三溪園の正門から大池を巡り、茶室・林洞庵の脇通り、その先右手の石段を上って行くと三溪園シンボルの三重塔にあたる。
その先、右手、観音様を過ぎて進んで行くと、かつてはレンガ造りの山の上の別邸・松風閣が建っていた。今や崩れ落ちて見る影もないが、その建物には明治後半から大正期にかけての原三溪の歴史が刻まれている。
今回、平成22年に発掘調査を行った模様の講演を聴講したので、当時の原三溪別邸・松風閣を思い巡らい綴った。
原三溪の前身、青木甲太郎は美濃国(岐阜県)に1869(慶応4)年に生まれる。時代は、あと2週間余りで明治に代わる世であった。
青木家は素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにも係っている。
幼少甲太郎は、神童と呼ばれ3、4歳の時は絵柄で百人一首の人名を覚え、5、6歳で寺子屋に通ったと云われる。
16歳で上京し、翌年東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の漢字と歴史を教える助教師を務める。
1892(明治25)年、女学校の教え子である横浜の豪商・原善三郎の孫娘、17歳の屋寿(やす)に見初められ、結婚し、原家に入る。甲太郎23歳。 ふたりのゴールは簡単ではなく、校長である跡見花蹊(あとみかけい)等の仲介があったからと云われる。
ふたりの結婚から少々前の1887(明治20)年ごろにレンガ造りの山荘・松風閣は養祖父の原善三郎によって建つ。野毛の本宅もレンガ造りの洋館であった。
本牧に移った後、その洋館は代々横浜市長の庁舎として貸し出され、関東大震災で破壊される。その住居跡は現在、野毛山公園の一部になっている。
善三郎の跡を継いだ甲太郎は本宅である「鶴翔閣」を完成。上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることからその名がついたと云う。
この頃から、富太郎は、この地、三之谷の地名から三溪と号するようになった。
三溪は母方の祖父が画家であったDNAを受け継ぎ古美術のコレクションにも力を入れ、松風閣で展示し、その蔵に保管していたようだ。
そして、1906(明治39)年、現在の外苑部分を無料で開園すると、松風閣は芸術家、文化人をもてなすゲストハウスとなった。
大正期に入り、三溪の強い要望で、下村観山は十二天海岸の仮宅で「金銀四季草花図」を描き、松風閣の襖絵となった。三溪はこの部屋を「観山の間」と呼んだ。
観山はその後、三溪園の梅の木をモデルとして「弱法師」を描く。また、横山大観も松風閣に滞在し、「柳蔭」を描いている。
1916(大正5)年、アジアで初のノーベル賞を受賞したインドの詩聖タゴールが大観の紹介で来園し、松風閣に2か月半滞在する。
その際に、松風閣の窓を開けた途端に一羽の鳥が飛び込んできて、即興で「さまよえる鳥」の詩が生まれたと云うエピソードがある。
さまよう夏の小鳥は
窓辺に来鳴きて 飛び去り行く
うたわぬ秋のわくら葉は
風のそよぎに
はらはらと 窓のほとりに 散りかかる
松風閣に滞在中のタゴール
三溪が美術品を収集する力の入れ方が、並はずれた熱意をもって入手した例として、絵画「孔雀明王」の購入がある。
日露戦争が始まる1年前のこと。明治の元勲・井上馨所有のこの絵を見て、三溪は感動でその場を一歩も動けなくなった。
縦1.49m、横0.99mの平安時代後期のこの絵を三溪は大枚をはたいて入手した。
のちに、この絵を蔵から出して松風閣の床の間に掛けることは、原家にとって一大事であったようだ。
「孔雀明王」がかかると、下の家「鶴翔閣」に知らせが来て、家族は大急ぎで松風閣に駆け上がったという。
この階段を駆け上がると松風閣に
下の地図は茶会を催した時に描かれたものを松風閣付近をアップした。それをみると、松風閣は複雑な形をしていて現在露出している部分に比べもっと大きかった構造であったと想像できる。
当時、松風閣の崖下は海となっていて海水浴や潮干狩りが楽しめたと云う。
昭和30年代(1955~64)に埋立てが開始され、その海は本牧市民公園となっている。
展望台・松風閣が木々の合間から望まれる
コレクションの美術品は、晩年の夫妻の住いとなった「白雲邸」の蔵に1920(大正9)年に移された。
そして、1923(大正12)年の関東大震災で松風閣は崩壊した。
手前の松風閣跡と奥の展望台・松風閣
一昨年行った人力による発掘調査結果をここに追記すると、対象の20平方メートルの発掘範囲内には、トイレはあったが、生活臭を感じさせる什器などは発見されなかった。
そして、レンガの製造会社の創立から考えると、養祖父の没後に美術品収蔵用として増築した建物と結論されている。
伊藤博文が名付け親と云う山之上別荘・松風閣
アーチ状のレンガ積み
外壁は堅強に焼かれた耐火レンガで、角は丸みを帯びている
刻印によって製造メーカーが判明し、建てた時代も解った
これが美術品を保管していた建物だとしたら、晴れた日には遠く房総までが見渡せたと云う、養祖父が建てた松風閣は跡形もないのだろうか、それとも埋もれて発見されていないのだろうか。
資料:八聖殿歴史特別講座
原三溪物語 神奈川新聞社刊
マイウェイNo.77 はまぎん産業文化振興財団刊
海側から取ったと思われる松風閣
前回の三溪園 : 三溪園11月の花
その先、右手、観音様を過ぎて進んで行くと、かつてはレンガ造りの山の上の別邸・松風閣が建っていた。今や崩れ落ちて見る影もないが、その建物には明治後半から大正期にかけての原三溪の歴史が刻まれている。
今回、平成22年に発掘調査を行った模様の講演を聴講したので、当時の原三溪別邸・松風閣を思い巡らい綴った。
原三溪の前身、青木甲太郎は美濃国(岐阜県)に1869(慶応4)年に生まれる。時代は、あと2週間余りで明治に代わる世であった。
青木家は素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにも係っている。
幼少甲太郎は、神童と呼ばれ3、4歳の時は絵柄で百人一首の人名を覚え、5、6歳で寺子屋に通ったと云われる。
16歳で上京し、翌年東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の漢字と歴史を教える助教師を務める。
1892(明治25)年、女学校の教え子である横浜の豪商・原善三郎の孫娘、17歳の屋寿(やす)に見初められ、結婚し、原家に入る。甲太郎23歳。 ふたりのゴールは簡単ではなく、校長である跡見花蹊(あとみかけい)等の仲介があったからと云われる。
ふたりの結婚から少々前の1887(明治20)年ごろにレンガ造りの山荘・松風閣は養祖父の原善三郎によって建つ。野毛の本宅もレンガ造りの洋館であった。
本牧に移った後、その洋館は代々横浜市長の庁舎として貸し出され、関東大震災で破壊される。その住居跡は現在、野毛山公園の一部になっている。
善三郎の跡を継いだ甲太郎は本宅である「鶴翔閣」を完成。上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることからその名がついたと云う。
この頃から、富太郎は、この地、三之谷の地名から三溪と号するようになった。
三溪は母方の祖父が画家であったDNAを受け継ぎ古美術のコレクションにも力を入れ、松風閣で展示し、その蔵に保管していたようだ。
そして、1906(明治39)年、現在の外苑部分を無料で開園すると、松風閣は芸術家、文化人をもてなすゲストハウスとなった。
大正期に入り、三溪の強い要望で、下村観山は十二天海岸の仮宅で「金銀四季草花図」を描き、松風閣の襖絵となった。三溪はこの部屋を「観山の間」と呼んだ。
観山はその後、三溪園の梅の木をモデルとして「弱法師」を描く。また、横山大観も松風閣に滞在し、「柳蔭」を描いている。
1916(大正5)年、アジアで初のノーベル賞を受賞したインドの詩聖タゴールが大観の紹介で来園し、松風閣に2か月半滞在する。
その際に、松風閣の窓を開けた途端に一羽の鳥が飛び込んできて、即興で「さまよえる鳥」の詩が生まれたと云うエピソードがある。
さまよう夏の小鳥は
窓辺に来鳴きて 飛び去り行く
うたわぬ秋のわくら葉は
風のそよぎに
はらはらと 窓のほとりに 散りかかる
松風閣に滞在中のタゴール
三溪が美術品を収集する力の入れ方が、並はずれた熱意をもって入手した例として、絵画「孔雀明王」の購入がある。
日露戦争が始まる1年前のこと。明治の元勲・井上馨所有のこの絵を見て、三溪は感動でその場を一歩も動けなくなった。
縦1.49m、横0.99mの平安時代後期のこの絵を三溪は大枚をはたいて入手した。
のちに、この絵を蔵から出して松風閣の床の間に掛けることは、原家にとって一大事であったようだ。
「孔雀明王」がかかると、下の家「鶴翔閣」に知らせが来て、家族は大急ぎで松風閣に駆け上がったという。
この階段を駆け上がると松風閣に
下の地図は茶会を催した時に描かれたものを松風閣付近をアップした。それをみると、松風閣は複雑な形をしていて現在露出している部分に比べもっと大きかった構造であったと想像できる。
当時、松風閣の崖下は海となっていて海水浴や潮干狩りが楽しめたと云う。
昭和30年代(1955~64)に埋立てが開始され、その海は本牧市民公園となっている。
展望台・松風閣が木々の合間から望まれる
コレクションの美術品は、晩年の夫妻の住いとなった「白雲邸」の蔵に1920(大正9)年に移された。
そして、1923(大正12)年の関東大震災で松風閣は崩壊した。
手前の松風閣跡と奥の展望台・松風閣
一昨年行った人力による発掘調査結果をここに追記すると、対象の20平方メートルの発掘範囲内には、トイレはあったが、生活臭を感じさせる什器などは発見されなかった。
そして、レンガの製造会社の創立から考えると、養祖父の没後に美術品収蔵用として増築した建物と結論されている。
伊藤博文が名付け親と云う山之上別荘・松風閣
アーチ状のレンガ積み
外壁は堅強に焼かれた耐火レンガで、角は丸みを帯びている
刻印によって製造メーカーが判明し、建てた時代も解った
これが美術品を保管していた建物だとしたら、晴れた日には遠く房総までが見渡せたと云う、養祖父が建てた松風閣は跡形もないのだろうか、それとも埋もれて発見されていないのだろうか。
資料:八聖殿歴史特別講座
原三溪物語 神奈川新聞社刊
マイウェイNo.77 はまぎん産業文化振興財団刊
海側から取ったと思われる松風閣
前回の三溪園 : 三溪園11月の花