浪漫亭随想録「SPレコードの60年」

主に20世紀前半に活躍した演奏家の名演等を掘り起こし、現代に伝える

ヘルマン・シェルヘンを初めて聴く マーラーの第九

2007年02月25日 | 指揮者
中学生の頃にヘルマン・シェルヘンの指揮ぶりを映像で見たきり、何故か遠ざけてきた記憶がある。それは、フルトヴェングラーの流れからかなり隔たったところに位置する指揮者だといふ僕の勝手な思い込みがあったからである。

今、こだわりが消え、何でもあるがままに受け入れることができる年齢に差し掛かってきた(何もかもが判別できなくなったのかも知れない)。最近は、反省に立って今までに聴いてこなかった演奏家を聴くやうに努めている。バルビローリ、クレンペラー、ベイヌム、コリンズ、ロスバウトなどがそうである。バルビローリに関しては、意外な一面を知り最近はよく聴くやうになった。しかし、他の指揮者は未だにしっくりとこない。

シェルヘンは今回のマーラーの第9交響曲が初購入となる。LP時代を含めて初めてなのだから、いかに敬遠してきたかが分かる。オーケストラは維納交響楽団で、1950年6月19日のムジークフェラインザールでのライブと記されてゐる。

戦後の復興期に維納は活気を取り戻し、フルトヴェングラー、カラヤン、クラウス、ベームらが活躍してゐた。そのやうな中、シェルヘンはマーラーを集中的に取り上げてゐた。このCDはその頃のライブといふことで購入してみたのだ。多忙を極める維納交響樂團のアンサンブルの乱れは練習不足によるものだらうか。それともシェルヘンの指揮やテンポ設定によるものだらうか。いたるところで壊れそうになる。

マーラーが高く評価したメンゲルベルクやオスカー・フリートの演奏スタイルとは明らかに別の世界ではあるが、このやうな革新的なマーラーが半世紀以上前に演奏されてゐたことは驚きだ。後期浪漫派の陶酔の世界とは異なるが、シェルヘンの演奏が血の通わない冷たい音楽かと言へば決してそうではない。相当エキセントリックな解釈をする人のやうで、あまりに常識から逸脱したところではオーケストラが反応できず、アンサンブルが乱れる(と、僕は勝手にそう理解した)。

昨年、ゲルギエフのマーラー第5を西宮市で聴いて感動した。マーラーのやうに楽器の色彩を大切にした繊細な表現は生でなければ聴けないことを再認識したのだった。シェルヘンの終楽章でも、かすれそうになりながら切々とうったえかける提琴など、とてもレコヲドには収まりきらない。想像力なくしては聴けない演奏である。

現在、維納を中心に活躍中の指揮者、ニコラス・アーノンクールとシェルヘンは、レパートリーの広さや一種の哲学を持って奇抜な演奏を繰り広げる辺りには近いものを感ずる。

盤は、独逸OrfeoのCD C228 901A。


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