啄木が下宿した蓋平館(がいへいかん)あとは旅館太栄館が営業していましたが、2年ほど前に営業をやめ、跡地にマンションが建ったと聞きましたので、歌碑はどうなったのかと訪れました。バスで東大正門前で下車すると郵便局があり郵便局の脇の道を進んで行くと200mほどの所でした。確かに跡地にはマンションが建っておりましたが、歌碑は幾分移動されましたがマンションの前に無事残っていました。
マンション前の啄木歌碑
石川啄木由縁之宿
東海の小鳥の
磯の白砂に
我泣き濡れて
蟹とたはむる
蓋平館別館跡の啄木歌碑(以前の掲載分)
東海の小鳥の
磯の白砂に
我泣き濡れて
蟹とたはむる
この歌は、明星(明治41年7月号)、創作(明治43年7月号)、拡野(明治43年9月号)、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されている。
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)
石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ388ノ9)の喜の床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に
(明治41年9月14日作・蓋平館で)
-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会
昭和56年9月