(29)「啄木であい道」の啄木歌碑

花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢
翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号です。盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表しました。この歌は、その中の一つで、これらの歌は現存する啄木の作品中最も古い歌です。

血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋
この歌は、啄木が盛岡中学を退学(明治35年10月27日)する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載されました。
白蘋(はくひん)も啄木の盛岡中学時代の雅号で、翠江は明治34年8月頃から12月頃まで、それ以降明治36年9月頃までは白蘋を使用しています。なお、「白蘋」の雅号は啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しております。
なお、啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用していましたが、これは明治34年12月末から35年の正月頃までの短い期間のようです。麦羊子の署名での歌は、野村胡堂宛ての手紙(明治34年12月31日)、金田一京助宛の手紙(明治35年1月1日)の中で、次のように詠んでいます。
石川麦羊子




大切の言葉は今も
胸にのこれど
啄木
なお、この歌は東京毎日新聞(明治43年5月8日)に発表し、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載されています。「忘れがたき人人(二)」にある22首の歌はすべて、たった一人の女性、智恵子を詠んだものです。