たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

宝徳寺の歌碑

2021年08月12日 | 啄木歌碑

 

(4)宝徳寺の歌碑(盛岡市渋民)

 

明治20年3月、父の転任に伴い、家族は常光寺から渋民村(現・盛岡市渋民)の宝徳寺に移りました。啄木は明治37年、詩集刊行のため上京する18歳までを宝徳寺で暮らしており、啄木にとっての家はこの寺だといえるでしょう。この歌碑は啄木50回忌にあたり建立されました。

 

宝徳寺の歌碑

 

      ふるさとの寺の畔の       

      ひばの木の

     いただきに来て啼きし閑古鳥

 

 

宝徳寺の裏庭には池があり、白蘋の池と呼ばれており、啄木が中学時代に用いた「白蘋」のペンネームは、この池の名前に由来しています。

 

白蘋の池

 

宝徳寺には、次の詩碑もあります。

 

 

(5)宝徳寺の詩碑(盛岡市渋民)

啄木の幼友達「サタ」の70回忌にあたり、サタのイメージで書かれた啄木の詩『あこがれ・凌霄花(のうぜんかずら)』の一節を刻んだ碑が、サタの墓が現存する宝徳寺に建立されました。

 

  宝徳寺の詩碑

 

 

  君が墓あるこの寺に 時告げ 法の声をつげ

  君に胸なる笑みつげて わかきいのちに鐘を撞く

  君逝にたりと知るのみに かんばせよりも美しき

  み霊の我にやどれりと 人は知らねば身を呼びて

  うつけ心の唖とぞ あざける事よ可笑しけれ

             啄木「凌霄花」より

 

 

 

宝徳寺の近くには、次の歌碑があります。

 

(6)寺提園地の歌碑(盛岡市渋民)

 

 

  閑古鳥!

  澁民村の山荘をめぐる林の

  あかつきなつかし。  

         石川啄木

 

明治45年6月20日、『悲しき玩具』が出版されました。啄木歿後2ヶ月が経ってからです。歌数194首、書名は土岐哀果(善麿)の発案です。啄木の短歌作品は、盛岡中学の回覧雑誌『爾伎多麻』から始まり、すべてを加えると4,124首にのぼるということです。この歌碑は、「新・奥の細道」の寺堤園地にあります。

 

 

(7)宝徳寺前の広場の歌碑(盛岡市渋民)

 

  宝徳寺前の広場の歌碑

 

   今日もまた胸に痛みあり

   死ぬならば

   ふるさとに行きて死なむと思ふ

               啄木

 

この歌碑は、宝徳寺の前方50mほどの所にある広場に建立されています。

 

 

 


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