たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木中学時代の歌の碑

2021年09月30日 | 啄木歌碑

(29)「啄木であい道」の啄木歌碑

 


 

花ひとつ
さけて流れてまたあひて
白くなりたる
夕ぐれの夢
     
  石川翠江



翠江(すいこう)は啄木の盛岡中学時代の雅号です。盛岡中学4年の時に友人と回覧雑誌「爾伎多麻」(明治34年9月号)を編集し「秋草」の題で歌30首を発表しました。この歌は、その中の一つで、これらの歌は現存する啄木の作品中最も古い歌です。

 





血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋 
   
  
   石川白蘋


この歌は、啄木が盛岡中学を退学(明治35年10月27日)する前後に、はじめて中央雑誌「明星」(明治35年10月号)に掲載されました。

白蘋(はくひん)も啄木の盛岡中学時代の雅号で、翠江は明治34年8月頃から12月頃まで、それ以降明治36年9月頃までは白蘋を使用しています。なお、「白蘋」の雅号は啄木が育った宝徳寺の裏庭に白蘋の池があり、これに由来しております。

なお、啄木は中学時代、麦羊子(ばくようじ)の雅号も使用していましたが、これは明治34年12月末から35年の正月頃までの短い期間のようです。麦羊子の署名での歌は、野村胡堂宛ての手紙(明治34年12月31日)、金田一京助宛の手紙(明治35年1月1日)の中で、次のように詠んでいます。


「争はむ人もあらずよ新春の春のうたげのかるたの小筐」

                        石川麦羊子
 
 
 
「啄木であい道」は、盛岡駅前から約200メートル先にある開運橋を目指し、橋を渡らないで北上川沿いを左に折れると、 市営地下自転車駐車場の緑地公園内にあり、上流の「旭橋」の間まで続いていました。「啄木であい道」には多くの歌碑が建立されていましたが、「啄木であい道」は撤去されました。
 
 
 
 
  啄木であい道
 
 
 
現在、跡地には、次の歌碑がのみが残っています。
 
 
 
 
 
 
かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど
        啄木


なお、この歌は東京毎日新聞(明治43年5月8日)に発表し、一握の砂「忘れがたき人人(二)」に掲載されています。「忘れがたき人人(二)」にある22首の歌はすべて、たった一人の女性、智恵子を詠んだものです。
 
 
 
 
 
 
 
 

十和田荘の啄木歌碑

2021年09月23日 | 啄木歌碑

 

 

(27)十和田荘の歌碑(青森県十和田市)    

明治34年7月、盛岡中学4年の啄木は、学友と十和田、鹿角地方?を訪れました。十和田湖では、遊悲恋の伝説を取材し、「白蘋」のペンネームで『校友会雑誌(明治35年3月号)』に歌2首を発表しました。その内1首は十和田壮の歌碑の歌です。

 

 十和田荘の歌碑

 

                           啄木 

  夕雲に丹櫂はあせぬ 

  湖ちかき草舎くさはら 

  人しづかなり

  

2首のうち、もう1首は次の歌です。 

「薨(いらか)射る春のひかりの立ちかへり市のみ寺に小鳩むれとぶ」

 

遊悲恋の伝説とは錦木塚伝説のことで、今から千数百年前のこと、錦木のあたりに政子姫という娘がいた。錦木を売る若者が政子姫を見て心の底から好きになってしまった。毎日毎日、男は求婚のしるしの錦木を姫の門の前へ立てた。若者は雨の降る日も風の吹く日も、雪の降る日も一日も休まず錦木を立てた。しかしあと一束で千束になるという日、体がすっかり弱っていたため門の前に降りつもった雪の中に倒れて死んでしまった。姫もその二、三日後、あとを追うように死んだ。姫の父は二人をたいそう哀れに思い、千束の錦木といっしょに一つの墓へ夫婦としてほうむった。その墓のことを錦木塚とよんでいます。

 

 

(28)鹿角市役所前の詩碑(秋田県鹿角市

 

 

 

鹿角の国を懐ふ歌
         石川啄木

  青垣山を繞らせる

  天さかる鹿角の国をしのぶれば、

  涙し流る。──今も猶、錦木塚の

  大公孫樹、月よき夜は夜な夜なに、

  夏も黄金の葉と変り、代々に伝へて、

  あたらしき恋の譚の梭の音の、

  風吹きくれば吹きゆけば、枝ゆ静かに、

  月の光の白糸の細布をこそ

  織ると聞け。

  十和田の嶽の古沢の

  鬼栖める峡のふかみに、古へゆ

  こもれる雲の滴りの、足あとつかぬ

  岩苔の緑を吸ひて流れ来し

  渓川崖路、さを鹿の妻恋ひ啼くに、

  人怖ぢぬ鹿角の国をしのぶれば、

  涙し流る。──その昔、代々に朽せぬ

  碑やはた、白石の廻廊や、

  王垣、壁画、銅の獅子、また物語、

  のこさねど、日月星を生む如く、

  人の国なるきらら星──芸術の燭の

  生の親「愛」こそ、先づは、若児等の

  相思の花に映り出でて、花の印や、

  錦木も色をぞ添へし真盛りに、

  鹿笛吹きならす猟夫らが弓の弦緒の

  鳴りの音も、枝に列べる彩雉子の

  番と見れば、鳴らざりしその昔、

  しのぶれば涙し流る。

  神の使の羽かろき

  蜻蛉子が告げの泉の壽きに

  流れはつきぬ米白の水にうるほふ

  高草の鹿角の国をしのぶれば、

  涙し流る。──その川に斎ひ心の

  肌浄め、朝な夕なにみがかれて、

  みめも清しく色白の鹿角少女が、

  夕づとめ、──肩にま白き雲纏ふ

  逆鉾杉の神寂びし根にむら繁る

  大木の中は神住む古御堂、

  壁の墨絵の大井も浮きてし見ゆる

  目暮れ時、樹がくれ沈む秋の日の

  黄に曳く摺裳みだれ這ふ石階ふみて、

  静静と御供の神米、ささげつつ、

  伏目にのぼる麻衣が、藁束ねせし

  黒髪に神代の水の香こそすれ。

  かへしの足の小ばしりに、杉の陰路を

  すたすたと、露に濡れたる真素足に

  行きこそ通へ、──はららかす袖に葉洩れの

  日を染めて神の使の蜻蛉子が

  いのちの水の源を告げに来し日を

  さながらに、──青駒飼へる背が門へ。

  その敬虔さ、美しさ、米白川と

  もろともに流れたえせぬ風流の

  錦木立てし若児等が色にも出づる

  心映、──神代のままを目のあたり

  見ると思へば涙し流る。

 

 

『明星(明治39年1月号)』に発表した詩です。啄木の長姉サダは秋田県小坂町に住んでおり、この詩はサダが亡くなる2カ月ほど前につくられています。啄木が鹿角を訪れたかどうかは、はっきりしません。天才啄木なら、鹿角をうたったこの作品も想像の範囲で創作できただろうとも考えられます。なお、この詩碑の写真は鹿角市役所の柳原さんから提供を受けました。

 

 

 


啄木の中学時代の旅行

2021年09月18日 | 啄木歌碑

明治33年7月、盛岡中学3年の啄木は、冨田小一郎先生、級友9人と三陸地方を旅行しました。旅行した各地には歌碑が建立されています。

 

(22)氷上神社参道の啄木歌碑

啄木は高田松原に来て氷上山にも登っています。昭和32年、高田松原に啄木歌碑が建立されましたが、昭和35年5月のチリ地震津波により流されました。一年後に土砂の中から発見された歌碑は、高田松原には戻さず、啄木が登った氷上(ひかみ)神社参道に移転しました。

 

氷上(ひかみ)神社参道の啄木歌碑

 

 命なき砂のかなしさよ

  さらさらと 

  にぎればゆびの間よりおつ

           啄木

 

 

(23)タッピック前の啄木歌碑

昭和32年に建立した高田松原の歌碑は、昭和35年のチリ地震津波で流され、1年後に見つかり、氷上神社参道に移しました。高田松原には新しく、昭和41年に再度、歌碑を建立しました。しかし、平成23年3月11日に発生した東日本大震災によって再び流され、見つかりません。陸前高田で3度目となる新しい歌碑を高田松原近くの震災遺構として保存しているタピック(旧「道の駅」)前に建立しました。以前の歌(歌碑(22))とは異なり、“津波の犠牲者を忘れない“との思いを込め、次の歌を刻みました。

 

 

陸前高田の啄木歌碑

 

 頬につたふ

 なみだのごはず

 一握の砂を示しし人を忘れず  

         啄木

 

(24)天神山公園の啄木歌碑

三陸地方の旅行では、大船渡にも来ました。この歌碑は、啄木生誕80周年にあたり建立されました。

 

 大船渡天神山公園の啄木歌碑

 

 愁ひ来て

 丘にのぼれば

 名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実

          

 

『一握の砂』には冨田先生をモデルに詠んだ次の歌があります。

 

「よく叱る師ありき 髯の似たるより山羊と名づけて口真似もしき」

 

(25)吉浜の啄木歌碑

 

啄木らの三陸地方の旅行では三陸町吉浜(旧吉浜村)にも来ています。三陸町では啄木歌碑を建立しようということになり、啄木没後80周年に当たる平成3年に歌碑を建立しました。吉浜村は昭和31年に隣村と合併して三陸村、三陸町となり、平成3年に大船渡市に編入合併しました。

 

 吉浜の啄木歌碑

 

 潮かをる

 北の浜辺の砂山の

 かの浜薔薇よ

 今年も

 咲けるや

      石川啄木

 

 

(26)釜石緑地植栽帯の啄木歌碑

 

明治33年の啄木らの三陸旅行は、明治29年に発生した三陸大津波の4年後で、釜石にも来ました。三陸大津波では死者2万人を超える被害者を出しております。釜石では啄木の足跡を後世に伝えようと、東日本大震災から4年目にあたる平成27年10月、啄木歌碑を釜石市青葉通りの緑地植栽帯に建立しました。

 

 

 釜石の啄木歌碑

 

 

 釜石の啄木歌碑

 

 ゆゑもなく海が見たくて

 海に来ぬ

 こころ傷みてたへがたき日に

           啄木

 

 

 

 

 

 

 

 


コロナウイルス感染状況

2021年09月10日 | ぶらりぶらり

コロナウイルス感染者数はワクチン接種の影響で減少傾向にあるようですね。岩手県での9月9日の感染者は28人でした。それほど減少しておりませんが、高齢者のワクチン接種が進んでおり、60歳以上の感染者はおりませんでした。東京、大阪は人口密度も高く、感染者も多いですね。人口密度と感染者数の関係は表のようになっています。北海道の感染者は多いですね。

 

人口密度とコロナ感染者数の関係

 

人口密度

の順位

 

都道府県

 

人口密度

コロナ

感染者数

感染者の

多い順

東京都

6,410.44

362,701

大阪府

4,640.96

186,775

神奈川県

3,824.50

159,772

埼玉県

1,934.52

108,751

愛知県

1,458.75

97,040

 5

千葉県

1,218.99

95,072

 6

福岡県

1,030.56

70,657

兵庫県

 651.01

72,239

沖縄県

 643.31

46,504

10

10

京都府

 559.37

33,520

11

11

香川県

 506.75

  4,537

39

12

茨城県

 470.46

22,518

12

13

静岡県

 467.41

25,089

13

14

奈良県

 359.11

14,494

18

15

滋賀県

 352.03

11,617

23

16

佐賀県

 332.70

  5,534

32

17

広島県

 330.37

20,369

14

18

長崎県

 317.87

  5,695

31

19

宮城県

 316.31

15,548

16

20

三重県

 306.77

13,875

21

21

群馬県

 304.97

15,923

15

22

栃木県

 301.81

14,263

20

23

石川県

 270.72

  7,522

28

24

岡山県

 265.61

14,537

17

25

富山県

 243.81

  4,644

38

26

愛媛県

 235.32

  4,889

36

27

熊本県

 234.73

1,3612

22

28

山口県

 219.71

  5,353

33

29

和歌山県

 195.37

  4,982

35

30

岐阜県

 186.40

14,359

19

31

福井県

 183.14

  2,783

44

32

山梨県

 181.50

  4,827

37

33

大分県

 177.36

  7,652

27

34

新潟県

 175.01

  7,253

29

35

徳島県

 173.56

  3,010

43

36

鹿児島県

 172.98

  8,701

25

37

鳥取県

 157.92

  1,564

46

38

長野県

 151.14

  8,282

26

39

宮崎県

 138.36

  5,871

30

40

福島県

 133.07

  9,134

24

41

青森県

 128.42

  5,008

34

42

山形県

 114.63

  3,362

41

43

島根県

 100.12

  1,493

47

44

高知県

   97.42

  3,899

40

45

秋田県

   82.50

  1,736

45

46

岩手県

     79.29

  3,321

42

47

北海道

     66.68

58,749

※2021年4月1日現在の人口

※2021年9月9日現在の感染者数

 

 

 


盛岡第一高等学校の啄木歌碑

2021年09月05日 | 啄木歌碑

啄木は明治31年3月、盛岡高等小学校を卒業し、同年4月、盛岡尋常中学校(後に岩手県立盛岡中学校に改称)に入学しました。担任教諭は数学の冨田小一郎先生です。2年次には野村胡堂、3年次には金田一京助がおりました。盛岡中学は大正6年、盛岡市上田の地に移転、現在は岩手県立盛岡第一高等学校となっています。

 

(18)盛岡第一高等学校の啄木歌碑



   盛岡第一高等学校の啄木歌碑


  学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名もしらず
           啄木

 





  盛岡第一高等学校

 

当時の盛岡中学跡には、現在、岩手銀行本店が建てられており、そこには、次の啄木歌碑が建立されています。



(19)盛岡中学跡の啄木歌碑


   岩手銀行の啄木歌碑


  盛岡の中学校の
  露台の
  欄干に最一度我を倚らしめ
          石川啄木

  岩手県立盛岡中学校濫觴の地
 


また、盛岡中学の図書庫跡地は岩手医大循環器センーになっており、玄関わきに次の啄木歌碑が建立されています。
 
 
(20)盛岡中学図書庫跡の啄木歌碑
 
 
 

岩手医大循環器センター玄関前の啄木歌碑


  学校の図書庫の裏の秋の草
  黄なる花咲きし
  今も名もしらず
          啄木
 
 
 
盛岡中学では宮澤賢治も学んでおり(明治42年4月入学)賢治の次の碑も建立されています。
 
 
宮澤賢治の碑
 
   宮澤賢治碑
 
 
  生徒諸君に寄せる
  諸君はこの颯爽たる
  諸君の未来圏から吹いて来る
  透明な清潔な風を感じないのか
 
 
盛岡第一高校から道路をはさんだところが岩手大学で、かって、この地に啄木の妻・節子の家がありました。岩手大学では、節子が産湯につかった井戸に屋根と蓋を設け、その蓋に啄木と節子の歌を刻みました。
 
 
(21)岩手大学構内の啄木・節子の碑



 
 啄木と節子の歌の碑(井戸の蓋)
 





       ある日、ふと、やまひを忘れ、
  牛の啼く真似をしてみぬー
  妻子の留守に。
             啄 木  

  ひぐるまは焔吐くなる
  我がうたにふと咲き出でし黄金花かな

             節 子