極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

銀座三越 3

2005-04-30 22:32:27 | Weblog
銀座三越のアルバイトはその後も延々と続けた。4年以上は続けたと思う。私はかなりの「古株」となった。自然と「音楽絡み」の人が増えていった。その後デビューする「長澤義塾」のメンバーもいたし、バンド活動をしている人も多かった。多くの人と出会い、影響も受けた。一部上場企業、三越の社員の中にも、仕事のできる人とできない人がいた。「仕事はできないが調子のいい人」が出世し、「仕事はできるが不愛想な人」が閑職に追いやられたりした。そんなもんなんだろうな、と思った。

バイトをし始めた頃、我々の年代より数歳上の先輩がいた。長浜さんといった。長浜さんはフォーク歌手を目指していた。髪はやや長髪で、人間的にはとてもよい人だった。ライブに行ったことがある。

フォークギターにコーラス(エフェクター)をかけていた。歌は「可も無く不可も無く」といった感じだった。

長浜さんは私のことを「マサ」と呼んだ。私の名字は日本でもっともポピュラーで、多くの場所で同じ名字の人とであう。が、「マサ」と呼ばれたのはこの時が始めてだ。

長浜さんはしばらくして出身地に戻っていった。

たしか九州地方だった。
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銀座三越 2

2005-04-29 15:27:39 | Weblog
待機する場所は地下5階の什器倉庫だった。あまり、人も来ず、マンガを読んだり昼寝をしたりして過ごした。ギターもあった。待機室というより、どこかの部室のような雰囲気だった。一応、KK小泉の社員も2人くらいは常時いた。しかし、この社員のみなさんも「人生をドロップアウト」してきたような人が多かった。我々の給料を持ち逃げしてしまった人もいる。そんな中で、内田さんという、若くて我々アルバイトの面倒見のよい人がいた。KK小泉を盛り上げていきたい、とガッツのある人だったが、いつの間にか内田さんもいなくなってしまった。

私は11月に「ガムテープの持ち出し」が発覚し、クビになってしまう。仕事中ならば難無く持ち出していたのだが、仕事を終えて持ち出そうとして見つかったのだ。警備員は元警察官だった。

警察沙汰にはならなかったが、これで二度と客としても銀座三越に行けないなあ、と思った。しかも、ガムテープでクビとはあまりにも情けない。

ところが、1ヶ月ほどして、「もうアルバイトに来てもいいよ」と言われる。「即行」で復職した。

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銀座三越

2005-04-28 23:47:54 | Weblog
銀座三越でアルバイトをしている。正確には下請け会社「KK小泉」との契約だ。これまた、とても楽なバイトだった。

バイトは基本的に「口コミ」の「紹介」で拡がっていった。私は渥美のサークルSPPの部員の紹介だった。当然渥美もしている。その人も兄からの紹介だ。

私はこんなに楽なバイトを池谷や青柳には教えたくなかった。「バンドもバイトもいっしょだと、バンドとしてまずい」などともっともらしいことを言って、断っていたのだが、結局池谷も青柳も三越でアルバイトをすることになる。

アルバイトとして、まともな仕事があるのは、日曜日の夜だけである。当時、三越は月曜日が定休日で、8階の催事場は「火曜はじまり、日曜おわり」だった。その催事場のレイアウト変更作業が仕事だった。商品ケースやハンガーなどの什器を運んだり、作ったりした。閉店後スタートするので、11時過ぎまでかかることもあった。

だが、平日はやることがない。朝、エスカレーターの掃除をするだけで、あとは「待機している」だけである。これも萬世の「ニュースセンター9時」の待機と同じで、「床がはがれた」とか、緊急時以外は仕事がない。

しかも、アルバイトの勤務予定、計画というものがなく、「来たけりゃ、来ていい」というスタイルだった。

口コミで限られたメンバーだから、できたのかもしれない。
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トミーとミーノ

2005-04-27 21:42:43 | Weblog
この頃、新宿ルイードで「トミーとミーノ」のライブに行っている。高校の同期、金子が参加していて、池谷や西村をはじめ、多くの同級生が行った。「トミーとミーノ」は京都で活躍していて、その後の「かねてつ&おかげ様ブラザースバンド」(その後、おかげ様ブラザースバンドに改名)の母体となったユニットだ。

一年間、京都で生活した池谷から「とてもおもしろい」と聞かされていた。学園祭のテープも聴いていた。

ワンマンライブではなく、いくつかのバンドとともに出演していた。演奏順番は一番始めで、「7時からのスタートの予定が6時半からだった」ので、「6時40分に着いたら、もう始まっていた」。「青柳と宮野は7時30分以降に来て、全然観られなかった」と日記にはある。

とてもおもしろかった。その後の宴会には体調と金銭的に「不調」であり参加していない。

現在「おかげ様」も解散してしまったが、金子は音楽で生活している。

まったく、頭が下がる思いだ。
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冷房車内

2005-04-26 01:20:50 | Weblog
この頃の体重は60キロ前後である。が、65キロあたりにはすぐになった。食えないとすぐ痩せ、ちょっと食うとすぐに太った。現在は75キロあたりである。当時と比べて10キロも増加している。あの頃の体重に戻りたいものだ。

1984年6、7月の体調は最悪で、長期の風邪もひき、喘息もよくならずボロボロだった。

ある日、西武池袋線に飛び乗った。池袋駅である。可愛い女性がいて、しばし見蕩れた。その人の胸元に手術の跡があった。美しい顔と大きな手術跡がエロさを増幅させていた。年令は10代と思われた。



冷房車内


小さなお花付きの麦藁帽子を
少し傾げて被ったあなたは
遅れて焦った私を見もしないで

鳴り始めた発車のベルに俯いても
真夏の日差しの強さは残って
冷めるはずの冷房車内なら
拉げた水呑鉢の中で泳いでいる気

汗ばむあなたの白い胸には
消すことの出来ない傷跡残って
外れた片方の肺の行方は
流れた月日の数だけ分からなくなって

外れた片方の肺の行方は
流れた月日の数だけ分からなくなって
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大学3年 6

2005-04-25 22:04:27 | Weblog
東京で大学生になれば、彼女のひとりやふたりできるだろうと思っていたが、甘かった。

まったく、女気のない生活を送っている。だが、渥美や雅之はしっかりと彼女ができていた。渥美は彼女を主演にした8ミリ映画を撮っている。タイトルは「殺し屋ガンツ」だ。法政大学でもロケをしている。ホットドックプレスにも「街で見かけた素敵なカップル」として登場した。

雅之も「テニス&スキー」サークルみたいな軟弱なサークルに入って、そこで聖子ちゃんカットの彼女を見つけた。高校時代、恋い焦がれた後輩よりはずっと美人だった。

私はそもそも女性との接点がなかった。アルバイトでもバンドでもまわりは男ばかりだった。ロックラにはわずかに女性がいたが、親しくなる機会はなかった。ファーストフードなどでアルバイトをすればまた違っていたのかもしれない。

喘息の薬は相変わらず飲み続けていた。派手な発作もあった。

恋愛などは自分の実世界と違う次元にあるものだ、と諦めていた。

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萬世放送施設

2005-04-24 07:36:06 | Weblog
池谷の紹介でこの頃からアルバイトをしている。NHKや民放放送局の下請け、簡単に言えば「人足斡旋会社」である。登録しておいて、不定期だが「明日、どこそこへ行ってくれ」となる。アルバイト料は日記によると

「民放は9時間、NHKは8時間で日給4300円」とある。時給換算すれば、NHK478円、民放538円だ。当時としても随分安い。が、このバイト、何も仕事をしないでただ待っているだけの「待機時間」も多かった。日本テレビの「トップテン」などは、午前中にカメラの足場を組んで、本番前(生放送午後8時スタート)に入り、本番終了後、足場を解体するだけの仕事なのだが、足場を組むところから解体までが拘束時間となっていた。リハーサルから客入れまで何もすることがなく(外出してもOK、完全フリー)「おいしい仕事」だった。また、NHKの「ニュースセンター9時」も「緊急時、人出が要る時の要員」みたいな仕事だったので、「ほとんど待機で終わる」のだった。

そうそう、おいしい仕事ばかりではなかったが、テレビ放送の現場で仕事ができておもしろさはあった。

市川悦子のドラマロケとか、水泳の日本選手権とか、フジテレビの「隠し芸大会」の収録など、記憶に残っているものが多い。NHKの職員と一日ハイヤーに乗って、何かの調査に助手として参加したこともある。この時の仕事も楽だった。

なかなかおもしろいバイトではあったが、仕事があったりなかったりと不定であり、しばらくして三越をやるようになってからはほとんどしなくなった。

アルバイト先は「萬世放送施設」といった。
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大学3年 5

2005-04-23 14:49:59 | Weblog
青柳は京王線、代田橋駅前に住んでいた。4帖半一間だったか、取り壊しの決まったボロいアパートだった。1階はおにぎりとか寿司を販売する「やぐら」という店だった。(「やぐら」は現在もある)「やぐら」のおねえさんが美人だ、と日記にはある。「いなりずしが40円という安さと、おねえさんの美しさに感動して5個も買ってしまった」などと書いてある。

青柳のアパートには何度も行っている。同じアパートに同じ高校出身の日比野が住んでいた。雨が降っても、打ち合わせのために合羽を着てバイクで行った。そこで、テープに録音したり、場合によっては青柳がいなくてもひとりで曲作りをした。

やはり、ドラマーは必要ということで3人の意見は一致していた。
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さいさえ

2005-04-22 23:12:11 | Weblog
「さいさえ」という曲は、私にとって初めてバンドに採用された記念すべき曲である。「和風」というから、民謡調の曲を作った。本当は「さいさえ節」というのだが、池谷から「それでは本当の民謡になってしまう」と言われ、「節」をとった。バオバブ名曲「指先」へのオマージュといえば聞こえがいいが、おもいきりパクっている。(パクったのは雰囲気であって、メロディ等ではない、一応 念のため)「さいさえ」ということばに意味はない。なんとなく、いい響きだった。



さいさえ


佐渡は粉海
水の代わりじゃ
浮かぶ小舟は
木より軽かに

さいさえ
さいさえ

酒は秣
呑めば苦しかろ
唄うお前は
火より赤に

さいさえ
さいさえ


個人的にはかなり気に入っていて、今でもよく唄う。
自分の結婚式の2次会でも唄ってしまった。
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大学3年 4

2005-04-21 23:49:51 | Weblog
和風というより、アジアチックなはじまりである。いわゆる「民族音楽」風だ。坂本龍一とジョイントレコードを出している「ダンスリー」という楽団の影響も濃い。当時の青柳の世界だ。2曲がそんな風で、間に私の「さいさえ」が入り、残りの2曲は池谷のギターが目立っているから、池谷作曲か。5曲構成だった。

ステージ上でドラムは解体され、私はフォークギターとベースを弾き、バスタムを叩いている。青柳はスネアを叩き、池谷はバスタム、スネアなしのドラムセットの場所にいる。後半2曲はギターを録音しているから、池谷は「バスタム、スネアなしドラム」をもっぱら叩いていたのだろう。

一体どういうスタイルのバンドなのか、理解に苦しむ。

5曲目はそのまま、「浜松祭り」の「練り」(オイショ、オイショというゲキネリ)に突入するという趣向だった、たしか。
コメント (1)
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