帰国したその晩、ヴィヴィアン・リー、E・カザン監督の
『欲望という名の電車』を再見、
時差で冴えた頭で(笑)、せりふの一字一句、注意深く、
『欲望という名の電車に乗って、それから墓地というのに乗り換えて、…』という印象的な出だしがあるからこそ、
ニューオーリンズといえば『欲望の…』というくらいに有名だが、
今回、現地を踏んで見直してみると、この作品はニューオーリンズを知るには、ごく一端を示しているにすぎない。
没落農園貴族の主人公が、対照的に、卑猥で雑多なニューオーリンズ下町に寄寓するという設定、
出てくる地名は;
中央駅~ 欲望Desire行き市電(ロイヤル通り)~ 墓場Cemetery行き市電(キャナル通り)~ 極楽通り(Elysian Fields Ave.)
フレンチマーケットで買った葡萄、 大聖堂の鐘の音
フレンチクオーターのすぐ西方、外側の一画のみで、主要人物はみな白人、原作脚本にあるブルー・ピアノ(安ピアノ)の背景音もなかなか聞こえない。
ならば、ニューオーリンズを知る文学は、と開いた本はまた、わずか9ページに、「
未知の作家、作品の行進」でついていけないくらいだ。
「フレンチ・クオーターを探訪する場合の最良の文学的伴侶」という
ジョージ・ワシントン・ケーブルの作品群、
なかでも
『クレオール回顧』1879 『グランディシム家』1880 くらいは、いずれあたってみたい。
≪参考≫
岡崎玲子・集英社文庫が網羅的で詳しい。
で、たまたま読んでいた町山智浩;『知っていても偉くないUSA語録』の一章、
Gentrificationで、
このT.ウィリアムズの戯曲をベースにしたという映画『ブルージャスミン』(ウッディ・アレン)、やっとすっきりした。
「南部の裕福な家の娘ブランチ・デュボワは、家が破産して妹夫婦の世話・傲慢な態度を改めず、現実を認めずに人格が崩壊していく。」というテーマは、どうもあちこちで普遍的なようだ。
もっとも、この章で言いたいことは、ブルージャスミンが落ちぶれていくサンフランシス・ベイエリアはもう庶民の町ではない、
「Gentrification」で高級住宅地化して、それ以前からの住民がはじきだされるアメリカ各地の格差社会の一例だということ。
それで、Googleで「ブルージャスミン」と検索したら、町山のそのものずばりの映画評論に出くわした。
いつもながらの切れ味良い舌鋒で、こちらの時差ぼけにも特効薬となるか。
町山智浩 ウディ・アレン養女セクハラ問題と『ブルージャスミン』を語る
すこし<抜粋>すると、
(町山智浩)で、もうひとつ、この映画がもとにしている話っていうのがありまして。テネシー・ウィリアムズっていう人がですね、1950年代に書いた話でですね、戯曲なんですけども『欲望という名の電車』という戯曲があるんですよ。お芝居ですね。
(町山智浩)それがその、南部のお金持ちの娘が、自分の家が崩壊して。それで自分の妹との家に転がりこんでくるっていう話なんですよ。おんなじなんですよ。で、だんだんおかしくなってくるんですけど。その話は要するに南部の大金持ちで、農園をやっていたっていう設定なんで。実は奴隷で稼いでいた家なんですね。
(町山智浩)奴隷を使って農園をやって、搾取しまくって大金持ちになったんだけど結局崩壊するんですよ。南部っていうのは。でも、その自分の貴族みたいな生活にしがみついているバカな女っていう話が、その欲望という名の電車っていうお芝居だったんですけど。全く、現代の2008年に起きたバブル崩壊と同じなんですよね。
(町山智浩)結局、アメリカの犯罪ですよ。っていうものに、『私は知らないわ』って言いながら優雅な生活をしていた人の罪を問うみたいな話でもあるわけですよ。両方とも。っていうので、これはゴールデングローブの主演女優賞もとりましたし。ケイト・ブランシェットは。で、アカデミー賞にいくと思ったら、いま足を引っ張ってるんですよね。