極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

大学3年 3

2005-04-20 22:59:10 | Weblog
1984年の5月か6月、日記に書いていないので正確ではない。ロックラの定期演奏会があって、渋谷の屋根裏に出ている。「3人でカラオケテープ」で出ている。これは、その後の私達にとって、とても重要なライブだった。しかし、そのライブについて、1行も日記に書いていないのだ。実に惜しい。観た映画や読んだ本などについてはよく書いているが、自分の行動についてはあまり書いてはいない。また、バイトやバンドが忙しくなってくると書けなくなっている。暇でどうでもいい時に日記を書いているのである。

「カラオケテープ」は残っている。テープには1984年5月と書いてある。

当時の渋谷屋根裏はセンター街に入ってすぐ、キャバレーロンドンの上にあった。私はここで、「GOGOBOYS」や「爆風スランプ」を観ている。ロックラでも何度か出ている。

青柳の244でヤマハDX-7とリズムマシンで作った。

どんなテープなのだろうか。

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大学3年 2

2005-04-19 07:30:55 | Weblog
バンドは清田さんが辞めて、また3人になってしまった。前にも書いたが清田さんは、当初からあまり乗り気ではなかった。最後は「もう付き合いきれん」と言って去っていった。確かに曲はますますまとまりがなく、ドラムも普通のビートではなくなってきていた。

青柳がTEACの244というテープデッキを買った。カセットの4トラックマルチレコーダーである。定価は20万円を超えていたように思う。私は8月に買っているが、158000円だった。カセットでマルチレコーディングができ、一般の人でも買うことができる(といっても10万円以上はするのだが)画期的な機材だった。インターネットで調べると、発売は1984年、なんとブルーススプリングスティーンの「ネブラスカ」のレコーディングにも使用されたらしい。テープデッキに加え、青柳はヤマハのDX-7(シンセサイザー)とローランドのリズムマシンまで購入していた。

総額はいくらになるのだろうか、50万近くになると思う。よく買えたものだ。

ドラムがいなくなったので、カラオケテープを作って、3人で演奏しよう、ということになった。
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立教大学SPP

2005-04-18 23:30:53 | Weblog
1984年4月16日 立教大学SPP(セントポールプロダクション)の上映会に行っている。この年、SPPは創立20周年で、日記によると「1ヶ月間、毎週月、水と上映会が」あった。のべ8日間の上映日があったわけで、それだけの期間、上映できる作品があったこともすごいと思う。記憶が定かでないが、私はこの期間、何日か行っているはずだ。渥美が「盲目のピアニスト」役で登場する「サウスポーキラー」は別の日に観ていると思う。

4月16日は平野和重と小中和哉の作品を上映していた。(小中はSPPではないらしいが)小中作品は有名な「地球に落ちてきたクマ」である。平野作品では「2つの夜と3つの鐘」がおもしろかったと書いてある。

その後、私はSPP関係と親しくなる。何度か上映会に行っているし、今でも付き合いが深い。渥美はニ浪と同じだから、当時2年生で、親しくしたのは渥美の同期のメンバーがほとんどだ。

SPP作品に参加したこともある。1987年だから、皆卒業している。卒業後だから、正式なSPP作品とはいえないかもしれない。鼻の手術の為入院した高橋を見舞うドキュメンタリーである。タイトルは「BIG NOSE」 監督は神藤。遊び心にあふれ、なかなかいい。
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大学3年 1

2005-04-17 11:27:33 | Weblog
法政大学の知人の推薦であるゼミに入ることになった。私は授業を真面目に受けていないため、成績は最悪で普通ならばゼミに入ることは不可能だった。卒論のない経営学部ではゼミに入って、そのゼミの研究科目をしっかり学び卒業することが、「まともな」大学生のスタイルだった。当然、ゼミを履修した学生の方が、就職にも有利だった。知人は落ちこぼれの私に救いの手を差しのべてくれたのだった。

4月3日に新人歓迎を兼ねた合宿があった。(ゼミは3年生と4年生で形成されていた)
合宿は伊豆で行われた。踊子号に乗っていったと思う。

内容はさっぱりわからなかった。とてもじゃないがついてはいけなかった。

4月26日にゼミを辞めている。

やさしかった知人は西武百貨店に就職した。
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歌舞伎座

2005-04-16 20:51:00 | Weblog
1984年3月に池谷青柳と歌舞伎座で歌舞伎見物。「研究」や「取材」といった意味合いが大きい。バンドの音作りへの参考にしようと思ったからだ。行こうと言い出したのは青柳だったと思う。

一番安い3階B席で1500円、なんと学割があって1200円。青柳はすでに「学生」ではなかったが、窓口で交渉したら、学割にしてくれた。

現在の歌舞伎もあまり変っていないと思うが、三部構成になっていて、一部が本格的な歌舞伎(何を言っているのかよくわからない)「金閣寺」。二部は踊りだけ「蝶の道行」。三部が台詞も現代語に近く話の筋もよくわかる大衆演劇風な「雪暮夜入谷畦道」 出演者についてはなんの記録もなくわからない。

一部でうならせ、二部で美しさに見蕩れさせ、三部で笑わせる。実によくできた構成だと思った。これで1200円は安い、と感じた。
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大学2年 12

2005-04-15 22:43:56 | Weblog
落語が好き、といっても寄席に数回行く程度だ。テレビの放映はよく見逃すし、有名落語家の独演会のようなものにも行ったことはない。寄席は出演者の持ち時間が短いので、物足りなく思うこともある。好きなのは古典落語で、オチがわかっていても、また聞きたくなる。大抵の場合、その落語家のアレンジがどこかに入っていてまったく同じにはならないからだ。

また、私は時代小説が好きだったことに最近気付いた。藤沢周平や池波正太郎の世界がとても好きだ。当時はそれほど読んでいたわけではないが、最近はこのジャンルばかりである。読んでいるうちに、なにか「心が洗われる」ような気持ちになる。実直に生きてゆこうと思えてくる。


落語や、時代小説が「はる」の音楽に多少は影響しているのだろうか。
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大学2年 11

2005-04-14 23:49:14 | Weblog
寄席に初めて行ったのは1984年2月だ。池袋の「池袋演芸場」だ。平日で客はまばらだった。「池袋演芸場」は落語協会の落語家しか出演していなかった。椅子ではなく畳敷きだった。トリは蝶花楼馬楽(六代目)
おもしろかったが、爆笑とまではいかない。芸に感心していた、というところが本音だ。

笑わないので川柳川柳(かわやなぎせんりゅう)に「笑ってよ、ボウヤ」といじられた。川柳という人は、むかしはテレビなどでちょっとは名が売れた人で、数少ない客の中にも熱心なファンと思われる客も数名いた。川柳は古典をやる落語家ではなく、漫談調というか、モロ漫談だ。

寄席にはその後も何度か行っている。池袋演芸場は閉鎖となった。(その後平成5年に新装オープンしている)ほとんどが新宿末広亭だ。

1年半前に東京に戻ってきて、久しぶりに末広亭に行ってみた。なんと、また川柳が出ていた。芸風は相変わらずだったが、私は20年前よりはよく笑った。


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大学2年 10

2005-04-13 22:24:31 | Weblog
ヤマハのエレキピアノCP-35は楽器屋に売却した。70000円だった。差し引き10万円である。入手から売却まで1年未満だ。年間のレンタル料とした場合10万円は高いのか安いのか。高いだろうな、たぶん。
しかし、「よく売れた」と考えることもできる。そのまま維持していたら、粗大ゴミになっていたのは確実だった。

アルバイトは12月で辞めた。忘年会を兼ねた送別会を開いてもらった。「近頃めったにいない好青年」などと言われ、大いに気を良くした。池袋サンシャイン劇場の芝居を観せてもらったこともあったし、板東玉三郎の楽屋を掃除したこともあった。玉三郎はニューバランスのスニーカーを履いていた。アルバイトを辞めた理由は朝がキツかったからだ。

アルバイトの給料とCP-35の金で、電話をひいた。83000円だった。

1983年12月27日に松田聖子の武道館コンサートに行っている。法政大学の知人に誘われた。
S席3000円、A席2000円、B席1500円である。随分と安い。我々はB席だった。座席は一番後ろの一番高いところだった。

真上から松田聖子を見下ろした。
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チックコリア

2005-04-12 22:41:56 | Weblog
1983年12月 チックコリア、ゲイリーバートンと弦楽四重奏団のコンサートに行っている。同行は池谷。

2部構成になっていて、1部は全員でかちっとした合奏をした。2部はソロありデュオあり、1曲毎に編成が変るものだった。とてもよい、と日記にはある。特にバラエティに富んだ2部がよかったとある。池谷の影響でその頃ECMレーベルのレコードをよく聴いていた。同じ頃、ウインダムヒルレーベルというのも日本で流行っていたが、こちらは「いかにも」な感じがしてあまり好きではなかった。「いかにも売れセン」的な気がした。実際によく売れていて、ジョージウインストンのピアノ曲などは今でもよく流れている。

アーチスト達はレーベルにこだわっているわけではないだろうし、複数のレーベルから発表もしている。別に聴き手がどうこう言う問題ではないのかもしれないが、私は現在もレーベルを意識してしまうことがある。国内でいえば、「エーベックス」の曲は偏見を持ってしまう。
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ナバロン 2

2005-04-11 23:37:02 | Weblog
ナバロン

白い日傘に隠れた
貴方の後ろ姿に白い陽炎
揺らめいている夏さえ
辺りに気を配っている

戸惑いながら見つめて          
声にならない声を出し呼び止めた     
振り向いた時貴方は           
怯えたように目を逸す          

離れていくお互いの道          
戻ることなど出来ないけれど       

                    
空を切るような会話は                    
素知らぬ振りでふたりを通り過ぎた
逃げることだけ思ってる                    
貴方がよくわかるよ

離れていくお互いの道
戻ることなど出来ないけれど 

遠い空にも尽きせぬ想いは
届くつもりの道化芝居にも

ああナバロン




哀しい内容だ。

本当は擦れ違っただけなのだが、「後ろから声をかけて、空を切る会話」をしたことにしている。

夢を見ていたのである。
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