極私的デンデケデケデケ

音楽との出会いからバンド活動を辞め、社会人になるまでをつづっております

なんでかフラメンコ

2005-09-30 22:48:50 | Weblog
「なんでかフラメンコ」は さかいすすむ のネタである。

  なんでかフラメンコ~~~

  飛行機に乗ると、「がんばろう」という気持ちにな~~る~~~

  な~~~んでか?

  奥さんわかります?

  な~~~んでか? <Age >

  そ~れ~は~~ みんな、前向きだから~~~(座席が)

  なんでかフラメンコ~~ おおお~  おおお~~


と、さかいすすむ が言うように日本人いや、世界中の人が「前向きに生きていこう」と思っているようだ。
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作曲要素

2005-09-27 23:42:55 | Weblog
実は「売れ線」を意識していた時期はごくわずかで、本当を言えば自由に作っていた。

ちょっとやってみて、社長の言う「売れ線」を作ることが自分はできないことに気付いた。プロとして契約していて、マスを目指さないのは矛盾しているが、自分の曲は「評価してくれる人がいればいい」程度に考えていた。それが、たまたま多くの人になれば、それが私の「売れ線」なんだろうと思った。自分の興味のあるものについて曲を書いていった。

私の曲に まったくないものがある。それは「がんばって生きていこう」とか、「人間っていいよね」とか、「しあわせになろうよ」とか、「人間だもの」(相田みつを)とか、「人間ってあったかい」とか、「生き方上手」(日比原重明)といった、「前向きな姿勢」である。こう書いていても言葉が続かない。つくづくむいていないと感じる。

実は、現在の「売れ線」の曲の多くは、この私にはまったくなかった「前向き姿勢」な曲である。特に、十代の若い購買層は「前向き姿勢」を欲しているのである。何を言っているかわからない、ラップ系の人たちでも意外に「君がいて僕がいる」みたいなことを言っている。それを聴いて、「癒されている」と感じるのが現代人なのである。

では、私の曲を構成している要素とは何か。

それは、当然にして「後ろ向き」な考え方なのだった。
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作曲スタイル 3

2005-09-25 10:42:31 | Weblog
楽器なしでも譜面が書ければ、「曲を失う」こともなかったのだろうが、私は楽器がないと譜面は書けない。絶対音感がないからだ。

留守番電話のある友人に電話を勝手にかけて録音してしまう、という方法も考えた。が、電話をしても、その友人が運良く外出していればいいが、在宅の場合は普通の会話が成立してしまう。「お前に用はない、留守電にしてくれ」というのも失礼だ。「何かに録音してくれ」というのも悪い。

留守電作戦はあきらめた。

カシオが「鍵盤つき電卓」を発売していたので、購入した。20センチ定規のような大きさで、小さな鍵盤がついており、音はピーピーと単音の電子音だが、メロディの記憶ができた。1980円程度で買えたと思う。

いつも携帯して、フレーズができれば、記憶させた。

これで、ばっちりか、と思ったらそうでもなかった。たしかに単音のメロディは記憶できるが、それまでやっていた、そこからの「ふくらみ」は記憶できない。下宿に帰ってメロディを再現しても、全体像はつかめないことが多かった。やはり、頭の中でふくらませて、何度も歌い上げないと曲は熟成しないのである。
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作曲スタイル 2

2005-09-24 20:58:56 | Weblog
年がら年中、作曲をしているということは、頭の中でいつも作曲しているということである。

歩いていても、電車に乗っていても、食事をしていも、銭湯に行っても、曲を作っていた。正確にいえば、曲を作ろうとしていた。当時でもレコーディングウォークマンはあったが、持っていなかった。

頭の中でいいフレーズが生まれる(と、感じる)。
それをふくらましていく。
1番はだいたいできてくる。
アレンジも考えていく。
「ヌキ」(別展開のパート)も考えていく。

だいたいの形ができあがる。

あとは、これを忘れないようにするだけだ。

ずっと頭の中で唄い続ける。
下宿に帰るまで忘れないようにと、唄い続ける。
時にはあまりの出来のよさに、頭の中で唄っている自分に感動すらする。

なんていい曲なんだ、と思う。

下宿のドアを開ける。

ドアを開けた瞬間で、忘れた曲が何曲もある。

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作曲スタイル

2005-09-23 08:21:59 | Weblog
長くブログを書いてきてこのエピソードはどこかで書いたかもしれません。
重複 御容赦ください。

ビスコンティの映画「家族の肖像」の後半、「にわか家族」が集まって喜んでいる主人公バートランカスター(goo映画によれば「はじめての、そして最後の晩餐」のシーン)に若い娘が聞く。

「おじさま、若い頃はなにをしていたの?」

バートランカスターは寂しそうに、こう答える。

「私には学問しかなかった」

泣ける。今でも泣ける。

「若い頃」の私には作曲しかなかったからだ。




goo映画
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活動スタイル

2005-09-21 22:01:44 | Weblog
プロとしての日々が始まった。「月給」は税抜き108000円である。主な活動は以下の通りだ。

週2回のリハーサルと週1回のミーティング 

これだけである。これに時々はライブが入る。(ライブの前には少々リハーサルの回数が増える)
週3日であるが、その3日もサラリーマンのように8時間も拘束されるわけではない。どれも午後の数時間だ。
余った時間は基本的に何をしてもよい自由な時間だった。実際に三越のアルバイトもそのまま続けていた。

では、自由な時間に何をしていたか。

それは、曲を作っていたのである。

毎週のミーティングで自作の曲を持ち寄った。244でデモテープを作りカセットに録音して提出した。それをバンドのメンバーで品評しあうのである。バンドで採用となると、リハーサルでより完成されたアレンジにもっていくのだ。私は毎週、数曲の新曲を出した。そのための曲作りをしていたのである。

「寝ても醒めても」といったらオーバーだが、バンド生活5年間の内、はじめの3年位は「曲作り」しか頭になかった。夢で作曲していて、目覚めて、その曲を完成させたことも2度ほどある。
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喘息の状況

2005-09-19 07:39:33 | Weblog
「4月に喘息で昏倒していたら、親が来た」というのは記憶違いで、親がやってきたのは1986年の9月だった。

大学のいいかげんな診療所で強い薬を計画的(卒業しても服用できるように)にもらったストックが切れたのが、9月である。4月から9月まで、いろいろな病院を廻ったが、どこの病院でも断られた。どこでも「そんなに強い薬は出せない」と言われた。

いよいよ薬もつき、発作が止まらなくなって、9月に緊急入院したのだ。

その後は、入院した浜松の国立病院から薬をもらうようになった。受け取りは母親に頼んだ。大学を卒業しても親に迷惑をかけるということにとても抵抗があった。もっとも、「就職もしないで、バンド活動をしている」方が、より心配だろうが。

薬はその後、引っ越した時、近くの病院ですんなりもらうことができた。その病院は以前は結核のサナトリウムだったところで、すでに閉鎖が決まっていた。医者も職員もやる気がなかった。浜松の国立病院ととても雰囲気が似ていた。「この薬をくれ」と言うと、すんなりくれた。信じられないほどあっさりと出してくれた。

すこし小高くなっている森というか、緑があふれる場所に建物はあった。

国立療養所中野病院という。

跡地はヤフーマップで見る限り、何もない。
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危険区域

2005-09-17 00:20:11 | Weblog
立つこともできぬ程疲れた君
哀しみの深さだけ苦しんで

堪えきれず倒れたのは
激しすぎる雨に一人打たれ

離さないでいるから
君の声を聴かせて

君の心すべてを
僕のために開いて


もう少しこのままでいたいよ
君だけが君だけがいれば

行く手阻む先の闇は
危険区域 浅く見える深み

離さないでいるから
君の声を聴かせて

君の心すべてを
僕のために開いて
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売れる曲

2005-09-13 23:00:55 | Weblog
へんてこな店に連れていかれても、すぐさま流行を体得できるほど、物事は簡単にはいかない。

現在でもそうだが、私は「おしゃれ」とか「流行」とか「最先端」とかとはまったく正反対の位置にいる人間である。そういう人間から「流行りもの」が生まれるだろうか。

青柳は自分では「おしゃれも、流行もわかっている」と思っていたようだが、まったくそうではなかった。そうではなかったが、流行をいつも意識はしていて、「俺に比べて、佐藤と池谷はなんて無頓着だ」と言い、「もっとおしゃれになってくれ」と日頃から訴えていた。泣かれたこともある。

しかし、「売れ線のバンドをやる」と、決めた以上そういう音楽をしなければならなかった。

社長が「安全地帯」と言うので、「危険区域」という曲を作ってみた。
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印税

2005-09-11 11:31:41 | Weblog
「むらさき」の印税が入ってきた。

印税は作者と日本著作権教会(JASRAC)と版権管理会社の3者が分けるしくみになっている。で、支払いの案内は版権管理会社から四半期毎にまとめて送られてくる。当時の通帳を見てみると、1986年の11月29日に、112,574円の振り込みがある。おそらくこれが第一回の支払いだ。その後、1987年2月には28,938円、5月はなくて、8月に12,465円、11月に115,932円と振り込みが続く。

1986年11月が純粋にレコードの印税、1987年の11月は「大奥十八景」のビデオ化による印税だと思う。

版権管理会社は、ライブドアに買収されそうになった「フジパシフィック音楽出版」だ。私はこの頃から何度も引っ越しをしたが、その都度しっかり移転先を連絡しているので、現在でも支払い案内が届く。

レコードはとっくの昔に廃盤となり、もはや印税は発生しない。現在はビデオの印税のみだ。ビデオは現在も売れている。3ヶ月の間に十数本は売れる。しかし、十数本だと印税はごくわずかだ。あまりに小額なため、支払い案内には「支払い繰り越し」と記入されている。が、細々とではあるが、たった1枚のレコードからの印税が20年間も支払われているのだ。ありがたいことである。

2005年8月の案内ではビデオの販売は12本、印税は74円、前期までの繰り越し金が926円あったので、ジャスト1000円となり、ひさびさの振り込みになった。1000円から源泉で10%引かれて、900円、900円に消費税が47円(繰り越しがあったりして2円ずれている)947円が振り込まれる。
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