モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

チェリーセージ②:サルビア・グレッギーの花

2009-04-24 08:15:09 | セージ&サルビア
(写真)チェリーセージ、サルビアグレッギーの花


園芸店でチェリーセージとして売られているが、この中は3種に分けられる。基本系は、学名ではサルビア・グレッギー、英名ではオータム・セージと呼ばれる。真っ赤な色のセージがこれにあたり、通常この種をチェリーセージといっている。四季咲きで、霜に当てなければ2月頃まで咲いている。
最近は、グレッギーの園芸品種が多く出回るようになり、S.ミクロフィラ、S.ヤメンシスなどの園芸品種との違いがわからなくなってきた。

このチェリーセージ=サルビア・グレッギーは、メキシコ・Saltilloで植物採集を行っていたアメリカの歴史学者で貿易商のグレッグ(Josiah.Gregg 1806-1850 )によって1848年に発見・採取された。学名は、Asa Grayにより1870年に発見者にちなんでグレッギーと名付けられた。英名では、オータムセージ(Autumn sage)と呼ばれ、森の賢人という意味を持つ。森の入り口辺りのブッシュに生え、何となく賢くたたずんでいるのだろう。オランウータンも森の賢人と呼ばれているが、考え深げなところが似ているのだろうか?

発見者グレッグ・ストリー
グレッグ(Josiah.Gregg 1806-1850 )は、多才な発展途上中の人だったようだ。
44歳でなくなっているが、彼が活躍していた時代は、日本では江戸から明治という激動の頃であり、米国では、東から西へというフロンティアスピリット真っ最中の時期でもあった。
彼を称して米国ではアメリカのフロンティアマンと呼んでいる。直訳すると「辺境の人」ということのようだが、イリノイ、ミズーリで育ち1824年彼が18歳の時に教師となったが、これ以降から「フロンティアマン(辺境の人)」として大きく人生が変わっていく。

彼は病弱で、25歳の時に医者から自然の多いところで療養すると良いと言われ、サンタフェ(Sante Fe、現在はメキシコのニューメキシコ、リオグランデの北にある町)に旅行に出かけた。ここで、商人の仕事を見つけ周辺地域に行商に出かけることになる。
西部劇で見る幌馬車に乗り点在する家々・村々を廻ったのだろう。自然の脅威だけでなくインディアンにも襲われたようでありまさに西部劇そのものだった。

健康も回復し商いも順調に行き10年後にはかなり成功したという。しかし、彼が非凡なのは、38歳の時の1844年にサンタフェでの経験をまとめた『Commerce of the Prairies(大草原での取引)』という旅行記を出版したことだ。
この本は大成功を収め、米国だけでなくイギリス、フランス、ドイツでも翻訳され出版されたというから、商人から一躍著述業・文化人となりサンタフェの地図、地質、木の種類、人々の生活、政治状況などの権威ともなる。いわば、米国南西部とメキシコの北部地域の博物学・文化人類学・植物学・政治経済学などの権威となったのだ。

翌年の1845年には、医学の学位をとるためにケンタッキー、ルイスビルの医科大学に入学し、1848年春まで一時医者を開業したというから幌馬車に乗って行商をしていた頃から薬・薬草などには通じていたのだろう。
この医者時代にドイツ生まれで米国に移住した医師・植物学者・ナチュラリストのFrederick A. Wislizenus(1810‐1889)と知り合い、植物学にも興味を抱くことになり、メキシコからゴールドラッシュで沸いている米国西海岸のフロンティアにスイッチを切り替えることになる。

そして、1848年は、メキシコ西部からカルフォルニア・サンフランシスコまでの探検旅行を行うことになる。
探検の目的は、太平洋に至るルートの発見とそのための地図作製、樹木・植物探索などで7人の探検隊を組織して出発した。道々緯度・経度を測ったり樹木植物の収集などを行ったので一日3~4km歩くのがやっとで、たちまち手持ちの食糧が底をつき飢餓との戦いでもあったようだ。ハーブといえば価値観があるが、野草を食べ飢えをしのいでいたという。
山を越え森林を抜け餓死直前に海に出会い、目的の太平洋に至るルート開拓が出来た。

がしかし、この探検隊はこの後仲間割れをして分裂してしまう。隊長グレッグと一緒に行動すると飢えてしまうということを知ったせいでもある。
グレッグはサンフランシスコに戻る途中に悪天候にあい落馬した。そして動けない彼は見捨てられ餓死した。1850年2月25日だった。

44歳の若さであったが、彼の名は、西部開拓史に残る探検家であり、採取した植物などは、セントルイスの著名な植物学者George Engelmann(1809–1884)に送っていたので、23種にグレッグの名前が残り、サルビア・グレッギーはそのうちの一つだが、1848年の探検旅行で彼が発見し、米国の大植物学者グレイによってその功績を讃えられ名付けられた。

さらに、サンフランシスコの南にフンボルト湾があるが、ここは1775年にスペイン人によって発見されたがそれ以降忘れられていた。グレッグ隊が再発見をしてそれを確認するために派遣されたモーガン将軍とローラヴァージニア達が1850年3月にフンボルト湾と名付けたという。

教師、行商の商人、雑貨屋の店主、医師、地図測量技師、探検家、ナチュラリスト、植物コレクター、作家などいくつもの顔を持つグレッグ。
好奇心がフロンティアを拡張しそれぞれに水準の高さを足跡として残していった。
サルビア・グレッギーは、フロンティアに咲いていた花であり、フロンティアをいくつも乗り越えていったヒトの花でもあった。

(写真)サルビア・グレッギー立ち姿
        

チェリーセージ(Cherry Sage)、サルビア・グレッギー
・シソ科 アキギリ属(サルビア属)の耐寒性がある宿根草。霜を避ければ外で越冬する。
・学名は、Salvia greggii.A.Gray (S.グレッギー)、英名がAutumn sage(オータムセージ)、和名はアキノベニバナサルビア。
・原産地は、アメリカ・テキサスからメキシコ 。
・1848年にメキシコ・SaltilloでJosiah.Gregg (1806-1850)が発見。
・庭植え、鉢植えで育てる。
・草丈は、60~80㎝で茎は木質化する。
・花の時期は、4~11月。
・咲き終わった花穂は切り戻すようにする。また、草姿が乱れたら適宜切り戻す

命名者は、グレイ(Gray, Asa 1810-1888) で、1970年に発見者のJ.Greggにちなんでグレッギーと名付けられた。


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4 コメント

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すべてドラマがあるのですね。 (花ひとひら)
2009-04-24 12:24:10
サルビアはどれも蕾を包んでいるものと(何と言うのだったけ)中から出てくる花の色がツートンで面白いです。この2色が見られる時が楽しいです。
発見にもいろいろ熾烈ですね。飢餓をすくったのは植物ですが、人は見捨てて行くのですね。見捨てられた側には花が静かにあったのでしょうか。私たちがいま愛で楽しんでいる花にも沢山の物語があることを知りました。
これから見るたびに (きよみどす)
2009-04-24 15:42:18
これから,この花を見るたびに
思いだしちゃう様なストーリーですね。
この花は長く咲いてくれる上に丈夫でありがたい花ですね。
まさか!これを食べたという事は無いでしょうね~。
花ひとひらさん (tetsuo)
2009-04-24 17:34:01
そうですね、植物は人間を助けてくれますが、人間は時として助けてくれないことがるので大事にしてあげないと因果応報となるのでしょうか?
行間からグレックの性格を察すると、自分にも厳しくヒトにも厳しかったようです。だからあの若さで実績を残せたのかもわかりませんが、思いやりよりは成果を追求したようです。仲間からは嫌われますが歴史には名を残したので生き方をとやかくいうつもりはないです。
きよみさん (tetsuo)
2009-04-24 17:42:31
太平洋に到着した探検旅行は夏から秋頃なので、ベジタブル系、果実、木の実など結構あったと思います。だから餓死しないで目的を達成できたのでしょう。
見捨てられたのは冬山なので、本当に何も無かったのでしょう。
これは今でもありえる問題で、冬山で骨折した人間をどうするか?思案のしどころです。
言えることは一緒に死にたくなかった人間だったのでしょう。

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