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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」まえがき(バーク枢機卿)と 序章

2024年01月23日 | カトリック・ニュースなど

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

2023年8月22日

カトリック教会内の異端的な声が変化を叫んでいます。「シノダリティに関するシノドス」おける彼らの急進的な行動計画(アジェンダ)は明らかです。それは、教理を歪め、聖伝を転覆させ、教会の位階的な性質を解体することです。

著者のホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエは、新著「シノドスの過程はパンドラの箱。100の質問と回答」の中で、現在の危機をすがすがしい明快さで説明しています。どのページも知恵、洞察、真理を与えています。どの回答も、シノドスの背後にある詭弁、意図的な混乱、異端を暴いています。

レイモンド・バーク枢機卿は、まえがきで次のように述べています。「シノダリティ」(Synodality、共に歩むこと)とその形容詞である「シノドスの」(synodal)は、今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです」。

「シノドスの過程はパンドラの箱」は警告の叫びです。自然に反する罪の常態化、女性の叙階、姦淫状態にある「再婚した」離婚者による聖体拝領の受け入れ、カトリック教会内の平等主義の民主的平準化などに抵抗し、断固として立ち向かう道徳的義務が、なぜ忠実なカトリック信者にあるのかを知ってください。

もしあなたが、カトリック教会と、私たちの主イエズス・キリストによって永遠に確立された教会の位階的な統治形態を愛しているならば、この本はあなたのためのものです。

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目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章
「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

まえがき (レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

2023年6月16日
至聖なるイエズスの聖心の祝日

今日の教会における最も深刻な状況を明確かつ包括的に取り上げている「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」が出版されたことを、心からお祝い申し上げます。この状況は、すべての思慮深いカトリック信者と、キリストの神秘体に与えている明白で重大な害悪を観察する善意の人々に、当然のことながら関心を抱かせるものです。

私たちは、使徒たちの時代からの信仰の先祖たちとの交わりの中で、私たちが一、聖、公(カトリック)、使徒継承であると告白してきた教会が、今や、教会の教理の中に歴史を持たず、合理的な定義もない用語であるシノダリティ(synodality)によって定義されると言われています。シノダリティとその形容詞である「シノドスの」(synodal)は今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです。なぜなら、このイデオロギーはすでに何年か前からドイツの教会で実践され、混乱と誤謬、そしてその果実である分裂――まさに離教――を広範囲に広め、多くの霊魂に重大な害を及ぼしているからです。「シノダリティに関するシノドス」が間近に迫っている今、同じ混乱と誤謬と分裂が普遍教会にもたらされるのではないかと懸念されるのは当然です。実際、地方レベルでのシノドスの準備を通して、それはすでに起こり始めています。

教会の変わることのない、また変えることのできない教理と規律において私たちに伝えられているキリストの真理だけが、今の状況に効果的に対処することができます。キリストの真理が、うごめいているイデオロギーを明らかにすることによって、また、それが広めている致命的な混乱と誤謬と分裂を正すことによって、また、教会の教え、祈りと礼拝、徳と規律の実践の中で、私たちのために生きておられるキリストに対して日々回心するという真の改革を行うよう教会員に霊感を与えることによって、効果的に対処することができるのです。「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」は、一連の100の質問と回答を通して、キリストの光、キリストの真理を、教会の現在の最も憂慮すべき状況の上に照らしています。この質問と回答を研究することは、すべての教会の成員が召されているように、真摯なカトリック信者がキリストの「真理の協力者」(ヨハネ第三書8節)となり、それにより使徒継承の聖伝に忠実な、私たちの時代における教会の刷新の担い手となるための助けとなるでしょう。

私は、適切な質問を立てるために、また権威ある回答を提供するために、まことに熱心に、そして見事に取り組んでくださったすべての方々に感謝申し上げます。聖パウロが「むしろ、愛をもって真理を宣言し、かしらであるキリストによって、すべて愛において成長するだろう」(エフェゾ4章15節)と私たちに教えているように、彼らの労苦の実りを、教会を建て直すために、世界中のカトリック信者が利用できるようになることが私の望みです。

私たちの主が、教会での母として私たちに与えてくださった(ヨハネ19章26-27節参照)、主の童貞なる御母の執り成しと配慮によって、私たちの救いである私たちの主のみに忠実であるように、現在教会を脅かしている重大な害が回避され、この世において教会が自らの使命を果たすことができますように。

父としての深い愛情と敬意を込めて、

イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心において、
皆さんの忠実なる

レイモンド・レオ・バーク枢機卿(署名)

____________________________

フリオ・ロレドとホセ・アントニオ・ウレタ


ローマにて

序章

教皇フランシスコは、「シノドスの教会のために。交わり、参加、そして宣教」をモットーに、ローマで「シノダリティに関するシノドス」を招集しました。これは、司教シノドスの第16回通常総会です。
革命的なインパクトを秘めているにもかかわらず、このシノドスをめぐる議論は、大部分が内部関係者だけにとどまっています。一般の人々は、このシノドスについてほとんど何も知りません。私たちはここで、何が問題になっているのかを説明することによって、このギャップを埋めようとしています。聖にして母なる教会を改革する計画が進行中であり、それが最終的な結末に至れば、教会の土台を転覆させることになりかねません。

このシノドスは通常総会ではありますが、いくつかの要因により、異例なものになっています。教会史における分水嶺、事実上の第三バチカン公会議のようなものにしたいと考える人もいるでしょう。

「通常」総会ではない

第一の要因は、シノドスの構造そのものです。広範囲にわたる国際的な意見聴取の後、参加者のための霊的黙想会を経て、2023年と2024年にローマで2回もの全体会議が計画されています。

第二の要因は、シノドスの内容です。通常総会は特定の問題(2018年は青少年、2015年は家庭など)を扱いますが、今回は、彼らは教会の構造そのものを問うつもりです。彼らが提案しているのは、教会を再考し、教会の有機的統治形態(constitution)の基本的要素を変更することによって、教会を新しい「統治形態としてシノドス的な教会」(1)へと変えることです。この変化はあまりにも急進的であるため、シノドス文書は、あたかも教会が誤った道を歩んできたかのように、そしてUターンする必要があるかのように、「回心」と述べています。

この総会を異例なものにしている第三の要因は、その過程的性格です。このシノドスは、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、結論を出すためのものではなく、教会を改革するための「教会的過程」を行うためのものです。多くの人々は、これがパンドラの箱を開けてしまうのではないかと恐れています。

このように、「シノダリティ」(synodality)には、カトリックの思想家、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラが記した「お守りのような言葉」(talismanic words)、つまり、過激化しやすくプロパガンダに悪用されやすい、非常に融通の利く言葉になるという危険性があります。プロパガンダに操られることで、「(お守りのような言葉は)新たな輝きを放ち始め、プロパガンダを受ける者を魅了し、その人が想像するよりもはるかかなたにその人を連れていく」(2)のです。

シノドスの推進者たちが言うには、この急進的な教会改革は、克服を必要とする欠陥のある位階的教会論が覇権を持っていたせいで、あまりにも長い間無視されてきた初代教会の共同体的参加の古い手順を取り戻すものとされています(3)。

このように、「シノダリティに関するシノドス」は、教会の歴史における、特に現教皇職における分水嶺として位置づけられています。教皇フランシスコが「シノダリティという重大な改革を準備しているところだ」と、バチカン専門家のジャン=マリー・ゲノワは書いています。「彼は、ピラミッド型、中央集権型、聖職者主義化した教会を、より民主的で分権的な共同体に変えたいと願っている」(4)と。

ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)

教会の「シノドスの回心」に最も熱心に取り組んでいる人々の中には、大多数のドイツの司教がいます。彼らは、自分たち自身の「道」、つまり「Synodaler Weg」(シノドスの道)を開始しました。この「Weg」(道)は、ドイツ進歩派の最も極端な主張を集約し、復活させたものです。

その推進者にとって、この「道 Weg」はドイツ国内に限定されるべきものではありません。むしろ、普遍的なシノドスのモデルとなり、推進力となるべきです。こうしてドイツ人は、シノドス推進派の広大な宇宙の中で、明確で影響力があるとはいえ、極端な一派として登場します。バチカン専門家の中には、「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」第二バチカン公会議の場合が部分的にそうであったように、ドイツの進歩派の影響がシノドスの活動において決定的なものになることを危惧する者もいます(5)。

その最終的な結末に至れば、「道 Weg」は、聖なるローマ・カトリック教会の深刻な破壊転覆になることをほのめかしています。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ており、…また彼らはこの過程を悪用したいと望んでいます。それは、カトリック教会を他の方向に移行させるためだけでなく、カトリック教会を破壊する方向に移行させるためなのです」(6)。

もし普遍的なシノドスがドイツの「道 Weg」の一部でも受け入れるようなことがあれば、私たちが知っているような教会の姿は失われ、終焉を迎えることになりかねません。もちろん、これでカトリック教会が終わるわけではありません。天主の約束に慰められ、教会には不可崩壊性という確実性があります。その特権のゆえに、教会は時の終わりまで存続し(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)からです。

失敗した道

シノドスの道をカトリック教会に適用する前に、その推進者たちは、失敗したと証明された他の宗教における同様の実験を研究した方がいいでしょう。1950年代に独自の「シノドスの道」に着手した英国国教会を例に取ってみましょう。

元英国国教会主教であり、エリザベス二世女王陛下のチャプレンを務め、現在はカトリックに改宗したギャビン・アシェンデンの証言は注目に値します。

「元英国国教会(アングリカン)の人々は、自分たちが何らかの助けを提供できると信じています」。なぜなら、英国国教会で使用されている「シノダリティ」という「策略」が、「分裂的かつ破壊的な効果をもたらす」のを目の当たりにしてきたためです。
「事実、元英国国教会の人々は、以前にも教会でこのようなトリックが演じられるのを見たことがあります。それは進歩主義者の霊性の一部です。ごく簡単に言えば、彼らはマルクス主義に準じた内容を霊的な慰めの毛布で包み、その後、聖霊について大いに語るのです」(7)。

同様の警告は、元英国国教会ロチェスター主教で現在はカトリック司祭であるマイケル・ナジール=アリ神父からも発せられています。彼は、英国国教会や他のプロテスタントの間で生じた「混乱と混沌」から学ぶよう、司教たちに促しています(8)。

このアプローチの失敗を見るのに、遠くへ行く必要はありません。ドイツの教会の惨状を見れば一目瞭然です。皮肉なことに、「Synodaler Weg」は、普遍教会を改革するモデルとして役立つことを意図しています。しかし、ドイツの教会は、その歴史上最悪の危機の中でほとんど消滅しようとしており、その理由は「Weg」に霊感を与えるような考えや実践に似たものを適用にしたからだと誰もが見ています。

なぜ、誰もが他のところで大惨事に至った道を教会に押し付けようとするのでしょうか。

さらに、本書が示すように、普遍的なものであれドイツ的なものであれ、シノドスの道にわくわくしている人はほとんどいません。さまざまな協議の過程に関わる人々の数は、笑ってしまうほど【少ないの】です。全般的に無関心なのです。シノドスの道の推進者たちは、この無関心を正しく解釈できるのでしょうか。空席の観客に向かって球技をしていることに気づくでしょうか。ああ、サッカーの試合ならまだしも! 問題になっているのはキリストの花嫁に他ならないのです!

公会議主義から永続的シノダリティへ

シノドスの擁護者たちは、シノドスの精神を現代的で最新のものとして提示していますが、それは古代の誤謬や異端を引きずっています。

いわゆる公会議主義の潮流は、人文主義(人間中心主義)によって生まれた新しいメンタリティーに教会を適合させるという口実のもとに、早くも15世紀には生まれました。その擁護者たちは、教皇の位階的な権力を減らして、公会議という集会に力を与えようとしました。「信者の意志」を表して、教会は、それぞれが言語と慣習を持つ、大部分が自治的な地方的・地域的なシノドスの構造となるべきだとされたのです。これらのシノドスは、定期的に、総会(あるいは聖なるシノドス)において、開かれるとされ、また、教会の最高権威をもっているとされました。教皇は「primus inter pares」(対等の中の第一人者)に格下げされて、参加者の平等な投票によって下された公会議の決定に従うとされていました。

ドイツの「Synodaler Weg」と普遍的なシノドスに力を与える精神は、その最も真正な表明において、何人かの教皇と何回かの公会議によって断罪されたこれらの古い誤謬を当然のものとし、復活させています。

ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(当時)は、こうした古い誤謬を糾弾しました。「教会の聖伝と、教会の秘跡的構造と特定の目的に照らせば、国内教会の最高の永続的な統治権威としての混合シノドスという考えは妄想です。そのようなシノドスはすべての正当性を欠くものであり、そのようなシノドスに従うことは断固として明確に拒否すべきです」(9)。

「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

勤勉な観察者には、このような俯瞰は黙示録的な色合いを帯びています。聖にして母なる教会の有機的な統治構造(constitution)と教理の持つ基本的な要素を消し去り、教会を認識不能にすることで、教会を解体しようとする作戦が進行中だからです。前述のように、ミュラー枢機卿は、シノドスの改革が最大限に適用されれば、推進者たちのユートピア的な意図のもと、「カトリック教会の破壊」に至るかもしれないと警告しています。この破壊は、教会をあらゆる危険から守るべき聖別された手によって実行されるため、さらに恐ろしいものとなります。パウロ六世の警告が今ほど響いていることはありません。「ある者は、…自己解体を実践しています。…教会は、教会の一部分である人々によって悪しき影響を受けています」(10)。

このような悲惨な見通しに直面した多くのカトリック信者は、迷い、落胆し、混乱し、当惑し、失望さえ感じており、みんなが適切に行動してはいません。教皇聖座空位論の誘惑に屈し、教会を捨てて自己中心的になる者がいます。背教の誘惑に屈する者もいて、教会を捨てて偽りの宗教を受け入れています。大半は無関心に沈み、教会を悲しい運命に委ねています。そのどれもがあからさまに間違っているのです! 「Amicus certus in re incerta cernitur」(不確かな事態において、確かな友が識別される。困っている時の友は本当に友である)。今こそ、聖にして母なる教会が、外敵や内敵から教会を守るために、愛と恐れを知らない子らを必要としている時です。天主は私たちに説明責任を負わせられるでしょう!

1951年にプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラがしたように、私たちはこう自問します。「ご受難が悲劇的であったように、悲劇的であるこの瞬間、すなわち、全人類がキリストに味方するか、キリストに逆らうかを選択するこの歴史の重要な瞬間に、教会と一致して生きている人は何人いるのでしょうか?」。そしてまた、「私たちは、教会が考えるように考え、教会の心を持ち、私たちの人生のあらゆる状況において教会が望むように進まなければなりません。…それは一生を犠牲にすることになります。この忠実さという犠牲は、それを必ずしも評価せず、時には痛烈に迫害する権力者に向けられるとき、さらに多くの痛みを伴います。

私たちは、ほとんどこう叫ぶことができます。詩篇作者の言葉を借りて、「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」(詩篇68篇9節)と。そうです、他人でありながら、母の家、つまり聖なるローマ・カトリック教会にして使徒継承の教会の中にいるのです。

これが、本書の著者たちにやる気を起こさせている精神なのです。

*       *       *

この作品を書くに当たって、特にフアン・ミゲル・モンテス氏とマティアス・フォン・ゲルスドルフ氏の貴重な貢献に感謝します。

【続く】


【参考情報】シュナイダー司教による「聖なる教皇たちの時代」が来ることを懇願する祈り

2024年01月19日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】シュナイダー司教による「聖なる教皇たちの時代」が来ることを懇願する祈り

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

シュナイダー司教さまが「聖なる教皇たちの時代」が来ることを懇願する祈りを作られました。参考情報としてご紹介いたします。

Bishop Schneider publishes new prayer begging God for 'an era of holy popes' - LifeSite

Bishop Schneider Issues Prayer Imploring the Lord to Provide an Era of Holy Popes - Edward Pentin

シュナイダー司教のメッセージ

イエズス・キリストに賛美!

親愛なる忠実なカトリック信者の皆さま、特に、私たちの聖にして母なる教会が未曾有の危機の中にいるのを目撃して苦しんでいる方々。親愛なるカトリック家庭の父親と母親の皆さま! 親愛なるカトリックの若者たち! 親愛なる無垢なカトリックの子どもたち! そして特に、教会の霊的宝石である観想修道女の皆さま! 親愛なるカトリックの神学生たち! 「イエズスの聖心の愛」である親愛なるカトリック司祭の皆さま!

教会内部の混乱は、私たちが、エステルの言葉をもって主に祈らなければならないほどのところまで来ております。「私たちにはあなたのほかに助け手はありません」(エステル4章31節/14章3節)。それゆえ、聖なる教皇を懇願する毎日の祈りを通して、マリアの汚れなき御心を避難所としましょう。詩篇作者とともにこう叫びましょう。「起き給え、主よ、なぜ眠り給うのか。起き給え、主よ、われらを助け、救い給え」(詩篇43篇23節)。

2024年1月18日、ローマの聖ペトロの教座の祝日

+アタナシウス・シュナイダー(アスタナの聖マリア大司教区補佐司教)

聖なる教皇たちを嘆願する祈り  

キリエ・エレイソン! クリステ・エレイソン! キリエ・エレイソン! 主イエズス・キリストよ、御身は善き牧者なり! 全能の御手をもって、各時代の嵐の中を旅する巡礼者なる教会を導き給え。

聖なる教皇たちで聖座を飾り給え。この世の権力者を恐れることなく、時代の精神に妥協することもなく、自らの血を流すまでカトリック信仰を保存し、強め、擁護し、ローマ教会の由緒ある典礼を遵守し、保護し、継承する聖なる教皇たちで!

主よ、「救いは主以外の者によっては得られない。全世界に、われらが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられなかった」(使徒行録4章10-12節参照)と使徒たちの熱意に燃えて全世界に宣言する聖なる教皇たちを通じて、われらのもとに戻り給え。

願わくは、聖なる教皇たちが出る時代を通して、カトリックかつ使徒継承の信仰を推進するすべての人々にとっての祖国である聖座が、全世界のための真理のカテドラ(座)として常に輝かんことを。主よ、われらの祈りを聞き給え。教会の母なるマリアの汚れなき御心の執り成しにより、われらに聖なる教皇を与え給え! われらに多くの聖なる教皇たちを与え給え!われらをあわれみ給え。われらの祈りを聞き給え! アーメン。


2024年1月3日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年01月03日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

あけましておめでとうございます。
今日、2024年1月3日は、1月の初水曜日(月の初めての水曜日)で、2024年の最初の水曜日でもあります。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


マラウイのムトゥンブカ司教「フィドゥチア・スプリカンス」を無視するように訴える

2023年12月28日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
マラウイのマルティン・アンウェル・ムトゥンブカ司教(カロンガ司教区)は、2023年12月24日に聖アンナ教会でミサの説教で「フィドゥチア・スプリカンス」を全て無視するように訴えました。
日本の司教様たちが、アフリカの司教さまたちに続きますように祈りましょう。







アフリカのカトリック司教団、同性の結合の祝福を行わないと言明:ガーナとナイジェリアのカトリック司教団「同性愛の関係は天主の法と自国の法律に違反する」

2023年12月26日 | カトリック・ニュースなど

アフリカのカトリック司教団、同性の結合の祝福を行わないと言明

African Catholic bishops say no same-sex union blessings

アフリカのカトリック司教団、同性の結合の祝福を行わないと言明
2023年12月22日15時00分

ガーナとナイジェリアのカトリック司教団、同性愛の関係は天主の法と自国の法律に違反すると主張

ナイジェリアとガーナのカトリック司教団は、教皇フランシスコが最近、特定の状況下で司祭が同性の結合を祝福することを認めると宣言したにもかかわらず、そのような儀式を認めるのを拒否すると宣言した。

ナイジェリア・カトリック司教協議会(CBCN)とガーナ・カトリック司教協議会(GCBC)はいずれも、それぞれ水曜日と木曜日に別々の声明で、同性愛の結婚を祝福することは天主の法と教会の教えに反すると主張した

「ナイジェリア・カトリック司教協議会は、結婚に関するカトリック教会の教えが変わらないことを、天主の民全体に保証する。したがって、教会の教えには、同性の結合や活動を祝福する可能性はない。それをするならば、天主の法、教会の教え、私たちの国の法律に反することになる」と、同協議会は述べた。

人類の生存を脅かすものとして同性愛に反対してきたガーナの司教団もまた、「私たちは、司祭が同性の結合や結婚を祝福することはできないことを繰り返して表明したい」と述べた。

バチカンの教理省が月曜日に発表した文書は、ローマ・カトリックの司祭が「ケースバイケース」で同性カップルを祝福することを奨励している。しかし、その手順が異性間の結婚の秘跡に取って代わることを目的としたものではなく、通常の教会の儀式や典礼の際に行われるものでもない、ということが強調された。バチカンによれば、この宣言は、「天主はすべての」タイプの人々を「歓迎する」が、そのような祝福は「不規則な」状況や関係を正当化するものではないということを反映したものである。ローマ・カトリックの教理によれば、祝福とは、司祭や役務者が、ある人物や人々を保護したり、好意を寄せたりするよう、天主に対して求めることである。

この文書の公表は、世論の憤慨と論争を巻き起こし、英国の司祭のグループまでもが反対を唱えた。木曜日、英国のカトリック聖職者会は500人の司祭が署名した書簡を発表し、教会の伝統的価値観を「変えることはできない」と主張した

カトリックの教義は、同性に惹かれることは罪ではないが、同性愛行為に及ぶことは罪であると教えている。教皇フランシスコは2013年に教皇に就任して以来、教会がLGBTQの人々をさらに歓迎するようにさせるように踏み出してきた。

ガーナとナイジェリアの司教団体は、反同性愛の立場を維持する一方で、教皇が最近、同性婚の祝福を認めたことは解釈を誤っていると主張した。

「宣言によれば、祝福は誰にでも与えられるものの、それは人々が求めることができる祈りのことを言っている。罪の状態にある人々にとって、その祈りはその人々を回心へと導くためのものである。したがって、同性の関係にある人々のための祈りは、彼らの生き方を正当化するためのものではなく、彼らを回心の道へと導くためのものである」とGCBCは述べている。

ガーナとナイジェリアの法律は、程度の差はあるものの、LGBTQの結合を犯罪としている。

ナイジェリアの同性婚禁止法(2013年)は、有罪となった者に14年の禁固刑を課している。アフリカで最も人口の多いこの国で、同性婚の挙式を執行したり、挙式の証人になったり、挙式に参列したりした者は、10年の禁固刑に処される。8月には、同国のデルタ州で行われた同性結婚式に出席した100人以上の同性愛者とされる人々が警察に逮捕された。

ガーナの国会議員たちは最近、同性愛に関する法律を強化する動議を全会一致で可決したが、アムネスティ・インターナショナルのような人権団体は、これは同国の憲法に謳われている公民権を侵害しているとして非難している。

米国のカマラ・ハリス副大統領とフランスのクリズーラ・ザカロプールー国際パートナーシップ担当大臣は、ガーナをはじめとするアフリカ諸国に対し、同性愛者の権利促進で欧米に倣うよう促した。


ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

2023年12月26日 | カトリック・ニュースなど

ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

バチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」の声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを知る必要がある。

Cardinal Müller tells Pope Francis: Blessing homosexual couples is ‘impossible’ and ‘blasphemy’

ミュラー枢機卿、教皇フランシスコに語る。同性愛カップルの祝福は「不可能」かつ「冒涜」である

「祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものである。この秩序は、一つの肉体となるよう呼ばれている男と女の性的差異に基づいている。創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある」。

アンドレアス・ヴァイルツァー

米東部標準時間2023年12月21日(木)

(LifeSiteNews)―ゲルハルト・ミュラー枢機卿は、論争を呼んでいるバチカンの文書「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia Supplicans、FS)に反対して回答を発表し、同性愛カップルの「祝福」は「冒涜」に当たるとし、同文書は「自己矛盾」に陥っていると述べた。

今日、4カ国語で複数の報道機関に発表された長い反論の中で、ミュラーは、「結合やカップルを祝福することの難しさは、同性愛の場合に特に明白である」と説明した。
「聖書において祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものだからである。この秩序は、一つの肉体になるように呼ばれている男と女という性的差異に基づいている」。
「創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある」。
「これを踏まえて、忠実なカトリック信者はFSの教えを受け入れることができるか」とミュラーは自問した。
「キリスト教信仰における行いと言葉の一致を考えると、司牧的な方法であっても、そのような結合を祝福することは良いことだと受け入れることができるのは、そのような結合が客観的に天主の法に反していないと信じる場合にのみである」。
「教皇フランシスコが同性愛の結合は常に天主の法に反すると断言し続ける限り、彼はそのような祝福は与えられないと暗に断言していることになる。したがって、FSの教えは自己矛盾に陥っており、そのためさらに明確化する必要がある」。
「教会は、一つのことを祝福しつつ、別のことを教えることはできない。なぜなら、アンティオキアの聖イグナチオが書いているように、キリストは『仰せられるとその通りになった』教師であり、キリストの肉と言葉を切り離すことはできないからである」。

12月18日(月)、バチカンは、非常に論争を呼んでいる文書「フィドゥチア・スプリカンス」を発表することで、メディアの大炎上を引き起こした。この文書は、以前は禁じられていた同性カップルの「祝福」を一定の条件のもとで認めるように見える一方で、その祝福はカトリックの道徳的教えと矛盾しないと主張している。それ以来、カザフスタンのペタ大司教やシュナイダー司教マリアン・エレガンティ司教カルロ・マリア・ヴィガノ大司教ら複数のカトリック司教が、熱い論争を呼んでいる新しい宣言への批判を表明している。フェルナンデス大司教が署名し、教皇フランシスコが認可した、この教理省(DDF)の宣言は、ドイツ、オーストリア、スイスの異端的な司教たちに歓迎された。同時に、マラウイザンビアカザフスタンの司教は、「フィドゥチア・サプリカンス」に対応して、それぞれの教区で同性カップルの「祝福」を禁止した。

マリアン・エレガンティ司教

マラウイの司教たち

ザンビア

以下は、バチカンの宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)に対するゲルハルト・ミュラー枢機卿の回答の全文である。

母なる教会の唯一の祝福は、私たちを自由にする真理である。宣言「フィドゥチア・スプリカンス」に関する注釈

ゲルハルト・ルートヴィヒ・ミュラー枢機卿

祝福の司牧的意義に関する宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans、FS)をもって、教理省(DDF)は、カトリック教会の教えにおいて前例のない断言を行った。実際、この文書は、同性カップルを含む婚姻外の性的関係で生きているカップルを司祭が祝福すること(典礼的ではなく私的に)は可能である、と断言している。これらの声明に対して司教、司祭、信徒から出された多くの質問は、明白でありかつ曖昧でない回答を得るに値する。

この声明は、カトリックの教えに明白に反してはいないのか。信者は、この新しい教えを受け入れる義務があるのか。司祭は、つくり出されたばかりのこのような新しい実践を行ってよいのか。また、教区司教は、それが自分の教区で行われる場合、それを禁じることができるのか。これらの質問に答えるために、この文書が具体的に何を教え、どのような論拠に基づいているのかを見てみよう。

この文書は、この省【教理省】の枢機卿・司教総会では審議も認可もされなかったが、この文書が提案している仮説(あるいは教えなのか)が新たなものであること、また、この文書が主に教皇フランシスコの司牧的教導権に基づいていることを認めている。

カトリックの信仰によれば、教皇と司教たちは、キリスト教人間学の基本原則を尊重しつつ、一定の司牧的な強弱をつけることができ、啓示の真理を、例えば社会教理や生命倫理の分野のように、各時代の新たな課題について創造的に語ることができる。しかし、このような革新物は、使徒たちによって天主の言葉としてただ一度だけ教皇や司教たちに啓示されたことを、超えることはできない(啓示憲章[Dei verbum]8番)。事実、FSの結論を支持する聖書のテキスト、あるいは教父や教会博士のテキスト、あるいは教導権による過去の文書は存在しない。

さらに、私たちが見ているものは発展したものではなく、教理的に飛躍したものである。なぜなら、教理の発展とは、新しい説明が少なくとも暗黙のうちに啓示に含まれており、何よりも教義上の定義と矛盾しない場合にのみ言えることだからである。そして、さらに深い教理の意味に到達するという教理の発展は、長い成熟期間を経て、徐々に起こったに違いないことである。実のところ、この問題に関する最後の教導権の宣言は、教理省によって3年近く前の2021年3月に発表された「回答」(responsum)の中で出されたものであり、この「回答」はこれらの結合を祝福する可能性を断固として否定している。このことは、罪深い状況で生きている人々のための公的な祝福にも、私的な祝福にも当てはまる。

FSは、以前の2021年の文書と矛盾することなく、新しい教理を提案することをどのように正当化しているのだろうか。

まず第一に、FSは、"2021年の教理省の「回答」と祝福に関する伝統的で有効で義務である教えとの両方が、婚姻外の性的結合の場合のように、天主の法に反する状況での祝福を認めていない"ことを認識している。このことは、秘跡に対してだけでなく、FSが「典礼的」と呼ぶその他の祝福に対しても明らかである。これらの「典礼的」祝福は、ローマ儀式書(Rituale Romanum)に見られるように、教会が「準秘跡」と呼んでいるものに属する。この二つのタイプ【秘跡と準秘蹟】の祝福においては、祝福と教会の教えとの間に一致がなければならない(FS9-11番)。

したがって、福音に反する状況の祝福を受け入れるために、教理省はこれまでにない解決策を提案する。つまり、祝福の概念を広げるのである(FS7番、FS12番)。これは次のように正当化されている。「祝福の意味をこの観点だけに(すなわち、秘跡と準秘跡の『典礼的』祝福に)矮小化してしまう危険性も避けなければならない。なぜなら、秘跡を受ける際に求められるのと同じ道徳的条件を、単なる祝福にも期待することになるからである」(FS12番)。つまり、罪のうちに生きる人々の旅路に司牧的に同行するために、秘跡的な祝福を超えた祝福、新しい祝福の概念を必要とするのである。

さて、現実には、このように秘跡を超えて拡張することは、「ローマ儀式書」で認可されている他の祝福によって、すでに行われている。教会は、秘跡を受ける場合と同じ道徳的条件を祝福に要求はしない。例えば、罪深い状況を捨てたくない悔悛者が、福音の教えを理解してそれに従うための光と力を主が与えてくださるよう、個人的な祝福を謙虚に求めることができる場合である。この場合、新しい種類の「司牧的」祝福を必要とはしない。

では、ローマ儀式書で理解されている祝福が、すでに秘跡で与えられる祝福を超えているのであれば、なぜ「祝福」の意味を広げる必要があるのだろうか。その理由は、ローマ儀式書で考えられている祝福は、「法や福音の精神に反しない事物、場所、状況」(ローマ儀式書を引用したFS10番)に対してのみ可能だからである。そして、教理省が克服したいと思っているのはこの点である。なぜなら、教理省は、同性の関係のような、法や福音の精神に反する状況にあるカップルを祝福したいと考えているからである。教会が既存の準秘跡に「新しい準秘跡」を加えることができる(第二バチカン公会議「典礼憲章」[Sacrosanctum Concilium]79番)のは事実だが、罪を矮小化するような形で、特に信徒をも惑わすようなイデオロギー的色彩の強い文化状況の中では、その意味を変えることはできない。そして、この意味の変更が、まさにFSで起こっているのであり、FSは、教会が理解してきたような秘跡や祝福のいずれにも関連しない、新しい祝福のカテゴリーを発明している。FSが言うには、これらは典礼的ではない祝福で、民間信心に属するものである。そうすると、3種類の祝福が存在することになる。

  1. a)秘跡に関連する祈りであり、その人が秘跡を受けるにふさわしい状態にあるよう願うか、あるいはその人が罪から立ち返る力を受けるよう願う。
  2. b)ローマ儀式書に含まれているように、またカトリックの教理が常に理解してきたように、祝福は、たとえ罪のうちに生きている人であっても、その人に対して行うことができるが、「法や福音の精神に反する事物、場所、状況」(ローマ儀式書を引用したFS10番)に対しては行うことができない。したがって、例えば、中絶した女性を祝福することはできるが、中絶クリニックを祝福することはできない。
  3. c)FSが提案する新しい祝福は司牧的祝福であり、典礼的あるいは儀式的祝福ではない。したがって、「儀式的」祝福やタイプ「b」祝福の制限はない。「儀式的」祝福のように、罪のうちにある人に適用されるだけでなく、福音に反する事物、場所、状況にも適用され得る。

この「c」タイプの祝福、すなわち「司牧的」祝福は新奇なものである。典礼的なものではなく、むしろ「民間信心」に基づくものであるため、福音的な教理を損なうことはないとされ、道徳的規範やカトリックの教理と一致する必要もない。この新しい分野の祝福についてどんなことが言えるだろうか。

第一の観察は、FSが引用した聖書のテキストにも、過去の教導権の声明にも、この新しい用法の根拠がないということである。教皇フランシスコが提示したテキストも、この新しいタイプの祝福の根拠を与えていない。すでにローマ儀式書による祝福(タイプ「b」)は、司祭が罪のうちに生きる人を祝福することを認めているからである。そして、フランシスコが言うように、このタイプの「祝福」は、刑務所や更生保護グループにいる人にも簡単に適用できる(FS27番に引用されている)。これに対して、革新的な「司牧的」祝福(タイプ「c」)は、フランシスコが言うことを超えている。なぜなら、婚外関係のような天主の法に反する現実にこのような祝福を与えることができるからである。実際、このタイプの祝福の基準によれば、中絶クリニックやマフィアグループを祝福することさえできる。

このことは、第二の観察へとつながる。つまり、伝統的な言葉の使い方に反するような新しい用語を発明するのは危険だ、ということである。そのような手続きは、権力の恣意的な行使を生む可能性がある。この場合、祝福には独自の客観的な現実があり、そのため祝福の本質に反する主観的な意向に合わせて勝手に再定義することはできないというのが事実である。ここで、「不思議の国のアリス」のハンプティ・ダンプティの有名なセリフが思い浮かぶ。「ぼくが言葉を使うとき、その言葉はぼくが選ぶとおりの意味になるんだ。それ以上でもそれ以下でもないよ」。アリスはこう答える。「問題は、あなたが言葉にそんなにいろいろな意味を持たせることができるかどうかよ」。するとハンプティ・ダンプティは言う。「問題は、言葉と自分のどちらが主人かっていうことだよ。それだけだ」。

第三の観察は、「典礼的でない祝福」(FS34番)、すなわち何者をも制裁することを意図しない「司牧的」祝福(タイプ「c」)の概念そのものに関するものである。
この祝福は、ローマ儀式書が考えている祝福(タイプ「b」)とどのように違うのだろうか。その違いは、祝福の自発的な性質にあるのではない。自発的な性質の祝福は、タイプ「b」の祝福ですでに可能である。なぜなら、「司牧的」祝福はローマ儀式書で規定されたり認可されたりする必要がないためである。民間信心における違いでもない。なぜなら、ローマ儀式書による祝福は、対象、場所、人への祝福を求める民間信心にすでに適合しているからである。革新的な「司牧的」祝福は、法や福音の精神に反する状況を祝福するために、「特別にこのために」(ad hoc)作られたように思われる。

このことにより、私たちは、この「司牧的」祝福の対象について、ローマ儀式書の「儀式的」祝福とは区別されるという第四の観察に移る。「司牧的」祝福には、福音に反する状況も含まれ得る。ここでは罪深い人が祝福されるだけでなく、カップルを祝福することによって、祝福されるのは罪深い関係そのものであることに注目されたい。ところで、天主は、ご自分に真っ向から反対している関係、ご自分に向かって秩序づけられていない関係に恩寵を送られることはあり得ない。婚姻外の性交渉は、性交渉として、人々を天主に近づけることはできず、したがって、天主の祝福を受けるために開かれることはあり得ない。したがって、もしこの祝福が与えられたとすれば、その唯一の効果は、それを受ける人々やそれにあずかる人々を混乱させることであろう。彼らは、天主が祝福できないものを祝福したと思うだろう。この「司牧的」祝福は、司牧的でも祝福でもない。フェルナンデス枢機卿が、後にInfovaticanaに寄せた声明の中で、祝福されるのは結合ではなく、カップルであると述べたのは事実である。しかし、これは言葉の意味を空しいものにすることである。なぜなら、カップルをカップルとして定義するものは、まさにそのカップルが結合していることだからである。

結合やカップルを祝福することが困難であるのは、同性愛の場合に特に明白である。なぜなら、聖書において祝福とは、天主が創造され、天主が善であると宣言された秩序に関わるものだからである。この秩序は、一つの肉となるよう呼ばれている男女の性的差異に基づいている。創造に反する現実を祝福することは不可能であるだけでなく、冒涜でもある。もう一度言うが、「結婚とは決して比べることのできない結合のうちに生きる」(FS30番)人々を祝福することが問題なのではなく、結婚とは比べることのできない結合そのものを祝福することが問題なのである。新しい種類の祝福がつくり出されたのは、まさにこの目的のためである(FS7番、12番)。

テキストの中には、これらの祝福を正当化しようとする議論がいくつか登場する。第一に、罪人に責任を負わせるのを軽減する条件があり得るかである。しかし、これらの条件は、関係そのものではなく、人のことを言っている。また、祝福を願うことは、その人たちが現在の条件で実現できる可能な善いことであるとも言われている。これはあたかも、祝福を求めることがすでに天主と回心への扉を開くことであるかのようである。これは、自分自身のために祝福を求める人には当てはまるかもしれないが、夫婦として祝福を求める人には当てはまらない。後者は、祝福を求める際に、暗黙的にせよ明示的にせよ、自分たちの関係そのものを天主の前で正当化しようとするが、その関係こそが、彼らを天主から遠ざけていることに気づいていない。最後に、関係には肯定的な要素があり、それらは祝福され得ると主張されるが、これらの肯定的な要素(例えば、一方が他方を病気で助けるなど)は、性行為の共有が決定的な特徴である関係そのものにとっては二次的なものであり、これらの要素はこの関係の本質を変えることはない。それはいかなる場合にも天主に向けられるものではあり得ないことは、すでに教理省の2021年の「回答」で述べたとおりである。中絶クリニックでさえ、肉体的苦痛を防ぐ麻酔科医や、中絶しようとする女性の生命計画を守ろうとする医師の願いなど、肯定的な要素が存在する。

第五の観察は、この革新的な「司牧的」祝福の内的矛盾に関するものである。典礼的でない祝福、つまり、キリストと教会の教えを公式に代表していない祝福を与えることは可能なのだろうか。この質問に答える鍵は、その儀式が公式に認可されたものなのか、それとも自発的に即興で作られたものなのかということではない。問題は、祝福を与える者がキリストと教会の代表である司祭であるかどうかである。FSは、福音に反する状況に置かれている人々の祈りに司祭が加わることは問題ないと断言している(FS30番)が、この祝福において司祭は単に彼らの祈りに加わるのではなく、むしろ関係そのものに天主の賜物が降ることを呼び求めるのである。司祭が司祭として行動する限り、司祭はキリストと教会の名において行動する。さて、この祝福の意味をキリストの教えから切り離すことができると主張することは、教会が行うことと教会が言うことの間に二元論を仮定することである。しかし、第二バチカン公会議が教えているように、啓示は切り離すことのできない行いと言葉によって私たちに与えられ(「啓示憲章」[Dei Verbum]2番)、教会の告げ知らせは行いと言葉を切り離すことはできない。この文書が民間信心を助長することで好意を示したいと思い、教理に反する象徴的な行いに最も影響を受けて騙されやすいのは、まさに素朴な人々である。なぜなら、彼らは行いの教理的内容を直感的に把握するからである。

このことを踏まえて、忠実なカトリック信者はFSの教えを受け入れることができるだろうか。キリスト教信仰における行いと言葉の一致を考えると、司牧的な方法であっても、そのような結合を祝福することは良いことだと受け入れることができるのは、そのような結合が客観的に天主の法に反していないと信じる場合にのみである。教皇フランシスコが同性愛者の結合は常に天主の法に反すると断言し続ける限り、そのような祝福は与えられないと暗に断言していることになる。したがって、FSの教えは自己矛盾であり、さらなる明確化が必要である。教会は一つのことを祝福し、別の違うことを教えることはできない。なぜなら、アンティオキアの聖イグナチオが書いたように、キリストは「仰せられればそのとおりになった」教師であり、誰もキリストの肉と言葉を切り離すことはできないからである。

私たちが問うたもう一つの質問は、合法的な結婚と共存しているものがあったり、パートナーが変わることが珍しくなかったりするこうした結合を、司祭が祝福することに同意できるかということだった。FSによれば、司祭は、典礼的でなくかつ公式な「司牧的」祝福でこれを行うことができるという。これは、司祭がキリストと教会の名において行動せずに、これらの祝福を与えなければならないことを意味することになる。しかし、これでは司祭が司祭として行動していないことを意味することになる。実際、司祭は、キリストの司祭としてではなく、キリストを拒否した者としてこれらの祝福を与えなければならなくなる。実際、その行為によって、これらの結合を祝福する司祭は、その結合を創造主へ至る道として提示する。したがって、司祭は、創造主の計画に反して、また、キリストの私たちのための死――この死は創造主の計画を成就することを意味する――に反して、汚聖的で冒涜的な行為を犯すことになる。教区司教もこれにかかわっている。地方教会の牧者として、教区司教にはこれらの汚聖的な行為を防ぐ義務がある。そうしなければ、司教はこれらの汚聖的な行為の共犯者となり、兄弟たちを信仰において固めるというキリストから与えられた使命を否定することになるからである。

司祭はすべての人に天主の愛と善意を告げ知らせ、また罪人や弱くて回心が困難な人を助言と祈りで助けるべきである。このことは、天主が罪に対してそれほど多くを要求なさってはいないと、人を惑わすような自らが発明したしるしや言葉で彼らに提示することとは、まったく異なるのである。何故なら、そうすることで、思い、言葉、行いの罪が私たちを天主から遠ざけるという事実を隠しているからである。

天主の聖なるみ旨に客観的に反する罪深い生活状況には、公的にだけでなく私的にも、祝福はない。そして、キリスト教の教理を勇敢に擁護する者たちが、"具体的な人物の救いよりも、律法主義的に自分たちの道徳的規範を満たすことに関心がある硬直した者"という烙印を押されるのは、健全な解釈の証拠ではない。なぜなら、イエズスは普通の人々にこう言っているからである。「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。私は心の柔和なへりくだった者であるから、くびきを取って私に習え。そうすれば霊魂は休む。私のくびきは快く、私の荷は軽い」(マテオ11章28-30節)。かの使徒はそれをこう説明している。「その掟は難しいものではない。天主から生まれた者は世に勝つ。世に勝つ勝利はすなわち私たちの信仰である。イエズスが天主の子であると信じる者のほかに、(いったい)誰が世に勝てるだろうか」(ヨハネ第一書5章3-5節)。偽りの人間学が、男と女の結婚および家庭と子どもたちという天主の制度を弱体化させている今、教会は、教会の主にしてかしらであるお方の言葉を思い出すべきである。「狭い門から入れ。滅びに行く道は広く大きく、そこを通る人は多い。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける人も少ない」(マテオ7章13-14節)。


アスタナの聖マリア大司教区(カザフスタン)同性愛カップルの祝福を公式に禁止

2023年12月21日 | カトリック・ニュースなど

アスタナの聖マリア大司教区、同性愛カップルの祝福を公式に禁止

Archdiocese of Saint Mary in Astana officially prohibits blessings of same-sex couples


2023年12月18日に教理省が発表し、教皇フランシスコが認可した宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)に関するアスタナの聖マリア大司教区の声明。

聖座の宣言「フィドゥチア・スプリカンス」(Fiducia supplicans)の明白な目的は、「不規則な状況にあるカップルや同性カップルを祝福する可能性」を認めることです。同時に、この文書は、そのような祝福は「彼らの立場を公式に有効なものとしたり、結婚に関する教会の永年の教えを何らかの形で変更したりすることなく」行われると主張しています。

この文書が同性カップルの「結婚」に許可を与えていないという事実によって、不規則な状況にあるカップルや同性カップルを祝福する許可そのものに存在する大いなる欺瞞と悪に、牧者や信徒が目をつぶってはなりません。このような祝福は、天主の啓示と、カトリック教会の二千年にわたって途切れることのない教理と実践に直接かつ深刻に矛盾しています。不規則な状況のカップルや同性カップルを祝福することは、至聖なる天主の御名を深刻に乱用することです。なぜなら、この御名が、姦淫や同性愛行為という客観的に罪深い結合に対して祈願されるからです。

それゆえ、聖座のこの宣言に含まれる声明文の中で、いかなるものも、最も美しいものであっても、このような祝福を合法化しようとするこの努力から生じる広範囲に及ぶ破壊的な結果を最小限に抑えることはできません。このような祝福によって、カトリック教会は、理論上ではそうでないとしても、実際上では、グローバリズム的かつ天主を恐れぬ「ジェンダー・イデオロギー」の宣伝者となってしまうのです。

使徒たちの後継者として、また、私たちの司教聖別式の際の「使徒たちの時代以来、教会において常に、かつあらゆる場所で守られてきた聖伝に従って、純粋かつ完全な信仰の遺産を守る」という荘厳な誓いに忠実であるように、私たちは、アスタナの聖マリア大司教区の司祭と信徒が、非正規の状況にあるカップルや同性カップルの祝福をいかなる形であれ受け入れたり、行ったりすることを戒め、禁じます。もはや罪を犯さず、公然の罪深い状況(例えば、教会法的に有効な結婚外での同棲、同性の人々の間の結合など)に終止符を打つという堅い意向を持つ、心から悔い改めた罪人は皆、祝福を受けることができるのは言うまでもありません。

使徒聖パウロがアンティオキアで初代教皇を公に戒めた言葉を借りれば、私たちは、誠実な兄弟愛と十分な敬意をもって、教皇フランシスコに対し、非正規の状況にあるカップルと同性カップルの祝福を許可することによって、「福音の真理に従って正しく歩んでいない」(ガラツィア2章14節参照)と述べます。それゆえ、司教団体主義の精神により、私たちは教皇フランシスコに、非正規の状況にあるカップルと同性カップルを祝福する許可を取り消すよう求めます。それは、カトリック教会が、天主のみ旨を知り、それを果たすことによって永遠の命を得ようと心から願うすべての人々のために、「真理の柱であり基」(ティモテオ前書3章15節)として、はっきりと輝くことができるようになるためです。

2023年12月19日、アスタナにて

+アスタナの聖マリア大司教区首都大司教、トマシュ・ペタ

+アスタナの聖マリア大司教区補佐司教、アタナシウス・シュナイダー

(source)

Photo: Pope Francis, flanked by Auxiliary Bishop Athanasius Schneider (left), and Archbishop Tomash Peta (right), visits Our Lady of Perpetual Help Cathedral in Nur-Sultan, Kazakhstan, 15 September 2022. (Photo by FILIPPO MONTEFORTE/AFP via Getty Images.)

 


ローマ:教理省、同性または未婚のカップルの祝福を認可

2023年12月20日 | カトリック・ニュースなど

ローマ:教理省、同性または未婚のカップルの祝福を認可

Rome: The DDF Authorizes the Blessing of Same-Sex or Unmarried Couples

2023年12月19日

2023年12月18日(月)、教理省(DDF)は、教皇フランシスコが同日署名し、司牧的愛徳という理由から、「不規則な状況にある」カップル、言い換えれば、未婚のカップルあるいは離婚して再婚したカップルや、同性のカップルの祝福を認可する宣言を発表した。

教理省は、このかなり長い文章の中で、フランシスコの教えに依拠することによって、特に5人の枢機卿の「ドゥビア」(dubia、質問)に対して教皇が出した回答――奇妙なことに、この文章に2度登場している――に依拠することによって、この決定を正当化しており、「ペトロの後継者に仕える道具」の行為として、その行為を正当化している。

その点について、ビクトル・マヌエル・フェルナンデス枢機卿(あだ名はトゥーチョ)は、自分の文章には、「革新主義的な」――これは「聖伝ではない」とも訳せる――性格を認めている。彼は祝福に新しい「司牧的」意味を与えようとさえ考えて、「典礼的観点と密接に結びついた祝福の古典的な理解を広げ、豊かにすることを可能にする」と述べているが、このことは何よりも彼の無知を示している。

つまずきを与える文章

この文章のつまずきを与える性質を指摘することが重要だ。この文章は、意味上のもがきがあるにもかかわらず、教理省が以前に行った決定に反対しているように見える。この決定は2021年2月22日付のもので、抜け穴を残さないような説明をつけて、そのような祝福の可能性を否定した。ちなみに、それは、フランシスコによって認可されている決定だった。

つまずきは、たとえ教理省が結婚との類似を避けるために慎重だったとしても、信者に、新聞に、そしてカトリック信者ではない人々に引き起こした結果が、「教会は同性カップルの祝福を認可している」という肯定的な結果だという事実にある。教理省が定めようと試みているような区別は一切ない。

しかし、教皇庁がこの結果を予期していなかったということはあり得ない。したがって、教理省は、定義によれば、堕落する機会、すなわち罪を犯す機会となるつまずきの全責任を負っている。信者の一部であろうとなかろうと、多くの人々の考えでは、この発表は、教会がこのような罪の状況を何も付け加えずに受け入れているという言い方の一つであることは絶対に明らかである。

効果のない区別

この結論に至る論拠は、典礼的祝福と典礼的でない祝福との区別だ。前者が除外された場合、後者は第39段落に列挙された以下の条件の下で受け入れられる。「この祝福は、シビルユニオンの儀式に付随して行われるべきではなく、それに関連して行われるべきでさえありません。また、結婚式にふさわしい服装、身振り、言葉を用いて行うこともできません」。

しかし、問題はその区別そのものにあるのではなく、典礼的であろうとなかろうと、悪いもの、不道徳なものであってはならない「祝福の対象そのもの」にある。中絶を希望する女性が司祭に、すべてがうまくいくように祝福してほしいと頼んだ場合、司祭は彼女に祝福を与えなければならないのだろうか。この宣言の条項によれば、その返答は「イエス」であるように思われる。しかし、良識ある人なら誰でも、この女性がこの罪を犯すのを避けるように助けるという目的以外には、祝福を与えることはできないと理解している。

たとえ同性愛者であっても、結婚せずに同居している人であっても、司祭は「すべての人」を祝福することができるというのは、その通りだ。同様に、告解室では、正当な理由で司祭が一つのケースあるいは他のケースで赦しを拒否した場合でも、司祭は、悔悛者を励まして彼に照らしや強さの恩寵を求めるために、彼を祝福することができる。

しかし、「カップル」を祝福する場合、その祝福の対象そのものは、カトリックの教理が断罪しているこの非合法な結合だ。そして、宣言の第40段落で、この祝福において「何も合法化する意向はありません」と言うのは、良く言えばむなしい願いであり、悪く言えば偽証である。なぜなら、祝福される人々の目にも、彼らの周囲の人々の目にも、それは合法化だからだ。

典礼的でない祝福という偽りの安全策

第37段落では、5人の枢機卿の「ドゥビア」(dubia)に対する回答が用いられている。この回答は、「ある状況においては司牧的慎重さの一部となり得る決定が、必ずしも規範となるべきでありません」という事実を強く主張している。教理省は、第38段落で次のように結んでいる。「この理由から、不規則な状況にあるカップルの祝福のための儀式を提供したり、推進したりすべきではありません」。

第37段落が説明するように、教皇にとっての危険とは、「耐え難い詭弁に至る」こと(「愛のよろこび」(Amoris laetitia)第304段落による)だ。しかし、ヨゼフ陳枢機卿は、5人の枢機卿の「ドゥビア」に対するフランシスコの回答に関する解説の中で、すでにそのような主張に反論している。

フランシスコがこれらの祝福のための正確な規則を望んでいないという事実について、この中国人枢機卿は「司牧上、納得できない」と主張している。「教会は、このような重要な問題において、人々を明確な規則もなくそのままにし、個人の識別を信頼することができるのだろうか。このようにして、霊魂にとって非常に危険な詭弁という混沌が発生するのではないだろうか」。

その件に関して、ある疑問が浮かぶ。教理省は、オランダ語圏ベルギーの司教たちやドイツの司教たちなど、そのような典礼的定式文をすでに公布している司教団や司教たちに撤回を求めるのだろうか。詭弁による混乱はすでに始まっているのだ。

結論として、「愛のよろこび」の革命的な文章をその最終的な結末へと至らせるこの宣言は、すでに予想されていたことではあるが、深い分裂の種を持ち込み、教会に計り知れない害をもたらすことになるだろう。私たちが希望できることとは、宣言に対して多くの反対の声が上がることによって、宣言の作者たちが、これを早く理解することです。

(Source : Saint-Siège – FSSPX.Actualités)


明日の水曜日、金曜日、土曜日は、四季の斎日で、聖伝によれば大小斎を守る日です

2023年12月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
今週の水曜日(明日です)、金曜日、土曜日は、四季の斎日で、聖伝によれば大小斎を守る日です。義務では無くなってしまいましたが、できる方は私たちと一緒に大小斎を守りましょう。

来週の主日12月24日には東京では、私たちの信徒の方々とその家族を聖母の汚れなき御心に奉献します。お祈りください。ご家族の方々を含めて、ただいま、311名の方々にマリア様の特別なご保護とお恵みを祈って、奉献する予定です。





【参考情報】アタナシウス・シュナイダー司教による聖母の汚れなき御心のための全世界的な霊的十字軍

2023年12月18日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アタナシウス・シュナイダー司教様が、全世界に呼び掛けて12月8日付で「聖母の汚れなき御心の名誉のための世界的な十字軍」を起動されました。

この目的は、世界的な教会の危機を克服するために、聖母に取次をこい願うためです。

これに参加するためには、毎日ロザリオの祈りを唱えて、初土の信心をすること、とされています。

詳しくは、次をご覧ください。

The Confraternity of Our Lady of Fatima - 2024 Worldwide Crusade in Honour of the Immaculate Heart of Mary

【https://www.livefatima.io/wp-content/uploads/2023/12/Japanese.pdf】

Worldwide Crusade in Honor of the Immaculate Heart of Mary - OnePeterFive

Worldwide Crusade in Honor of the Immaculate Heart of Mary

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2023年12月6日は、十二月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年12月06日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年12月6日は、聖ニコラオの祝日であり、初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


【参考情報】イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

2023年11月29日 | カトリック・ニュースなど

イタリア人司祭は、新著で「愛のよろこび」の誤謬を批判したために聖職停職を受ける

Italian priest suspended for criticizing errors of Amoris Laetitia in new book

「私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです」。

マイケ・ヒクソン

米東部標準時夏時間2023年5月1日午後5時2分

(LifeSiteNews)―2004年に叙階されたイタリア人カトリック司祭ドン・トゥリオ・ロトンド【ドンとは神父という意味】は、2016年の教皇フランシスコのシノドス後の使徒的勧告「愛のよろこび」(Amoris Laetitia)に含まれる誤謬に反対する著書を出版したことで、司教から「聖職」(a divinis)停止処分を受けました。ドン・ロトンド【ロトンド神父】の本の序文を書いた世界的に有名な古典哲学者であるジョン・リスト教授は、LifeSiteに対して、彼の聖職停止処分は「全く不当なもの」であると語り、付け加えて、ドン・ロトンドは「何百年もの間、カトリックの道徳神学であると信じられてきたものを擁護したために罰せられた」と述べました。彼の聖職停職処分は、カトリック教会にはふさわしくない、一種の権威の隷属的濫用の一例です。

ドン・ロトンドはLifeSiteのインタビューに応じ(全文は下部参照)、その中で「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題した自著の論旨を詳しく説明しています。ドン・ロトンドによれば、この著書は「告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と協力者たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬」を浮き彫りにしています。この司祭は、いかなる秘跡の執行も禁じられるという聖職停職処分を受けていますが、心は平安です。

「今は私の人生で最も幸せな時間です」と彼はLifeSiteに語ります。「なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています」。イゼルニア=ヴェナフロ教区のカミッロ・チボッティ司教から著書の出版を撤回するように言われたとき、彼はそうするのを拒否しました。

教皇フランシスコがチボッティを司教に指名した後、チボッティは2014年にブルーノ・フォルテ大司教一人だけによって聖別されましたが、この大司教は2014年の家庭に関するシノドスにおいて、異端的な行動計画(アジェンダ)を押し進めるために教皇フランシスコと密接に協力し、重要な役割を果たしました。

LifeSiteNewsは、チボッティ司教が署名した2023年2月2日付の聖職停止命令を確認することができました。この命令は、「正当な教区長に対する不従順」について明確に言及しており、「警告後も不従順にとどまる」司祭は処罰される可能性があることを述べている教会法典1371条を引用しています。

イタリア人ジャーナリストのアルド・マリア・ヴァッリによって発行された自著の解説の中で、ドン・ロトンドは2022年6月、従順についての自分の理解をこう説明しました。

私はこの点に関して、明らかに法的に無能力な一部のキリスト信者が、聖書本文の誤った解釈のせいもあって、キリスト信者の従順とは、常に長上の言うこと、特にそれが教皇である場合には、それに従うことであると信じており、従って、彼らは、教皇の発言や裁定に反対する者は誰でも不従順であると指摘します。キリスト信者は、何よりもまず天主なる至高の長上に従わなければならず、従って、他の長上の指示や命令に従わなければならないのは、これらの指示や命令が天主の指示や命令と対立しない限りにおいてのみです。聖トマスはこの点について非常に明確です。

リスト教授――リスト教授自身も2019年、教皇フランシスコの異端を告発する公開書簡に署名したことで、ローマのすべての教皇庁立大学から教えることを禁じられる処分を受けた――は、ドン・ロトンドの著書の序文にこう書いています。

「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされた。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかだ。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂された。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)である。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証した」。

リストはこう付け加えています。「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすだろう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすだろう」。

LifeSiteへのコメントで、リストはこの著書が「教皇フランシスコが、教会内にある深くて実際には根本的な分裂をいかにして挑発したか(実際には、むしろ露呈させて助長したか)」を示していると説明しています。ドン・トゥリオは、細心の注意とプロ意識をもって、『愛のよろこび』に関する論争の両面を記録している」。この英国人リスト教授は、ドン・トゥリオ・ロトンドに対する司教の聖職停止処分が不当である理由を説明し、次のように述べています。「司教はドン・トゥリオに著書を撤回するよう命じた。それよりもむしろ司教は、聖伝のカトリックの教えを熱烈に擁護するドン・トゥリオを称賛すべきだったのだ」。

リストは続けてこう述べています。「司教は、そう行動することで、教皇に、正統神学の第一の守護者(唯一の守護者ではない)としての正しく聖伝的な役割に戻るよう促すのではなく、教皇が聖伝である(すなわち、教皇が主張することがカトリックの真理である)と信じている司教団の中のかなりのグループと足並みを揃えたのだ」。

「愛のよろこび」は、多くの聖職者や平信徒にとって懸念と苦悩の原因となっています。なぜなら、教会の道徳的戒律(例えば結婚に関して)に従って生活していないカトリック信者が、それにもかかわらず悔い改めることなく秘跡にあずかる道を開くものだからです。この文書に触発されて、2016年11月にカトリック教会の4人の枢機卿は、彼らの「ドゥビア」を発表しました。彼らはすでに、教皇フランシスコに個人的にこの文書を送りました。彼らの疑問は今日に至るまで教皇によって回答を与えられていません。

ドン・トゥリオ・ロトンドはLifeSiteとのインタビューの中で、オーストリアの国際的に有名な哲学者であるヨゼフ・ザイフェルト教授が当時、この教皇文書をどのように評価していたかを読者に思い起こさせています。
「ザイフェルト教授は、『愛のよころび』の303番は、『十戒とカトリックの道徳的教えという道徳的建築物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾である』と述べました」。ザイフェルト教授自身もまた、自分の批判に対して、2017年に自分が教えていたスペインのグラナダ教区から処分を受けました。地元の司教であるハビエル・マルティネス・フェルナンデス大司教は、彼が大学で教えることを禁じたのです。

これらすべてのカトリックの証人たちは、平信徒も聖職者も同様に、教会の道徳的教えを守るために苦しんだという事実のために、いつかたたえられる日が来るでしょう。

法学と道徳神学の大学の学位を持ち、神学博士でもある56歳のドン・トゥリオは、LifeSiteとのインタビューで、霊魂の救いのために誤った教えに抵抗するようすべての人にこう呼びかけています。

私はあえて公に言います。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広まっている非常に深刻な誤謬や関連するつまずきを明らかにするために、また、知っていながら声を上げない人々、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関して霊魂にもたらす大きな害を理解しながらも、声を上げず、反対しない人たちを非難するために、「石が叫ぶ」でしょう。

ドン・トゥリオ・ロトンドとのインタビュー全文は以下をご覧ください。

【問い(LifeSiteNews)】神父様がどの教区に籍を置いておられるのか、また神父様の教会における現在の状況を教えてください。

【答え(ドン・トゥリオ・ロトンド)】私はイゼルニア・ヴェナフロ教区に籍を置いており、現在は聖職停止状態です。ですから、私は家におります。

【問い】神父様を聖職停止処分にしたのは誰ですか。神父様の司教様がご自分で行ったのですか、それともローマからの介入があったのですか。

【答え】責任は司教様にありますが、司教様がローマと話し合って私にこの制裁を下したことは確実です。

【問い】聖職停止の理由は。

【答え】聖職停止命令は次の点を強調しています。

(a)2022年、私は「『愛のよろこび』による健全な教理の裏切り。教皇フランシスコと協力者たちのうちの何人かが、いかにして信仰の遺産に反する道徳を広めているか」と題する本を出版した。この本の中で私は、教皇と協力者たちのうちの何人かが、特に「愛のよころび」を通して広めている重大な誤謬を示している。
(b)司教様はこの本を公式に撤回するよう私に求められた。
(c)私はそのような撤回をしなかった。
(d)その結果、司教様は私に聖職停止処分の制裁を課された。

したがって

(a)私は、公的に役職、地位、役務を行使できない。
(b)私は、叙階の権能や、統治の権能を行使できない。
(c)また、私は、いかなる権利や特権も行使できず、いかなる記章や称号も使用できない(したがって、私は教会の衣服も着用できない)。

この制裁にせいで、私の「ミサ執行許可書」(celebret)は撤回されました。私はすべての秘跡を執行することを禁じられています。

最初に明確にしておきたいのは、この本は、教皇と協力者たちのうちの何人かがさまざまな形で広めた重大な誤謬に焦点を当てた、私が執筆中の数冊のうちの最初の一冊であることです。PDF形式のこの本は無料であり、このサイトからダウンロードすることもできます

このサイトでは、ニューラル技術を使ったさまざまな言語への自動翻訳が提供されており、この技術は自動ではありますが特に優れているはずです。英語のサイトと本はこちらから。この本の参考文献は、現在約40ページですが、今後増える予定であり、こちらで略語とともに見ることができます。

参考文献の記事の多くはLifeSiteNewsから引用されており、私はLifeSiteNewsに対して、特に教皇フランシスコの誤謬に言及し、生命と健全なカトリックの教理を守るための素晴らしい活動に心から感謝しています。このサイトのおかげで、教皇フランシスコの誤謬に勇気をもって反対しているカトリックの高位聖職者や学者たちの多くの重要な声明について知ることができました。このサイトが無料でコンテンツを提供していることは、私の仕事に大いに役立っています。

【問い】神父様の著書で、おそらく神父様の聖職停止処分の原因となったと思われる主な主張は何でしょうか。

【答え】この聖職停止処分の原因となった私の本の主な論点は、教皇の誤謬、すなわち、教皇が聖伝と聖書に反していることを強調したことです。本書の第3章から、私は、告解の秘跡、道徳的良心、道徳律、死刑に関して、教皇と仲間たちのうちの何人かが広めているさまざまな誤謬を強調しています。これらの誤謬はカトリックの教理の破壊転覆であって、進化ではありません。それらは霊魂の救いに大変有害であるため、私たちが反対すべきものです。

【問い】この本の概要を簡潔に教えていただけますか。

【答え】序章で説明しているように、第1章では教理上の問題での教皇の権力の限界について語っています。教皇が異端の可能性がある問題についてもいろいろ考えています。また、歴史が教皇の明白な誤謬をどのように記憶しているか、教皇の死後、エキュメニカル公会議によって教皇【の教え】が異端とされ、排斥されことさえあることを示しています。この第1章では、教皇フランシスコに非常に近く、使徒的勧告「愛のよろこび」のゴーストライターとされるアルゼンチン人高位聖職者、モンシニョール・V・M・フェルナンデスの発言を検証しています。本書の中で私は、「愛のよろこび」が述べていることをよりよく理解するために、モンシニョール・フェルナンデスの著作を何度か利用しています。

第2章では、「愛のよろこび」にまで至った教皇の明白な戦略と、それに続く深刻な結果を示しています。この戦略は、曖昧な発言と「暗号」(言葉と行動)から構成されており、この戦略によって、教理の変更および教皇が実行しようとしている「パラダイム・シフト」が目立たないように広まっているのです。

教皇フランシスコに最も近い協力者たち自身が、教皇フランシスコは「パラダイム・シフト」を実行していると述べています。一方、ミュラー枢機卿は、「『パラダイム・シフト』というまがいものの知的言説の背後には、天主のみ言葉を改ざんする隠しようのない異端しかありません」と述べています。教皇フランシスコの戦略は、まさにこの「パラダイム・シフト」を実行するために、2014年と2015年の2回のシノドスにおける「操作」によっても実行されました。

それ以降の章では、このような「パラダイム・シフト」がどのように実現されたのか、そしてそれゆえにカトリックの教理のさまざまな点に関して、「愛のよろこび」を通して「パラダイム・シフト」から生じる誤謬を示しています。これらの章では、教皇フランシスコと支持者たちが、誤った道徳を神学的に受け入れられるものとして罷り通らせるために、特に次の二つの手段を用いてきたことを示しています。

1.一つは、啓示された天主の法と、それとともに十戒の否定的戒律には絶対的な義務性があることを、特定の部分において、実質的に脇に置くものです。ザイフェルト教授は、「愛のよころび」の303番は、「十戒とカトリックの道徳的教えからなる道徳的建造物全体を崩壊させる恐れのある神学的原子爆弾」であると述べています。

2.一つは、特定のケースに対する不正確で誤った識別を広め、その結果、人間の行為の情状酌量すべき事情をあいまいで不正確で逸脱した表現にしたことです。これらの事情は、実際には教皇とその協力者の一部によって狡猾に拡大され、真の重大な罪を小罪や不完全なものとみなすように導くことによって、天主の戒律を実質的に破壊することができるようにされています。
これに沿って、シュナイダー司教は、「過去2回のシノドス総会(2014年と2015年)において、新たなモーゼの弟子たちと新たなファリザイ人たちは、あわれみの概念を装って、結婚の不解消性とケース・バイ・ケースでの第六戒の一時停止を実践的に否定するのを覆い隠したこと、「識別の方法」、「同伴」、「司教の方向づけ」、「司祭との対話」、「内部フォーラム」、「さらに完全な教会生活への統合」、非正規の結合による同棲に関して責任を負わせることを廃止する可能性があること、といった表現を使っていました(最終報告書、84-86番参照)」。(これらはモンシニョール・シュナイダーの言葉であり、メールで私に送られてきたものです。2023年4月28日付のRorate Caeliの記事に同じような内容あることが明記されています。この記事には実際にはミスプリントがあります。)

教皇と協力者たちの中の何人かは、こうした道筋をたどりながら(その道筋だけではありませんが)、同性愛行為、避妊行為、姦淫行為を容認する道をも実質的に開いてしまいました。… したがって、そうした行為を実践しながら悔い改めない人々に対する秘跡としての赦免と聖体拝領を実質的に容認する道も開いたのです。中絶過激派のバイデン米大統領が、フランシスコと会見した際、教皇によれば、自分【バイデン】は「善きカトリック信者」であり、ご聖体を受けることができる、と述べたのも不思議ではありません。聖座はそれを否定していないのです!

もしバイデンのような中絶推進派の同性婚擁護者が合法的にご聖体を拝領できるのであれば、事実上誰でも、悔い改めない大いなる罪人であっても、そうすることができることは明らかです。なぜなら、バイデンは彼が行う悪を明らかに悔い改めていないからです。このことはすべて、痛悔、つまり罪を犯さないという意向が、もはや秘跡としての告解に絶対必要というわけではないという誤謬と関連しています。本書は第3章で、教皇フランシスコと協力者たちの主張が、悔悛者の痛悔を欠く限りにおいて、いかに無効な秘跡としての赦免と無効な告解につながるかを指摘しています。これらの無効な赦免と無効な告解は罪を赦すのではなく、単に悔悛者を欺くだけです。悔悛者の真の痛悔がなければ、真の赦免も、真の悔悛の秘跡も、秘跡による真の罪の赦しもないからです。

第6章は、死刑に関する教皇の誤謬を検証します。死刑の合法性は、場合によっては、自然法と啓示された法によって明確に肯定されており、教皇が死刑を「許されない」と宣言した際、教皇は明らかな誤謬状態にあります。

私が強調しているのは、本書で十分に示したように、教皇が「愛のよろこび」はトミズムの道徳的教理に忠実に従っていると主張していることは真実ではなく、実際には、この勧告は多くの箇所でアクィナスの道徳に完全に反している、ということです。たとえそれが、「トミストの文書」という肩書をまとって、あたかも確かな教理のように見せかけようとしていてもです。
天主の法とその絶対的な否定的命令をさまざまな戦略で実質的に踏みにじり、健全なカトリックの教理を捻じ曲げる教皇が、明らかに偽りのことを述べながら、それを至高の真理であるかのように見せかけるのは、奇妙ことではありません。十戒の否定的な命令に対して、場合によっては合法的な方法で実質的に違反することが可能なのであれば、場合によっては人は、合法的な方法で実質的に嘘をつくことさえできてしまうことは明らかだからです。

【問い】神父様はこれまで、教会の位階階級と問題を起こしたことはおありですか。

【答え】私はこれまで制裁を受けたことはありません。私は常に教皇と司教に従順であり、聖なる生活を送り、健全な教理についてもっともっと学ぼうとしてきました。実際、私は1992年にローマのサピエンツァ大学で法学の学位を取得し、2002年には道徳神学の免許状を取得しました。2008年には、ご聖体に関する聖トマスの教理とキリスト信者の道徳生活との関係に関する論文で神学博士号を授与されました。まさに私の神学的訓練のおかげで、また祈りによって天主が私に与えてくださった光のおかげで、私は教皇フランシスコが教皇在位期間の間に、私たちが知っていることに一致しない教理を広めていることに気づきました。そのため、私は「聖伝」を深く学んでから、教皇フランシスコの発言と比較することにしました。私は、偉大な専門家たちが述べていたことを読み、教皇フランシスコが、専門家たちが真の異端と表現する非常に深刻な誤謬を広めていることを確信するようになりました。

【問い】神父様の恐ろしい運命を考えれば、この重大な不公正にもかかわらず、神父様はどのようにご自分を支え、信仰を強く保っておられるのでしょうか。

【答え】恐ろしい運命ではありません。実際、私の人生の中で非常に幸せな時間です。なぜなら、使徒たちが言ったように、キリストとともに、キリストのために、キリストの真理のために、苦しむことができることをうれしく思っているからです。私は内的には平安であり、自分の召命を見つけたと感じています。基本的に、私は自分がしていたことを続けています。つまり、キリストに従い、キリストのみ言葉を広め続けています。私は祈り続け、教皇と仲間たちが広めている非常に深刻な誤謬のことを明確に語り続けています。

何人かの人々と、オンラインで祈りのグループを作って、私たちが教会で生きている状況のために祈っています。(このグループは私のYouTubeチャンネルにもあります。)私はその日の典礼について考え、また健全なカトリックの教理に反する教皇の誤謬について語っています。

昨日、例えば、私は次のようなことを観察していました。聖ユスティヌスは、「私たちが教えることを真理と信じ、罪の赦しと再生のために制定された洗礼によって清められ、キリストが教えられた通りに生きる者以外の者にとっては、ご聖体にあずかることは合法的でない」(殉教者聖ユスティヌス「キリスト教徒を擁護する第一弁明」66-67参照PG6、427-431)と述べています。
教皇フランシスコは、バイデン大統領やナンシー・ペロシ夫人のような中絶推進派の政治家もご聖体を受けることができると明確に主張しています。実際、米国の司教たちは、中絶推進派で同性婚推進派のバイデン大統領がご聖体を(拝領するのを)阻止したかったのですが、教皇は司教たちがそうするのを明確に止めました。

バイデン大統領が教皇のもとを訪れた際、教皇によれば彼は「善きカトリック信者であり、聖体拝領を受けることができる」と報告しました。聖座はこれらの主張を否定していません。バイデン大統領は、カトリックの教理に明らかに反して、継続的にご聖体を拝領しています! ナンシー・ペロシ夫人は中絶推進派として、またその他の不道徳行為の支持者として広く知られていますが、ローマに来たとき、もちろん教皇の許可を得て、ご聖体を受けました。これは誤謬であり、聖伝に反するだけでなく、重大なつまずきです!

私たちはこの小さなグループで、天主が介入され、教会がこうした誤謬や不祥事から解放されるよう祈っています。私は、天主が介入され、霊魂をひどく傷つけるこれらの非常に深刻な誤謬から私たちを解放してくださるよう、語り続け、祈り続けます。天主の思し召しにより、いかなる制裁を受けても、私はやめません。有名なリスト教授が私の著書の序文で述べてくださっているように、また、有名なオックスフォード大学のジョン・フィニス教授(1986年から1991年まで聖座の国際神学委員会の元委員、1990年から1995年まで教皇庁正義と平和評議会メンバー、2001年から2016年まで教皇庁生命アカデミー会員)が述べておられるように、私たちは教理レベルにおいて史上最悪の教皇職に直面しているのです。

フィニスは、この著書について次のように述べています。「賞賛すべき明晰さと豊富な証拠と論証によって、この時宜を得た本は、『教皇フランシスコによって意図的に広められた異端が今日、キリスト教史上最悪の危機の主要な原因かつ現れである』と主張する主な公表文書を集めたものです」(ジョン・ラモント、クラウディオ・ピエラントーニ著「現在の異端から信仰を守るDefending the Faith Against Present Heresies」[アローカ出版Arouca Press、2021年]の編集者書評)。

私たちは今、教会がこれまで直面した中で最悪の教理上の危機にあり、それは教皇のせいなのです。あり得ないことのように思えますが、そうなのです。このような状況において、私は、天主が介入され、人々が理解し、この雪崩のような誤謬を止めるために動くように、祈り、語らなければならないと理解しました。天主はこのような誤謬を憎まれ、私たちを誤謬から救い出すために介入されます。天主はご自身ですべてをなさることを望んでおられるのではなく、そのような教理的・道徳的倒錯から私たちを解放するために、私たちの協力を望んでおられるのです。健全な教理は、私たちにこのことを理解させ、教会の歴史も理解させるのです。

【問い】カトリック信者、特に司祭や司教におっしゃりたいことは。

【答え】私はすべての人に、これらのテーマについて祈り、私の著書や他の同様のテキストを読んで、物事の本当の姿を理解する努力をしてくださるよう強く求めます。そして、これらの誤謬が消し去られ、否定され、教皇と協力者たちによって健全な教理が再び教えられるよう、祈り、行動するよう強く求めます。

人々が教皇のせいで広まっている誤謬に気づき、それに従わないようにするために、私は今の状況を理解した人々が大胆に発言するよう呼びかけます。天主は、私たちをこうした誤謬から救い出したいと望んでおられますが、私たちを使いたいと望んでおられるのです! イエズスは福音の中でこう述べておられます。「私は言う、もし彼ら(私の弟子たち)が黙ったとしても、石は叫ぶだろう」(ルカ19章39-40節)。

このテキストに関するオリゲネスの解説は照らしを与えてくれます。
Quando nos loquimur, lapides silent: quando nos tacemus, lapides clamant. Potest enim Dominus de lapidibus istis suscitare filios Abrahæ. ” Quo tempore nos tacebimus? Quando refrixerit charitas multorum, quando illud quod a Salvatore prædicatum est, fuerit impletum: Putas veniens Filius hominis inveniet fidem super terram? Propterea Domini misericordiam deprecemur, ne, nobis tacentibus, lapides clamitent; sed loquamur et laudemus Deum in Patre, et Filio, et Spiritu sancto: cui est gloria et imperium in sæcula sæculorum . Amen (オリゲネス「ルカ福音書講話」37:5)。
「われらが話すと石は黙り、われらが黙ると石は叫ぶ。なぜなら、天主はこの石からアブラハムの子らを起こすことがおできになるからだ。われらが黙るべきは、いかなる時か。愛徳が多くの者の中で冷えてしまった時、主が『人の子が来るとき、地上に信仰があると思うか』[ルカ18章8節]と予告されたことが成就する時である。それゆえ、われらは主のあわれみをもとめて祈る。それは、われらが黙っていても石が叫ぶようなことがなく、われらが語り、父と子と聖霊によって天主を賛美するためである。天主に栄光と力が永遠にあらんことを。アーメン」。

私はあえて公に述べます。親愛なる兄弟である司祭の皆さん、親愛なる父である司教の皆さん、親愛なる神学者の皆さん、もし皆さんが声を上げなければ、教皇フランシスコのせいで広がっている非常に深刻な誤謬とそれに関連するつまずきを明らかにし、知っていながら声を上げない者たちを、つまり、これらの誤謬を認識し、それが救いに関わる霊魂に大きな害をもたらすことを悟っていながら声を上げず、反対しない者たちを非難するために、「石が叫ぶでしょう」。

霊魂の救いは教会生活における基本原則であり、その救いのためにキリストは命を捧げられましたから、すべてのカトリック信者、とりわけ私たち天主の役務者は自分の命を捧げなければなりません。不幸なことに、私の著書で示したように、フランシスコの誤謬が霊魂の救いにとっていかに大きな害悪であるかを私たちは目の当たりにしています。例えば、痛悔がないために無効な告解さえももたらすのです。ある意味で、「石」はすでに「叫んでいます」。なぜなら、司祭でも司教でも神学者でもない多くの人々が事態をよく理解し、教皇の誤謬に反対して明確に語り、多くの神学者たちや天主の役務者たちの沈黙について不満を述べているのですから。

私の望みは、他の2巻を出版することに加えて、以下の通りです。

(a)教皇フランシスコと協力者たちの誤謬を暴き、それに反対するために、恒久的に介入できる専門家グループを創設すること。

(b)教皇フランシスコと協力者の誤謬が終わり、彼らの言葉を通して真理の光が戻ってくるように、祈りと償いの大きな世界的ネットワークを作ること。

私が望んでいるのは、教皇の死ではなく、教皇がこれらの誤謬から回心なさって、霊魂が聖なるカトリックの真理に生きるのを助けてくださることだということ強調したいと思います。

【問い】リスト教授は神父様の著書の序文を書いておられます。教授の主な主張は何だったのでしょうか。

【答え】まず第一に、私はリスト教授の勇気と証言に公に感謝しなければなりません。私は教授を、一種の現代の預言者とみなしています。教授は、教皇フランシスコの誤謬に反対する多くの公になった文書に署名され、そのために、大きな報復を受けなければなりませんでした。ですから、リスト教授が私の著書の序文を書こうと望まれたことを大変うれしく思っています。私にとっては大いなる名誉です。その序文で教授はまず、教皇フランシスコの在位中に教理レベルで生じた非常に深刻な状況を浮き彫りにされ、教会の一部が現教皇の広めた誤謬に追随し、別の一部がそれに反対していることを指摘され、私が書いた本がこの状況において有用性があることを強調しておられます。リスト教授が言われるように、「現教皇職の問題の多くは、『愛のよろこび』の発表によってさらに白日の下にさらされました。この勧告が生み出した膨大な論争を通じた案内書が出版されれば、有益であることは明らかです。そして、そのような案内書が今、トゥリオ神父によって編纂されました。これは本当に『偉大で困難な仕事』(magnum opus et arduum)です。トゥリオ神父は1300ページ以上にわたって関連文書を収集し、それらを聖書および教父や教会博士たちの幅広い知識に照らして検証しました」。

この仕事を私自身のものではなく、天主のものだと考えていることを明確にしておきます。この著書は祈りのうちに生まれ、祈りのうちに私はこの仕事を遂行しなければならないと悟り、祈りのうちに私はこの仕事を続けています。少なくとも私にとって、その仕事は本当に途方もないもので、ある意味では不可能なことです。そして今、私はその仕事に完全に専念しています。今のところ、たくさんの注のある約750ページの第1巻しか出版していませんが、もう少しすれば、たくさんの脚注のある約350ページの第2巻、そしてその後、同じくたくさんの脚注のある約500ページの第3巻を出版するつもりです。私が脚注を強調するのは、私自身が創作したことを書いたのではなく高名な神学者や高位聖職者が言っていることだということを、また、聖伝が述べていることを私が繰り返したということを、明確にするためです。

リスト教授の称賛は私のものではなく、私を執筆に駆り立ててくださり、続けることを助けてくださる天主のものです。リスト教授がご覧になった文章を、すべての人に状況を明確にするために、私は今も拡充しているところです。そのため、ページ数は今も増え続けていますが、教理的な内容は常に同じです。参考文献は行間の空白がない状態で、すでに40ページありますが、さらに増えることが分かっています。

リスト教授が私の著書について述べておられるように、「21世紀のカトリック教会の歴史家たちは、彼の資料を彼らの判断のための金鉱として見いだすでしょう。一方、教会の信者席にいる今日のカトリック信者たちは、トップダウンの神学的刷新として私たちに提案されてきたものの特徴である傲慢、欺瞞、曖昧さ、侮辱の網の目を解きほぐそうとするとき、彼の著書の中に比類なき情報源を見いだすでしょう」。私は以下のことを付け加えたいと思います。教皇の教理的倒錯がどこまで進み得るのか、また、司教たち、天主の役務者たち、そして天主の民が、これらすべてに対してどんな反応を示したのかを証明する膨大な資料を、私たちの後に続く人々に残しておくことは重要だということです。それは、二度とこのような事態が起こらないようにするために重要なのは何かということを、未来の学者や高位聖職者たちが理解するためです。従って、参考文献の拡充に協力したいと思われる方は、Facebookの私のページ「Don Tullio Rotondo」または「Betrayal of Sound Doctrine」、あるいは私のYouTubeチャンネル「Don Tullio Rotondo」からご連絡いただけます。

結論

私はこの仕事を聖母に、聖母の汚れなき御心にお委ねしてきましたし、お委ねし続けます。教皇フランシスコが広めたこれらの誤謬に対して、聖母の汚れなき御心の凱旋をもたらす助けとなりますように。私は、私たちが生きているこの状況は天主の御手の中にあることを強調します。天主は、これまで言われてきたように、教皇のこのような異端的な誤謬さえも許されたのであって、望まれたのではありません。「カトリック教会のカテキズム」(412)には、聖トマス・アクィナスの文章があり、こう述べています。「天主はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかった。聖パウロはこれを、『罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた』(ローマ5章20節)と言っている」。ですから、復活ろうそくの祝別【実際には、その後の「Exsultet」】において、「このような偉大な贖い主をもたらした幸いなる過失よ」と言われています。天主は、霊魂の救いと天主の栄光のために天主の真理がより強く輝くように、私たちの協力によって、このような教理の曲解を一掃されるでしょうし、この悪をより大きな善に変える方法を承知しておられるのです。


煉獄という言葉の意味、煉獄にいる霊魂の状況

2023年11月21日 | カトリック・ニュースなど

「事実と特別な啓示によって説明された煉獄の教義」

フランソワ=グザヴィエ・シュッペ神父(1823~1904年)著

第一部 煉獄、正義の神秘

第3章

煉獄という言葉 - カトリックの教義 - トレント公会議 ー 論争されている問題点

煉獄という言葉は、地獄と天国の中間的な場所を意味することもあれば、状態を意味することもある。これは、死の瞬間に、自分自身が成聖の恩寵の状態にあるが、自分の過失を完全に償ったのでもなく、天主を至福直感で見ることを享受するのに必要な清さの程度に達したわけでもない霊魂の状況である。
したがって、煉獄は一時的な状態であり、至福の生命で終わる。煉獄は、もはや、功徳を積んだり、罪を犯したりする試練ではなく、正義を満足させる償いの状態なのである。この世の死すべき生は試練の時であり、霊魂が功徳を積む時であり、天主の憐みの時であった。この時が過ぎれば、天主には正義があるだけであり、霊魂はもはや功徳を積むことも反省することもできない。霊魂は死の時にあったそのままの状態に固定され、聖化された恵みの中に見出されたのならば、この至福な状態から落ちることはなく、天主を変わることなく所有するに到ることは確実である。しかし、霊魂は一時的な罰という負債を負っているため、あらゆる厳罰を受けることによって、天主の正義を満足させなければならない。
これが煉獄という言葉の意味であり、煉獄にいる霊魂の状況である。

ところで教会は、このことについて、信仰の教義によってはっきりと定義された二つの真理を提示している。第一に、煉獄が存在すること、第二に、煉獄にいる霊魂たちは信者の祈り、特にミサの聖なる犠牲によって助けられること、この二つである。

これら2つの教義上の問題に加えて、教会が決定していないいくつかの教義上の問題があり、それらは博士たちによって多かれ少なかれ明確に解決されている。それらの問題とは次に関することである。1.煉獄の場所、2.罰による苦しみの本性、3.煉獄にいる霊魂たちの数とその状態、4.煉獄にいる霊魂たちの救霊の確実性、5.罰による苦しみの期間、6.煉獄の霊魂たちのために地上に生きている人々ができる介入、さらに、教会の祈りの適用である。


【参考情報】テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

2023年11月21日 | カトリック・ニュースなど

【参考情報】テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

Terry Barber reveals US nuncio Cardinal Pierre told Bishop Strickland ‘there is no deposit of faith’

テリー・バーバー、駐米教皇大使ピエール枢機卿がストリックランド司教に「信仰の遺産はない」と述べたことを明かす

テリー・バーバーは、教皇フランシスコの駐米教皇大使であるクリストフ・ピエール枢機卿が、ストリックランド司教に「信仰の遺産について話すのをやめるべきだ。信仰の遺産はない」と述べたと言う。
エミリー・マンジャラシーナ

米東部標準時間2023年11月13日午後3時13分

(LifeSiteNews)―「Virgin Most Powerful Radio」(力ある童貞ラジオ)のテリー・バーバーは【2023年11月12日】日曜日に、教皇フランシスコの駐米教皇大使であるクリストフ・ピエール枢機卿が、3年前にジョゼフ・ストリックランド司教に対して「信仰の遺産はない」と語ったことを明らかにしました。

バーバーは、自分のラジオ番組「ストリックランド司教の時間」で、忠実で、最近退任させられたこのタイラーの高位聖職者と定期的に話をしていますが、ストリックランド司教によれば、ピエールは米国カトリック司教協議会の会議で、「ショッキングな」主張をしたと言いました。

「ストリックランド司教が私に伝えてくれましたが、…ピエールは(彼に)面と向かってこう言いました。『信仰の遺産について話すのをやめるべきです。信仰の遺産はありません』と」。

「さて、教皇大使が信仰の遺産はないと言うのを聞いて、それがどれほどショッキングなことか想像できるでしょう」とバーバーは言いました。「それは単に私の意見ではありません。それは教会の教えなのです」。

カトリック教会のカテキズムは信仰の遺産について明確に言及しており、「聖書と聖伝の中に含まれる信仰の『聖なる遺産』(depositum fidei)は、使徒たちによって教会全体に託されています」と述べています。

このラジオ司会者は、ストリックランド司教のための祈りと同時に、カトリック教会の指導者たちのための祈りと償いを求めました。

「彼は重い十字架を背負うことになり、聖人たちが真理を語ったために迫害されたように、彼も迫害されているのです」とバーバーは言い、リスナーに教皇フランシスコが決定を覆し、自分の役割が「群れを守ること」であることを理解するようになるよう祈ってほしいと続けました。

「それがなされていません。信仰の遺産を弱体化させる近代主義者の司教たちが世界中にいるのに、彼らには何もなされないのです」とバーバーは言いました。

実際、異端を推進する近代主義者の聖職者たちは、教皇フランシスコによって頻繁に昇進させられてきました。直近では、教皇フランシスコが選んだシノドスの投票メンバーに、LGBT推進やその他の異端的なスタンスで知られる聖職者や、ラテン語ミサへの反感を持つ聖職者が含まれていることからも明らかです。

一方、プエルトリコのアレシボ教区のカトリックの教えを率直に主張するダニエル・フェルナンデス・トーレス司教のような忠実な牧者は処罰されています。フェルナンデス・トーレス司教は、教皇フランシスコから説明もなくその地位を解任されており、報道によれば、新型コロナウイルスのワクチン義務に対する良心からの異議申し立てを支持したためだといいます。

バーバーは続けて、「私は、教会の指導者たちにそれが容認できないことを知らせるために、教会法212条を行使しているのです。私たちは、自分の群れのために命を捨てることを厭わない司教を求めています。妥協は求めません」と宣言しました。

教会法212条は、「キリスト信者は、自己に必要なこと、特に霊的な必要、及び自己の望みを教会の牧者に表明する自由がある」とし、また「各人の学識、固有の権限、地位に応じて教会の善益に関し、自己の意見を教会の牧者に表明する権限及び時として義務を有する。同時にまた、…自己の意見を他のキリスト信者に表明する権利及び義務を有する」と述べています。

バーバーは、信者が「私たちがこのことに満足していないことを、バチカンに伝える必要がある」と考えています。

教皇フランシスコは11月11日(土)、理由を述べることなく、ジョゼフ・ストリックランド司教を、テキサス州タイラー教区の司教としての役割から解任した、と聖座の日報で発表しました。

フランシスコは、米国で最も率直で発言力のある司教の一人に対して、衝撃的な行動を取りました。同司教は、聖伝のカトリックの教えを推進することで教区内外から大きな支持を集めてきました。

ストリックランド司教の道徳的・教理的問題に関する公の立場には、教皇の「信仰の遺産を弱体化させるプログラム」を非難したり、ジェームズ・マーティン神父(イエズス会)による著名なLGBT推進の「冒涜」を非難したり、中絶支持をめぐるナンシー・ペロシ前米下院議長の聖体拝領を拒否するようフランシスコに求めたりするものがあります。

また、バイデン政権によるカトリック教徒へのスパイ行為や、自称「悪魔崇拝」グループによる公の場での展示など、米国の政治や文化における道徳的な論争にも率直な意見を述べています。今年の夏には、ロサンゼルス・ドジャースが、グロテスクな修道女に扮した「Sisters of Perpetual Indulgence」と呼ばれる反カトリックのドラッグ・クイーン劇団を主催したことに対する抗議デモで演説しました。

自分の解任のニュースに対するストリックランド司教の反応は驚くほど穏やかなものでした。その直後、彼はLifeSiteNewsの編集長ジョン・ヘンリー・ウェステンに、「私は、私に対する不平として挙げられたすべてのことを支持します。『トラディティオーニス・クストーデス』(Traditionis Custodes、聖伝のラテン語ミサを制限する教皇フランシスコの教令)を私が実施しなかったことは承知しています」と述べました。

ストリックランド司教は、「私は主と、主がそのために亡くなられた真理において、とても平安を感じています」と付け加えました。


死者のための祈り。- 死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。

2023年11月20日 | カトリック・ニュースなど

第一部 煉獄、正義の神秘

第2章

死者のための祈り。- 恐れと信頼。
死者のための祈り、死者のためのいけにえや祈りは、すべてキリスト教の礼拝の部分をなす。煉獄の霊魂への信心は、聖霊が愛徳をもって信者の心に広める信心である。聖書によれば、死者が罪から解放されるように、死者のために祈ることは、聖なる有益な考えである(1)。
(1) II マカベオ12:46

それが完全であるためには、死者への信心は、恐れと信頼の精神に基づいていなければならない。一方では、天主の神聖さとその正義が、私たちに有益な恐れを抱かせ、他方では、天主の無限の憐みが、私たちに限りない信頼を与えてくれる。

天主は、太陽が光である以上に聖であり、その御顔の前には罪の陰であっても全くありえない。あなたの目は清く、御目は不義を見るに耐えられない、と預言者は言う(1)。だから、被造物に不義が起こるとき、天主の聖性はそれに対する贖いを求める。この贖いが正義の厳しさをもってなされるとき、それは恐ろしいものとなる。この贖いが正義の厳しさを尽くしてなされるとき、それは恐ろしいことである。だから聖書はまた、「天主の御名は聖く、恐ろしい(2)」と言うのである。あたかも聖書は天主の正義は、その正義が無限であるので恐ろしい、とでも言っているかのようである。

天主の正義は恐るべきものであり、どんなに些細な過ちであっても極めて厳しく罰せられる。その理由は、私たちの目には軽いこれらの過ちも、天主の前ではまったくそうではないからである。ほんの些細な罪も、天主にとっては無限に不愉快なものであり、無限の神聖さを害されるため、ほんの些細な違反が巨大な割合を占め、巨大な償いを必要とするのである。これが、あの世での罰の恐るべき厳しさを説明するものであり、私たちを聖なる恐れで満たすべきものなのだ。

煉獄の恐れは救いに有益な恐れである。その効果は、苦しむ霊魂に対する愛徳に満ちた同情心だけでなく、自分自身に対する警戒心に満ちた熱意を私たちに起こさせることだ。煉獄の火を思い浮かべれば、些細な過ちも避けようとするだろう。煉獄の火を思い浮かべれば、償いを実践し、来世よりも現世で天主の正義を満足させようとするだろう。

しかし、過度の恐れに注意し、信頼を失わないようにしよう。天主の憐みを忘れてはならない。天主の憐みは天主の正義に劣らず無限である。「主よ、あなたの慈しみは天の高さにまさる(3)」と預言者は言い、また別の箇所では、「主は慈しみと寛容に満ち、忍耐強く、惜しみなく慈しんでくださる(4)」とある。この計り知れない慈しみは、私たちの強すぎる不安を鎮め、聖なる確信で満たしてくれるはずだ。In te Domine speravi, non confundar in aeternum. 主よ、私は御身に希望した、永遠に恥ずることなからん。

もしも私たちがこの二つの感情に基づくならば、つまりもしも、天主の憐みに対する信頼が、天主の正義がわれわれに抱かせる恐れと同じであるならば、われわれは死者に対する真の信心の精神を持つことになる。
さて、この二重の感情は、正しく理解すれば、正義と憐みの二重の神秘を含む煉獄の教義から自然に引き出される。この2つの観点から煉獄を考察し、その教義を説明しよう。

(1) ハバククI, 13 - (2) 詩篇110篇。- (3) 詩篇107篇 - (4) 詩篇144篇。- (5) 詩篇70篇。


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