たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木生誕130年(7)

2016年02月20日 | 啄木歌碑
啄木は明治19年2月20日に生まれていますので、きょうは啄木生誕130年です。明治40年「石をもて追はるるごとくふるさとを出でし」にあるように北海道に渡り、岩手には二度と戻ることはありませんでした。北海道では、函館、札幌、小樽、釧路と渡り、最後は東京で亡くなりました。

啄木東京へ
啄木は明治41年1月釧路新聞に入社したが、4月に退社し、単身で海路東京へ向かう。途中、石巻に寄港。

荻浜の歌碑
石巻の羽山姫神社に啄木歌碑があります。啄木が明治41年釧路から海路上京する途中、荻浜港に寄港の折に詠んだ歌で、その歌碑が、生誕90周年を記念して建立されました。



石巻荻浜の啄木歌碑




港町
とろろとなきて輪を描く鳶を壓せる
潮曇りかな

啄木


石川啄木は明治41年4月26日朝7時、釧路から海路上京途中「三河丸」でこの地に立ち寄りました。大森屋旅館で給仕にでた佐藤藤野さんと雑談を交わしながら朝食をとり、鶯が鳴き、椿の花が満開の琴平社に登り、港を眺め、わずか5時間の「今年の私の春」を楽しんだのです。


蓋平館別荘跡地の歌碑
啄木は東京に着き、金田一京助が生活していた赤心館にお世話になる。その後、明治41年9月に金田一京助と共に蓋平館別荘に移り、ここで、9か月間過ごすことになる。当時の蓋平館別荘は火事により焼けてしまい、跡地は、その後建てられた、旅館「太栄館」となっている。




石川啄木由縁之宿

東海の小鳥の 
磯の白砂に 
我泣き濡れて 
蟹とたはむる



朝日新聞社跡の歌碑
啄木が明治42年3月から亡くなるまでの約3年間勤務した朝日新聞社跡地(現・朝日ビルディング東京支社)にある歌碑があります。



銀座の啄木歌碑


京橋の瀧山町の
新聞社
灯ともる頃のいそがしさかな
啄木


この歌碑は啄木没後60周年を記念して銀座の有志により昭和48年に建立されました。


湯島天神切通し坂の歌碑
切通し坂は、啄木が朝日新聞社に校正係として勤務し、朝日新聞社の夜勤の帰りに通った坂である。二晩おきに夜勤もし、深夜この坂を家路についたのでしよう。




二晩おきに
夜の一時頃に切通しの坂を上りしも
勤めなればかな
啄木



上野の歌碑
上野は東北の玄関口であり、啄木もよく来たのでしょう。上野駅前通り商店街の入り口と上野駅構内に啄木の歌碑があります。同じ短歌が刻まれています。


上野商店街の啄木歌碑


上野駅の啄木歌碑

ふるさとの訛なつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにゆく
啄木



浅草「等光寺」の歌碑
啄木は明治45年4月に亡くなり、等光寺において葬儀が行われました。等光寺においては、母、長女、次女の葬儀も行われています。このお寺は啄木の親友である土岐哀果の生家で、 境内には啄木の歌碑があります。この歌碑は、啄木生誕70年にあたる昭和30年に建立されました。



等光寺の啄木歌碑

浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心 
啄木



啄木一族の墓
啄木は「死ぬときは函館で死ぬ・・」と宮崎郁雨に書き残していたこともあり、宮崎らは、墓石に啄木の短歌を刻み、その舞台と思われる大森浜を一望できる、立待岬へ向かう坂の途中に石川啄木一族の墓を建立した。



啄木一族の墓


墓の前から大森浜を一望できます


啄木の歌が刻まれた啄木一族の墓


東海の
小鳥の磯の
白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる



啄木一族の墓を過ぎて坂を上って行くと立待岬突端に着きます。ここには、お世話になった与謝野鉄幹(寛)・昌子の歌碑があります。


立待岬


与謝野寛・昌子の歌碑(右側の小さな碑は撰文)


浜菊を郁雨が引きて根に添ふる
立待岬の岩かげの土   寛

啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ
はこだてのこと     昌子
 




東日本大震災発生後、まもなく5年になりますが、高台への移転計画のため、復興なかなか進まずの状態です。啄木は、明治33年7月、盛岡中学校時代、富田小一郎先生、級友9人と陸前高田も訪れ、高田松原や氷上山に登っています。このような関係もあり、昭和32年、高田松原に啄木歌碑が建立されましたが、昭和35年5月に突然襲ったチリ地震津波により流されました。その後、この歌碑は見つかりましたが、元の場所には建立せず、氷上(ひかみ)神社に移転建立された。


氷上神社の啄木歌碑


命なき砂のかなしさよ
さらさらと
にぎればゆびの間よりおつ
啄木



その後、昭和41年7月、高田松原地内にあたらしい啄木の歌碑が建立されました。この歌碑の写真は、私は撮ってませんが、陸前高田市が紹介している「高田松原」をみると、次の歌碑のようです。




高田松原にあった啄木歌碑(陸前高田市が紹介の「高田松原」より)


いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと
握れば指のあいだより落つ
啄木


ところが、この歌碑も、今回の東日本大震災で流され、平成25年11月、高田松原近くの震災遺構として保存されているタピック(旧“道の駅”)前に啄木歌碑が再建されました。以前の歌碑の歌とは異なり、“津波の犠牲者を忘れない“との思いを込め、次の歌碑を建立しました。



旧高田松原「道の駅」の啄木歌碑


頬につたふ 
なみだのごはず 
一握の砂を示しし人を忘れず
啄木


なお、この歌碑は、陸前高田市が計画している祈念公園が完成した後は、移設される予定のようです。







啄木生誕130年(6)

2016年02月13日 | 啄木歌碑
啄木の友人

小沢恒一 小沢恒一は盛岡中学時代の文学仲間ユニオン会のメンバで、岩手県北上市出身です。北上市の帰帆場公園には啄木歌碑があります。


帰帆場公園の啄木歌碑

わが戀を
はじめて友にうち明けし夜のことなど
思ひ出づる日

石川啄木


板垣玉代 玉代は盛岡女学校(現・盛岡白百合高校)で節子と同級生で、茨島(現・盛岡市厨川)に住んでいた。啄木もよく遊びに行っていたのでしょう。この歌碑は国道4号線の厨川駅から500mほどのところに建立されている。



厨川の啄木歌碑


茨島の松の並木の街道を
われと行きし少女
才をたのみき
啄木



堀田秀子 秀子は啄木が渋民尋常小学校に勤めていた時の同僚です。秀子は渋民小学校に来る前は平舘小学校に勤務しており、この縁で、啄木歌碑が昭和39年12月、岩手県八幡平市平舘に建立された。





かの家の
かの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに
蛙聴きけれ

啄木



吉野章三(ペンネーム白村)は、函館での文芸結社「苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)」同人で啄木とは特に親しい関係にあった。吉野白村は宮城県柴田郡船岡村出身であり、その時から百年の歳月が流れ、それを記念して平成15年2月に、船岡駅の上り線のホームに啄木歌碑が建立された。



船岡駅の上り線ホームの啄木歌碑




汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来れば
襟を正すも

啄木



橘智恵子 啄木は函館弥生尋常小学校に勤めていた時、同僚の "橘智恵子" に心を惹かれることになる。智恵子は後に岩見沢の北村牧場に嫁いだこともあり、牧場の入り口に歌碑があります。



岩見沢北村牧場前の啄木歌碑

石狩の空知群の牧場の
お嫁さんより送り来し
バタかな
石川啄木



中野(旧小林)寅吉
 寅吉は啄木が小樽日報に勤めていた時の先輩で会津美里町(旧会津高田町)雀林出身です。晩年この法用寺の住職を務めたこともあり、啄木生誕100年を記念して昭和60年に会津啄木会が二つの歌を刻んだ。



法用寺の二つの啄木歌碑
 



敵として憎みし友と
やや長く手をば握りき
わかれといふに

啄木



あらそひて
いたく憎みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来ぬ
啄木



金田一京助 金田一京助は盛岡中学の先輩で、啄木の才能を認め、東京に来た石川を自らの下宿に招き寄せるなど生活費など一切面倒を見ていた。友人というより、恩人になるのでしょう。



盛岡先人記念館


先人記念館の中に金田一京助の部屋があり、部屋から啄木歌碑が見えるようになっています。



盛岡先人記念館の啄木歌碑




ふるさと能山尓向ひて
言う事那し
ふるさとの山者あ里可多記可奈

啄木歌碑
金田一京助の書
昭和29年4月23日


菊池忠七 菊池さんは啄木とは直接面識はありませんが、大学の恩師である金田一京助先生に、この歌「軍人の・・・・」は、誰も歌碑などを建立する人はいないと思うので、お前が建立するようにと言われており、菊忠印刷操業85周年記念として、平成16年10月、花巻市東和町にある釜石線「土沢駅」前にある菊忠印刷の玄関前に建立した。



菊池印刷所前の啄木歌碑


軍人になると言ひ出して、
父母に
苦労させたる昔の我かな。
啄木



田中正造 栃木県佐野市出身の近代日本の先駆者田中正造翁は 明治34年12月10日第15議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民の窮状を直訴した。当時盛岡中学3年在学中の啄木はこの感動を短歌に托した。佐野市にある惣宗寺(そうしゅうじ)は厄除け大師として有名で、ここに啄木歌碑が建立されています。 


田中正造翁の墓



惣宗寺の啄木歌碑

夕川に葦は枯れたり 
血にまとう民の叫びの  
など悲しきや 
石川啄木


啄木の短歌が好きで、自宅の庭等に歌碑を建立しているところも多くあります。ここでは、盛岡の山奥にある歌碑、岩手県外の神奈川県と九州にある、三つの歌碑を掲載します。

山口さん 盛岡市玉山区の山口さんの庭にも啄木歌碑があります。山口さんは、旧玉山村のだいぶ山に入ったところで農業を営んでおります。旧・玉山村で歌碑があるのはここだけです。旧・玉山村は、啄木が生まれた日戸村、幼少期を過ごした渋民村等と合併し新・玉山村になり、現在は盛岡市玉山区になっている。



旧玉山村の啄木歌碑




仂らけど
仂らけど
我が暮し
楽にならざり
じっと手を見る

啄木歌詩より



本町中学校 本町中学校は神奈川県秦野市富士見町にあり、昭和39年に建立された啄木歌碑があります。


秦野市本町中学校


本町中学校の啄木歌碑


あたたかき飯を
子に盛り
古飯に湯を
かけたまふ
母の白髪
啄木


片江風致公園  風致公園は九州福岡にあり、もともとは私設の公園「日本文学碑公園」だったようです。ここに啄木歌碑が建立さています。


片江風致公園


片江風致公園の啄木歌碑

東海の
小鳥の磯の
白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる
啄木



宮崎郁雨
 宮崎郁雨は啄木の友人であり、啄木夫人・節子の妹の夫でもあります。啄木一家を物心両面にわたって支え、啄木の死後も墓碑を建立している。
啄木歌碑ではありませんが、宮崎郁雨の歌碑が函館山の南端にある立待岬へ向かう坂の途中に建立されています。


宮崎郁雨の歌碑


蹣跚と
夜道をたどる
淋しさよ
酒はひとりし
飲むものならず
郁雨


蹣跚(まんさん)とは「よろめき歩くさま、酔歩」をあらわすようです。


























啄木生誕130年(5)

2016年02月09日 | 啄木歌碑
啄木北海道に

函館 明治40年、啄木は渋民を離れ、函館生活に入りました。啄木は友人の紹介で函館弥生尋常小学校の代用教員になり、家族を呼び寄せ、函館青柳町に家を借りた。


青柳町にある函館公園の啄木歌碑

函館の青柳町こそかなしけれ
友の恋歌
矢ぐるまの花
啄木


その後、啄木は代用教員を辞め、函館日日新聞社に勤務することになる。啄木が訪れたと思われる大森海岸にも啄木歌碑が建立されています。


函館・大森海岸の啄木小公園の啄木歌碑

潮かをる北の浜辺の
砂山のかの浜茄子よ
今年も咲けるや
啄木


倶知安
 函館日日新聞社に入社後、函館大火があり、新聞社も焼け落ちた。啄木は、函館を発ち倶知安を通過し、札幌に向かった。函館滞在は半年にもならなかった。



倶知安駅前の啄木歌碑

真夜中の
倶知安驛に
下りゆきし
女の鬢(びん)の
古き痍

啄木



札幌 啄木は函館から分かれ札幌で生活することになり、友人の紹介で、北門新報に務めることになる。当時、札幌は、北海道では小樽、函館に次ぐ三番目の都市でした。


札幌「偕楽園緑地」の啄木歌碑

アカシヤの街樾(なみき)にポプラに
秋の風 
吹くがかなしと日記に殘れり
啄木



啄木が函館の弥生小学校代用教員時代に同僚だった橘智恵子の実家は札幌郊外で果樹園を経営しており、その風景を歌った歌碑が天神山公園にある。


札幌天神山公園の啄木歌碑


石狩の都の外の 
君が家
林檎の花の散りてやあらむ
啄木


また、智恵子の実家の庭に「林檎の碑」があり、裏面に林檎園ができた由来が延べられており、その末尾に歌が刻まれている。


橘智恵子の実家にある「林檎の碑」



石狩の都の外の君が家
林檎の花の
散りてやあらむ
啄木



啄木が訪れたと思われる大通り公園にも啄木歌碑が建立されている。


札幌大通り公園の啄木歌碑


しんとして幅廣き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ

啄木



小樽 啄木は一か所に長く住むのは適さないようで、札幌滞在も2週間で、小樽に行くことにした。
小樽では小樽日報に務めることになるが、ここでも、うまくいかず、小樽日報も退社することになる。



小樽公園の啄木歌碑

こころよく
我にはたらく仕事あれ
それを仕遂げて
死なむと思う
啄木




水天宮神社の啄木歌碑

かなしきは小樽の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ
啄木


小樽日報を辞めた啄木は、明治41年に入り、釧路新聞で働くことにし、釧路に行くため、小樽駅に向かった。小樽駅には妻節子が子供を背負い見送りに来た。



小樽駅前の啄木歌碑

子を負ひて
雪の吹き入る停車場に
われ見送りし妻の眉かな
啄木



美唄 啄木は小樽駅から列車に乗り美唄駅?を通り、釧路駅に向かった。



美唄駅前広場の啄木歌碑

石狩の美国といへる停車場の
柵に乾してありし
赤き布片かな
啄木



啄木は釧路新聞で働くことになる。釧路には多くの啄木歌碑があるようですが、私、釧路を訪れたことがなく、啄木歌碑の写真がないので、ここでは省略し、次回は啄木の友人の出身地等にある啄木歌碑を掲載します。





啄木生誕130年(4)

2016年02月04日 | 啄木歌碑
啄木結婚
明治38年、啄木は結婚式には間に合わなかったが、無事盛岡に着き、新婚生活をはじめた。住まいは盛岡の帷子小路の一軒家で、啄木家を含め3家族が住んでいたようです。現在、「啄木新婚の家」として公開していますが、啄木家は裏側にある玄関を使用し、啄木夫婦は四畳半での生活でした。



啄木新婚の家(表玄関)


啄木新婚の家(裏玄関)


啄木夫婦の4畳半


啄木には狭かったのでしょう、ここには3週間しか居らず、一家は加賀野の中津川沿いの一軒家に引っ越した。啄木はここで「小天地」を編集している。なお、当時の住居跡には、現在アパート「啄木荘」が建っており、その壁側に案内板が立っている。

 
小天地発行所跡

啄木「小天地」発行所跡(案内板)

明治38年、啄木が新婚の家から転居してきた地であり、「小天地」を発行したところです。ここに住んだのは翌年3月に代用教員になって渋民に行くまでの9か月でした。この地の感想は「閑天地」等に述べられている。
啄木荘の近くに、中津川にかかる歩道橋「富士見橋」があり、その欄干に啄木の歌が刻まれている。


富士見橋の啄木歌碑


岩手山秋はふもとの
三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ

啄木


明治39年3月、啄木は盛岡を離れ渋民で生活することにした。父一禎は野辺地の方に行っているので、啄木、節子と母の3人だけでした。借家は斎藤さんの家でした。なお、当時の斉藤さんの家は現在、啄木記念館の庭に移転保存されています。


旧斉藤家


現・斉藤さん宅前の啄木歌碑


かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

石川啄木



斉藤家は渋民尋常小学校からすぐ近くで、小学校は愛宕神社がある愛宕の森の麓にあった。一禎も野辺地よりもどり、啄木も4月から渋民尋常小学校代用教員になりました。



愛宕の森の啄木歌碑

新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどー

啄木


明治40年、啄木は渋民尋常小学校代用教員をやめることになり、同僚の堀田秀子を訪れた。


八幡平市平舘新山の啄木歌碑

かの家の
かの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに
蛙聴きけれ

啄木



秀子を訪れた翌日、追われるような気持で、妹光子と渋民村を出、青森から船に乗り、北海道に向かった。斉藤家に滞在したのは1年2か月でした。



渋民小学校脇の歩道に刻まれた啄木の歌

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし



函館までの船はだいぶ揺れがはげしく、妹光子の船酔いもひどかったようです。


青森合浦公園の啄木歌碑


船に酔ひてやさしくなれる
いもうとの眼見ゆ
津軽の海を思へば

啄木
  


盛岡は雪も少なく、比較的暖かく、いわて雪まつりは雪像もなく、子供用のソリ滑り台だけがつくられています。また、岩洞湖のワカサギ釣りも2月になってようやく解禁されました。


いわて雪まつり(小岩井農場)


雪まつりの子供用滑り台


小岩井農場の一本桜






啄木生誕130年(3)

2016年02月01日 | 啄木歌碑
啄木上京
啄木は明治35年盛岡中学を退学し、文学で身をたてんと、上京します。当時渋民駅はなかったので、好摩駅を利用していました。歩いて1時間はかかるでしょう。


好摩駅舎の啄木歌碑


霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の虫こそすずろなりけれ

啄木



好摩駅広場の啄木歌碑

ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり

啄木



東京で寂しい時には、上野駅に行って、懐かしい訛り言葉を聞いていたのでしょう。



上野駅の啄木歌碑


ふるさとの 訛なつかし 
停車場の 人ごみの中に 
そを 聴きにゆく
啄木


啄木は上京するが、思うようにいかず、また、体調も崩し、翌年2月、父一禎に付き添われ帰郷しました。



盛岡市岩山の啄木・節子の歌碑

汽車の窓はるかに北に故郷の
山見えくれば
襟を正すも
啄木


盛岡駅前広場の啄木歌碑

ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
啄木


渋民公園の啄木歌碑

やわらかに柳あをめる
北上の岸邊目に見ゆ
泣けどごとくに

啄木




啄木は徐々に体調も回復し、新聞等に短歌を載せたり、友達と遊んだり、楽しんでいたのでしょう。



笹平大橋の啄木歌碑

ほたる狩
川にゆかむといふ我を
山路にさそふ人にてありき

啄木



啄木は体調も回復し、節子との婚約も成りたった。啄木は再び上京を考え、資金援助を求め、北海道の義兄を訪れることにし、青森県の野辺地に立ち寄り、初めて津軽海峡を渡った。



野辺地の啄木歌碑



潮かをる北の濱辺の
砂山のかの濱薔薇よ
今年も咲けるや

啄木


啄木は北海道から戻り、再び上京、半年ほど東京で暮らし、いろいろとあったようだが、節子との結婚もあり、盛岡に戻ることにした。節子は当時、岩手県滝沢村の篠木尋常高等諸学校の代用教員をしていた。



篠木小学校の節子の歌碑


今日も又
夢は追ひつと人に云ひ
かくれてききぬ
厨こほろぎ

節子



啄木は結婚式には出席しなかったが、盛岡に帰省し、新婚の家での生活に入る。