(4)宝徳寺の歌碑(盛岡市渋民)
明治20年3月、父の転任に伴い、家族は常光寺から渋民村(現・盛岡市渋民)の宝徳寺に移りました。啄木は明治37年、詩集刊行のため上京する18歳までを宝徳寺で暮らしており、啄木にとっての家はこの寺だといえるでしょう。この歌碑は啄木50回忌にあたり建立されました。
宝徳寺の歌碑
ふるさとの寺の畔の
ひばの木の
いただきに来て啼きし閑古鳥!
宝徳寺の裏庭には池があり、白蘋の池と呼ばれており、啄木が中学時代に用いた「白蘋」のペンネームは、この池の名前に由来しています。
白蘋の池
宝徳寺には、次の詩碑もあります。
(5)宝徳寺の詩碑(盛岡市渋民)
啄木の幼友達「サタ」の70回忌にあたり、サタのイメージで書かれた啄木の詩『あこがれ・凌霄花(のうぜんかずら)』の一節を刻んだ碑が、サタの墓が現存する宝徳寺に建立されました。
宝徳寺の詩碑
君が墓あるこの寺に 時告げ 法の声をつげ
君に胸なる笑みつげて わかきいのちに鐘を撞く
君逝にたりと知るのみに かんばせよりも美しき
み霊の我にやどれりと 人は知らねば身を呼びて
うつけ心の唖とぞ あざける事よ可笑しけれ
啄木「凌霄花」より
宝徳寺の近くには、次の歌碑があります。
(6)寺提園地の歌碑(盛岡市渋民)
閑古鳥!
澁民村の山荘をめぐる林の
あかつきなつかし。
石川啄木
明治45年6月20日、『悲しき玩具』が出版されました。啄木歿後2ヶ月が経ってからです。歌数194首、書名は土岐哀果(善麿)の発案です。啄木の短歌作品は、盛岡中学の回覧雑誌『爾伎多麻』から始まり、すべてを加えると4,124首にのぼるということです。この歌碑は、「新・奥の細道」の寺堤園地にあります。
(7)宝徳寺前の広場の歌碑(盛岡市渋民)
宝徳寺前の広場の歌碑
今日もまた胸に痛みあり
死ぬならば
ふるさとに行きて死なむと思ふ
啄木
この歌碑は、宝徳寺の前方50mほどの所にある広場に建立されています。