
また、大天使聖ミカエルの祝日に、聖なる日本の殉教者聖堂(大宮)と聖母の汚れなき御心聖堂(大阪)では、トマス小野田神父の司祭叙階三十周年で皆様からいただいたプレゼントのカリスを使い始めました。心から感謝申し上げます。


最後に、新着のお祈りの依頼ですが、ベルナール・ティシエ・ド・マルレ司教さまのためにお祈りください。司教様は、昨日、階段で転んで、病院で治療を受けておられるそうです。
2024年9月22日聖霊降臨後第十八主日のミサの説教
トマス小野田圭志神父
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
先週は、マリアさまの七つの悲しみの祝日で、マリアさまがイエズス・キリストの伴侶――第二のエワ――として、主の御旨に従って、イエズス・キリストの功徳にまったく従属して、イエズス様において、イエズス様によって、イエズス様とともに、贖いの業を成し遂げられたということを黙想しました。
その結果として、マリアさまは御苦しみにおいてわたしたちを超自然の生命に生み出してくださった本当のお母様である、ということを黙想しました。実際に、典礼では、マリアさまがお母様であるということは、いろいろなところに出ています。聖母の連祷、サルベ・レジナ、アヴェ・マリス・ステラ、などなどに。
マリアさまは、イエズス様とともにイエズスと共同して私たちを贖った方――その結果私たちの霊的母・・・。では、このことからいったい何が、さらに導き出されるでしょうか? そのいろんなことが導き出されますが、そのうちの一つは、マリアさまが仲介者である――そういうことです。今日はそのことについて特に黙想したいと思っています。
【聖母が母であるということの結果】
マリアさまが霊的な母親である本当の母親であるということは、この世において天国への道を進んでいる私たちにとっては、マリアさまは私たちのために必要な聖寵を、お恵みを仲介して、取り次いでくださっている方ということです。もしも私たちが天国に到達したならば、マリアさまはその時、母であり、同時に聖人たちの元后・女王となられます。
聖ベルナルドは、聖母についてわたしたちは語り切れない(De Maria nunquam satis)と言いましたが、本当にその通りです。ですから今日は的を絞って、マリアさまが特に全ての聖寵の仲介者であるということをお話しします。
【全ての聖寵の仲介者】
「仲介者」というのは、いったいどういうことでしょうか。仲介者というのは、中にはいって両者の関係がうまくいくように手伝ったり取り次ぐ人のことです。
ところで、マリア様のことを聖福音に従って読んでみると、イエズス・キリストのこのご生涯のその最初から、霊的にそして物質的に取り次いで、イエズス様からお恵みを奇蹟を取り次いだ人です。
たとえば、マリアさまを通して、イエズス様は最初に洗者聖ヨハネを聖化しました。またマリアさまを通して、イエズス様は最初にカナで物質的な奇蹟を行いました。これはそののちまで世の終わりまで、イエズス様はマリアさまを通して奇蹟を行い続けますよという前兆でした。これが天主のみ旨ですよという、予告でした。
使徒行録によると、聖霊降臨のときにはマリアさまは使徒たちと一緒に祈っていました。そして聖母は、私たちの母として天に上げられた今、子供たちである私たちのために祈り続けています。絶えず祈り続けています。
では、マリアさまが「仲介者」であるということはどういうことか、そのことを深く見てみましょう。三つの点があります。
(1)【天主の御母となる恵み】
一つは、マリアさまがまず、天主の御母となるお恵みをいただいた、ということです。聖母は被造物でありながら、天主の御母となられました。これほど天主の本性とぴったりと親密な関係を持つ方は存在しえません。天主の御母――天主の母となるために、マリアさまは、満ち満ちと溢れる聖寵を受けて、そしてその溢れは私たちの上に溢れ出て、注がれるばかりでした。マリアさまが持っていたその天主の母のお恵み、これが大事です。
(2)【自由な承諾】
第二は、ただお恵みをいただいたというだけではありません。マリアさまはそれに自由に承諾しました。進んで協力したということです。救い主の母となるということは、いったいどれほどのことか、どれほどの苦しみを伴うことかということを、マリアさまは聖書を通してよくご存じでした。しかしそれに自由に承諾しました。「われ主のはしためなり。おおせのごとくわれになれかし。」そして救い主の犠牲とそのご生涯にできる限り密接に結びつこうとして、そして苦しみました。そしてそうすることによって、私たちの救いに協力しようと望みました。意志しました。ですから、マリアさまには、お恵みを受けただけでなく、自分の意志があったということがわかります。
(3)【協力の実現による功徳】
三番目は、そう望んだだけではありません。実際にそうした、それを果たした、という点です。協力を実現させた、功徳があるということです。ただそうなったらよいなあというだけではありませんでした。マリアさまは、私たちの罪の贖い・償いのために究極まで、十字架の下に佇んで、ご自分の苦しみをイエズス・キリストとともにお捧げになりました。そして、イエズス・キリストとともに溢れるばかりの功徳をお積みになりました。ですから、その功徳をもって、いま天国で、私たちの救いに役立つすべてのお恵み・聖寵を、私たちのために祈り取り次いでくださっているのです。
マリアさまが取り次ぐのは、イエズスさまとわたしたちの間です。ですから聖母は、贖い主・キリストとわたしたちの間の仲介者として、取り次いでくださっています。わたしたちのつたない祈りや犠牲を、マリアさまはイエズス様に取り次ぎ、そしてイエズス様から特別の祝福あるいは聖寵、わたしたちにとっての利益を得て、わたしたちにくださるようになさっています。こうすることによって、イエズス様に従属する・依存する普遍的な仲介者となられています。
【依存・従属する仲介とは?】
では、イエズス様に依存したり従属するというのはいったいどういうことなのでしょうか。このことを誤解のないようになさってください。贖い、つまり贖罪という大事業は、まず天主から――聖寵をわたしたちに創りわたしたちにくださる天主から、まったく由来しています。と同時に、完全な仲介者であるイエズス・キリストからも完全に由来します。さらに、従属的な仲介者であるマリアさまから、由来します。
天主、イエズス・キリスト、マリアさま、これはどういう関係になっているかというと、たとえばある荷物を3人の人が3人の紐で一緒に、「一・二・三」と引っ張ったという関係ではありません。そうではなくて、ちょうど林檎がどうやって実るかというようなのに似ています。まず、自然の創造主である天主によってあぁ林檎というものが創られたのですけれども、同時にその林檎の実がなるためには樹が生えていなければなりません・・・と同時に、その樹に枝がついていて、花が咲いて、実がならなければなりません。そのように、天主、イエズス・キリスト、マリアさまは、従属して、三つが協力されて、贖いの事業が成立しました。
つまり、すでにすばらしいやり方で無原罪の御宿りというやり方で、イエズス・キリストによって贖われて、原罪と自罪のすべてから守られたマリアさまが、わたしたちを、まず罪の赦しとそれを聖化しそして最後まで聖寵の状態に堅忍することができるように守ってくださる、そういうやり方で私たちの贖いに協力してくださっています。
これを別の言い方でいうと、マリアさまはイエズス様と一緒に二人で功徳を積んだ方です。
【聖母の功徳:全ての聖寵の仲介者】
(1)マリアさまだけが、救い主を私たちに与えました。(2)マリアさまだけが、十字架の犠牲に生贄に最も緊密に結ばれました。(3)そしてマリアさまだけが、全人類のためにすべての必要なお恵みを普遍的に仲介してくださっています。
(1)聖トマス・アクィナスは、このことをこう言っています。
「マリアさまが全く自由に聖寵の創り主である救い主の母となることに同意したので、マリアさまはあらゆる被造物の中で聖寵を創った主に最も密接に親しかった方であり、聖寵の充満を受けた。これによって聖母は聖寵に満ちた方をその胎内にお宿しになり、その方をお産みになることによって、ある意味ですべての人の聖寵の源となられた。」(III, Q. xxvii, art. 5)
(2)また、マリアさまだけが十字架と結ばれたということについては、確かにイエズス様は厳格な正義のもとに天主として功徳を積みましたが、マリアさまはいとも清い方でイエズス様を最高度に愛した方だったので、非常にふさわしいやり方で、わたしたちの罪の償いの功徳を積まれた方です。イエズス・キリストとともに積み、そして天主の正義を非常にふさわしいやり方で満足させた方です。
(3)そして、こうやってイエズス様と共に勝ち取ったこの贖いの実りを――これはイエズス様のものであると同時にマリアさまのものであるのですから――わたしたちのために自分のものとして、イエズス様と同時に共同のものとして、わたしたちのためにひとりひとりのために、特にマリアさまに助けを求める人々のために取り次ぐことができるのです。
こうやって、天主の御旨によって、あらゆる取次者の中で、マリアさまは完全な仲介者として定められました。
聖ベルナルドはこう言っています。
「私たちがマリアを通してすべての恵みを受けることは天主の御旨である」(「Serm. de aquaeductu,」 n. vii)。と。
何故なんでしょうか? それはわたしたちがあまりにも弱く、イエズス様まで到達する際にも仲介者が必要であるからです。またもう一つの理由は、マリアさまはあまりにも謙遜な方であったので、天主は聖母を高めようとお望みになられたからです。ですから、マリアさまに、救いとわたしたちの聖化のために重要な役割を果たすことができるように、それを望まれたからです。
このマリアさまの御取次の偉大さについては、聖霊の浄配という役割のためにものすごい力があったということは、さらにお話がありますが、これはまたのちの機会にしたいと思います。
【スタバト・マーテル】
最後に、この黙想を終わるについて、マリアさまが罪の贖いのために協力して、わたしたちにどれほどお恵みを勝ち取ってくださっているかということは、スタバト・マーテル(Stabat Mater)という続誦に非常に美しく表れています。その数節を引用して、この黙想を終わりたいと思います。
Eia, Mater, fons amoris me sentire vim doloris fac, ut tecum lugeam.
慈しみの泉なる聖母よ、われをして御悲しみのほどを感ぜしめ、共に涙を流さしめ給え。
Fac, ut ardeat cor meum in amando Christum Deum ut sibi complaceam.
わが心をして、天主たるキリストを愛する火に燃えしめ、一(いつ)にそのみ心に適わしめ給え。
Fac, ut portem Christi mortem, passionis fac consortem, et plagas recolere.
われにキリストの死を負わしめ、そのご苦難を共にせしめ、その御傷を深くしのばしめ給え。
Fac me tecum pie flere, crucifixo condolere, donec ego vixero.
命のあらん限り、御身(おんみ)と共に熱き涙を流し、はりつけにされ給いしイエズスと苦しみを共にするを得しめ給え。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖霊降臨後第十八の主日の説教―罪の赦し
ブノワ・ワリエ神父 2024年9月22日(主日)大阪
親愛なる兄弟の皆さま、
福音の冒頭で、私たちの主は、洗者聖ヨハネによって、「天主の小羊、世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ばれています。
たとえ隣人だけしか侮辱しないように見えても、罪は何よりも天主に対する侮辱です。天主は、世の罪を取り除くために、ここにおられるのです。そして、このことは、中風の人の癒やしを語っている今日の福音に、はっきりと示されています。私たちの主がなさった中風の人の癒やしは、主がまず霊魂になさったこと、つまり霊的な癒やしを、外的な癒やしを通して、人が見て分かるようにするためなのです。
私たちの主は、この人の罪を消して、赦されました。「あなたの罪は赦された」。私たちの主は、世の罪を取り除くことのできる唯一のお方です。福音の他の箇所には、主がマグダラの聖マリアの過ちを赦される場面(多くを愛したのですから、彼女の罪は赦されたのです)、後には姦通の女の過ちを赦される場面があります。「あなたを罰した人はいなかったか。私もあなたを罰しはしない。行け、これからはもう罪を犯さぬように」。
1 人の子は罪を赦す
私たちの主が、今日の福音で語っておられるように、人の子は、ここ地上で罪を赦す力を持っています。実際、私たちの主は、天主であると同時に人間であり、福音のテキストには、天主だけでなく、「人の子は罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちは、天主が罪を赦す力を持っておられることを知っていますが、ファリザイ人たちはこう断言しています。「この人は冒涜の言葉を吐いた。天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」と。しかし、福音のテキストには、「人の子は地上で罪を赦す力を持っている」とはっきり書かれています。私たちの主は、その人間人類の本性によって、霊魂を成聖の恩寵の状態に回復させるために、この罪を赦す力を行使されたのです。それはなぜでしょうか。この天主の力を他の人々に伝えることができるようにするため、まず使徒たちに、次に聖なるカトリック教会で司祭に叙階されるすべての人々に伝えることができるようにするためなのです。
2 人の子は他の人々に自分の力を伝える
私たちの主は聖ペトロに、すでにこう告げておられました。「私はあなたに天の国の鍵を与える。あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、地上で解くものはみな天でも解かれる」。ここで、私たちの主は、聖ペトロに非常に多様な力を約束されましたが、その中には、悔悛の秘跡を通して、霊魂を天国に行かせたり行かせなかったりする力も含まれていました。
私たちの主はまた、最初にペトロに個人的に言われたのと同じ言葉を、使徒たちに繰り返して、この力を使徒たちにも与えられました。
そして次には、おそらくもっと明確にされました。ご復活の日に、私たちの主は、首を吊ったユダと不在のトマスを除いて集まった使徒たち全員にご出現になり、こう告げられました。「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」。この意味は、「私は父から使命を受けた。霊魂たちを救うという使命を」ということです。(洗者聖ヨハネの、「世の罪を取り除く天主の小羊を見よ」という言葉を思い出してください。)。私たちの主は、御父から救いの使命を受けられ、その同じ使命を教会に委ねられたのです(教会は、司祭の役務を通して、私たちの主イエズス・キリストの救いのみわざを継続するという使命を持っています)。
ですから、私たちの主は、ご復活の日の晩に、使徒たちに、「父が私を送られたように、私もあなたたちを送る」と言われ、そして聖ヨハネは、こう続けます。「イエズスは、そう言いながら、彼らに聖霊を与えるために息を吹きかけて、『聖霊を受けよ。あなたたちが罪を赦す人にはその罪が赦され、あなたたちが罪を赦さぬ人は赦されない』と言われた」。このように、私たちの主は、使徒たちに罪を赦す力を明確に与えられますが、同時に、悔悛者が必要な心構え(天主を侮辱したことに対する痛悔と、自分の生活を改めるという堅固な意向、あるいは真心からの望みと呼ばれるものが欠かせない心構え)を持っていない場合には、罪を赦さない力も与えられるのです。
3 司祭は罪を赦す力を使徒たちから受けた
ご復活の日に、私たちの主が使徒たちに言われた言葉を、今日(こんにち)、司祭叙階式の中で司教が繰り返すとき、この罪を赦す同じ力が司祭に与えられます。
私たちの主は、マグダラの聖マリアに、「あなたの罪は赦された」と言われました。同じように、告解室で司祭はこう言います。「Ego, autoritate ipsius, te absolvo a peccatis tuis, in nomine Patris et Filiæ et Spiritus Sancti-われ、彼の権威によりて、御父と御子と聖霊との御名によりて、なんじの罪を赦す」。ですから、司祭が世の罪を赦すのは、自分自身の権威によるのではなく、私たちの主イエズス・キリストの権威によるのです。
ファリザイ人は、私たちの主の言葉につまずきました。「この人は冒涜の言葉を吐いた! 天主でなければ、誰が罪を赦すことができようか」。そうです、繰り返しますが、罪を赦す力は天主の力です。しかし、私たちの主は、人の子として、その人間人類の本性によって、この力を行使され、その力を使徒たちに伝えられ、使徒たちはその力をカトリック教会の司祭や司教に伝えたのです。
ラザロの復活の場面で、私たちの主が使徒たちに、「解いて行かせよ」と言われたことについて、聖アウグスティヌスが注釈を加えて、こう言っています。「これは、罪に捕らわれた霊魂を解くために、彼らを解いて、成聖の恩寵の自由を、成聖の恩寵の状態を取り戻させるために、私たちの主が司祭に与えられた力のかたどりである」。ここで、聖アウグスティヌスは、そして彼とともに教会の全聖伝は、私たちの主によって制定された悔悛の秘跡を通して、罪がいつも赦されるということを明確に示しています。したがって、プロテスタントが主張するように、「悔悛の秘跡を受けなくても、天主に立ち返るだけで罪は赦される、と言うことができる」というのは偽りです。私たちは、司祭の役務を通して、この秘跡を受け、謙遜に自分の罪を告発し、天主から罪の赦しを得なければなりません。
4 なぜ直接天主から罪を赦されないのか
私たちの罪が、私たちの主から直接赦されるのではなく、司祭を通して赦されることを、私たちの主が望んでおられる理由は、二つあります。
1―本当に赦されているという確信を、私たちが持つためです(私たちは、天主を見ることはできませんが、司祭が次の言葉を繰り返すのを、見たり聞いたりすることはできます。「Ego te absolvo-われ、なんじの罪を赦す」)。
2―そしてまた、この秘跡が罪の赦しに不可欠な心構え、すなわち謙遜を与えてくれるからです。私たちは、天主の役務者である司祭から罪の赦しを得るためには、(同じく罪人である)司祭の前で謙遜にならなければならないのです。
親愛なる兄弟の皆さま、この福音を読むとき、私たちの主の行いにつまずいて、「この人は冒涜の言葉を吐いた!」と言ったファリザイ人のようにならないようにしましょう。いいえ、私たちの主は、冒涜の言葉を言ってはおられません。私たちの主は、天主であると同時に人間です。私たちの主は、罪を赦すという天主の力を持っておられ、その大いなるあわれみによって、主は、教会が霊魂を救う使命を継続できるよう、教会にその力を委ねられたのです。私たちの主は、目に見えない力である、霊魂を癒やすという主がお持ちの力の明白なしるしとして、この中風の人を外的に、明白に癒やしたいと思っておられたのです。そして、教会の役務者は、奇跡(あるいは外的な癒やし)を行う力を与えられることはあまりないとしても、その一方で、私たちが信仰の目を通してだけ見ることのできる、さらに偉大でさらに重要な目に見えない力、すなわち罪を赦す力を持っているのです。
エゼキエル書の中で、天主はこう言っておられます。「もし悪人が、自分の犯したすべての罪を悔悛し、私の掟をすべて守り、正しく行動すれば、その人は本当に生きる」、すなわち成聖の恩寵の命を取り戻し、自分自身を救うことができるということです。天主の御あわれみは、秘跡を通して、特にこの悔悛の秘跡を通して伝えられるのです。
ですから、この秘跡を利用し、「世の罪を取り除く天主の小羊」である私たちの主イエズス・キリストに頻繁に近づき、司祭の役務を通して罪の赦しを受け、救いの恩寵を取り戻しましょう。
アーメン。