(写真)ミントバームの花
細長い葉から強烈なミントの香りがするのでミントバームと呼ばれているが、四方八方に枝を伸ばす特性を捉え英名ではmint-shrubと呼んでいる。
開花期は9~10月で、紫が入ったピンクの小花を10cm程度の花序に沢山咲かせる。ミントの強い香りの割には可憐な花でアンバランスの妙を感じる。
原産地は中国。
ヨーロッパ人でミントバームを最初に採取したのはスタントン(Sir George Leonard Staunton 1737-1801)で、1793~1794年ごろに中国で採取して英国に持って帰り、1833年に英国のシソ科の権威ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によってスタントンの栄誉を称え、エリショイチイア・スタントニー(Elsholtzia stauntonii Benth.)と命名された。
スタントン(Sir George Leonard Staunton)と中国の関係
(写真)左側:George Macartney、右側:George Leonard Staunton
(出典)ウイキペディア
スタントンは、生涯の盟友マッカトニー(George Macartney 1737-1806)が中国への使節団のトップとして指名された際に随行員の中心として1792~1794年まで中国に同行した。
このマッカトニー使節団の目的は、茶・陶磁器・絹の輸入増で英国の対中国貿易が大幅な赤字となり、この解消を図るために産業革命の成果である綿製品などをもっと自由に輸出したいという貿易交渉だったが、中国側は、偉大な皇帝のお恵みで下々の属国と貿易をしているという意識が強く、長崎出島のような広東一港に限定した管理貿易・朝貢貿易を採っていたがこれを是正することすら出来なかった。
途中を省略し結論を急ぐと、マッカトニー使節団の目的は達成されず、貿易不均衡の解決は阿片の密貿易、1840年から2年間のアヘン戦争となり英国の目的を武力で達成することになる。
マッカトニー使節団は目的を達成できなかったため失敗であったかというと、そうでもなかった。
それは、スタントンが帰国後に使節団の記録をまとめて1797年に『An authentic account of the Earl of Macartney's Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China(グレートブリテンの国王から中国の皇帝への伯爵マカートニ使節団の真相)』を出版した。
(作品)『An authentic account of the Earl of Macartney's Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China』1797年 ロンドン
この本は、当時の中国の実情(政治・軍事・地理・経済・文化・生活・・・・)などの情報を収集・分析し、一流の画家William Alexander (1767-1816)によるビジュアル入りで解説してあり、これにより西洋と異なる中国の思考・行動の違いが理解できるようになり、交渉相手の中国の謎を解き明かす手がかりを獲ることが出来た。
これが高い評価を得ることにつながり、英国初の中国への使節団、及び盟友マッカトニーの評価を高めることになった。
又、画家アレキサンダーの作品は、史上初で最高のイメージ・レポーターと評され、確かにこれまでの画家の絵画作品と一線を引くものがある。
(ビジュアル)William Alexanderの作品 中国の兵士
(出典) 「artnet 」William Alexander (検索に画家名を入力)
また、ウイリアム・アレキサンダーを使節団メンバーに手配したり、この報告書を取りまとめることに関わったのは当時王立協会理事長でキュー王立植物園のアドバイザーとして世界各地にプラントハンターを派遣して世界中の新しい・珍しい植物を収集させたプラントハンターの元締めバンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820)だった。
なるほど、バンクス卿が絡んでいたのか! ということで後述するが一つの謎が解けたかもしれない。
中国の植物を採取したスタントンのキャリア
外交官、中国の現状をまとめて出版する力量がある政治・経済・文化人類学者ということは分かったが、スタントンは今で言えばマルチ人間で幾つもの顔を持っていた。
医者、その延長での植物学者、全く関係がないが成り行きで法律家、行政官、東インド会社社員などで、最初は医者として彼が26歳の時の1763年から西インド諸島で開業をし、財を築きグレナダに地所を購入し、1770年にはイギリスに戻った。このグレナダは1762年にフランスから奪い英国領植民地にしたばかりで英仏の争いがある地域に飛び込んでいった覇気ある若者だった。
1779年彼が42歳の時には行政官に転じカリブ海にある西インド諸島グレナダの司法長官になり、1787年にはインド南部ベンガル湾に臨むマドラス(現在はチェンナイChennai)のサルタンとの平和交渉にマッカトニー卿に同行した。
産業革命後の英国が西に東に膨張していく時期の最先端を歩み、政治家・軍人のマッカトニーに対して文人を貫いたのがスタントンのようだ。
スタントンはミントバームをはじめ約400種の中国の珍しい植物を英国に持って帰った。マッカトニー使節団の中にはプラントハンティングに必要な植物がわかる人間(庭師2人)、植物画がかける人間を同行させ、この手配はやはりバンクス卿のようだ。
スタントンが集めた植物の中で、最も興味深いのは中国のバラ2種だ。
何を集めたかはこれまで分からなかったが、“インディカ(Rosa indica)”、花色がピンク色で香りのある“パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)”の2種のようだ。
パーソンズ・ピンク・チャイナに関しては、現在のバラを生み出す交配親となる重要なバラであり、バンクス卿が紹介したバラということしか分からなかったがスタントンが広州で採取したバラのようだということが分かった。
(写真)パーソンズ・ピンク・チャイナ
(出典)Rogue Valley Roses
(参考)バラの野生種:オールドローズの系譜⑦ 中国からのバラ
『1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が英国に入る。英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)、中国名:桃色香月季、学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、イングランドのパーソン(Parsons)の庭にあったチャイナ・ローズで、伝来のルートはよくわからない。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。』
(写真)ミントバームの花と葉
ミントバーム(Elsholtzia stauntonii)
・シソ科ナギナタコウジュ属の耐寒性がある落葉小木。
・学名はエリショイチイア・スタントニー(Elsholtzia stauntonii Benth.(1833))、英名はmint-shrub、和名はきだちなぎなたこうじゅ (木立長刀香需)。
・原産地は中国で、生息地は岩が多い乾燥した山肌。
・この植物を採取したのは英国の医師・植物学者・外交官で中国清王朝への初めての使節マツカートニ大使に秘書官として随行したSir George Leonard Staunton(1737-1801)で、採取時期は1793ー1794年頃。
・命名者は英国のシソ科の権威ベンサム(Bentham, George 1800-1884)で1833年にこの植物を中国で採取したStauntonを称えてElsholtzia stauntonii Benth.(1833)と名付けた。
・属名のElsholtziaはロシアの自然主義者エルショーツ、ヨハン・ジギスムント(Elsholtz, Johann Sigismund 1623 –1688)を称えて1790年にドイツの植物学者Carl Ludwig Willdenow (1765–1812)によって名付けられた。
・樹高は120cm程度でグリーン色の葉は細長い披針形でミントの強い香りがする。
・開花期は9-10月、ライラック・ピンク色の花が10cm程度の穂状に咲く。
・日当たりの良い水はけの良い土壌で乾燥気味に育てる。
・ナギナタコウジュ属の植物は、中国で風邪、頭痛、咽頭炎、熱、下痢、消化障害、リウマチ性関節炎、腎炎と夜盲症の治療のために使われました。
・ちなみに、ナギナタコウジュの名前の由来は、秋に枝先に咲く花穂が、薙刀(なぎなた)のように片面だけに付く様子と、芳香がシソとハッカを合わせたような香気があり、中国の香薷(こうじゅ)という薬草に似ているので、和名がナギナタコウジュと呼ばれるようになったとされています。
細長い葉から強烈なミントの香りがするのでミントバームと呼ばれているが、四方八方に枝を伸ばす特性を捉え英名ではmint-shrubと呼んでいる。
開花期は9~10月で、紫が入ったピンクの小花を10cm程度の花序に沢山咲かせる。ミントの強い香りの割には可憐な花でアンバランスの妙を感じる。
原産地は中国。
ヨーロッパ人でミントバームを最初に採取したのはスタントン(Sir George Leonard Staunton 1737-1801)で、1793~1794年ごろに中国で採取して英国に持って帰り、1833年に英国のシソ科の権威ベンサム(Bentham, George 1800-1884)によってスタントンの栄誉を称え、エリショイチイア・スタントニー(Elsholtzia stauntonii Benth.)と命名された。
スタントン(Sir George Leonard Staunton)と中国の関係
(写真)左側:George Macartney、右側:George Leonard Staunton
(出典)ウイキペディア
スタントンは、生涯の盟友マッカトニー(George Macartney 1737-1806)が中国への使節団のトップとして指名された際に随行員の中心として1792~1794年まで中国に同行した。
このマッカトニー使節団の目的は、茶・陶磁器・絹の輸入増で英国の対中国貿易が大幅な赤字となり、この解消を図るために産業革命の成果である綿製品などをもっと自由に輸出したいという貿易交渉だったが、中国側は、偉大な皇帝のお恵みで下々の属国と貿易をしているという意識が強く、長崎出島のような広東一港に限定した管理貿易・朝貢貿易を採っていたがこれを是正することすら出来なかった。
途中を省略し結論を急ぐと、マッカトニー使節団の目的は達成されず、貿易不均衡の解決は阿片の密貿易、1840年から2年間のアヘン戦争となり英国の目的を武力で達成することになる。
マッカトニー使節団は目的を達成できなかったため失敗であったかというと、そうでもなかった。
それは、スタントンが帰国後に使節団の記録をまとめて1797年に『An authentic account of the Earl of Macartney's Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China(グレートブリテンの国王から中国の皇帝への伯爵マカートニ使節団の真相)』を出版した。
(作品)『An authentic account of the Earl of Macartney's Embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China』1797年 ロンドン
この本は、当時の中国の実情(政治・軍事・地理・経済・文化・生活・・・・)などの情報を収集・分析し、一流の画家William Alexander (1767-1816)によるビジュアル入りで解説してあり、これにより西洋と異なる中国の思考・行動の違いが理解できるようになり、交渉相手の中国の謎を解き明かす手がかりを獲ることが出来た。
これが高い評価を得ることにつながり、英国初の中国への使節団、及び盟友マッカトニーの評価を高めることになった。
又、画家アレキサンダーの作品は、史上初で最高のイメージ・レポーターと評され、確かにこれまでの画家の絵画作品と一線を引くものがある。
(ビジュアル)William Alexanderの作品 中国の兵士
(出典) 「artnet 」William Alexander (検索に画家名を入力)
また、ウイリアム・アレキサンダーを使節団メンバーに手配したり、この報告書を取りまとめることに関わったのは当時王立協会理事長でキュー王立植物園のアドバイザーとして世界各地にプラントハンターを派遣して世界中の新しい・珍しい植物を収集させたプラントハンターの元締めバンクス卿(Sir Joseph Banks 1743 – 1820)だった。
なるほど、バンクス卿が絡んでいたのか! ということで後述するが一つの謎が解けたかもしれない。
中国の植物を採取したスタントンのキャリア
外交官、中国の現状をまとめて出版する力量がある政治・経済・文化人類学者ということは分かったが、スタントンは今で言えばマルチ人間で幾つもの顔を持っていた。
医者、その延長での植物学者、全く関係がないが成り行きで法律家、行政官、東インド会社社員などで、最初は医者として彼が26歳の時の1763年から西インド諸島で開業をし、財を築きグレナダに地所を購入し、1770年にはイギリスに戻った。このグレナダは1762年にフランスから奪い英国領植民地にしたばかりで英仏の争いがある地域に飛び込んでいった覇気ある若者だった。
1779年彼が42歳の時には行政官に転じカリブ海にある西インド諸島グレナダの司法長官になり、1787年にはインド南部ベンガル湾に臨むマドラス(現在はチェンナイChennai)のサルタンとの平和交渉にマッカトニー卿に同行した。
産業革命後の英国が西に東に膨張していく時期の最先端を歩み、政治家・軍人のマッカトニーに対して文人を貫いたのがスタントンのようだ。
スタントンはミントバームをはじめ約400種の中国の珍しい植物を英国に持って帰った。マッカトニー使節団の中にはプラントハンティングに必要な植物がわかる人間(庭師2人)、植物画がかける人間を同行させ、この手配はやはりバンクス卿のようだ。
スタントンが集めた植物の中で、最も興味深いのは中国のバラ2種だ。
何を集めたかはこれまで分からなかったが、“インディカ(Rosa indica)”、花色がピンク色で香りのある“パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)”の2種のようだ。
パーソンズ・ピンク・チャイナに関しては、現在のバラを生み出す交配親となる重要なバラであり、バンクス卿が紹介したバラということしか分からなかったがスタントンが広州で採取したバラのようだということが分かった。
(写真)パーソンズ・ピンク・チャイナ
(出典)Rogue Valley Roses
(参考)バラの野生種:オールドローズの系譜⑦ 中国からのバラ
『1793年、新しいタイプのバラを生み出す交配親が英国に入る。英名:パーソンズ・ピンク・チャイナ(Parsons' Pink China)、中国名:桃色香月季、学名:Rosa chinensis 'Old Blash') 1789/(1793)
1793年(一説には1789年)、王立協会会長のジョセフ・バンクス卿が紹介したバラだが、イングランドのパーソン(Parsons)の庭にあったチャイナ・ローズで、伝来のルートはよくわからない。
パーソンは、ピンク色で香りのあるバラを4年間かけて開花させ、バラ愛好家に広めた功績を称えられパーソンズ・ピンク・チャイナと呼ばれるようになる。後にはオールド・ブラッシュとも呼ばれる。
この品種は後日、米国に渡ってノワゼット種を生み出し、フランス・リヨンでポリアンサを、さらに仏領ブルボン島で、ブルボンを生み出す交配親となる。』
(写真)ミントバームの花と葉
ミントバーム(Elsholtzia stauntonii)
・シソ科ナギナタコウジュ属の耐寒性がある落葉小木。
・学名はエリショイチイア・スタントニー(Elsholtzia stauntonii Benth.(1833))、英名はmint-shrub、和名はきだちなぎなたこうじゅ (木立長刀香需)。
・原産地は中国で、生息地は岩が多い乾燥した山肌。
・この植物を採取したのは英国の医師・植物学者・外交官で中国清王朝への初めての使節マツカートニ大使に秘書官として随行したSir George Leonard Staunton(1737-1801)で、採取時期は1793ー1794年頃。
・命名者は英国のシソ科の権威ベンサム(Bentham, George 1800-1884)で1833年にこの植物を中国で採取したStauntonを称えてElsholtzia stauntonii Benth.(1833)と名付けた。
・属名のElsholtziaはロシアの自然主義者エルショーツ、ヨハン・ジギスムント(Elsholtz, Johann Sigismund 1623 –1688)を称えて1790年にドイツの植物学者Carl Ludwig Willdenow (1765–1812)によって名付けられた。
・樹高は120cm程度でグリーン色の葉は細長い披針形でミントの強い香りがする。
・開花期は9-10月、ライラック・ピンク色の花が10cm程度の穂状に咲く。
・日当たりの良い水はけの良い土壌で乾燥気味に育てる。
・ナギナタコウジュ属の植物は、中国で風邪、頭痛、咽頭炎、熱、下痢、消化障害、リウマチ性関節炎、腎炎と夜盲症の治療のために使われました。
・ちなみに、ナギナタコウジュの名前の由来は、秋に枝先に咲く花穂が、薙刀(なぎなた)のように片面だけに付く様子と、芳香がシソとハッカを合わせたような香気があり、中国の香薷(こうじゅ)という薬草に似ているので、和名がナギナタコウジュと呼ばれるようになったとされています。