極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

MCSF 4

2005-05-31 23:48:08 | Weblog
この頃の青柳はヘッドセットのマイクを使用していた。当然、自分で購入していた。コンテストでももちろん使用し、両手を使って「パフーマンス」をしていたわけである。イントロのテープはドラム田中がヘッドフォンでモニターしながら叩くことになっていて、リハーサルでは問題がなかったが、本番ではまったく聞こえなかった。「テープのスイッチを押す」中村がいた意味がない。

が、テンポがあるといっても、16分音符の連打であり、ズレてもあまり問題にならなかった。演奏の出来はよく、我々は見事グランプリを受賞し、マツダのRX-7と副賞の50万円を得ることができたのである。

プロ野球のオールスターゲームなどで、MVP選手に車が与えられ、セレモニーで受賞者は大きな金のキーを持つが、この時もその「大きなキー」があった。

持つとずっしりと重かった。

コンテスト終了後、マツダの人が、「これは使い回ししてますんで」と持ち帰った。
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MCSF 3

2005-05-30 23:03:31 | Weblog
マツダの社内報より

 佐藤正則君に喜びの声を聞いてみました。

「ありきたりではなく、オリジナリティのあるものをひたすら追求する。そんな僕らの姿勢が、みなさんに認められたんだと思います。そりゃ、まだ学生ですからね。教育実習やら実験やらで、なかなか全員揃って練習できない。おまけにバイトしないとバンドを続けていくお金がない。やっぱりキツイです。それだけに、このグランプリ受賞はすごく嬉しいんです! MCSFには先輩が出場したこともあって、それで応募してみたんですが、学生の間じゃ、もう、かなりメジャーなイベントですよ。僕らの後輩のためにも、ずっと続けてもらいたいな」

優勝の喜びを真面目な大学生が語っているかのような文章だ。

私は一言もこんなことは話してはいない。



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MCSF 2

2005-05-29 21:13:34 | Weblog
決戦大会に進んだバンドは8グループで、大会前に「演奏をチェックされる」機会があった。

有楽町のニッポン放送スタジオ「銀河」で全グループがそれぞれ演奏した。関係者はいたが、そこで審査をされるわけではない。どういう趣旨なのか、知らされなかった。我々は「密かに事前審査を行っているのだ」と勝手に推測していた。

さて、決戦大会での「はる」は、予選の時の「竹」より、一歩進んで、障子を舞台に持ち込んだ。障子の裏で青柳の「影絵パフォーマンス」をするというわけだ。池谷と私もイントロ部では、障子の後ろにいたかもしれない。障子は江古田の店で買って、中村の軽貨物、スバルのサンバーで持ち込んだ。

マツダの社内報より
 
 かくして、学生達に抜群の人気を持つスペシャルゲスト、「麗美」のミニコンサートが終了した後、見事グランプリの栄光を与えられたグループは「はる」に決定! エントリーナンバーの素晴らしさはもちろんのこと、ステージ全体をひとつのパフォーマンスをして演出したアイデア(学生審査特別賞も獲得)が高く評価されました。

続いて私の談話が載っている。
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MCSF 1

2005-05-28 23:29:52 | Weblog
第6回マツダ・カレッジサウンド・フェスティバル決戦大会は1985年6月20日日本青年館で行われた。

このコンテストは「学生の日」というサブタイトルがついている。私はこのコンテストの記事が載っているマツダの社内報を持っている。

 去る6月20日(木)、東京の日本青年館にて「第6回マツダ・サウンドカレッジ・フェスティバル(M.C.S.F.)決戦大会」が開催されました。大学生達の手で運営されるこの音楽の祭典は、マツダのバックアップのもとで毎年行われてきました。そして、今や学生達の間にも深く浸透、なくてはならない恒例のイベントに成長したのです。(中略)青山学院、慶応、上智など都内の5大学のプロデュース研究会が一堂に会し、「キャンパススクエア」を結成。企画、製作、運営などすべての仕事を彼らが独力で行うという、まさに若者のアイデアとパワーの集大成といえるイベントです。

応募総数1232本、優勝賞金50万円、副賞はマツダサバンナRX-7 ターボGT IMSAスペシャルだった。

冠スポンサーとしてのマツダ。大学の「プロデュース研究会」、「キャンパススクエア」というネーミング、バブル感がいっぱいだ。
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新宿ACB

2005-05-27 23:52:21 | Weblog
この頃になると渋谷「屋根裏」でのロックラの定演のほかに単独で(といってももちろん「対バン」あり)ライブハウスに出ている。

新宿ACB(アシベ)の記憶が強いが、ほかには出ていないのかもしれない。ロカビリーやグループサウンズの「殿堂」的なライブハウスだが、当時は我々のような学生アマチュアバンドでも気軽に出ることができるようなライブハウスになっていた。昔、有名だったアシベとは違うんじゃないのか、と池谷などとも話したことがある。場所は新宿歌舞伎町アシベ会館の中にある。アシベ会館はいろいろなホール、施設があるところで、現在のライブハウスは地下2階だが、我々が出ていたころは上の階にあったように思う。

出演料は1バンドたしか、20000円だった。20000円払うと20000円分のチケットをくれ、それを売り切ってしまうと、その後はタダでチケットをいくらでもくれた。とても「どんぶり」なシステムになっていた。

1985年5月27日はアシベに出演している。
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ヤクルトホール

2005-05-26 23:09:52 | Weblog
舞台のオブジェとして、大きな竹を何本か持ち込んでいる。和風をイメージさせるのに効果的だった。

直系20センチ以上、長さ1メートルほどの竹である。三越で入手した。どこかの歳事で使って、不要になったものをもらったのだ。当日三越から運んだ記憶がある。銀座三越を新橋のヤクルトホールは歩いていける距離にある。竹は青柳たちとかついで行った。

その竹を舞台に置き、青柳は白いカーテンのようなものの後ろで「影絵パフォーマンス」みたいなものをイントロでやった。結果は見事に「決戦大会出場」となった。

この時のゲストは「聖飢魔2」(せいきまつ 文字化け防止で2としました)

池谷はデーモン小暮閣下と2ショットで写真を撮っている。


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大学4年 2

2005-05-25 21:24:36 | Weblog
マツダのコンテストの予選は5月20日、新橋のヤクルトホールだった。

「むらさき」で出ている。が、どうして「むらさき」になったのか、実は記憶がない。3曲で応募した。事務局から曲指定があったのだろうか。はっきりとした指定がなかったように思う。と、するとメンバーで選んだのだろうか。

「むらさき」は私がデモテープで作ったアレンジの他に、イントロが「DX7とRX15の偶然シーケンスパターン」が加わり、演奏後半ではデンデン太鼓から始まるフリー演奏を入れた。曲として完成していた。

シーケンスパターンはカセットテープで作成した。そのテープを流すために「カセットデッキのスイッチを押す人」が必要だった。

「カセットデッキのスイッチを押す人」として中村が加入する。

コンテストに参加する「はる」のメンバーはこれで6人になる。

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大学4年 1

2005-05-24 23:03:34 | Weblog
1985年4月、大学4年になる。

普通ならば就職活動をする年だ。当時は10月1日が「解禁日」となっていたが、それよりもずっと前から皆、就職活動をしていた。バブル景気のおかげで「売り手市場」ではあった。何の活動もしていない私のところにも企業から「募集案内」がよく届いた。静岡県の「スルガ銀行」からも案内が来た。「銀行か、ちょっといいな」と思ったが、応募しなかった。何も就職活動はしないのにリクルート資料はどんどん送られてきた。

「就職しなくてもよい」と考えていたわけではない。

10月1日から活動しようと思っていた。

10月1日になり、大学の就職課に行って、「なにか、就職先を斡旋してくれ」と言うと、「今頃来て何を言っているのだ」と追い返された。

池谷は教職課程を取り、教師になる道も残しながら、就職活動もしていた。いっしょに受けたレコード会社は私は書類選考で落ちたが、池谷は最終面接まで残っている。

青柳はアルバイトの日々である。

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スナックゆう子の2階

2005-05-23 22:45:03 | Weblog
青柳が近くに引っ越してきた。最寄り駅は西武池袋線の江古田で、環七が池袋線を跨ぐ高架のすぐ下だった。洗濯物はすぐに真っ黒になってしまった。1階はスナックで青柳の部屋は2階にあった。ほかに部屋はなく、スナックの面積そのままの面積だったので、わりと広かった。一応フローリングで外付けの階段を上がったところに小さなトイレがあった。窓を開けることができないが、昼夜を通して音を出すことができた。もともと高架下で自動車の騒音も大きいし、下のスナックは昼間は無人だった。夜になると深夜までカラオケが聞こえてきた。ここにはその後「ラウンジシザース」のドラム、大沼が住む。

スナックの屋号は「ゆう子」と行った。私は行ったことがない。

建物は現在もある。屋号は変っていた。「志成女」とあった。
看板にルビがふってあった。「しなりお」と読むそうだ。
俳優を目指していた青柳と関連がある、わけはない。
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葛餅娘

2005-05-22 16:03:54 | Weblog
葛餅娘

葛餅娘 葛餅娘 
               
雲の流れが明日は晴れると語るこの空に     
船を漕ぐ手も軽く思える秋の昼下がり      
あれに見えるは金昆羅様と人に教えられ
私の旅路も此処まで来たと肩の荷を下ろす

ああ 思い起こせば              
ああ ずっと昔にヘイホー           

目覚めた時は蛻の殻に間抜けなこの私      
どうしたものかと悩んでみても成す術も無く   

ああ 思い起こせば              
ああ ずっと昔に               
食べてみた                  

旅路の果ては甘く酸っぱく           
舌にとろけた葛餅娘              
                        
                        
四十五年の長い月日があっという間にも
思えるようになった私が此処に辿り着き

ああ 夜のしじまは
ああ 浮かんで消える

捕まえられる道を求めた裏に真夢が
有るはずならば何処にあるのか千々に乱れゆく

ああ 思い起こせば
ああ 波をかわして
食べてみた

旅路の果ては甘く酸っぱく
舌にとろけた葛餅娘

葛餅娘 葛餅娘
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