たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

蓋平館跡地の啄木歌碑

2018年10月23日 | 啄木歌碑

啄木が下宿した蓋平館(がいへいかん)あとは旅館太栄館が営業していましたが、2年ほど前に営業をやめ、跡地にマンションが建ったと聞きましたので、歌碑はどうなったのかと訪れました。バスで東大正門前で下車すると郵便局があり郵便局の脇の道を進んで行くと200mほどの所でした。確かに跡地にはマンションが建っておりましたが、歌碑は幾分移動されましたがマンションの前に無事残っていました。

 

 

 マンション前の啄木歌碑

 


 

石川啄木由縁之宿

東海の小鳥の 
磯の白砂に 
我泣き濡れて 
蟹とたはむる

 

 



 

 

 

蓋平館別館跡の啄木歌碑(以前の掲載分)


 
 東京は狭いので歩いて何処までも行けます。今回は啄木が下宿したといわれる蓋平館別荘跡を訪ねます。東大赤門付近の向かい側の道路を進んでいくと旅館太栄館に着きます。ここは啄木が金田一京助の世話になり明治41年9月から翌年6月まで住んだ2番目の下宿蓋平館(がいへいかん)跡で、現在は旅館太栄館が営業しています。啄木は、ここでは小説「鳥影」を執筆、また多くの短歌を作ったところです。玄関前に蓋平館別荘跡の説明板があり、啄木の歌碑が建立されている。

 






石川啄木由縁之宿

東海の小鳥の 
磯の白砂に 
我泣き濡れて 
蟹とたはむる





この歌は、明星(明治41年7月号)、創作(明治43年7月号)、拡野(明治43年9月号)、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されている。








石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)

 石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
 赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
 ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
 東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ388ノ9)の喜の床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
 蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。

父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に 

                       
                         (明治41年9月14日作・蓋平館で)


-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会
昭和56年9月
 

 

 


盛岡市保存樹木(61番 杜陵小のケヤキ)

2018年10月13日 | ぶらりぶらり

61番 杜陵小のケヤキ    盛岡市肴町1-

 杜陵小学校は中津川をはさんで景観の美しいi岩手跡公園を目前にしており、創立90年を迎える伝統ある学校です。

 

 















 

 

 



景観重要樹木

樹木の種類(名称)  杜陵小のケヤキ

45

指定年月日 平成27年4月1日

所在地 盛岡市肴町1-

樹木の樹容の特徴

樹容に優れ地域のシンボル的な存在であり,良好な景観の 形成に寄与している。【指定時推定樹齢110

平成27年4月から盛岡市の「景観重要樹木」になりました。


今週のはじめに東京に行ってきました。秋葉原駅からバスで来ると目的地が停留所のすぐ近くだというので、バスに乗りました。乗車時間は1時間ほどで料金は前払いで210円でした。盛岡から東京駅までは2時間14分ですから、バスの乗車時間はちょっと長い気がしました。

新幹線ははやぶさ・こまち号で、はやぶさ号は函館が始発で、盛岡で、秋田始発のこまち号と連結し、はやぶさ・こまち号として東京まで行きます。乗車の席が連結部分の近くだったので、連結を見ていました。

 






青列車がはやぶさ号で赤列車がこまち号です








啄木歌碑めぐり(51)

2018年10月01日 | 啄木歌碑

(51)小樽駅前の歌碑                            平成17年10月建立(『一握の砂』より)


小樽駅前の啄木歌碑  


子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

                          

 

小樽日報の事務長小林寅吉と争論し、腕力を揮われ、明治40年12月20日、啄木は退社しました。わずか3ヶ月足らずの小樽生活でした。明治41年1月19日、釧路新聞社に勤務が決まり、釧路に向かう啄木を、節子が京子を負って送りに来た時の駅での情景を詠んでいます。






石川啄木と小樽駅



啄木日記(明治41年)

1月17日
 夕方、日報社の小使が迎ひに来たので、白石社長を訪ふ。釧路行は明後日の午前9時と決定した。

1月18日                                                                小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!! 

1月19日           
 朝起きて顔を洗つてると、頼んで置いた車夫が橇を曳いて来た。ソコソコに飯を食つて停車場へ橇を走らした。妻は京子を負ふて送りに来たが、白石 氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になつた。小榑を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。
 白石氏の宅へ行つて次の発車を待ち合せ、午前11時40 分汽車に乗る。雪が降り出した。札幌で白石氏は降りた。