極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

夏のメランコリー

2005-12-31 07:53:50 | Weblog
住宅地の公園
外で遊ぶ子供を
車の窓透かして見てた
太陽に照らされた
抑えきれぬ欲望
悪魔の声優しく響く

変形する好みの果て
続けてきた蟄居の果て

夏のメランコリ-


抵抗できない君
細くて白い腕
手の中に隠れる程に
夏は暑すぎるから
ひとときの悦楽に
もう一度イカせてほしい

氾濫するメディアの果て
止められない奇形の果て

夏のメランコリ-
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宮崎勤

2005-12-30 11:55:25 | Weblog
宮崎勤の連続幼女誘拐殺人事件が起きたのは1989年の夏だ。

唄にしてみた。

歌詞に問題ありとなって、全面的に歌詞を変更した。「夏のメランコリー」という。男女の気持ちのズレをテーマにした。タイトルはそのままだ。その歌詞でデモテープ録音した。間奏のサックスソロは気に入っている。変更した歌詞は気に入らない。

不採用になった「宮崎事件物」の方が圧倒的にいいと思っている。
せっかくだからと、私のボーカルで原詞のまま録音している。

この曲はギターで作ったので、今でもよく唄っている。

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白いスケジュール

2005-12-28 00:50:39 | Weblog
事務所に所属して4年も経つとそれなりに「古株」になる。事務所は大手に属する芸能プロダクションだったので、所属タレントはたくさんいた。チーフマネージャーが何人かいて、各人がいくつかのタレント、アーチストをグループとして管轄していた。それぞれのスケジュールはグループ毎にホワイトボードに記入される。所属年数順に上から並んでいた。我々より上の位置には、誰でも知っているようなタレントの名前が並んでいた。それらタレントのスケジュールは真っ黒になっていた。

ホワイトボードの順番ではかなり上にいた我々のところだけ、週2回のリハーサルしか記入されていなかった。

古株なのにスケジュールは真っ白だったのである。
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1989年

2005-12-25 21:04:26 | Weblog
おそろしいことに1989年の日記にバンド活動のことはほとんど出てこない。三越の他に江古田駅前の「長崎チャンポンリンガーハット」のアルバイトも始めた。三越とリンガーハットとバンドと知り合いのビデオ製作会社からの音楽製作の仕事とでとても12月は忙しい、と12月5日の日記にある程度だ。

ビデオ製作会社絡みの仕事は短期間ではあったが、(その後、知り合いが退社したり、会社自体が倒産した)それなりに忙しかった。2、3日の日数で十数曲、作らなければならないこともあった。そんな時は池谷の協力も仰いだ。限定されたところで使われるビデオがほとんどだったが、ローカルTV-CMの音楽をしたこともある。「ロヂャース」と「ナビシステム」と「正義の味方引越センター」のCMだった。

「ロヂャース」は現在もある量販店。キッドクレオール&ココナッツのアレンジをそのままパクった。

「ナビシステム」は小さな不動産会社だった。社長が愛人のような女性を連れて録音に立ち会い、その愛人から、いろいろと注文を付けられた記憶がある。このCMの監督は「黄泉がえり」の塩田明彦さんだった。

「正義の味方引越センター」は社長から事前に「デビルマンのテーマ曲のような曲がほしい」と言われていた。私は「あれはだれだ、だれだ、だれだ、」という曲しか知らず、こんな暗いムードでいいのかなあ、と思いながらもそれ風の曲を仕上げた。

当日、スタジオで流すと「ぜんぜん違う」と言う。デビルマンにはもうひとつ景気のいいテーマ曲があって、そちらだと言うのだった。
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俺は誰なんだよう

2005-12-24 21:28:35 | Weblog
シャブ漬けになった女が      
道端でゲロを吐く         
仮釈になった男が         
簡単に人を殺る
犯罪だらけの
曲がった地面の
ヘイ俺は誰なんだよう

若者たちが            
身障者を蹴飛ばす         
この国の主は           
宣伝文句を並びたてる       
身の下相談は           
あんたにゃ辛かろう        
ヘイ俺は誰なんだよう       

教えてくれ
逝かせてくれ
お前の腕の中で

街角の主婦は
覚醒剤の為に股を開いた
朝焼けが
屍の山を朱色に染める
乾燥地帯は
湿原地域は
ヘイ俺は誰なんだよう


当然にしてバンドでの採用はなかったので、個人デモテープ段階で終了している。
ブルースナンバーである。
自分でギターを弾いたらあまりにしょぼかったので、遊びに来ていた池谷に一発録りでギターを弾いてもらった。


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寿命

2005-12-23 23:44:32 | Weblog
1989年になった。バンドは1990年の12月31日で解散するので、残りの寿命はあと2年である。

この2年間で何をしたのだろうか、と思う。あまりこれといった記憶がない。私はサックス兼バックボーカル兼「座付作家」となった。池谷の後任としてリーダーになったキーボード安斎はサックス技術のない私の為に「簡単だが印象に残るサックスのフレーズ」を曲のどこかに挿入することを忘れなかった。私はそこだけを吹いていればよかった。その内、事務所が頼みもしないのに、ヤマハのウインドシンセ(キーボードの代わりにサックスのような吹奏スタイルで演奏するもの。T-squareの伊藤タケシなどが吹いていたやつ)を買ってくれた。WX-7という機種だ。それにカワイのKー1という音源をつないで演奏した。これまた、安斎はだれでも吹けるメロディをアレンジしてくれた。

1989年1月には「俺は誰なんだよう」という曲を書いている。

ジョージ秋山の「くどき屋ジョー」という作品の中で、毒腹というヤクザが出てくる。毒腹は「オリは誰なんだよう、オリの名前を言ってみろ」と人々を脅すのである。
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サックス

2005-12-21 22:33:57 | Weblog
ソプラノを買って練習したが、そうそううまくはならない。そもそも「初めからソプラノ」がまちがっているような気がする。普通はアルトかテナーだろうか。ベースをやめたかった理由に「重いものを持ちたくない」という「ヘタレ根性」があったので、テナーなんてとても買えなかった。ソプラノは小さいからいいな、と思っていた。そんな程度にしか考えていなかったのである。コルトレーンやウエインショータ-のように吹けたらいいなと思ったが、バービーボーイズのコンタよりも吹けなかった。タレントがオチャラケでやるバンド演奏レベルだった。欽チャンバンドみたいな。

同じ頃、藤沢もサックスを吹いていた。「むらさき」のプロデューサーの事務所にいて、サックスも吹けば、エンジニアもすれば、運転手もするという「なんでもやる男」になっていた。サックス奏者としてレコーディングやツアーメンバーになっている。

テクニックは捨てることにした。

すべてフリー演奏でいこうと思った。

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ベースをやめる

2005-12-18 07:59:06 | Weblog
「ベースをやめたいんだけど」と言ってみた。1988年の夏頃である。「ベースをやめて、バンドも辞める」と思っていた。「では、何をやるのか」と言われ、「サックスをやりたい」と言ってみた。サックスはまったく吹けなかった。まったく吹けない人がプロでいいのでしょうか。

結果は「ではそうしろ」だった。

新しいベースが加入した。テクニックは私の数千倍あった。人物的にもとても大人だった。プロ意識も強かった。バンドの演奏は飛躍的に「プロ化」していった。私は「自分ではできないベースライン」をアレンジすることができた。「このフレーズはきつい」と言いながらもなんとか弾きこなした。さすがはプロである。

ソプラノサックスを買った。1988年10月頃である。セルマーの彫刻の無いタイプである。38万円ほどした。またローンである。
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引っ越し2

2005-12-13 22:18:02 | Weblog
引っ越しには家賃の半年分がかかるのが普通だ。敷金礼金不動産手数料前家賃などで6ヶ月あたりになる。37000円の6ヶ月分、222000円を質屋に通う男のどこから出たのだろうか。

事務所に借りた。300000円借りて、月々のギャラから10000円を引き、30回で返した。借りたのは1988年4月である。契約更改時期は6月か7月かで、ギャラは1991年の更改前まで支払われたので、完済している。

金が無い時は、武蔵大学の学食に行った。「トマト煮ランチ」というのが、300円位だった。おかわり自由だったので、ライスを別容器に移しかえして持ち帰った。「まわりの学生の目を盗んでこそこそとごはんを盗む人」なのであった。
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引っ越し

2005-12-12 23:29:05 | Weblog
1988年6月に引っ越した。なじみのある練馬界隈がいいなと思い、西武池袋線江古田駅近くで探した。不動産屋に行き、職業を言うと2軒ほどで断られた。そんな仕事の人に部屋は紹介できないというわけだ。ひどい話である。職業を問われ、私はおそらく「バンドで食ってます」と答えていたと思う。「音楽家をめざして、アルバイトをしてます」と答えた方がよかったかもしれない。決めたアパートは江古田駅から、少々離れていた。現在の大江戸線新江古田駅が近い。トイレはあったが、風呂はない。家賃は37000円である。銭湯は近くにあった。喘息の薬をもらえる国立診療所も近くにあった。

11時頃に起きて、顔を洗い、フジテレビの昼のニュースを見て、銭湯横の喫茶店で飯を食うというのが金のある時のパターンだった。
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