極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

時代に五寸釘

2005-07-31 07:53:14 | Weblog
キャッチコピーはどうする、と吉田ディレクターは悩んでいた。

中森明菜のキャッチコピーは「ちょっとエッチなミルキーッ娘」である。あまりにも有名だ。ネットで調べるといろいろ出てくる。「娘」は「こ」と読む。私は「ミルキッ娘(みるきっこ)」だと思っていた。大体、「みるきーっこ」だと発音しにくくはないか? どうでもいいですか。

吉田ディレクターは「時代に五寸釘」がいいと主張した。我々も色々なアイデアを出したとは思うが、私は基本的に「どうでもいい」と思っていた。「どうでもいい」とは思っていたが、「五寸釘」はどうだろう、とも思っていた。

結局「時代に垂直」となった。「時代に? 垂直? 」 ?マークは文字化けではありません。「時代に五寸釘」もなんだかわからないが、「時代に垂直」もなんだかわからない。

ともにワーナーパイオニアでありながら、「ちょっとエッチなミルキーッ娘」と比べるとセンスの差を感じる。「ちょっとエッチなミルキーッ娘」は、わかりやすくて、「どんな娘なんだろか」と思うではないか。

男心をくすぐる。

ついでにこの頃、中森明菜はどんなレコードを出していたのか、調べてみた。
1986年の2月に「DESIRE」、これは売れましたね。
1986年の5月に「ジプシー・クイーン」 

「ジプシー・クイーン」? 知らないねえ。この頃から売れなくなってきて、中森明菜の「暴走人生」が始まったような気がする。
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はる

2005-07-30 23:09:38 | Weblog
ワーナーパイオニアの資料が手元に残っている。「売り込み用」資料だ。と、いっても、ただのワープロ打ちをしただけのものだ。写真も何もない。

はる

日本伝統の音階・リズムを生かした、新たな日本のオリジナリティ溢れるロックを目指しています。
世界のマーケットで、イギリス・アメリカのロックと対等に渡り合えるような、クオリティを備えた「日本のロック」を創り上げることが「はる」の夢です。
又、ステージにおいては、映画・演劇等と同質のステージ・アートとして成立するように、視覚的アプローチを行っています。パントマイム・パフォーマンス・ステージアート・照明・サウンドエフェクト・スライド等を融合させながら、「はる」独自の世界を創り上げたいと思います。


この後、メンバープロフィールがあり、「むらさき」と「富士高」と藤沢の「月影歌」の歌詞が印刷されている。ワーナーパイオニアの連絡先と担当者名が書いてある。

レコードは1986年6月10日に発売された。

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ベストサウンド2-2

2005-07-29 01:32:54 | Weblog
衣装は自前の白シャツ&中国帽子。コンテスト等も大体この格好だった。リハーサルで井上鑑から「どんな活動をしているの?」と言われ、ライブハウスの名称を言ってしまい、「NHKだから固有名称は避けてくださいね」と言われた。

ゲスト演奏という形での出演だった。スタジオ内には篝火が焚かれ、豪華なセットに思われた。演奏もまあまあで、ビデオに撮っておけばよかったと思っている。当時私は当然のことながらビデオなど持っていなかった。

「はる」としてテレビ出演したのはこの時だけである。もっとも、その後事務所と契約してからも、まともなテレビ出演はなかった。

和田加奈子は威張っていて、スタッフ受けがよくなかったようだ。時間ギリギリにスタジオ入りし、「おやおや、やっと姫の登場だ」とスタッフに陰口を叩かれていた。
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ベストサウンド2

2005-07-26 08:09:28 | Weblog
日記によれば1986年4月20日 NHK教育「ベストサウンド2」に出演している。

レコーディングの真只中である。芸能事務所と契約する前だから、出演交渉その他は吉田ディレクターがしてくれたのだと思う。NHKは「萬世放送施設」のアルバイトで何度も来ていた。が、それまでは撮る方のスタッフ(のお手伝い)としての仕事だった。初めて「撮られる方」になったわけだ。池谷も「出演者としてNHKに来るなんて」と感動していた。

ここでもメイクさんにメイクしてもらった。NHKのメイクスタッフだったと思う。「ベストサウンド2」の司会進行は、井上鑑、和田加奈子。初代「ベストサウンド」の司会は、ネットで調べると、難波弘之、中村あゆみ。うーん、そうだったっけ?

和田加奈子についても、ここ20年、記憶の彼方にすっとんでいたが、今回調べてみると、なんとマイク真木と結婚しているではありませんか。前田ビバリと別れていたのか。うーん。
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むらさき 14

2005-07-24 01:10:42 | Weblog
ジャケット撮影は麹町近辺のスタジオで行われた。

スタイリストやらメイク係やらがいた。青柳は詰め襟風の洋服を着せられた。我々は黒子の格好をさせられた。「和風ロック」的なイメージは出ていた。生まれて始めて口紅をされた。口紅といっても、オカマの様な赤い口紅ではない。「艶を出す」程度のものだった。しかし、感触はとても嫌なものだった。とくに口紅をしたままで、食事をするのは困った。当然にして映画「細雪」の冒頭シーンを思い出した。吉永小百合は紅い口紅を汚すことなく食事を摂るのである。

撮影は黒子衣装の他に、映画のパンフレット用に「白シャツに変な帽子」を被ったものも撮った。が、この時だったかどうかは記憶にない。

「宣材」用写真はその後事務所と契約してから、2回ほど撮っている。

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むらさき 13

2005-07-22 23:52:27 | Weblog
むらさきのレコーディングについての思い出はこんなところだ。忘れていることも多い。日記もつけていない。忙しかったのだと思う。東映の音楽プロデューサー高桑さんのはからいか、京都での撮影の見学もできた。監督とも話す機会があった。ラッシュを見ていたので、色の使い方を「斬新でいいですね」とおべんちゃらを言うと、とてもうれしそうにしていた。作品をとても真面目に一生懸命作っている、ということがよくわかった。世間的には「お色気チャンバラ娯楽時代劇」みたいな扱いになるB級作品「大奥十八景」だが、監督はじめスタッフはクソ真面目で作っていたのである。

高桑さんには「映画関係の通がよく来る」という蕎麦屋に連れていってもらった。

松山英太郎が背を丸めて蕎麦を食べていたことをよく覚えている。
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むらさき 12

2005-07-20 23:37:59 | Weblog
レコーディングエンジニアはドイツ人である。プロデューサーの事務所所属だった。発音のよくわかる簡単な英語で話してくれたので、外国語のほとんどできない私でも、なんとなく言っていることはわかった。音を作り上げていく技術については何の知識も興味もないが、とても優秀な人だったと思う。「むらさき」は最高のプロデューサーと最高のエンジニアに恵まれたとても幸運なアルバムだ。

プロデューサーとエンジニアは「むらさき」以前に、根津甚八のアルバムも製作している。もうとっくに廃盤になっているだろうが、とてもいいアルバムだ。私は購入している。

アルバムタイトルは「+B」という。

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むらさき 11

2005-07-18 19:35:29 | Weblog
山中湖スタジオは木々に囲まれた大自然の中にあった。宿泊施設はきれいで、食べ物はうまかった。私は演奏するというよりも「療養」に行っているような気がした。何日か「合宿」した。ある日、朝寝坊の池谷を起こしにいった私は、部屋の棚に頭をぶつけてしまう。いてっと思ったら、頭から血が流れてきた。どうやら1センチくらいは切れていた。

これは縫った方がいい、という大人の意見を聞いて、近くの医者に行った。保険証を持っていなかったので、吉田ディレクターの保険証を借りた。2針縫った。今でも坊主にすれば、「キ」の字の傷跡があるはずだ。

喘息から「復帰」した途端、頭を縫っている男。芸能事務所のスタッフにはどう映ったのだろうか。

Music inn山中湖スタジオはスタジオがふたつあった。もうひとつのスタジオには、相楽晴子が来ていた。まだアイドルだった頃の相楽晴子だ。スタッフはじめ、まわりの男達に「ちやほや」されていた。
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むらさき 10

2005-07-17 18:23:00 | Weblog
Music inn山中湖スタジオは一度閉鎖して、現在は「山中湖スタジオ」として営業しているらしい。営業不振で閉鎖(倒産?)してオーナーが変ったのだろうか。Music inn でのレコーディングは数日間宿泊して行われた。「新人合宿」のようなものだ。実はこの時、私は喘息の発作で倒れ、契約する事務所が決まりかけ、私は合宿中、頭を2針縫う怪我をしている。大きな「事件」が3件起きている。

喘息がひどくなって、部屋でひとりで苦しんでいると、なんと親が車でやってきた。たしか日曜日だったと思う。浜松-東京約300キロを、決して運転上手でない父親が初めての東京へやってきたのだ。東名用賀で降りればいいものを、そのまま首都高に乗って降りるに降りられず、湾岸付近まで行ってしまったと言っていた。
私のアパートは中野区上鷺宮だったので、えらく遠くまで行ってしまったものだ。

そのまま、車に乗せられて浜松へ戻り、いつもの「国立病院」に緊急入院した。が、この時は2日ほどで復帰する。電車に乗って、山中湖に行った。池谷達は何日か前に到着していた。

芸能事務所のスタッフに合ったのはこの時初めてかどうかは記憶が定かでない。

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むらさき 9

2005-07-16 08:18:30 | Weblog
レコーディングは4月4日に始まり、5月7日で終了している。
レコーディングスタジオは以下の通りである。

日活スタジオ
MUSIC INN 山中湖スタジオ
スタジオ SOMEWHERE
スタジオ SHANGRI-LA
FREEDOM スタジオ
SUNRISE スタジオ
一口坂 スタジオ

FREEDOM とはまさにジミヘンバンド「FREEDOM」が思い出され「思えば遠くに来たもんだ」となりそうだが、実は記憶がない。どこだったかなあ。ホームページで調べると大久保の近くだ。そういえば、行ったような気がする。レコーディングではなくトラックダウンかなにかのためだろうか。

SUNRISE はワーナーパイオニアがよく使用した六本木のスタジオだと思う。デモテープなどもここで録音した。叙々苑の焼肉弁当をよく食べた。 SHANGRI-LA は橋幸夫の自宅だったと記憶している。

山中湖は合宿状態だったのでよく覚えている。

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