金子光晴の4冊の自伝的紀行文は
東南アジアとヨーロッパの旅の足かけ5年間<1928~1932> 昭和3~7年の記録だが、
刊行年をみると・『マレー蘭印紀行』1940
・『どくろ杯』 1971
・『ねむれ巴里』 1973
・『西ひがし』 1974
『マレー蘭印紀行』はその大半が旅行中に現地で書かれた、といわれている。
<現場の魔力>で強度を増したリアリティは、紀行文の最大の魅力だ。

~マルガリータの旅行ブログなんかでも、時を経ての記憶で書かれたものはすぐに見破られてしまう~
マレーから帰ってすでに一週間というのに、行間から立ち上がる熱帯村の風、人々の匂い、むせ返る熱さ、疲労、荒れた街並み、
ここはマレーかと思うばかり、いや、再度、バハ・パハに舞い戻り、現地の空気の中で読みたいという気持ちにさえ、、
≪MEMO≫
『金子光晴、ランボー と会う マレー・ジャワ紀行』:鈴村和成 より

街全体に特殊な、もわっとした不潔な感じが漂っていた。淡いクリーム色や黄色で塗られた家の壁はところどころ剥がれ落ち、熱さの中で褐色し、古びて、あばら家か廃屋のような荒れた雰囲気を帯びていた
旅の前と、旅の後。その狭間のようなところにある”今”という時間は、ーーちょうど鏡に映る像のようにーー捕えようとしても捕えられず、伸ばした手の指の間から逃れて行ってしまうのだった
ノートを取るように写真を撮り、写真を撮るようにノートを取る。写真で書きノートで撮る。ノートを取り、写真を撮る人の”現在”というものを浮かび上がらせる。~
そのようにして旅の時間の”現在”の断片を掠め取るとよい。
写真は旅と結びついている。記憶で写真を撮ることはできない。想像力でも写真が撮れない。
書くことなら記憶や想像力でできるが、写真は”そこまで”行かなければ、撮ることができない。~
カメラを持ち、現場を踏む私たちは、みな紀行作家・トラベル・ライターだ。
そういえばランボーも~~
東南アジアとヨーロッパの旅の足かけ5年間<1928~1932> 昭和3~7年の記録だが、
刊行年をみると・『マレー蘭印紀行』1940
・『どくろ杯』 1971
・『ねむれ巴里』 1973
・『西ひがし』 1974
『マレー蘭印紀行』はその大半が旅行中に現地で書かれた、といわれている。
<現場の魔力>で強度を増したリアリティは、紀行文の最大の魅力だ。

~マルガリータの旅行ブログなんかでも、時を経ての記憶で書かれたものはすぐに見破られてしまう~
マレーから帰ってすでに一週間というのに、行間から立ち上がる熱帯村の風、人々の匂い、むせ返る熱さ、疲労、荒れた街並み、
ここはマレーかと思うばかり、いや、再度、バハ・パハに舞い戻り、現地の空気の中で読みたいという気持ちにさえ、、
≪MEMO≫
『金子光晴、ランボー と会う マレー・ジャワ紀行』:鈴村和成 より

街全体に特殊な、もわっとした不潔な感じが漂っていた。淡いクリーム色や黄色で塗られた家の壁はところどころ剥がれ落ち、熱さの中で褐色し、古びて、あばら家か廃屋のような荒れた雰囲気を帯びていた
旅の前と、旅の後。その狭間のようなところにある”今”という時間は、ーーちょうど鏡に映る像のようにーー捕えようとしても捕えられず、伸ばした手の指の間から逃れて行ってしまうのだった
ノートを取るように写真を撮り、写真を撮るようにノートを取る。写真で書きノートで撮る。ノートを取り、写真を撮る人の”現在”というものを浮かび上がらせる。~
そのようにして旅の時間の”現在”の断片を掠め取るとよい。
写真は旅と結びついている。記憶で写真を撮ることはできない。想像力でも写真が撮れない。
書くことなら記憶や想像力でできるが、写真は”そこまで”行かなければ、撮ることができない。~
カメラを持ち、現場を踏む私たちは、みな紀行作家・トラベル・ライターだ。
そういえばランボーも~~