、忠実な保守派らが解任されれば、ベルゴリオの位階階級は聖職者と人々を完全に支配することができるようになるでしょう。残った人々の従順は確実なものとなります。するとこのセクトは、カトリックという名前を持っているだけで(おそらくそれさえもなくなるでしょう)、キリストの教会を破壊するためにキリストの権威を濫用する裏切り者で腐敗した位階階級という逆説の中で、小羊の花嫁を完全に日食で覆い隠すでしょう。

【問い】要するに、その論理とは、真のカトリック信者にペトロの舟を放棄させるような状況を作り出そうとするもののように思えます。正しいでしょうか。

【ヴィガノ大司教】いいですか、すでに2019年(こちら)にベルゴリオは、離教を恐れていないと明言しています。そして、彼は「離教者は常に一つの共通点を持っています。彼らは民から、民の信仰から、天主の民の信仰から自分自身を切り離します」と述べる一方で、こう付け加えました。「イデオロギーの道徳性は、皆さんを硬直性へと導き、今日では、教会内に多くの硬直性の学派があります。それらは離教ではありませんが、悪い結果となる疑似離教的なキリスト教的やり方です。皆さんが硬直したキリスト信者、司教、司祭を見るとき、彼らの背後には問題があり、健全な福音はありません」。いつものように、彼は、自らがしようとしていることをするとして、カトリック信者を非難しました。

【問い】ベルゴリオが採用した戦略をさらに浮き彫りにするために、大司教様は、ある米国人コラムニストの小論に言及されました。彼は、すでに2018年に、すぐに裏付けられることになったある行動指針を強調していました。この小論について教えていただけますか。

【ヴィガノ大司教】もちろんです。著者はパトリック・アーチボルドで、彼の小論は2018年に「Actuating Schism(離教を促す)」というタイトルで、「クリエイティブ・マイノリティー・リポート」(Creative Minority Report)に5回にわたって掲載されました(こちらこちらこちらこちらこちら)。この小論の中で著者は、彼の考えによればカトリック教会の中心に故意に離教を引き起こすことを意図したこのアルゼンチン人の悪意ある行動がどんなものだったかを、非常に明晰に概説しています。アーチボルトはこう書いています。

「このプロセスは今後も続くことが予想できる。異端のボールをグラウンドに転がし続けるという、あらかじめ定められた結果を作り出す賭け事のようなシノドス。(…)教会はしばらくの間、事実上の(de facto)離教状態にあったが、もはや教会の教えを保持していない人々が去ることを拒否しているに過ぎない。今や、彼らはここにいるだけでなく、責任ある立場にある。彼らは自分たち自身の別の教会や権力構造を求めたのではなく、長期的な見方を持って、カトリックという名前とその権力構造を欲していたのである。自分たち自身の教会を欲していたのではなく、私たちの教会を欲していたのだ。今や、彼らは権力を持ち、権力を行使している」。

アーチボルトは続けます。

「だから、ずっと私の心に存在している疑問はこうだ。自分の権力と戦うこれらのカトリック信者を、どうやって排除するのだろうか。定義上、唯一の真の教会に粘り強く執着している忠実なカトリック信者を、どうやって排除するのだろうか。真のカトリック信者を真の教会から、どうやって追い出すのだろうか。事実上の(de facto)離教を、どうやって本当の離教に変えるのだろうか」。

ここでアーチボルドは賢明にも、サンタ・マルタ館中央委員会が採用した構想を概説し、いくつかの異なる事例から見て取れる一貫性によってそれを特定しています。その事例とは、無原罪聖母のフランシスコ会、南米のロジェリオ・リビエレス・プラノ司教、米国のマーティン・ホリー司教、フランスの「贖いの御母マリア小修道女会」(Petites Sœurs de Marie Mère du Rédempteur)です。この短いリストに、2018年以降、ベルゴリオの「あわれみ」を味わった多くの司教や修道共同体(特に女子修道者の共同体)の名前を加えることができます。

そのシステムはいつも同じです。ごく短い予告で使徒的訪問が行われ、その結果や発見された重大な問題についての報告はなされず、調査の対象となった人々には説明や弁明の可能性はありません。

「そのメッセージや方法は明確である。彼らが、あなたたちがいなくなることを欲するなら、あなたたちをいなくすることができる。彼らはもはや、正当な手続きや教会法の下での権利といった申し立てや感覚などを一切無視しているのだ。これこそが、どの司教をも神経質にさせることであり、まさに核心なのである」。

この完全に非合法な教会法上の行動と並行して、ベルゴリオの使者は、司教や共同体が追放された人々を迎え入れるのを阻止するために、司教や共同体を威嚇することを躊躇しません。フィデンツィオ・ヴォルピ神父が、無原罪聖母のフランシスコ会に対するテロ行為を実行するために、イタリア司教協議会の会合に不定期に参加し、司教団を脅して保守的な修道士を教区に編入しないように言ったことを、私たちはよく覚えています。

「しかし、規則によって虐待された者の逃げ道を他の司教が提供することができる場合、それらの高位聖職者は脅され、遠く離れた教区で新しい忠実なカトリックのグループを作ることをどの司教もできないように規則が変更されたのだ」。

【問い】「トラディティオーニス・クストーデス」(Traditionis Custodes)は、まさにこの計画を表現したもののように思えますが…。

【ヴィガノ大司教】その通りです。「トラディティオーニス・クストーデス」は、「聖伝の」団体を教会法的に設立する権限が聖座にあると主張し、どの教区の司祭も古代の典礼に従って祭儀を行う許可を得られないことを司教たちに理解させました。「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の取り消しは、これと同じ方向に進むものであり、このことは明らかです。とりわけ、ピエンツァのベネディクト修道女会やマラディのドミニコ修道女会の事例を思い浮かべれば十分でしょう。彼女らは偶然にも、「贖いの御母マリア小修道女会」と何ら変わらない状況に置かれています。「彼女らは、少し保守的すぎるということと、地元の教区長が欲しがる不動産を所有しているという二重の罪を犯したのです」。その不動産とは、オルチャ渓谷を見下ろす丘の上の土地や、アペニン山脈にある16世紀の巨大な修道院です。テキサス州アーリントンのカルメル会でも同じことが起こりました。ここでは、修道女たちの保守主義に対する怒りが、修道院長を中傷するという恥ずべき事態を引き起こし、修道院長は担当管理官の下に置かれ、教会法上の規範に反して解任されました。そこもまた、膨大な不動産と油田がある修道院なのです。

しかし、バチカンは、司教が特定の聖伝の共同体の存続を助けることを妨げるために、司教の権利を制限することを躊躇しない一方で、そのような共同体を抑圧・迫害するために役立つときはいつでも、自分たちの手下の不正や虐待を制裁することによって、法律を超えて他の司教の権利を大幅に拡張します。これに、ベルゴリオが修道会から自治権を剥奪し、自称修道者省【奉献・使徒的生活会省】の超進歩的な、中国式の再教育に沿った、厳格な統制のもとで修道会を連盟に編入した憲章「ヴルトゥム・デイ・クエレーレ」(Vultum Dei Quærere)と教令「コル・オランス」(Cor Orans)を加えることもできるでしょう。

政治局公認のカトリック・メディアは、シノダリティーとは、教会の統治を分散化させて、司教協議会の形態でもっと民に近づけることだ、と言うだろう。明らかに、これほど真実からかけ離れたものはない。その嘘が実証される信じられないような出来事として、シノダリティーに関するシノドス文書のインクが乾かないうちに、教皇は自ら介入し、米国司教協議会が虐待スキャンダルについて何か無駄なことをするという議論について考える前に、同協議会を公に骨抜きにした。ベテランの教会ウォッチャーにとっても、これはかなりの見ものだった」。

アーチボルドはこのパターンを次の言葉で要約しています。

「それは、迷える正統的な司教が聖伝の砦となり、聖伝のカトリシズムの安全地帯となることができないのを確実にすることである。その司教は、新しい修道者のグループが自分の教区に形成されることを許可することができず、聖伝の修道女たちを自分の教区に招き入れることもできず、あまりに伝統的なことをするならば、司教協議会とうまくいっていないという罪で使徒的訪問を受けて終わりを迎えることになる。このすべては、聖伝のカトリック信者の逃げ道をすべて断つためなのである」。

ここで、アーチボルドは孫子の兵法の一節を引用します。「囲師には必ず闕(か)く(包囲した敵には、逃げ道を残しておかなければならない)【師は軍隊のことで、囲師は軍隊を包囲すること】」。

アーチボルトはこうコメントしています。

「敵を包囲するには、他の逃げ道をすべて断たなければならない。敵とは、伝統的で『真実を知ってしまっている』(red-pilling)保守的なカトリック信者であって、自分たちがもっと安全だと感じる一カ所に集める必要があり、その後で一撃を加えるのだ。しかし、一撃だ。それはやって来る。(…)私は、ローマが聖ピオ十世会と交渉を完了することができない場合、彼らは、『スンモールム・ポンティフィクム』と、そのミサを唱える司祭の個々の権利を廃止し、すべての聖伝のカトリック信者を、一つまたは少数の認可されたところ、おそらく聖ペトロ兄弟会や王たるキリスト会、またはいくつかの燃料を補給されたエクレジア・デイ委員会【傘下の団体】に強制的に送り込むつもりだと信じている。(…)彼らは私たちを特別許可(indult)の時代に戻し、私たちをいくつかのグループ(聖ペトロ兄弟会、王たるキリスト会など)やいくつかの免除された特別許可の場所に統合するだろう。『これは反聖伝の動きではありません』と、彼らは主張するだろうし、カトリックの主流メディアに登場するおべっか使いの仲間たちはまくしたてるだろう。『教皇はただの一つの聖伝のミサも廃止していません。これは統治行為に過ぎません』。(…)」

「だから、これで終わりだ。変更に抵抗したり、大声で不平を言ったりする認可団体は、使徒的訪問を受け、教皇に服従することを拒否したとして潰される。抵抗する教区の特別許可共同体は潰される。では、地下に潜って誰かの家でミサが行われると考えるカトリック信者はどうか。駄目だ。個々の司祭には、もはやミサを行う権利はない。それを行えば、教皇の権威に服従することを拒否したことになる。あなたは離教者だ。どの司教であってもそうだ。圧迫されて第二バチカン公会議を受け入れるか、離教者であるかのどちらかなのだ」。

「修道者としてであろうと、全時代のミサにあずかるだけであろうと、真正な聖伝のカトリック生活を送ろうとすれば、それだけであなたは離教者になる、とされえるだろう。聖ピオ十世会に行けば、あなたは離教者にされる。地下ミサに行けば、あなたは離教者とみなされる。ローマの許可を得ずに聖伝の規則の下で信者のグループを結成すれば、離教者とされる。このようにして、彼らは、聖伝のカトリックの生活を送ろうとするあらゆる試みを、不従順の行為に変えるだろう」。

【問い】5年後、アーチボルトの2018年の小論によって提起された警鐘が、十分に根拠のあるものであったことが証明されたことは明らかだと思えます。しかし、多くの聖職者、修道者、信者が当然問うように、この時点で、私たちがどのような道を歩もうとも、私たちが離教者として非難されることになるのであれば、私たちはこの破壊転覆的行為にどのように抵抗すればいいのでしょうか。

【ヴィガノ大司教】殉教者や証聖者たちの英雄的行為から、何世紀にもわたって同じ選択を迫られてきた聖職者、修道者、平信徒ら多くのカトリック信者の沈黙の信仰心に至るまで、私たちは先人たちの確固とした抵抗に、その答えを見いだすことができます。妥協と背教という広くて快適な道か、狭くて困難なキリストへの忠実という道かのどちらかです。それはしばしば痛みを伴う選択ですが、主が私たちに用意してくださった選択です。「私が地上に平和を持ってきたと思ってはならぬ。平和ではなく剣を持ってきた。つまり、私は息子をその父から、娘をその母から、若い嫁をその姑から別れさすために来た。人は自分の家の者を敵に回すだろう」(マテオ10章34-36節)。

この剣は、聖パウロが天主の言葉である聖霊の剣(エフェゾ6章17節)と同一視しているもので、キリストの忠実な信者を反抗的で腐敗した位階階級から、忠実な修道者を異端の長上から、忠実な司祭を近代主義者の司教から別れさせます。ですから、私たちの敵は自分の家の者、つまり教区司祭、司教、そして誤謬と分裂を広めるためにペトロの玉座を簒奪している者なのです。

「つまずきを起こすこの世にのろいあれ! つまずきは避けがたいけれども、つまずかせる人にのろいあれ」(マテオ18章7節)。これらの言葉は、教理的、道徳的、典礼的なつまずきが深刻であることと、最後の審判の前に悪しき者が一時的に勝利する結果であるつまずきが避けがたいことについて、私たちを戒めています。しかし、これらの言葉はまた、つまずきに抵抗し、それを糾弾し、それが日常生活のあらゆるレベルで広まっているからといって、それが普通のことだと考えないよう、私たちを戒めているのです。

60年間にわたって、私たちは、司牧者たちの権威が、表面上は形式的な合法性を保ちながら、信者に対して、また教会自身に対して利用されるのを見ることに慣れてきたことを忘れてはなりません。「公会議」そのものは、――近代主義者が立役者である唯一の公会議であり、公会議についてのカトリック的なものがない唯一の公会議であるため、彼らが大切にしている唯一の公会議ですが、――教会の体に対する巨大な欺瞞でした。なぜなら、公会議は、エキュメニカル公会議の権威を維持しつつも、異端の教理を詐欺的にほのめかしているからであり、また公会議は、公会議教父とローマ教皇の権威を維持しつつも、まさにカトリックという大伽藍を取り壊すために利用されているからであり、また公会議は、途切れることのない不変の教導権とは対照的に、規範に対する盲目的で隷属的な従順を押し付けたからです。パウロ六世が自分の使徒的権威を利用して意図した聖伝の典礼の廃止は詐欺でした。そして、ベネディクト十六世の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)を、同じ自発教令(明らかに同じ教会法上の効力を持っています)で取り消そうとする現在の試みも、それに劣らず悪質です。その目的は、教会の善と信者の救いではなく、両者の破滅なのです。他方、最高法院(サンヘドリン)が私たちの主に対して行った、冒涜したという告発でさえも、天主なる罪なき立法者に対して行われたため、本質的には非合法かつ無効であったにもかかわらず、形式的には申し分のない行為のような外観を持っていたのです。

権威当局は、それ自体の権威性によって従順を得ることもできますし、権威主義によって自らを押し付けることもできます。前者の場合、権力は当局が制定された目的のために行使されます。後者の場合、権威はそれ自体が目的となってしまいます。権威主義は、キリストの唯一の権威と、キリストを代表する地上の権威という代理性を排除するがゆえに、現世の問題においても、宗教の問題においても、天主の秩序を破壊します。要するに、権威主義は、あたかも権威の座にある者(統治者や司教)が、キリストの権威の代理人だからではなく、その者自身に正当性があるかのように振る舞うのです。このため、権威主義は破壊転覆的な権力となり、共通善を追求するキリストのご意志に自らを合わせる義務から解き放たれ、このような理由から、否応なく憎むべき専制政治へと変貌を遂げる運命にあるのです。

(続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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