極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

高校1年 1

2004-07-31 07:25:19 | Weblog
高校へ入学した。

受験勉強はあまりしなかった。勉強はあまりしなかったが、かといって「ジャンジャカ唄い」をそれほどしたわけではない。ギターを始めた当初に比べてギターを弾く時間は減っていった。

中学の時はバレーボール部に所属していた。非常に弱い学校だったが、一応主将をしていた。公式戦で勝った記憶はないが、それでもバレーボールのセンスがあると自惚れていた。身長は中学2年の頃からほとんど伸びなかったが、ちょっとはできると思っていた。

入学した高校はバレーボールの名門校だった。バレーボールで選んだのではない。たまたま、学力的に相当であると教師が決めた高校だった。今にして思うと少し変な気持ちもするが、受験する高校はたいてい教師が決めた。本来なら自由であるはずなのに、親との三者面談をして、「この高校にしたらどうですか」と言われるのだ。もちろん、拒否する権利はあるが、ほとんどの生徒がそれにしたがった。私の場合もそうだった。どんな高校かも知らないまま受験して、入学してバレーボールが強い高校だと知ったのである。

「ちょっとはできる」と思っていたから、バレーボール部に入部した。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 10

2004-07-30 22:56:40 | Weblog
ラジオの影響は大きい。

初めてラジオをまともに聴いたのは小学生の頃だが、今でも生活に欠かせない。ばんばひろふみ のチケットは静岡SBS放送の電リク番組で獲得した。

FM愛知もよく聴いた。その当時民放FM局は少なく、中部エリアではFM愛知しかなかった。室内アンテナをいくら高くしても、雑音は混じった。だが、AMと明らかに違う音質は魅力的だった。女性アナウンサーが好きになり投稿もした。

その後、女性アナウンサーは名古屋ローカルのテレビにも出ていた。

声の印象と明らかに違う実物に絶句した。ただのおばさんだった。

柴田チコ は今どうしているのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 9

2004-07-29 21:39:17 | Weblog
「いちご白書をもう一度」は1975年だから、バンバンの知名度はあったが、「SACHIKO」は1979年で、「SACHIKO」をやったかどうか、よくおぼえていない。「女は天使なんかじゃないさ」という曲がその時いち押しだった曲で、印象に残っている。「女は~」がいつの発売か調べればはっきりするが、なんとなく「SACHIKO」のヒット以前だったように思う。客席はガランとしていてお寒い感じだった。ガランとしていたのだから、「SACHIKO」以前だったのかもしれない。

特に好きでなかった、ばんばひろふみのコンサートになぜ行ったのか。

ラジオの懸賞で当選したからだ。チケットはペア券で、全く行く気のなかった妹といっしょに行った。妹が小学生の頃とは考えにくい。とすると、高校時代だったのだろうか。

小学校から中学校にかけてラジオはよく聴いた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 8

2004-07-28 22:22:04 | Weblog
中学の時はじめてコンサートに行った。

チューリップだ。「心の旅」は1973年の作品だから、大ヒットしたのは小学生の頃だ。その後、ヤマハのセンターでレコードを聴いたりして、好きになった。ビートルズも平行して聴いていて、自分の中では「日本のビートルズみたい」と思っていた。生まれて始めてプレイガイドでチケットを買い、ひとりで浜松市民会館に行った。

オープニングは「夢中さ君に」だった。今でも、オープニングの光景は憶えている。
生のバンド演奏を見たはじめての経験だった。

この人たちは好きな演奏をして、生活できていいなあと思った。

次に行ったコンサートは ばんばひろふみ だ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 7

2004-07-27 22:23:26 | Weblog
入口君とは中学以来、まったく親交がないのだが、実は入口君は私が中学時代好きだった竹本さんと結婚をしたのである。

中学時代と書いたが竹本さんとは高校も同じで高校の時もずっと好きだったのだが、私のその恋は成就することなく現在に至るのである。

中学以来親交はないと書いたが、雅之とふたりで結婚祝いに入口宅まで行ったことがあるように思う。大学を出てすぐに結婚したはずで とすれば1985年あたりだ。その時すでに子供がいたと思う。子供の名前はたしか「奈緒」だったはずだ。訪問時、夫人、娘さんともに不在だった。雅之とともに「おめでとう」と言って、そそくさと帰ってきた。行こうと言ったのは当然私だ。

奈緒ちゃんはもう20歳になっているはずである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 6

2004-07-26 23:39:42 | Weblog
そんなわけで私の中学時代は終わるのである。

ヤマハのフォークギターを買ってもらい、簡単なコードを覚え、ストロークのみのジャンジャカ演奏で他の人が作った曲を唄っていた。ギターとは伴奏をする楽器であり、それ以上のものではなかった。歌は自宅で唄うものであり、人前で披露するものではなかった。それでいいと思っていた。

エレキサウンドについてもまったく興味がなかった。中学3年の時はクラスメイトの入口君に家に時々行ったが当時高校生だったお兄さんの部屋にはエレキギター(よくわからないメーカーのセミアコ)とドラムセットがあった。また、これまたよくわからないが、ビートルズのメンバーそれぞれのポートレイトが額装されていた。ビートルズのレコードもほとんどあった。入口君の家でビートルズを聴いたことはなかったが、なにか大人の匂いがした。

中島君に入口君のことを話した時

「あいつは金持ちだからな」と軽蔑するように言ったことをよく憶えている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 5

2004-07-25 21:24:31 | Weblog
聞いていたのは女子テニス部の主将、鈴木さんだった。おかっぱで肌は真っ黒だった。鈴木さんはスポーツだけでなく、勉強も美術音楽も優秀だった。優秀で発言力がある男勝りの女性だった。私の一番苦手なタイプである。あまり話したこともなかった。

ドギマギしている私に「なかなかいいじゃない」と鈴木さんは偉そうに言った。
「はあ、どうも」と私。ちょっと嬉しかった。

しかし、次の一言が効いた。

「でもね、佐藤君、2弦のチューニングが合ってないわよ」

ジャンジャカとコードストロークをしていて、2弦の調弦の違いがわかるのだろうか。これは今も謎だ。実際に違っていたのかどうかもわからない。
「チューニングが違う」と言われて、私は恥ずかしさのあまり走るようにして音楽室を飛び出してしまったからである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 4

2004-07-24 07:09:07 | Weblog
中学3年の文化祭では中島君と久保田君が音楽室でライブ演奏をした。

その頃私はもうかなり「ジャンジャカ唄い」をしていたが、とても人前で演奏する気にはなれなかった。「人様にお聞かせできるものではない」と思っていたのである。中島君たちはすごいなあと思った。文化祭の前日、中島君達は「リハーサル」みたいなものをしていた。久保田君は3フィンガー演奏をしていた。うまいなあと思った。どうしたらあんな風に弾けるのだろう、自分はピックを使って、ストロークをすることしか知らない。

「リハーサル」終了後、翌日の本番に備えてギターはステージ(といっても音楽室の前の方)にそのまま残されていた。中島君達がいないのを幸いにギターを弾いてみた。唄ってもみた。家で唄うのとはちがってなにか新鮮な気がした。ちょっと気持ちがよかった。

唄い終えてびっくりした。

聞いていた人がいたのである。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 3

2004-07-23 11:27:53 | Weblog
帰宅すると、ずーっと唄っている日々が続いた。

こんなに唄い続けていいのか、と思った。唄っていると時間はあっという間に過ぎた。もともと少なかった勉強時間がより少なくなった。学力はどんどん落ちていった。中学3年になっていた。高校受験である。それでも唄い続けた。さすがにこれではいかんと思いはじめた。

ある時担任の教師に「受験勉強のためにギターを控えます」と宣言したことがある。
教師はひざをポンと叩き「よくぞ言った」とほめたものだ。

レコードもよく聴いた。ちかくにこれまたヤマハが運営していた「無料でレコードが聴ける」施設があり、よく利用した。図書館のようなものだ。何を聴いていたかあまり憶えてないが、洋楽を主に聴いていたように思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中学時代 2

2004-07-22 09:53:19 | Weblog
ピックガードを変えて、ヘッドもROLANDにして、やっと弾きはじめるのである。

誰かに教えてもらった記憶はない。ヤングギターの別冊「フォークギター入門」を買って教則本とした。TAB譜がついていてわかりやすかった。誰でも最初はそうだと思うが、はじめは指が痛くてやめようと思った。指も痛くなくなり、簡単なコードを覚えると井上陽水のソングブックを買って、ジャンジャカ唄っていた。

はじめてイントロらしきものを付けて弾き語りができたのは、さだまさしの「雨宿り」である。Dのコードで1弦がただ一音ずつ下がるという いたって簡単なものだ。しかしこの「演奏らしきもの」がとてもうれしくて何度でも唄った。

「雨宿り」以外はイントロもただコードをジャンジャカやるだけで唄っていた。

実はあれから30年近く経った現在でも、「ジャンジャカ唄い」は変わっていない。コードも中学2年の時おぼえた簡単なコードしかわからない。dim(ディミニッシュ)やm7♭5(マイナーセブンフラットファイブ)なんてきたらもうだめだ。まったくわからない。年末にソニーマガジンから出る「あのうたこのうた2000曲」を買って、ジャンジャカ唄いをするが、わからないコードはその都度「押さえ方表」を見ている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする