相模鉄道(略称相鉄)の横浜駅から各駅電車で11番目の駅が三ツ境駅である。
「三ツ境」の由来は、明治中期から昭和初期にかけて存在していた都筑郡二俣川村と都岡村、そして鎌倉郡中川村(大字阿久和)の三つの境であることから名付けられる。
その駅周辺のそれほど古くない歴史の場所、つまり”きのう”を歩いた。
●二ツ橋停車場
相鉄線の三ツ境駅と瀬谷駅の間に二ツ橋停留所という無人駅がかつてあった。
それは、相鉄線の前身、神中(じんちゅう)鉄道が二俣川←→厚木間を走っていた時代にさかのぼり、1943(昭和18)年に相模鉄道に吸収された翌年まで利用されていた。そして、駅舎は1962(昭和37)年まであったという。
ホームは南側にひとつあったという(写真の手前の草地部分がホームの跡)。
神中鉄道は、「瀬谷歴史かるた」にも表わされている。
1926~46(大正15~昭和21)年に走っていた汽車がかしわ台駅近くの車両センターに展示されている(見学には事前申し込みが必要という)。
ボディには神中鉄道の「神」のマークが描かれている。
相鉄の説明によると、この蒸気機関車は「神中鉄道3号機関車」と呼ばれ、1926(大正15)年に神中鉄道が開業した年に製造され、主に旅客用としてけん引していたが電化が進み、1943(昭和18)年に貨物輸送に代わり、(昭和24)年に降板した。
客車も同年代に活躍した車両で、めずらしい展望車両となっている。
●鎌取池
この地図は、1960(昭和35)年、今から50年以上前の三ツ境駅南側の住宅地図と聞いている。現在の町名は「三ツ境」になっているがこの当時は「阿久和町」で、この地図の右中段やや上に阿久和町の「阿」の文字が読み取れる。阿久和町から三ツ境になったのは、1962(昭和37)年という(1952(昭和27)年という資料もある)。
この地図のほぼ中央、三ツ境駅近くに鎌取池が描かれている。この池、三段の堰で仕切られた灌漑用水用の溜池であり、当時は阿久和川の源流ともなっていた。現在は長屋門公園が阿久和川の源流とされる。
明治の資料によると池の面積は、東西23間(40m余)、南北2町40間(300m弱)で、面積は12千平方メートル余(3,600坪余)であった。池の深さは平均で6尺(1.8m)とあり、林の中の淋しい池であったそうだ。
第二次大戦後は住宅ブームの波に押され埋めたてられ、池の大きさはは東西20m、南北30mの釣り堀に変わったと云い、埋めたてられた場所にはプールが出来ていた時代もあった。
鎌取池の標柱がたっている場所は、鎌取池中段堰辺りだという。
この鎌取池は、瀬谷歴史かるたにも取り上げており、瀬谷区のむかし話にも出ている。
●さくら湯
鎌取池近くには、「さくら湯」なる銭湯があった。1953(昭和28)年創業という。現在は「ファミリーアイランドさくらゆ」と名前を変えて存続しているようだ。
●映画劇場スバル座
池の近くには1954(昭和29)年開業の映画劇場があった時代もある。
この劇場、映画の上映だけではなく、歌謡歌手のショーや、近くの小学校の学芸会を催したこともあるそうだ。
●三ツ境幼稚園
鎌取池跡周辺には瀬谷区で最初の幼稚園が1954(昭和29)年に開園している。三ツ境幼稚園である。現在は二代目の園長先生が経営しているという。
●共同井戸跡
鎌取池に象徴するようにこの地域は湧水に恵まれており、6~7軒で共同使用する井戸が掘られ、現在も痕跡を残している(黄色のラインの部分が井戸の石組の跡)。
●白姫神社
養蚕業が盛んだった明治42年、阿久和町の養蚕の守り神として白姫神社は養蚕家で祀られていたが、昭和32年、養蚕業の衰退により、三ツ境へ遷座された。現在の三ツ境バスターミナルの近くである。
地元の人たちには衣の神として今でも親しまれている。
三ツ境駅周辺の”きのう”を歩くは「横浜・瀬谷地図くらぶ」の皆さんの案内で30人ほどの中のひとりとして2時間半ほどの散策の一部を取り上げた。
「横浜・瀬谷地図くらぶ」とは横浜市瀬谷区の南瀬谷小コミスクを拠点として活動しているグループである。
私どもが住む町、「瀬谷」の移り変わりを地図で辿り、調べながら会員相互の親睦を深め楽しく集いあえる会が目的で、新規会員を募集中とのこと。
2004年に「地図で辿る瀬谷の移り変わり」を発行。第2巻目を近々に発行したいという。
参考資料:横浜・瀬谷地図くらぶ
瀬谷歴史かるた
「三ツ境」の由来は、明治中期から昭和初期にかけて存在していた都筑郡二俣川村と都岡村、そして鎌倉郡中川村(大字阿久和)の三つの境であることから名付けられる。
その駅周辺のそれほど古くない歴史の場所、つまり”きのう”を歩いた。
●二ツ橋停車場
相鉄線の三ツ境駅と瀬谷駅の間に二ツ橋停留所という無人駅がかつてあった。
それは、相鉄線の前身、神中(じんちゅう)鉄道が二俣川←→厚木間を走っていた時代にさかのぼり、1943(昭和18)年に相模鉄道に吸収された翌年まで利用されていた。そして、駅舎は1962(昭和37)年まであったという。
ホームは南側にひとつあったという(写真の手前の草地部分がホームの跡)。
神中鉄道は、「瀬谷歴史かるた」にも表わされている。
1926~46(大正15~昭和21)年に走っていた汽車がかしわ台駅近くの車両センターに展示されている(見学には事前申し込みが必要という)。
ボディには神中鉄道の「神」のマークが描かれている。
相鉄の説明によると、この蒸気機関車は「神中鉄道3号機関車」と呼ばれ、1926(大正15)年に神中鉄道が開業した年に製造され、主に旅客用としてけん引していたが電化が進み、1943(昭和18)年に貨物輸送に代わり、(昭和24)年に降板した。
客車も同年代に活躍した車両で、めずらしい展望車両となっている。
●鎌取池
この地図は、1960(昭和35)年、今から50年以上前の三ツ境駅南側の住宅地図と聞いている。現在の町名は「三ツ境」になっているがこの当時は「阿久和町」で、この地図の右中段やや上に阿久和町の「阿」の文字が読み取れる。阿久和町から三ツ境になったのは、1962(昭和37)年という(1952(昭和27)年という資料もある)。
この地図のほぼ中央、三ツ境駅近くに鎌取池が描かれている。この池、三段の堰で仕切られた灌漑用水用の溜池であり、当時は阿久和川の源流ともなっていた。現在は長屋門公園が阿久和川の源流とされる。
明治の資料によると池の面積は、東西23間(40m余)、南北2町40間(300m弱)で、面積は12千平方メートル余(3,600坪余)であった。池の深さは平均で6尺(1.8m)とあり、林の中の淋しい池であったそうだ。
第二次大戦後は住宅ブームの波に押され埋めたてられ、池の大きさはは東西20m、南北30mの釣り堀に変わったと云い、埋めたてられた場所にはプールが出来ていた時代もあった。
鎌取池の標柱がたっている場所は、鎌取池中段堰辺りだという。
この鎌取池は、瀬谷歴史かるたにも取り上げており、瀬谷区のむかし話にも出ている。
●さくら湯
鎌取池近くには、「さくら湯」なる銭湯があった。1953(昭和28)年創業という。現在は「ファミリーアイランドさくらゆ」と名前を変えて存続しているようだ。
●映画劇場スバル座
池の近くには1954(昭和29)年開業の映画劇場があった時代もある。
この劇場、映画の上映だけではなく、歌謡歌手のショーや、近くの小学校の学芸会を催したこともあるそうだ。
●三ツ境幼稚園
鎌取池跡周辺には瀬谷区で最初の幼稚園が1954(昭和29)年に開園している。三ツ境幼稚園である。現在は二代目の園長先生が経営しているという。
●共同井戸跡
鎌取池に象徴するようにこの地域は湧水に恵まれており、6~7軒で共同使用する井戸が掘られ、現在も痕跡を残している(黄色のラインの部分が井戸の石組の跡)。
●白姫神社
養蚕業が盛んだった明治42年、阿久和町の養蚕の守り神として白姫神社は養蚕家で祀られていたが、昭和32年、養蚕業の衰退により、三ツ境へ遷座された。現在の三ツ境バスターミナルの近くである。
地元の人たちには衣の神として今でも親しまれている。
三ツ境駅周辺の”きのう”を歩くは「横浜・瀬谷地図くらぶ」の皆さんの案内で30人ほどの中のひとりとして2時間半ほどの散策の一部を取り上げた。
「横浜・瀬谷地図くらぶ」とは横浜市瀬谷区の南瀬谷小コミスクを拠点として活動しているグループである。
私どもが住む町、「瀬谷」の移り変わりを地図で辿り、調べながら会員相互の親睦を深め楽しく集いあえる会が目的で、新規会員を募集中とのこと。
2004年に「地図で辿る瀬谷の移り変わり」を発行。第2巻目を近々に発行したいという。
参考資料:横浜・瀬谷地図くらぶ
瀬谷歴史かるた