極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

高校2年 61

2004-10-31 14:12:03 | Weblog
チケットは西村が買った。2003年11月のニールヤングの武道館ライブのチケットも西村が買った。いつも西村に買ってもらう。20数年経っても同じである。それは私が「誘われる人」だからだ。

「~~が来るけど、行く?」と言われ、「行く」と答えると、「じゃ、チケットは俺が買っておくから」となる。至極、便利である。

岐阜市民センターはコンサート専用ホールではなく、他目的ホールだった。席はアリーナだった。それまで浜松市民会館がしか知らなかったので、大きいなあと感じた。

その後、スティービーニックスのインタビューを雑誌で読んだ。岐阜のライブについて「たまにああいう小さなホールでやるのもいい」と言っていてびっくりしたことを覚えている。

ライブアルバムも発売されている。内ジャケットにコンサート記録が載っていて、岐阜市民センターの観客動員数は3500人となっている。
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高校2年 60

2004-10-30 22:29:18 | Weblog
「チケットぴあ」は私が大学生の頃できたように思う。どこの売り場でも買える便利さはあるが、チケットはプリンターで印字されるもので、味がなかった。現在はこのシステムなしには興業はできないわけで、「あたりまえ」になってしまったが、はじめのころはちょっと物足りないものを感じたものだ。

1980年2月の「フリートウッドマック」のコンサートチケットは厚めのしっかりとした紙に、その頃リリースした「TUSK」のジャケット写真が配置されて趣きがある。会場名の下に「Show Time P.M 6:00」と印刷されている。ショウタイムというのが、なんともイカしている、と思った。

私と西村と青柳の3人で行った。

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高校2年 59

2004-10-29 23:53:27 | Weblog
1980年2月9日に「フリートウッドマック」に行っている。会場は岐阜市民センターだ。
はじめての「外タレ」コンサートだ。2月9日は土曜日で下校後、東海道線に乗っていった。

このようにしっかり覚えているのは、この時も録音して、チケットも保管しているからである。高校時代、この後、名古屋で「ウェザー・リポート」も観ているが、これはチケットも録音テープもなく、正確にお伝えすることができない。

この時の録音機材は花島のラジカセでも私のラジカセでもない。大村の「デンスケ」みたいな高性能コンパクトを借りた。この頃も当然「録音、撮影禁止」だが、(チケットの裏にも書いてある)それほどチェックされなかった。会場に難無く持ち込めた。

当時のチケットは味があってよい。
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木靴の木

2004-10-28 22:56:30 | Weblog
モテモテだが、とてもウブな渥美だったが、デートで「木靴の木」を観たという。

映画自体もとてもよかったが、その後、喫茶店だかレストランだか知らないが、とにかく食事をして、その時感激した、なんて話をされた。

それは、「渥美の料理が来るまで、自分の料理に箸をつけないで待っていてくれたこと」で、今にして思うとなんでもないというか、あたりまえのことなのだが、渥美に言わせると「その奥ゆかしさに惚れなおした」らしい。

私はそんな「奥ゆかしい」女性との同伴もなく、ひとりさびしく観た。

映画も寂しくなる内容だった。

--「木靴の木」は正確には「木靴の樹」でした。訂正しおわび申し上げます。


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スバル座

2004-10-27 23:20:04 | Weblog
板屋町にあった「スバル座」は斉藤さんによれば「当時の浜松には珍しかったアート系の作品をずらり並べて上映して」いた。たしかにそうだった。高校生のときにこの手の映画を観られたことは幸運だったと思う。

「ブリキの太鼓」も「マリアブラウンの結婚」も「木靴の木」も同館で観ている。1階は「浜松東映」で角川映画をほぼ独占で上映していた。角川映画には当時まったく興味がなかったので、ほとんど観た記憶がない。

ヨーロッパの映画を観るようになったのは、渥美の影響が大きい。

渥美が「木靴の木」を観たからだ。
しかも女性とふたりで。
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高校2年 58

2004-10-26 23:09:11 | Weblog
高校時代はわりと映画を観ている。

「マンガ祭り」みたいなものではなくて一番初めに観たと思うのは「日本沈没」だ。小学5、6年だったから当然、親と行っている。映画の内容もその後テレビで放映されたりしたから、なんとなく覚えている。

おそらく、「中央劇場」だ。250CC缶のコカ・コーラを買って、全部飲めなかったことを覚えている。

中学の時は「浜松シネマ」で「ジョーズ」を観ている。友だちと行ったはじめての映画だ。「浜松シネマ」はとてもボロかった。ボロかったが、こじんまりとして、わりと好きな映画館だった。

私の「五番目の暁」という曲の中に「~シネマの中 僕はひとり」という歌詞があるが、このシネマとは「浜松シネマ」のことである。

しかし、斉藤さんに教えてもらうまで、「浜松シネマ」も「スバル座」も「ミラノ」も「オデヲン」も館名をすっかり忘れてしまっていた。

お恥ずかしい。
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高校2年 57

2004-10-25 22:06:31 | Weblog
結局、渥美は参加しなかった。私と西村のふたりだった。

主に洋物のポルノ映画を1階と2階で上映している「ミラノ」、「オデヲン」という映画館にした。窓口はすんなり通ることができた。
肝心の映画についてはまったく記憶がない。予告編の「水中悶絶狂乱」という映画がゴロがよくて記憶に残っている。西村も映画はつまらなかった、と言っている。

西村はその後、ほかの友人たちと「光洋劇場」で邦画のポルノ映画に行っている。西村によると邦画の方がずっと良かった、らしい。(この時は入場時にちょっともめた、と聞いている)

---1980年前後の浜松の映画事情については浜松出身の映画関連文筆業、斉藤守彦氏に教えていただきました。あらためてお礼申し上げます。

斉藤さんのサイト「Tokyo Movie Networx」

http://www006.upp.so-net.ne.jp/mo-saito/menu.html
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高校2年 56

2004-10-24 12:25:45 | Weblog
1980年の1月にはじめてポルノ映画を観ている。
西村はよく覚えていて、「高校2年の1月だった」と断言している。おそらくそうだろうと思う。

西村と渥美と酒を呑む機会があると、必ず映画を観た前日の話になる。

学校で3人で「明日行こう」とひそひそ話していた。と、突然私が
「えー、渥美と西村は明日、ポルノ映画を観に行くんだって-、信じられないー」
とクラス中に聞こえるように大声をあげた、というのだ。しかも、その日の夜になって私は西村に電話をかけて
「やっぱり、俺も行く」と言った、というのだ。

これが事実とすれば、私は実にイヤな人間ということになる。西村と渥美に恥をかかせておいて、こっそり自分も参加しようという魂胆だ。人格を疑う。



しかし、これは事実なのであった。
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1979年の洋楽

2004-10-23 10:43:20 | Weblog
1979年の洋楽はどうだったのだろうか。

静岡の地方都市で、レコードもまともに買えない身としては、情報源はラジオと雑誌しかなかった。そんな中で記憶に残っているのは、前回も書いた「マイシャローナ」と、ポリスだ。「マイシャローナ」のナックは当時から「一発屋」と言われていて、その通りになった。個人的には好きではなかった。一方ポリスはデビュー当時からすでに完成されていたように思う。デビューアルバムはとてもいい。

渋谷陽一は喜んでいたが、レッドツェッペリンはそれほど盛り上がっていなかったように思う。少なくとも私のまわりでは静かだった。クイーンやイーグルスがなんとなく人気があったように思う。

ジャパンが来日コンサートをして、「私の選ぶロック大賞」では堂々「ワーストライブ」の1位になっている。大貫憲章は「一生懸命やっていたのはわかるが、プロなんだから、それなりの演奏をしろ」と言っている。「隠し芸大会じゃないんだから」とも。

ジャパンはルックス優先のミーハーバンドの位置付けだった。

元祖ビュジュアル系だった。
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私の選ぶロック大賞1979

2004-10-22 22:22:47 | Weblog
1979年のNHK-FM「私の選ぶロック大賞」のゲストは大貫憲章である。

新人賞は「ポリス」。第2位は「ナック」、以下「ゲイリーニューマン」、「B-52」、「ダイアーストレイツ」と続く。

「ロック大賞」としては2回目になり、前回とはエントリー内容を変えている。女性部門がなくなり、その代わり「ワーストライブ」「ワーストアルバム」なんて部門を作り、「ライブ部門なんて、中央集権的発想だ、とお叱りのお葉書をたくさんいただいた」と渋谷陽一自身反省している。明らかに失敗だ。

昨年は「レッドツェッペリン」がどこでも入賞せず、嘆いていた渋谷だったが、今回はベストアルバム、ベストアーチストで第1位になっている。ちなみにワーストアルバムでも第1位になっており、渋谷陽一ファンがおもしろがって投票したような結果になってしまった。番組としての盛り上がりにも欠けている。

「レッドツェッペリン」がベストアルバムを受賞したのは「In Through The Outdoor」である。

1979年はナック「マイシャローナ」の年だった。

修学旅行で行った京都の街も「マイシャローナ」が響いていた。
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