たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

江南義塾盛岡高等学校の啄木歌碑

2021年08月28日 | 啄木歌碑

(17)江南義塾盛岡高等学校の啄木歌碑

明治30年盛岡高等小学校3年の啄木は、学術講習会(現・江南義塾盛岡高等学校)に通い、中学受験に備えております。学術講習会は尋常中学校および師範学校入学のための講習をしており、このころにも予備校のような学校があったわけです。江南義塾高校が現在の前九年に移転されたのは昭和55年で、啄木が通っていたころの学術講習会は日影門外小路にあり、現在の盛岡中央郵便局の傍でした。数年前、江南義塾高校を訪れ、校長先生の話を聞きますと、啄木が学術講習会に在籍していたことは啄木の友人伊東圭一郎の書により広く知られておるようでしたが、本校に在籍した書類が見つかりませんでした。ところが、昭和55年の前九年への移転の際、旧校舎解体時に校長室の屋根裏から当時の「束修領収書」(入学金領収書)が見つかり、その中に石川一(啄木の戸籍名)、伊東圭一郎の名があり、啄木の在籍が裏付けられました、ということでした。。同校では昭和58年6月に創立90周年・石川啄木歌碑除幕式を行っております。


  江南義塾盛岡高等学校の啄木歌碑

 

   己が名を ほのかに呼びて
   涙せし
   十四の春に かへる術なし

             啄木 

 

 


  江南義塾盛岡高等学校

  

江南義塾高校の住所表示は前九年であり、周りの住所表示には安倍館町や厨川、天昌寺町、館坂橋を渡ると館向町があります。この辺は前九年の役に際して,安倍貞任が最後に立てこもった厨川柵の場所で、その範囲は現在の通称「館坂」、天昌寺町から北天昌寺町、前九年町まで広域にわたると見られております。これらの場所は北上川と雫石川に挟まれ、二つの川は下流3kmほどで合流するため、川が自然要塞になっています。

 
コロナウイルス感染者は増えていますね。人口密度と感染者数の関係を表にまとめました。表を見ると、やはり感染者数は人口密度に比例しますね。香川県は感染者が少ないようですが、北海道は多いですね。
 
 

表 人口密度とコロナ感染者数の関係

 

人口密度

の順位

 

都道府県

 

人口密度

コロナ

感染者数

感染者

順位

東京都

6,410.44

332088

大阪府

4,640.96

159745

神奈川県

3,824.50

139766

埼玉県

1,934.52

95880

愛知県

1,458.75

77328

千葉県

1,218.99

81702

福岡県

1,030.56

61846

兵庫県

651.01

62030

沖縄県

643.31

40679

10

10

京都府

559.37

28399

11

11

香川県

506.75

4008

39

12

茨城県

470.46

19741

13

13

静岡県

467.41

20697

12

14

奈良県

359.11

12368

20

15

滋賀県

352.03

9993

23

16

佐賀県

332.70

4879

32

17

広島県

330.37

17555

14

18

長崎県

317.87

5045

31

19

宮城県

316.31

14192

16

20

三重県

306.77

11205

22

21

群馬県

304.97

14138

17

22

栃木県

301.81

12691

19

23

石川県

270.72

7069

27

24

岡山県

265.61

12695

18

25

富山県

243.81

4171

37

26

愛媛県

235.32

4457

34

27

熊本県

234.73

11754

21

28

山口県

219.71

4705

33

29

和歌山県

195.37

4348

35

30

岐阜県

186.40

14359

15

31

福井県

183.14

2443

44

32

山梨県

181.50

4251

36

33

大分県

177.36

6493

28

34

新潟県

175.01

6452

29

35

徳島県

173.56

2499

43

36

鹿児島県

172.98

7693

25

37

鳥取県

157.92

1356

46

38

長野県

151.14

7617

26

39

宮崎県

138.36

5117

30

40

福島県

133.07

8441

24

41

青森県

128.42

4054

38

42

山形県

114.63

3041

41

43

島根県

100.12

1229

47

44

高知県

97.42

3206

40

45

秋田県

82.50

1557

45

46

岩手県

79.29

2851

42

47

北海道

66.68

55420

※2021年4月1日現在の人口

※2021年8月27日現在の感染者数

 
 
 
 

 

 


下橋中学校の歌碑

2021年08月23日 | 啄木歌碑

啄木は渋民尋常小学校を卒業し明治28年4月、盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学しました。下橋中学校は中津川沿いにあります。

 

(15)下橋中学校の歌碑

この歌碑は昭和52年秋、中学創立90周年を記念し、建立されました。歌碑は校門から入るとすぐ左手にあり、啄木の2年上級で少年時代から晩年まで親交が厚く、堅い友情で結ばれていた金田一京助の揮亳です。この歌碑は昭和52年秋、中学創立90周年を記念し、建立されました。



      下橋中学校正門


     下橋中学校の歌碑





  その昔
  小学校の
    征屋根に
  我が投げし
     鞠
  いかにかなり
      けん

     
京助書
 




下橋(しものはし)中学校の校門の前の道路脇には、啄木の歌と、啄木が晩年もっとも心を許しあい、啄木の最後をみとったといわれる若山牧水の歌が並んで刻まれている歌碑があります。
 
 
 
(16)啄木と牧水の友情の歌碑
 
この歌碑は、平成9年、啄木生誕111年{啄木の本名一(はじめ)}を記念して、啄木と牧水の友情の歌碑として建立されました。




  啄木と牧水の友情の歌碑

   
  教室の窓より遁げて
  ただ一人
  かの城址に寝にゆきしかな

        石川啄木




  城跡の古石垣にゐもたれて曠
  聞くともなき 
  波の遠音かな

       若山牧水



向かって左側が啄木の歌、右側が若山牧水の歌。二つの歌の間には「啄木が晩年最も心を許し合った友人若山牧水は、盛岡を三度 訪れており、啄木がこよなく愛し歌った不来方城で、啄木を偲びながら数百詠しております」と書かれています。
 
下橋中学校は中津川に架かる「下ノ橋」から100mほど下流にあります。




    下の橋(しものはし)

 

中津川は下橋中学から下流100mほどで北上川に合流、合流した川は、さらに50mほど下流で雫石川に合流、新しい北上川となって宮城県の石巻まで流れていきます。
 
  中津川、北上川、雫石川の合流地域
 
 
写真の右側の手前の川が中津川、奥が北上川。写真左側の上部から雫石川が流れこんでいる。
 
 
 
 
 

渋民小学校の啄木歌碑

2021年08月18日 | 啄木歌碑

明治24年5月2日、啄木は学齢より1年早く渋民尋常小学校に入学、明治28年3月に卒業しました。当時、学校は愛宕神社の傍にありましたが、現在は盛岡市立渋民小学校となり、渋民公園脇に移されています。

 

(8)渋民小学校の啄木歌碑

 

    渋民小学校の啄木歌碑

 

  その昔

       小学校の柾屋根に我が投げし鞠

       いかにかなりけむ   

                                                      啄 木

 

 

(9)渋民小学校「校歌の碑」

渋民小学校では、啄木の小説「雲は天才である」の中で、主人公の代用教員がつくった唱歌を、創立80周年記念に校歌に制定し、110周年記念に校歌の碑を建立しました。

 

   渋民小学校「校歌の碑」

 

       校歌   作詞 石川啄木

     1. 春まだ浅く 月若き
   生命の森 夜の香に
   あくがれ出でて 我が魂の
   夢むともなく 夢むれば
   さ霧の彼方 そのかみの
   希望は遠く たゆたいぬ

  2. そびゆる山は 英傑の
   跡を弔ふ 墓標
   音なき河は 千歳に
   香る名をこそ 流すらむ
   此処は何処と 我問えば
   汝が故郷と 月答ふ

 3.雪をいただく 岩手山
   名さえやさしき 姫神の
   山の間を 流れゆく
   千古の水の 北上に
   心を洗い 身を清め
   学の道に 進めかし

 

なお、昼12時になると、盛岡市役所からは、古賀政男が曲をつけた「春また浅く・・」の歌が流れてきます。

 

 

渋民小学校は渋民公園に隣接していますが、渋民公園には啄木歌碑としては最初(大正11年4月)に建立され歌碑があります。

 

(10)渋民公園の啄木歌碑

 

     渋民公園の啄木歌碑

 

 

 
 
    
    やわらかに柳あをめる
    北上の岸邊目に見ゆ
    泣けどごとくに
            啄木

 

渋民小学校脇の道路を「啄木ふる里の道」と呼び、敷石30コに啄木の歌が刻まれています。

 

(11)啄木ふる里の道「敷石の歌」

 


    啄木ふる里の道
 





「神無月  岩手の山の  初雪の眉にせまりし  朝を思ひぬ」 啄木






 

「その昔  小学校の柾屋根に  我が投げし鞠  いかにかなりけむ」

 

 

また、渋民小学校の傍を小川(大橋川)が流れていますが、その橋の親柱に啄木歌碑が刻まれています。

 

 

(12)あこがれ橋 親柱の詩碑

 

 大橋川に架かる「あこがれ橋」は渋民小学校の近くにある盛岡東警察署 渋民駐在所の脇にある橋です。この詩碑は平成15年に建立されました。

 

     あこがれ橋親柱の詩碑 

 

           始めなく、また終わりなき

            時計を刻むと、柱なる

         時計 の針はひびき行け。

           せまく、短かく、過ぎやすき

           いのち刻むと、わが足は

           ひねもす路を歩むかも。

 

 

(13)ほたる橋親柱の歌碑

大橋川に架かる「ほたる橋」は「あこがれ橋」の下流100mに架かる橋です。この歌碑は平成17年に建立されました。

 

 

     ほたる橋 親柱の歌碑

 

             ほたる狩

             川にゆかむといふ我を

             山路にさそふ人にてありき

 

(14)ふるさと橋親柱の歌碑

大橋川に架かる「ふるさと橋」は「ほたる橋」の下流200mに架かる橋で、この下流で北上川に流れ込みます。この歌碑は平成15年に建立されました。

 

 

       ふるさと橋 親柱の歌碑

 

          ふるさとの山に向ひて

          言ふことなし

          ふるさとの山はありがたきかな

                            

 

 

 

 

 


宝徳寺の歌碑

2021年08月12日 | 啄木歌碑

 

(4)宝徳寺の歌碑(盛岡市渋民)

 

明治20年3月、父の転任に伴い、家族は常光寺から渋民村(現・盛岡市渋民)の宝徳寺に移りました。啄木は明治37年、詩集刊行のため上京する18歳までを宝徳寺で暮らしており、啄木にとっての家はこの寺だといえるでしょう。この歌碑は啄木50回忌にあたり建立されました。

 

宝徳寺の歌碑

 

      ふるさとの寺の畔の       

      ひばの木の

     いただきに来て啼きし閑古鳥

 

 

宝徳寺の裏庭には池があり、白蘋の池と呼ばれており、啄木が中学時代に用いた「白蘋」のペンネームは、この池の名前に由来しています。

 

白蘋の池

 

宝徳寺には、次の詩碑もあります。

 

 

(5)宝徳寺の詩碑(盛岡市渋民)

啄木の幼友達「サタ」の70回忌にあたり、サタのイメージで書かれた啄木の詩『あこがれ・凌霄花(のうぜんかずら)』の一節を刻んだ碑が、サタの墓が現存する宝徳寺に建立されました。

 

  宝徳寺の詩碑

 

 

  君が墓あるこの寺に 時告げ 法の声をつげ

  君に胸なる笑みつげて わかきいのちに鐘を撞く

  君逝にたりと知るのみに かんばせよりも美しき

  み霊の我にやどれりと 人は知らねば身を呼びて

  うつけ心の唖とぞ あざける事よ可笑しけれ

             啄木「凌霄花」より

 

 

 

宝徳寺の近くには、次の歌碑があります。

 

(6)寺提園地の歌碑(盛岡市渋民)

 

 

  閑古鳥!

  澁民村の山荘をめぐる林の

  あかつきなつかし。  

         石川啄木

 

明治45年6月20日、『悲しき玩具』が出版されました。啄木歿後2ヶ月が経ってからです。歌数194首、書名は土岐哀果(善麿)の発案です。啄木の短歌作品は、盛岡中学の回覧雑誌『爾伎多麻』から始まり、すべてを加えると4,124首にのぼるということです。この歌碑は、「新・奥の細道」の寺堤園地にあります。

 

 

(7)宝徳寺前の広場の歌碑(盛岡市渋民)

 

  宝徳寺前の広場の歌碑

 

   今日もまた胸に痛みあり

   死ぬならば

   ふるさとに行きて死なむと思ふ

               啄木

 

この歌碑は、宝徳寺の前方50mほどの所にある広場に建立されています。

 

 

 


啄木生誕乃碑

2021年08月04日 | 啄木歌碑

啄木は明治19年、日戸村(現・盛岡市日戸)の常光寺で生まれ、翌年、渋民村(現・盛岡市渋民)に移り、明治24年、渋民尋常小学校に入学しました。卒業後には、盛岡に行き、盛岡高等小学校、盛岡中学に入学します。しかし、明治35年、盛岡中学を退学、文学で身を立てようと上京しましたが、体調を崩し、渋民村に戻ります。体調も回復した、明治37年再び、東京に向かい、詩集『あこがれ』の刊行に努めます。明治38年節子と結婚、盛岡帷子小路の新婚の家で3週間暮らし、盛岡市加賀野に転居、ここで『小天地』を発行します。翌年、渋民村に戻り、斎藤家に間借り、渋民尋常小学校の代用教員を1年勤め、明治40、北海道にわたります。北海道では、函館、札幌、小樽、釧路で生活、明治41年、東京に渡ります。東京では朝日新聞社、亡くなる明治45年まで勤めました。渡り歩いた各地には歌碑が建立されていますので載せていきます。

 

(1)石川啄木生誕乃碑(常光寺 盛岡市日戸)

 

 

明治19年2月20日、啄木は岩手県日戸村の常光寺で石川家の長男として生まれます。常光寺では、啄木が生まれた部屋を当時のままに復元保存しています。下記の歌は常光寺の案内板にありましたが、令和になり案内板は書き換えられました。なお、常光寺は銀河鉄道渋民駅から10kmほどの所にあります。

 

たはむれに母を背負ひて

 そのあまり軽きに泣きて

 三歩あゆまず

 

日戸村は盛岡市と合併、現在、盛岡市日戸になっています。日戸には、次の啄木の歌碑があります。

 

(2)旧玉山公民館の歌碑(盛岡市日戸)   

       旧玉山公民館の歌碑

 

     ふるさとの

     山に向ひて

     言ふことなし

     ふるさとの山は

     ありがたきかな

           啄木

 

旧玉山公民館は玉山中学校のすぐ傍です。歌碑は、玉山公民館が庭園を造ったときの記念として建立されました。近くにはホルモン鍋で人気の支所前食堂もあります。ここは、盛岡バスセンター・好摩駅間の路線バスの利用が便利です

 

(3)玉山小学校の歌碑(盛岡市日戸)

 

 

    或る時のわれのこころを

    焼きたての

    パンに似たりと思いけるかな

                啄 木

 

玉山小学校は旧日戸村にあり、旧玉山公民館から啄木が生まれた常光寺方面に向かって進むと途中1㎞ほどの所にあります。この歌碑は、啄木生誕118年に建立されました。玉山小学校から、啄木生誕の常光寺までは1kmです。常光寺から渋民駅までは約10kmありますので、旧玉山公民館に戻り、路線バスを利用が便利です。