極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

社長

2005-08-30 06:19:41 | Weblog
「はる」が否定されたのは、事務所の社長の意向だった。これでは売れない、と思ったのだろう。

「俺はこういう音楽が嫌いだ」と実際に言われた。嫌いな音楽をしていた者とどうして契約するのか、やはり今でも不思議だ。

「安全地帯を仮想敵国と思え」と言われた。安全地帯とはもちろん玉置浩二の安全地帯である。当時は猛烈に売れていた。「仮想敵国」という言葉を実際の生活の中で使用する人にこの時初めて出会った。

 仮想敵国  近い将来に戦争の発生する危険が予想され、国防上作戦計画を立案しておく必要のある相手国
(広辞苑)

社長が言いたいことをより正確にいえば「安全地帯にとっての仮想敵国になるようになれ」という意味なのか。それとも、「安全地帯側から戦争をふっかけてこられるような(=安全地帯が仮想敵国)存在になれ」
ということなのか。

簡単に言えば「売れるバンドになれ」ということだった。

事務所と契約しても、これまでの音楽を捨てているのだから、曲がない。

当面は、曲作りにはげむことになる。
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東京都のスカですか?

2005-08-27 22:44:55 | Weblog
バンド名は「+B」と決まった。「ぷらすびー」と読む。

「+B」は、根津甚八のアルバムタイトルからとった。ほかに理由はない。なんとなくいいな、と思っただけで、いろいろ候補をあげた中で、なんとなく決まった。

池谷の案では「TOKYO EXOTIC POP」などというのもあった。「東京エキゾチックポップ」である。頭文字をとって「TEP」、テップである。池谷は東京にこだわりがあったようで、その他にも「トーキョートノスカデスカ」などというネーミングも考えてきた。「スカデスカ」は、「なんとか・de・なんとか」風に使う。

「トーキョートノスカ・デ・スカ」としてみると、格好よくなる。

我々はスカバンドをやる計画ではなかったので、没になったが、「トーキョートノスカデスカ」は「東京都のスカですか?」とも読むことができる。また、「東京、殿スカですか?」とも読める。

なんとも洒落ている。

現在、優秀なコピーライターとして活躍する池谷のセンスが光る作品である。

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最終段階での「はる」

2005-08-26 00:14:44 | Weblog
ドラムとキーボードが交代し、レコーディングをした「はる」と、ロックラで育ちコンテストで優勝した「はる」と、違うだろうか、と考えてみた。

これは、違う。

色々な意味で違う。

私は「はる」に関係した全てのメンバーに何の偏見もない。好きも嫌いもない。が、ではどちらの「はる」が魅力的だったか、といえば、藤沢と田中がいた「はる」の方が好きだった。ストレートなビートしか叩けないドラムと両手で弾くことのできないキーボードのいた「はる」が好きだった。誤解を恐れずに言えば、ふたりは、ある意味で「不完全な」ミュージシャンだった。そして、楽曲を作っていた我々も、深い音楽知識も素養もなく「不完全な」ままで和的な音楽を作っていた。そんな、「不完全な」ままのメンバーが作り出す音楽が聴く人にとって「新鮮」であったのかもしれない。

レコーディングのメンバーで「はる」の世界を追求することはなかった。レコーディングのメンバーで「はる」を続けていたら、また違う「はる」ができていたのかもしれない。

我々は、池谷の言う「ショーケース的」なライブをしただけで終わってしまったのである。
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方向転換 2

2005-08-24 00:10:57 | Weblog
我々も「バンド名と音楽性の変更」について、あまり真剣に考えなかった気がする。少なくとも私はそうだった。この時もこれまでのように「なんとかなる」と思っていた。「事務所と契約」の方が大きかった。

「はる」をやめろだと、冗談もいいかげんにしろ、おととい来やがれ、と言ってもよかったのである。

吉田さんや大友さんを始め、「はる」の音楽を評価してくれた多くの人に申し訳ないと思う。


いろいろなターニングポイントがあった。「あの時こうしていたら」と思うことが多い。事務所との契約も、「はる」を優先させていたら、どうなっていたかと思う。我々が「はる」を選択していたら、この事務所との契約はなかった。吉田さんは「はる」として契約する事務所を見つけられなかったかもしれない。そうした場合、プロとしての活動も実現しなかった。

人生はやり直すことができないのである。

実際の我々は、あまり深く考えることもなく、新しいバンド名はどうすると話し合った。


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方向転換

2005-08-21 10:46:01 | Weblog
事務所の接触は4月にあり、契約が決まるまで2、3ヶ月かかったのには理由がある。事務所の社長からの条件があったからだ。

それは「はる」としての契約はしない、ということだった。

バンド名をどうする、という話は山中湖合宿レコーディングの時点ですでにあったと思う。「バンド名を改めて、路線も変える」というのが条件だった。これが第一条件として出されていた。

結論からいえば、我々はこの条件を受け入れ、「はる」として作った曲をすべて捨てて、新たなバンドとして事務所と契約するのだが、今にして思えばこの条件自体少々おかしい気がする。

我々が評価されたのは「はる」としてである。「はる」の音楽をやめて、「はる」以外の音楽を選択した場合の可能性はどれだけあったのだろうか。「はる」の音楽がそこそこよかったから、他のジャンルでもそこそこやるだろう、と思ったのか。青柳のボーカリストとしての魅力だけだったのか。疑問だ。

高校野球で投手として評価された選手がプロで打者に転向するのとはちょっと違うと思う。

我々に課せられたのは「安全地帯みたいなバンド」だったのだから。

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2005-08-20 01:00:58 | Weblog
十五の空が変わる時
一羽の雁が飛び立つと
俄に曇る朝焼けは            
迫り出す雲の戯れに           

うなりを持つ風が辺りを包む
なす術も無いまま怯えるばかり

我等の声は何処にある          
忘れ去られた此所にある         

迷い始めた今何処へも行けぬ       
けりも付かないままサドンに代わる    

嵐は
答えをくれぬ 
           
嵐は
何処か

               

沸き出す雨と降る雨が
六尺五分で交差する

広がる川の手が全てを流す
子供も年寄りも流れに落ちる

嵐は
答えをくれぬ

嵐は
生きてはゆけぬか


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契約

2005-08-18 23:16:22 | Weblog
芸能プロダクションとの契約が決まったのは6月か7月かはっきりしていない。4月、レコーディングをしている時から、事務所関係者との接触はあった。6月3日の日記には「事務所との交渉は暗礁に乗り上げた状態」と書いているから少なくとも6月上旬ではない。この頃もほとんど日記を書いていない。

業界でも大手に属する事務所だった。契約書のようなものは交していない。サインして押印した記憶はない。すべて口頭で行われた。年棒は144万円だった。これから源泉所得税10%が引かれて、1296000円になる。月割りで108000円である。当時、プロ野球選手の最低年棒が360万円と聞いていた。それから比べると低い気もするが、芸能プロダクションのギャラとして、月10万円を超えるというのは、破格だったように思う。我々の噂の中では「ゼロか数万円」が芸能プロの相場だった。

大学を卒業して、そのままレコーディングし、そのまま事務所と契約した。まったく空白期間がない。この間の我々のマネージメントは吉田ディレクターがしていた。

吉田さんの尽力に感謝したい。


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「はる」としての演奏

2005-08-17 16:24:47 | Weblog
この頃、「はる」として演奏したのは、「マツダカレッジサウンドフェスティバル」のゲストとして2回、(ブロック大会、決戦大会)、マツダの新入社員を対象にしたパーティーで1回の計3回だったと記憶している。メンバーはレコーディングのメンバーである。

マツダカレッジの決戦大会は6月26日、渋谷公会堂だった。我々は「前年グランプリバンド」という意味でのゲストで、「プロミュージシャン」としてのゲストではなかった。プロのゲストは「原田真二」である。正確にいえば「原田真二&CROSS」だ。

どの曲を演奏したか、記憶にない。「むらさき」はやったと思うが、いずれも3、4曲だったと思う。レコーディングの時に作った曲(「愛・いまひとたびの」「夢籠り」「やくそく」など)は演奏したかどうか、おそらく演奏していないと思う。

マツダのパーティーも「プロのゲスト」がいて、それは「TOM-CAT」だった。「TOM」は「お前は鬱病か」とつっこみたくなるほど、落ち込んでいた。

マツダのパーティーでは、同郷の後輩がたまたまいて終了後「感激しました、がんばってください」と激励された。実は私はその後輩をよく知らなかった。本人が言うのだから間違いはないと思うのだが。

この後、「はる」としての演奏はない。

1994年10月22日、私の結婚式の2次会で演奏するまで、約8年間なかった。
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大奥十八景 6

2005-08-16 20:58:21 | Weblog
景の七「絶頂麝香まどんな探し」
景の八「ばっくおーらい孔雀式」
景の九「禁じられた愛の情炎」

と、ここで終わってしまう。

エピソードがそもそも18もないのである。

「大奥十八景」は当初、単品でのロードショーの予定だったが、出来が悪かったのか、その他の要因かニ本立ての上映となった。当然「大奥十八景」が「オマケ」の方の作品となる。ニ本立ての「主作品」は私の記憶が正しければ緒方拳の「火宅の人」だったと思う。

「大奥十八景」はとてもおもしろい作品ですから、ぜひビデオを観てください。
 東映ビデオから5250円(税込み)で販売中です。(チェックしたら、成人指定になっていた)



東映ビデオ
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大奥十八景 5

2005-08-15 21:45:52 | Weblog
「大奥十八景」は原作があって、現在は学研M文庫で出ている。原作者は南原幹雄だ。私は読んだことはない。映画の内容とは違う部分があるとは思うが、機会があったら読んでみたいものだ。

パンフレットに戻ろう。

景の壱「上様、お胤がほしい」
景の弐「め・め恋、大奥れずびあん」
景の参「元気じるし女綱引き」
景の四「陰謀!偽ダネ仕込み」
景の伍「Sいろ Mいろ おんな刑罰」
景の六「大奥純愛えくすたしい」

と、ここまで書いてきて、それぞれが、ピンク映画のタイトルでいける気がしてきた。パンフレットには景それぞれの解説もある。すべて転載しようと思ったが、「死ぬのは奴らだ3501」の時のように「長い」とお叱りを受けそうなので、ひとつだけ紹介する。

「元気じるし女綱引き」(女は め、と読む)

 近頃めっきり衰えたのが上様のご性欲。そこで、女に飽きた将軍家綱をなんとかハッスルさせようと、年寄一同が無いチエを絞って打ちだしたのが女綱引きというイベント。若い裸の女たち数十人が紅白に分かれて「わっしょい、わっしょい」女体裸舞の刺激的絵巻。
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