たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木歌碑めぐり(26)

2018年02月26日 | 啄木歌碑

高梨沙羅(26)JR船岡駅ホームの歌碑(宮城県船岡市)   平成15年2月建立(『一握の砂』より)          

 

JR船岡駅ホームの歌

 

汽車の窓

はるかに北にふるさとの山見え来れば

襟を正すも

啄木

 

啄木は上京後、体調を崩し帰郷します。友人吉野白村の出身地、宮城県船岡では啄木失意の帰郷から100年を記念して、歌碑を建立しました。宮城県にはこの他、大和町に昭和52年7月に建立された啄木の次の歌の碑があります。 

「朝の湯の湯槽のふちにうなじ載せ ゆるく息する物思ひかな」


船岡駅の歌碑は一番ホームにあります。改札口で話すと入場させてくれます。船岡駅は仙台駅から30分ほどです。




オリンピックも無事終了しましたね。私は殊勲賞にスケートの小平奈緒選手、敢闘賞にジャンプの高梨沙羅選手とカーリング女子チームを選びました、皆さんはいかがですか。





啄木歌碑めぐり(25)

2018年02月20日 | 啄木歌碑

(25)好摩駅舎の歌碑(盛岡市好摩) 昭和29年4月設置(『一握の砂』より)啄木17歳


好摩駅舎の啄木歌碑


霧ふかき好摩の原の

 停車場の

 朝の蟲こそ

 すゞろなりけれ

 啄木

 

啄木は上京し、本郷の村井方に宿泊、一週間程で神田の養精館に転居しました。しかし、生活費も行き詰まり、また体調も崩し、明治36年2月27日、父に伴われ渋民村に帰ってきました。当時、渋民駅は無く、好摩駅を利用していました。この歌碑は好摩駅のホームにありましたが、好摩駅が平成21年に新築されたのに伴い、駅舎の中に移設されました。木製の歌碑です。

 

盛岡駅から銀河鉄道で渋民駅まで20分、好摩駅までは25分です。なお、渋民駅は昭和25年の開業です。渋民や好摩は平成18年に盛岡市に編入し、現在は盛岡市渋民、盛岡市好摩になっています。                            好摩村は明治22年に隣村の巻堀村等と合併し巻堀村となりました。一方、同年、啄木の出身地渋民村は下田村等と合併し渋民村になり、渋民村は明治29年に玉山村等と合併し玉山村になりました。その後、昭和30年に玉山村は巻堀村を編入、平成18年に玉山村は盛岡市に編入され、盛岡市玉山区好摩になり、平成28年に区制が解け、盛岡市好摩となりました。現在、好摩地区にはこの歌碑を含め啄木歌碑が5か所に建立されています。

オリンピック、皆さん顔晴(頑張)っていますね。特に、羽生君は怪我からの復活の金メダル、小平さんは金メダル候補の重圧に負けずの金メダル、本当に素晴らしいですね。






啄木歌碑めぐり(24)

2018年02月14日 | 啄木歌碑

(24)JR上野駅構内の歌碑                      昭和60年3月建立(『一握の砂』より)


上野駅構内の啄木歌碑


 ふるさとの 訛なつかし

停車場の 人ごみの中に

そを 聴きにゆく

啄木

 

明治35年10月31日、啄木は文学を目指し上京、11月5日、中学5年への編入を目指し、野村胡堂と一緒に神田近辺の中学を尋ねましたが、欠員がありませんでした。この歌碑は東北新幹線上野乗り入れを記念して建立されました。東北新幹線は、昭和57年6月に盛岡駅-大宮駅間が開業し、昭和60年3月に上野駅まで延び、平成3年6月に東京駅に乗り入れ、盛岡・東京間の開業となりました。


平成に入り東北新幹線は東京駅まで延びましたが、以前は東北方面から東京に行くには終点が上野駅でしたので、上野には多くの人の思い出があります。「あぁ上野駅」です。




「あぁ上野駅」

一、どこかに故郷の 香りを乗せて
入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった

二、就職列車に 揺られて着いた
遠いあの夜を 思い出す
上野は おいらの 心の駅だ
配達帰りの 自転車を
止めて聞いてる 国なまり

三、ホームの時計を 見つめていたら
母の笑顔に なってきた
上野は おいらの 心の駅だ
お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある

 

「ああ上野駅」の歌碑がJR上野駅前にあります。啄木が「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人混みの中に そを聴きにゆく」と詠んだように、上野駅は人々の郷愁をさそう場所でした。




水を求めて


盛岡は雪が少なく除雪の心配はありませんが、朝の気温は氷点下10度近くまで下がります。早朝は雪が解けないこともあり、喉の渇いた鳥が飲む水が無く、暖房器の煙突から垂れ落ちる水を求めて飛んできます。


 



啄木歌碑めぐり(23)

2018年02月08日 | 啄木歌碑

(23)JR盛岡駅前広場の歌碑                    昭和37年11月建立(『一握の砂』より)


 盛岡駅前の啄木歌碑

 

         啄  

ふるさとの山に向ひて 

言ふことなし 

ふるさとの山はありがたきかな


 

啄木は明治35年盛岡中学を退学、文学で身を立てようと上京を決意し、同年10月30日の夕刻、文学仲間などの友人に見送られ盛岡駅を発ちました。この歌碑は啄木50回忌にあたる昭和37年に建立され、東北新幹線開通にあわせ昭和57年に現在の場所に移されました。の歌は多くの歌碑に刻まれています。


盛岡駅を出ると右側にタクシー乗り場、左側にバス乗り場があり、中央の広場にこの歌碑が建立されいます。写真に見える駅名「もりおか」は啄木の歌集などから集字した文字を掲げている。

盛岡に着いたらまず市内を一巡ください。バス乗り場には市内循環ばす「でんでんむし号)が待っています。右回りと、左回りがあり同じコースを40分前後で回ります。日中は10分~15分間隔、乗車券は100円(1日乗車券300円)です。

  

市内循環ばす「でんでんむし号)


 啄木歌碑めぐりは、右まわりに乗って、啄木新婚の家前で降りて新婚の家を見、次に岩手医大前で降り、盛岡中学跡の歌碑、盛岡中学図書庫の歌碑を見、次に若園町で降りてまっすぐに歩いて行くと10分ぐらいで天満宮に着き4基の歌碑があります。次にバスセンター(中三)前で降り前に進むと2分で「中の橋」があります。下流方向に進むと盛岡高等小学校(現下ノ橋中学校)の歌碑、さらに進むと啄木父子の歌碑があります。中の橋から上流側に進むと富士見橋の歌碑があります。次に中の橋を渡ると右側に市役所があり、市役所裏の河川敷にも歌碑があります。次に盛岡城前で降りると岩手公園に歌碑がありますし、宮沢賢治の詩碑もあります。盛岡城前の次が盛岡ではただ一つのデパート「川徳」前です。あとは再び駅に戻ります。

 

 

 

 



啄木歌碑めぐり(22)

2018年02月03日 | 啄木歌碑

(22)「啄木であい道」の歌碑(盛岡駅前開運橋上流)   平成11建立(『明星』より)

 

 

     血に染めし

             歌をわが世の 

             なごりにて

              さすらひここに 

             野にさけぶ秋 

         石川白蘋

 

啄木は、この歌を『明星』(明治35年10月1日)に発表、明治35年10月27日、盛岡中学を退学しました。『明星』は、与謝野鉄幹の東京新詩社の機関誌です。啄木は明治35年3月から盛岡中学退学後の明治36年12月までは「白蘋」のペンネームで作品を発表しています。


「啄木であい道」には啄木の家族の歌碑もたくさんあります。


啄木であい道



節子の歌碑


眞洞出る 流れに添ひし 白樺の 木立をつつむ 夏大日かな
石川せつ子

 


京子(娘)の歌碑


美しき星月夜なり今はなき母のことなど思い出たり
石川京子



光子(啄木の妹)の歌碑


なだらかに陽は暮ぬ寂冥の闇に己れを見出しかな
光子


  


石川一禎(啄木の父)の歌碑


朝日影流石に雲井に輝きて岩手の山の峰のしら雪
石川一禎




葛原対月(啄木の伯父)の歌碑


花にやうふれし袂に香をとめしくれゆく春のかたみとやせん
葛原対月



他にも啄木、節子の歌碑数基ありましたが2年前にこの地は整備され啄木の歌碑一基を残し、すべて撤去されました。


2月2日は晴天で岩手山もきれいに見えました。


 

岩手山(2018.2.2) 

 

岩手山(2018.2.2) 


 春先になると岩手山頂上に鷲形があらわれますが、今年は雪が少ないのか晴天の日にはワシ形がよく見られます。