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二十四の瞳の小豆島(瀬戸内を巡る9終)

2013-06-25 19:19:11 | 瀬戸内を巡る
 

二十四の瞳の小豆島
四国・高松港からカーフェリーで1時間。小豆島・土庄港につく。
入港すると、右手に小さな公園があって「平和の群像」というタイトルで、女先生と12人の生徒からなる二十四の瞳のブロンズ像が置かれている。
題字は当時の内閣総理大臣である鳩山一郎さんで、1951(昭和31)年に除幕されている。

土庄港というと、私はこんな歌を思い出す。
             波止場しぐれが 降る夜は
             雨の向こうに 故郷がみえる

             ここは瀬戸内 土庄港(とのしょうみなと)
              一夜泊まりの 重ね着が
              いつかなじんだ ネオン町

石川さゆりさんの演歌「波止場しぐれ」の一節である。
土庄港が瀬戸内のどこかの島の港であることは、この歌で知っていたが、恥ずかしながら今回の旅で、はじめて土庄が小豆島にあることを知る。
港の周辺は演歌のイメージとは裏腹に瀬戸内の明るい町の印象であった。


「平和の群像」が置かれている公園にはほかに、小豆島らしく「オリーブの歌」「オリーブの女神」や「愛」の記念碑がオリーブの木に囲まれて置かれていた。

左は平和のシンボルオリーブ樹に因む「オリーブの歌」製作の記念碑である。
歌は二葉あき子さんが歌っている。
右手「愛」は地元香川県が生んだ当時の内閣総理大臣大平正芳さんの記念碑である。
偶然にも訪れた日が、大平正芳さんの命日であったことを翌日の新聞で知った。ただ、地元といっても出身は対岸の四国のようだ。

土庄港から車で50分ほどの「二十四の瞳映画村」に向かう。これも恥ずかしながら小豆島がこんなに大きな島だとは思ってもみなかった。

昭和三年四月四日、農村漁村の名がぜんぶあてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、わかい女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形をみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、対岸の町や村へいくには小舟でわたったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてくあるいたりせねばならない。
交通がすごくふべんなので、小学校の生徒は四年までが村の分教場にいき、五年になってはじめて、かた道五キロの本村の小学校へかようのである。
手づくりのわらぞうりは一日できれた。それがみんなはじまんであった。

小説「二十四の瞳」の書き出しである。
女学校を出て赴任した女性教師と、その年、小学校に入学した12人の生徒のふれあいを軸に、日本が第二次世界大戦を突き進んだ歴史のうねりに、否応なく飲み込まれていくこの教師と生徒たちの苦難や悲劇を通し、戦争の悲壮さを描いた作品である。
舞台は、「瀬戸内海べりの一寒村」で、昭和の戦前期、終戦、その翌年までの18年間を描いている。

二十四の瞳映画村
映画村の施設は、映画「二十四の瞳」の2作目である、1987(昭和62)年公開映画での小豆島ロケのオープンセットを活用した施設群である。この時のおなご先生は田中裕子さんである。
 
         
      

旧苗羽小学校田浦分校(旧田浦尋常小学校)
「岬の分教場」として映画の主要な舞台になった。
この分教場は、映画村の手前800mに1972(昭和47)年の閉鎖まで70年間、村の小学校として使用された校舎がモデルとなっている。
小説での舞台は、「瀬戸内海べりの一寒村」であったが、映画では、1作目から原作者の壺井栄の故郷「小豆島」となった。
         
      
         
         
         
ギャラリー「松竹座」
1階の映画館では木下惠介監督・高峰秀子主演「二十四の瞳」が上映されている。
         
「せんせ、あそぼ!」の像と奥が「二十四の瞳」上映館

セット施設
         
         
         
この堀には鯛、ボラ、鯖、フグ、ウマヅラハギなど8種の海の魚が泳いでいる。
     

汐江海岸
         

二十四の瞳天満宮
         
その他、壺井栄の愛用品や東京にある旧邸内のいろりの間、応接の間などが再現されている「壺井栄文学館」や1950年代の日本映画黄金期作品の映像や写真などの資料を展示している「キネマの庵」などの施設もある。

岬の分校場
1902(明治35)年、田浦尋常小学校として建築された校舎で、1910(明治43)年からは1971(昭和46)年までは苗羽小学校田浦分校として使われていた。
         
         
         
         
「二十四の瞳」の舞台となり一躍脚光を浴びた。
1954(昭和24)年製作の高峰秀子主演、木下圭介監督の映画「二十四の瞳」では数多くの撮影がここで、行われた。
         
         


         

日本中の国民が涙した映画「二十四の瞳」
         

マルキン醤油記念館
小豆島の盛んな産業は、素麺、醤油、佃煮、胡麻油、オリーブなどがあげられる。
壺井栄の父親も関連する醤油樽の職人であったようだ。
二十四の瞳映画村や分教場を見学した帰り、醤の郷(ひしおのさと)にある、マルキン醤油記念館にたちよる。
醤の郷とは、小豆島にある近代以前の醤油蔵建築が集積する、醤油蔵通りと苗羽地区および馬木地区の散策路と地域を指すとのことである。醤油や佃煮の工場が集まっている。
その中のひとつにマルキン醤油(現盛田株式会社小豆島工場)があり、1907(明治40)年創業当時のままの醤油蔵がいくつか今も残っているという。
         
         
          絞り器
   

福田港から姫路に
午後、福田港からカーフェリーで姫路港に向かう。
         
         
姫路港へは所要1時間40分。

4日間の旅は終わった。
計画では6日間の予定であったが、台風3号が四国に上陸または接近か、という天気予報が出されたのであわてて短縮4日の旅となった。
だが、四国に渡ると天気は上々、関東地方は雨だと云うのに晴れ男の神通力が効いたようだ。
とはいっても、双六ではないので振り出しに戻ってスタートなんてできないので、フルスピードの「瀬戸内を巡る」となってしまった。何せ、2,700km未を4日間で走行したのだから。
機会があったら次は、『日本を今一度せんたくいたし申候』の竜馬の故郷にでもお邪魔したい。



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