極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

休止のお知らせ

2005-06-26 07:48:53 | Weblog
約1年間に渡り、「極私的デンデケデケデケ」を続けてきましたが、今回で休止させていただきます。

理由のひとつは「実名表記」です。この後の我々は大手芸能プロダクションと1986年7月に契約します。その後出会った人の中には現在も音楽業界、芸能界で活躍されている方もいます。実名表記によって、誤解を生じ御迷惑をかける可能性もあります。これまでは多くが友人だったので、大目に見てくれるだろうと、すべて無断で実名表記してきました。どうもすみません。

「チャラけた男」と書いてしまった吉田ディレクター、申し訳ございません。しかし、吉田ディレクターのおかげでプロダクションとの契約、レコード製作、その後の多くの人たちと出会えたのだと思います。「大奥十八景」のビデオが売れると今でも印税が発生します。そのあたりの契約も吉田ディレクターがしっかりしてくれていたのだな、と感謝しております。

簡単にその後の活動を書いておきます。

芸能プロダクションと契約はしましたが、レコード、CDをリリースすることもなく、本格的なデビューをしないで1990年12月に契約打ち切りになってしまいました。1年毎の契約だったので、正確にいえば、1991年6月で契約は終了しました。5年間は小さなライブハウスでたまに演奏するほかは、曲を作って練習する日々でした。週2回の練習と週1回のミーティングの他は、拘束されることはなく、アルバイトや曲作りをしていました。プロとしての日々はこうして「陽の当たる場所」に出ることなく終了したのです。

池谷、青柳をはじめ無断で実名を出してしまった多くの皆様、申し訳ございません。また、このブロクを読んでいただいた、たくさんの皆様、ほんとうにありがとうございました。

機会がありましたら、「デンデケ番外編」みたいなタイトルで、どこかに書いてみたいと思っております。

佐藤正則
yhe03440@f2.dion.ne.jp
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大学4年 10

2005-06-25 19:15:15 | Weblog
1986年1月から3月までは何も日記を書いていない。

レコーディングの話が進んだ。「はる」単独のオリジナルアルバムではなかった。映画のイメージサウンドトラックとしてのアルバムだった。映画は東映映画「大奥十八景」である。監督は「パンツの穴」の鈴木則文。「パンツの穴」といえば菊地桃子で、(そういえば、早慶バンド合戦で「モモコ賞」をもらったな)と連想した。

単独オリジナルではないのが、少々ひっかかったが、贅沢は言ってられない。そもそも、この話がどのように進められたのか詳しく知らない。吉田ディレクターが持ち込んだのか、映画の音楽担当者の意向か、鈴木監督の意向か、どれかはわからないが、このうちのどれかだろう。音楽担当者は桑島さんといって、業界では有名な人らしかった。「とっちらかっちゃてさあ」というのが口癖だった。自身も若い頃は作曲をしていたらしい。「一日で何十曲も作ったよ」と言っていた。私には気のいいおじさんに見えた。

大奥だから、裸が満載だなと思ったら、思った通りの映画だった。

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新メンバー

2005-06-24 23:09:23 | Weblog
新しいメンバーはどのようにして決まったのか、記憶がない。最終的にはマツダのコンテストで準優勝したバンドのドラムとキーボードになったのだが、キーボードについてはその前にもうひとり候補があって、実際に演奏もしている。吉田ディレクターが斡旋したのだろうか。

最初のキーボードは直井といって、すでに色々なミュージシャンのサポート(ツアーメンバー)などをしていた。DX-7しかなかった藤沢と違い、ひと通りの機材は持っていた。キーボードスタンドの上にはBOSEのような小さなモニタースピーカーがステレオでセットされていた。小室哲哉のことをあまり知らなかったが、小室哲哉みたいだな、と思った。

演奏もすべてそつなくこなした。「普通に両手で弾けるキーボーディスト」だった。だが、「はる」に対する熱意は伝わってこなかった。今までしてきた仕事と同じように「こなしていく仕事」のひとつのように思っているように見えた。

自然と数カ月で離れていった。もともと、リリーフ的な契約だったのかもしれない。
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大学4年 9

2005-06-23 23:53:48 | Weblog
1986年1月になっても、具体的な話は進まなかった。1月1日の日記から。


さて、私の近況は相変わらず何も変化がない。内定も出ない。バンド方面も何も進まない。何もいいことはない。私には何もない。池谷は先生になるのだろうなあ。

3月までどうなるかわからないが、自然体で臨みたい。バンドがだめならば、その時点で東京か浜松かどちらで生活するか、決める。優良企業へ入りたいとか、マスコミなどの派手な業種に入りたいとはそれほど思わない。30歳あたりになっても、定職も就かずブラブラしているというのには少々不安もあるが、私はそういう風にはなれないだろう。

私にとって音楽とな何だろうと思う時がある。私は音楽がそれほど好きではない。起きてから寝るまで一日中音楽を聴いてはいられない。なんとなく「プロになってしまいそうな」あたりに来てしまった自分に驚いている。中学の時にフォークギターを買わなかったら、私は音楽に触れるのがずっと後になっていただろう。今でもそうだが、絵を描く方がずっと好きだ。色々な楽器に触れた。どれも真剣に練習しなかったというのもあるだろうが、どの楽器もある一定のレベルを越えはしない。「音楽人」としての限界を感じる。本当の「音楽人」とは、楽器であれ創作であれ、非常に高いレベルに到達するものだと思う。曲はかける。どんどん書ける。が、私の作る曲もやはり一定のレベルを越えはしない。曲作りにおいても私は「音楽人」ではないのだと思う。

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新世界

2005-06-22 23:15:01 | Weblog
高校時代に一番影響を受けたアマチュアバンドは「イザベラ」だが、大学時代は「新世界」である。

香川出身の4人組のバンドだったが、ベースの宮竹さんが自ら歌うバンド「噂」を結成、脱退してしまったので、ベース不在の為、活動休止期間があったが、池谷やフタガワさんがサポートをして1985年は活発に活動した。最終的にはバックコーラスの新世界ガールズまで加わり、演奏の幅が拡がった。吉祥寺、曼陀羅のライブが印象に深い。

新世界はボーカル北村さんの作る詩がとてもいいのである。詩に力があり、大きい。

 大切なものを君にあげるよ
 僕の幸いのすべてをかけて


もし、バンドで成功して、ソロアルバムを作ることができたら「新世界」の完全コピーアルバムを作ろうと思っていた。
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大仏バンド 2

2005-06-21 23:12:29 | Weblog
「大仏バンド」のボーカルは後輩の女子学生で、小さくて可愛い人で性格もよかったが、私が惚れるということはなかった。(しつこいですか?)

なぜ、大仏バンドなのか、というと、私の「傾いた大仏」という曲をやるバンドだから、なのである。キーボードは谷さんといい、優秀揃いの早稲田の中でもとびきり優秀な学生だった。藤沢はよく谷さんのことを「あの人はパワーエリートになる」と言っていた。ボーカルとキーボードが女性メンバーである。

あまり練習した記憶もない。ウッドベースを移動させるのは大変だった。ロックラの部室があった建物には、ちょっとしたロビーがあり、そこで簡単な演奏をすることができた。(ロックラ新入生歓迎ギグが行われたのもここ)いくつか鍵盤のこわれたアップライトピアノもあった。ここで、冬の季節に大仏バンドは演奏している。私のウッドベースはピックアップをつけておらず、ほとんど聞こえなかった。

完全復活した「新世界」も同じ時に演奏している。ベースは池谷で、バックコーラスの女性(新世界ガールズ)まで従えての演奏だった。
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大仏バンド

2005-06-20 23:00:08 | Weblog
「宙ぶらりん」の状態の中で、ロックラの仲間を中心に「大仏バンド」を結成した。男女混合のバンドで、私はウッドベースを弾いた。練習を何回かして、ロックラ関係の演奏会で演奏して終わった企画バンドだ。池谷はいたと思うが、他のメンバーははっきりと記憶がない。女性が入っているので、青柳はメンバーではない。

青柳はバンドに女性メンバーを入れることを禁じていた。理由はこうだ。

「その女性メンバーはまちがいなく俺(青柳)に惚れる。そして、佐藤がその女性メンバーに惚れる。そうして三角関係になって、メンバー内不和が起き、バンド活動に支障が生じる」である。

私の女性ストライクゾーンが広いのは認めるが、誰でも必ず好きになるわけではない。また、すべての女性が青柳に惚れるはずはないと思うのだが、青柳はこの説を曲げなかった。

大仏バンドの女性メンバーに私は惚れなかった。
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傾いた大仏

2005-06-19 09:48:14 | Weblog
傾いた大仏

空が裂けた赤い同胞が       
共に食らう山に木霊する      
陰る木々に代わる道標       
忘れかけた赤き魂         

町中まで聞こえる         
火の見櫓の鐘           
轟き嵐やら風も吹き抜ける     

竹薮焼けた粉吹いた        
いろはにほへと          

大仏傾いた            
おまけに頷いた          
大仏傾いた            
そのままうつむいた        

逃げる民に追いうちをかける
広く裂けた大地の峡谷
雲が落ちる炎が揺らめく
一人きりの大鹿が笑う

馬小屋で生まれた
時々の御人が
差し示す教えも 今は空しくて

竹薮焼けた粉吹いた
いろはにほへと

大仏傾いた
おまけに頷いた
大仏傾いた
そのままうつむいた


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女子校文化祭 2

2005-06-18 19:36:39 | Weblog
いよいよ突入である。
「ついに、夢まで見た女子校に入るわけですな」「いよいよ女子高生にナンパされるのですな」と、我々は地に足がついてない。  と、日記は書いている。

模擬店に入ると「レンタルガール」というメニューがあった。風俗的な想像をしてしまいそうだが、これは、料金を払うと一定時間女子高生を「レンタル」できるシステムなのだった。「レンタル」して何をするのか、というと、それは「学校内を案内してくれる」のだった。レンタルガールになっている生徒はそれぞれ番号札を持っていて、客が指名するようになっていた。「校舎外の案内は厳禁」だった。それでも、女子高生にふたりきりで「ここが、理科室です」なんて案内されるのはいいものだったかもしれない。

「ナンパされる」はずだったが、もちろんそんなことはなく、こちらから「レンタル」を希望するでもなく、「ああ、女子高生がいっぱいいたなあ」という気持ちだけで満足していた。

山中はフィーリングカップルイベントでカップルが成立し、その相手とこれまた「校内案内」をしてもらっている。
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女子校文化祭

2005-06-17 23:43:15 | Weblog
1985年11月に山中と高橋とで女子校の文化祭に行っている。「女子校の文化祭に行くとナンパされる」という情報があったからだ。身の程を知らないと言わざるを得ない。山中はいい男だが、私と高橋はそうではない。

山中のサークルの後輩(女子大学生)の妹が通う高校だった。女子校の文化祭に行くと、女子高生が「はやくしないと、ナンパできないじゃないっ」と叫んでいるとのことだった。日記にはこうある

「女子高生にナンパされる」 これほどの幸せがほかにあろうか。僕は一もニも無く「女子校文化祭ツアー」の参加の意を表明した。また、高橋君も僕と同じく大いに乗り気であり、本日の決行となったわけである。

当日、山中はなんと背広姿で現れた。

この「女子校文化祭」はあまりに刺激的だったらしく、詳しく記録している。高橋は大幅に遅刻している。
ナンパはされなかったが、フィーリングカップル5対5みたいなイベントには参加している。


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