たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木歌碑ひめぐり(13)

2017年12月30日 | 啄木歌碑

(13)吉浜の歌碑(岩手県大船渡市三陸町吉浜)     平成3年12月建立(『一握の砂』より)  

 啄木は三陸地方の旅行では三陸町吉浜(旧吉浜村)にも来ています。三陸町では啄木歌碑を建立しようということになり、啄木没後80周年に当たる平成3年に歌碑を建立しました。吉浜村は昭和31年に隣村と合併して三陸村、三陸町となり、平成3年に大船渡市に編入合併しました。



潮かをる

北の浜辺の砂山の

かの浜薔薇よ

今年も

咲けるや

       石川啄木


東日本大震災においては歌碑の直前まで波が押し寄せたとのことでした。吉浜駅は三陸鉄道で大船渡の盛駅から30分、釜石駅から20分ほどです。歌碑までは吉浜駅から歩いて10分ほどです。 


正月にはよく神社やお寺をお参りをしますが、盛岡では八幡宮、榊山神社など、またお寺は市内に数多く分散しています。市内の中心部に三明院がありましたが、廃寺になり解体されましたので、ご注意のほど。

 

三明院

 

三明院は盛岡三十三観音霊場の32番になっておりますし、陸中八十八霊場の59番にもなっております。三明院に安置されていた盛岡三十三観音霊場の尊像は盛岡市名須川町の龍谷寺に遷され、陸中八十八霊場の尊像は盛岡市の教育委員会で預かっているとのことです(平成29年12月1日現在)。

 



啄木歌碑ひめぐり(12)

2017年12月28日 | 啄木歌碑

(12)天神山公園の歌碑(岩手県大船渡市盛町)    昭和41年11月建立(『一握の砂』より)

 三陸地方の旅行では、大船渡にも来ました。この歌碑は、啄木生誕80周年にあたり建立されました。


天神山公園の啄木歌碑


        啄木

愁ひ来て

丘にのぼれば

名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実

金田一京助


『一握の砂』には冨田先生をモデルに詠んだ次の歌があります。 

「よく叱る師ありき 髯の似たるより山羊と名づけて口真似もしき」

 

今日は平成29年の御用納めの日ですね。仕事を終えて里帰りの人も多いのでしょうね。盛岡は昨日中の最高気温が氷点下で真冬日でした。路上も滑るところがあります。電車の方も車の方も十分ご注意ください。車の方はブレーキは車の回転を止めるのではなく、回転を弱めるブレーキを心がけましょう。

 

 


汽車の窓

はるかに北にふるさとの山見え来れば

襟を正すも

石川啄木






啄木歌碑ひめぐり(11)

2017年12月26日 | 啄木歌碑

(11)氷上神社参道の歌碑(岩手県陸前高田市)  昭和327月建立(『一握の砂』より)   啄木14歳

明治33年7月、盛岡中学3年の啄木は冨田小一郎先生、級友9人と三陸地方を旅行し、高田松原に来て氷上山に登っています。昭和32年、高田松原に啄木歌碑が建立されましたが、昭和355チリ地震津波により流されました。後日、歌碑は見つかりましたが、高田松原には戻さず、氷上(ひかみ)神社参道に移転しました。


陸前高田氷上神社参道の啄木歌碑



命なき砂のかなしさよ

 さらさらと 

 にぎればゆびの間よりおつ

 啄木



啄木歌碑めぐり(10)

2017年12月26日 | 啄木歌碑

(10)厨川の歌碑(盛岡市厨川1丁目)              昭和61年12月建立(『一握の砂』より) 

茨島は、盛岡から渋民へ向かう途中の地名で、「われと行きし少女」節子の親友板垣玉代で、茨島に住んでおり、啄木もよく遊びに来ていました。啄木は恋多き少年で玉代にも好意を寄せていたのでしょう。この歌碑は、銀河鉄道「厨川駅」から盛岡方面に400mほど進んだ国道4号線の道路沿いにあり、板垣家の人々が建立しました


 

茨島(ばらじま)の啄木歌碑


茨島の松の並木の街道を

われと行きし少女

才をたのみき

 啄木


 厨川駅には盛岡駅で、いわて銀河鉄道に乗ると青山の次の駅で12分ほどのところです。



 


啄木歌碑めぐり(9)

2017年12月21日 | 啄木歌碑

(9)盛岡中学図書庫跡の歌碑(盛岡市中央通)   昭和和62年11月建立一握の砂』より)


 

 啄木歌碑


学校の図書庫の裏の秋の草

 黄なる花咲きし

 今も名知らず

            啄木 

 

盛岡中学の図書庫は昭和44年に岩手県宮古市に渡り、寄生木記念館として活用されましたが、平成26年再び盛岡に戻り、町家の並ぶ盛岡市鉈屋町移築されました。徳富蘆花の小説『寄生木』は宮古市山口(旧山口村)出身の小笠原善平さんの日記をもとに書かれた小説です。現在敷地跡には岩手医大の循環器センターが建っています。  


 

寄生木記念館の頃の旧図書庫

 

 

 盛岡に戻った旧図書庫

 

 

 

 


啄木歌碑めぐり(8)

2017年12月18日 | 啄木歌碑

(8)盛岡中学校舎跡の歌碑(盛岡市中央通)    昭和58年11月建立(一握の砂』より)

 

 

 

                                                                                                   京助

                                                                     もいちど

                                             もりを可能                              我を倚ら

                                                中学校乃                                     しめ

                                                      者るこん能手すり尓

 

 

                                              盛岡の中学校の

                                               露台の

                                                 欄干に最一度我を倚らしめ

                                                                         石川啄木


                                                    岩手県立盛岡中学校濫觴の地

 

歌は金田一京助の自筆と活字体とで併記されています。校舎跡地には、現在、岩手銀行本店が建っています。



盛岡中学校の校舎跡は盛岡の官庁街にあり、盛岡駅から市内循環バス「でんでんむし」の右廻りに乗ると便利です。循環バスは市内を一周35分で回り料金は100円です。


 市内循環バス「でんでんむし」

 

                        新しき

明日の来るを

信ずといふ

   自分の言葉に

   嘘はなけれど





啄木歌碑めぐり(7)

2017年12月15日 | 啄木歌碑

(7)盛岡中学(現・盛岡第一高等学校)の歌碑    平成185月建立(『一握の砂』より)  啄木12歳




 

盛岡の中學校の

露台の

欄干に最一度我を倚らしめ

                           啄木

 

啄木は明治31年3月、盛岡高等小学校を卒業し、同年4月、盛岡尋常中学校(後に岩手県立盛岡中学校に改称)に入学しました。担任教諭は数学の富田小一郎です。2年次には野村胡堂、3年次には金田一京助がおりました。盛岡中学は大正6年、盛岡市上田の地に移転、現在は岩手県立盛岡第一高等学校となっています。


啄木が入学した明治31年には「盛岡尋常中学校」と呼ばれていましたが、翌年「尋常」が取れ「盛岡中学校」に改称されました。その後、昭和23年に学制改革があり、新制度の高等学校が発足、盛岡中学校は廃止され、昭和23年3月の盛岡中学卒業生のうち希望者を高校の3年生に、4年次修了生を2年生に編入させ、「岩手県立盛岡第一高等学校」の発足となりました。


前述のように、中学卒業生の内、希望者は高校の3年生に編入しましたが、当時盛岡には専門学校(例えば、盛岡工業専門学校など)がありましたので、こちらにも進学できました。


昭和24年には新制度の大学が発足、岩手県には「国立岩手大学」が発足しました。大学の受験資格は、前述の高等学校の卒業生や専門学校の1年次修了生でしたので、中学を卒業して、高等学校に進学した者および専門学校に進学した者が再び大学で一緒になった人もいたのでしょう。










啄木歌碑めぐり(6)

2017年12月12日 | 啄木歌碑

(6)学術講習会(現・江南義塾高等学校)の歌碑  昭和58年6月建立(『一握の砂』より) 啄木11歳



己が名をほのかに呼びて

 涙せし

 十四の春にかへる術なし

   啄木

 

育英学舎ともいわれ、明治30年、盛岡高等小学校3年の啄木が中学進学を目指し、受験勉強に通った学校です。現在の予備校のようなところだったのでしょう。当時は日影門にありましたが、昭和55年に盛岡市前九年町に移転され、現在は江南義塾盛岡高等学校となっています。


 

学術講習会は、明治25年に育英学舎として開塾されましたが、翌月に学術講習会に改められました。その後明治33年に江南義塾に改称、明治45年に大沢川原に移転、昭和25年に新制高校として橘高等学校と校名を改称しました。現在地に校舎を移転したのは昭和55年で、平成7年に校名を現在の江南義塾盛岡高等学校に改称しております。なお、啄木が学術講習会で学んだと言われる資料は昭和55年の移転の際に見つかりました。それによると、啄木が入塾したのは明治30年6月30日で、学校所蔵の「束脩領収証簿」第717号に記載されていました。

 

 





啄木歌碑めぐり(5)

2017年12月08日 | 啄木歌碑

(5)盛岡高等小学校(現・下橋中学校)の歌碑    昭和52年10月建立(『一握の砂』より)  啄木9歳

 

下橋中学校の啄木歌碑

 

その昔

小学校の

  征屋根に

我が投げし

 

いかにかなり

けん

京助書

 

啄木は明治28年4月、盛岡高等小学校(現・盛岡市立下橋中学校)に入学しました。この歌碑は昭和52年秋、中学創立90周年を記念し、建立されました。

 

盛岡は大分寒くなってきましたが積雪はありません。高松の池では白鳥が泳ぎ餌をもって多くの人が訪れています。今年は白鳥の数は少ないようにも思います。寒いといっても、ここ高松の池では昭和33年には冬の国体スケート会場だったのですから、当時とくらべれば暖かいのでしょうね。なお、高松の池には昭和59年から白鳥が飛来するようになりました。

 

 

 高松の池の白鳥

 

 

 

 

 

 



啄木歌碑めぐり(4)

2017年12月04日 | 啄木歌碑

 

(4)渋民尋常小学校建物前の歌碑(石川啄木記念館中庭)   平成19年建立(『悲しき玩具』より)  

渋民尋常小学校建物


                           石川啄木

                      時として、

                       あらん限りの声を出し、

                       唱歌をうたふ子をほめてみる。

 

啄木が学び、代用教員として勤めた渋民尋常小学校の校舎は昭和42年老朽化により取り壊されることとなりましたが、石川啄木の母校であり、代用教員時代に教鞭をとったこともあるゆかりの校舎であることから、盛岡市石川啄木記念館敷地内に移築され、盛岡市指定文化財として保存・公開されています。