たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木歌碑めぐり(45)

2018年06月29日 | 啄木歌碑

(45)函館大森浜「啄木小公園」の歌碑            昭和3310月建立(『一握の砂』より) 


 

                                                                                               潮かをる北の浜辺の 

                                                                                               砂山のかの浜薔薇よ 

                                                                                              今年も咲けるや 

                                                                                                               啄木

  

啄木は、函館大火に遭遇し、函館での132日間の生活に終止符を打ち、函館大森浜を散策の翌日、明治40年9月13日、函館に別れを告げ、札幌に向かいました。函館には、青柳町の金野さんのお宅にも、次の歌の碑があります。

  「こゝろざし得ぬ人人のあつまりて酒のむ場所が   我が家なりしかな」(昭和61年2月建立)


啄木日誌・函館の夏(明治40年9月6日記)  

(大火)8月25日
 此夜十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、

 8月27日 曇                                                             市内は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、焼失戸数1万5千に上る、 


啄木日誌(9月 函館ー札幌ー小樽)

9月8日 この日札幌なる向井君より北門新報校正係に口ありとのたより来る。

9月12日 予は漸やく函館と別るるといふ一種云ひ難き感じしたり。この函館に来て百二十有余日、知る人一人もなかりし我は、新しき友を多く得ぬ。この日、昨日の日附にて依願解職の辞令を得たり、午后高橋女史をとひ、一人大森浜に最後の散策を試みたり。

9月13日 家族は数日の後小樽迄ゆきて予よりのたよりを待つ
筈にて・・後のことは諸友に万事託すしぬ、車場に送りくれたるは大塚岩崎並木、小林茂、松坂の諸君にして節子も亦妹と友に来りぬ。大塚君は一等切符二枚買ひて亀田まで送りくれぬ。車中は満員にて窮屈この上なし、函館の燈火漸やく見えずなる時、云ひしらぬ涙を催しぬ、

 

 

サッカーのワールドカップ、日本かろうじて決勝トーナメント進出になりましね。結果オーライでよかったのかな。決勝トーナメントでの活躍をまちましょう。

 

 







盛岡市保存樹木(55番 米内のヤエベニシダレヒガン群)

2018年06月28日 | ぶらりぶらり

55番 米内のヤエベニシダレヒガン群

盛岡市米内浄水場に咲く桜です。浄水場はjR上米内駅のすぐ前です。

 

米内のヤエベニシダレヒガン群









 

 

 

 

景観重要樹木

樹木の種類(名称)  米内のヤエベニシダレヒガン群(9本)
指 定 番 号 第50号
指定年月日 平成27年4月1日
所在地 盛岡市上米内字中居49
樹木の樹容の特徴
市内では珍しい樹種で,樹容に優れ市民に親しまれており, 良好な景観の形成に寄与している。【指定時推定樹齢90年】

※平成27年4月から盛岡市の「景観重要樹木」になりました

 




盛岡市保存樹木(52番 山岸小のユリノキ・モミ・イチョウ群)

2018年06月26日 | ぶらりぶらり

52番 山岸小のユリノキ・モミ・イチョウ群            盛岡市山岸2-13-1

盛岡市立山岸小学校の校庭の奥にあります


 

山岸小のユリノキ・モミ・イチョウ群


 






 


 


 

今では珍しい二宮金次郎像 

 

 

 

 

 

景観重要樹木

樹木の種類(名称)  山岸小のユリノキ・モミ・イチョウ群(28本)

指 定 番 号 第39号

指定年月日 平成27年4月1日

所在地 盛岡市山岸二丁目13-1

樹木の樹容の特徴

良好な小樹林を形成しており,地域に親しまれ,良好な景 観の形成に寄与している。


※平成27年4月から盛岡市の「景観重要樹木」になりました。




53番 青山小のエゾイタヤ 青山二丁目7-2  昭和56年10月19日 指定廃止

54番 桜城小のニセアカシヤ 大通三丁目8-1 昭和56年10月19日 指定廃止






啄木歌碑めぐり(44)

2018年06月23日 | 啄木歌碑


(44)函館公園の歌碑                           昭和284月建立(『一握の砂』より)


 啄木歌碑

 

                       函館の青柳町こそかなしけれ 

                       友の恋歌 

                       矢ぐるまの花 

                                  啄木

 

 明治40年5月5日、啄木は函館に着き、函館商工会議所で働いておりました。同年6月11日、函館弥生尋常小学校の代用教員の辞令を受け、同年7月に妻子を呼び寄せ、青柳町に新居を構え、同年8月、母と妹を迎え、父を除く5人が揃いました。同年8月には代用教員のまま、函館日日新聞の遊軍記者になりましたが、8月25日夜、函館大火があり、学校、新聞社は焼けてしまいました。

裏面の宮崎郁雨の碑文
「石川啄木が苜蓿舎に迎えられて青柳町に住んだのは、明治40年5月から9月に至る短い期間であったが、此の間の彼の生活は、多数の盟友の温情に浸り、且久しく離散していた家族を取り纏める事を得て、明るく楽しいものであった・・・」


歌碑案内板


                               案内板(説明板)

 

この歌碑は、啄木の青春のあしあと、青柳町時代を記念して昭和28年(1953年)4月に建立された。全国に数多く点在する啄木歌碑の中でも一番美しいできばえといわれるこの歌碑は、啄木の自筆を集字拡大したものであり、エキゾチックな風情とロマンをもつ街・函館をうたった歌として、広く市民に愛誦されている。
 薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留したのは、明治40年(1907年)5月から9月にかけての僅か132日間にすぎない。この間、文芸同人苜蓿社の諸友に囲まれ、文学を論じ、人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと夢を思い悲しんだ。


啄木日誌・函館の夏(明治40年9月6日記)                                                                 5月5日  函館に入り、迎へられて苜蓿社に宿る事となれる。

5月11日より予は澤田君に促がされて商業会議所に入れり、予は一同僚と共に会議所議員選挙有権者台帳を作る事を分担し毎日税務署に至りて営業税納入者の調をなせり。

6月11日 予は区立弥生尋常小学校代用教員の辞令を得たり、翌日より予は生れて第二回目の代用教員生活に入れり月給は三給上俸乃ち12円なりき、

7月7日  節子と京子は玄海丸にのりて来れり、此日青柳町十八番地石館借家のラノ四号に新居を構へ、

8月2日の夜 予は玄海丸一等船室にありき、そは老母を呼びよせむがため野辺地なる父の許まで迎へにゆくためなりき、三日青森に上陸、翌早朝老母と共に野辺地を立ち青森より石狩丸にのりて午后四時無事帰函したり。

8月18日より予は函館日々新聞社の編輯局に入れり、予は直ちに月曜文壇を起し日々歌壇を起せり、編輯局に於ける予の地位は遊軍なりき、


(大火)8月25日
 此夜十時半東川町に火を失し、折柄の猛しき山背の風のため、暁にいたる六時間にして函館全市の三分の二をやけり、学校も新聞社も皆やけぬ、友並木君の家もまた焼けぬ、予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり、

8月27日 曇                                                                            市内は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、焼失戸数1万5千に上る、                                                             



 

 

 



 

 

 



 


盛岡市保存樹木(48番 青山のポプラ)

2018年06月22日 | ぶらりぶらり

48番 青山のポプラ        盛岡市青山二丁目3-14


 

青山のポプラ

 

 

 









 

岩手県営体育館前バス停の前にあり、バス停から見られます。

 

景観重要樹木(盛岡市)

樹木の種類(名称)  青山のポプラ
指 定 番 号 第26号
指定年月日 平成27年4月1日
所在地 盛岡市青山二丁目3-14わき
樹木の樹容の特徴
樹容に優れ地域のシンボル的存在であり,良好な景観の形 成に寄与している。【指定時推定樹齢:110年】

平成27年4月から「景観重要樹木」になりました

 

 

49番 県道鵜飼盛岡線のポプラ(東) 青山二丁目3-14わき 昭和56年10月19日 指定廃止

50番 青山の二丁目のポプラ  青山二丁目20-40  平成7年4月27日 指定廃止




啄木歌碑めぐり(43)

2018年06月19日 | 啄木歌碑

 (43)合浦公園の歌碑(青森市合浦)               昭和31年5月建立(『一握の砂』より) 

 


                                 啄木 

                       船に酔ひてやさしく奈れる 

                       いもうとの眼見ゆ 

                       津軽の海を思へば 

   

 

明治40年5月5日、啄木は母、妻を残し、妹光子を伴い船で青森から函館に渡りました。この歌は、その時の様子を詠んでいます。函館は、平成28年3月に青森と函館を結ぶ北海道新幹線が開業し、大分近く感じます。東北新幹線は東京・盛岡間で運行していましたが、平成14年12月に八戸市まで、平成22年12月に青森市に乗り入れています。


 

啄木日誌

明治40年5月5日                                                                   五時前目をさましぬ。船はすでに青森をあとにして湾口に進みつつあり。海峡に進み入れば、波立ち騒ぎて船客多く酔ひつ。光子もいたく青ざめて幾度となく嘔吐を催しぬ。初めて遠き旅に出でしなれば、その心、母をや慕ふらむと、予はいといとしきを覚えつ。清心丹を飲ませなどす。山は動かざれども、海は常に動けり。動かざるは眠の如く、死の如し。しかも海は動けり、常に動けり。これ不断の覚醒なり。不朽の自由なり。




 

 


終わった人

2018年06月17日 | ぶらりぶらり

 舘ひろし・黒木瞳ダブル主演の映画「終わった人」は盛岡市でロケを行ったということもあり観てきました。一ノ倉邸、米内浄水場、高松の池などでのロケでした。岩手山もきれいに見えました。



岩手山と北上川



高松の池


高松の池 

 

高松の池

 

春先の高松の池 

 

高松の池は盛岡駅から松園行きのバスに乗車、高松の池口バス停で下車ください。10分ほどです。

 

一ノ倉邸

映画では舘ひろしの実家が一ノ倉邸になっています。一ノ倉邸建物と庭園は明治後期に盛岡市出身の政治家 阿部浩造られた歴史と由緒あるものです。その後,一ノ倉氏に譲渡され,平成年に盛岡市が取得しました。建物には多くの和室、畳敷の玄関、廊下があり、10間(20m)通しの杉丸太の「けた」も使われています

 

 一ノ倉邸


 

お部屋の柱と柱の中間に白い縦棒が見えますが、これは地震対策として壁の中に柱を埋め込んでいます。明治の後期にも地震対策をして建てたのですね。これまでの大きな地震でも壁一つ落ちることが無かったようです。

 

この部屋がロケに使われました 

 

20m通しの杉丸太の「けた」

  

平成2439日,犠牲者への鎮魂と復興推進のシンボルとして,「中尊寺ハス」株分け第号として,平成24日、「一ノ倉邸」に移植されました7月10日から8月10日頃までが花の見ごろなので、この頃の午前中に来ると(13時頃に花は萎むようです)ハスの花が見られそうです。

 

ハスの池 

 

 庭に立つ「曲がり松」

 


一ノ倉邸は月・火曜日を除いて10時から15時まで公開されています。盛岡駅からバスで10分ほどで、「安倍館」バス停で下車ください。


 佐藤写真館

映画では舘の高校時代のラグビー仲間「16」番・川上君の家が佐藤写真館です。映画では川上写真館になっております。盛岡中央郵便局の隣です。

 

佐藤写真館

佐藤写真館 

 

米内浄水場

浄水場の「記念館」や「ろ過池調整室」などは国の有形登録文化財になっています。


 米内浄水場の正門と「ろ過池調整室」


 米内浄水場「記念館」

 

 

 ろ過池とヤエベニシダレヒガンザクラ


ヤエベニシダレヒガンザクラは盛岡市景観重要樹木になっています。米内浄水場はJR山田線「上米内」駅の向かいになります。


 JR上米内駅

 

 上米内駅前の宮澤賢治詩碑

                                                                                                燃えそめし                                                          アークライトは                                                       黒雲の                                                           高洞山を                                                             むかひ立ちたり                                                           宮沢賢治 

 

 

 


盛岡市保存樹木(47番 中野古沢氏のオチャの木)

2018年06月14日 | ぶらりぶらり

47番 中野古沢氏のオチャノキ      盛岡市中野二丁目15-30


古沢さんのお宅は国道4号線と中野小学校の間の通りにあります。4号線を挟んで中野小学校の反対側の地名が茶畑ですが、茶畑の由来ともいわれています。



古沢氏のオチャの木

 


 

中野小学校にも株分けされたお茶の木が植えられています。





 盛岡市立中野小学校

 

今朝の岩手山

 

岩手山と 四十四田ダム(2018.6.14)

 

 

岩手山(2018.6.14)

 

 岩手山(2018.6.14)

 

 

釣り人(四十四田ダムの橋上) 

 

 

 

 

 



 


チャグチャグ馬コ

2018年06月10日 | ぶらりぶらり

チャグチャグ馬コは毎年6月の第2土曜日に行われる「蒼前様」を信仰とするお祭で、100頭ほどの馬が、滝沢市の蒼前神社から盛岡市の八幡宮までの13kmの道のりを行進するお祭です。歩くたびにチャグチャグと鳴る鈴の音が名称の由来ともいわれています。

 

 

 

 色とりどりの装束に身を包んだ馬が行進する様子は迫力があります。昭和53年には文化庁から「選択無形の民俗文化財」に選ばれ、平成8年には、馬の鈴の音が環境省の「残したい日本の音風景100選」にも選ばれました。


 

 夕顔瀬橋を渡る「チャグチャグ馬コ」

 

北上川に架かる夕顔瀬橋を渡り、材木町、盛岡駅前、大通りを経て、じゃじゃ麺の美味しいパ白龍(パイロン)店前を通って進みます。

 

 

 

  

 

 

 

 

 チャグチャグ馬コといえば宮澤賢治の詩「ちやんがちやがうまこ」があります。中津川に架かる下の橋(しものはし)のすぐ傍に、賢治の「ちやんがちやがうまこ」詩碑が建立されています。ここは、宮澤賢治が盛岡高等農林学校(現 岩手大学農学部)の学生だったころに下宿していたところです。ここにはまた、賢治が当時使用していた下宿の井戸水を引いて、自由に飲めるようにしています。私もここを通ったった時にはよく飲ませていただきます。皆さんも盛岡に来たときには、ぜひ立ち寄ってください。

 

 

 宮澤賢治の詩碑

 

 

                  ちやんがちやがうまこ
        
                            宮 澤 賢 治   自 筆

                  夜明げには
                  まだ間あるのに
                  下のはし
                  ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

                  ほんのぴゃこ
                  夜明げがゞった雲のいろ
                  ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

                  いしょけめに
                  ちゃがちゃがうまこはせでげば
                  夜明げの為が
                  泣くだぁぃよな氣もす。

                  下のはし
                  ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
                  みんなのながさ
                  おどともまざり。

                         宮沢賢治詩碑建立実行委員会
                             平成十一年一月吉日

 

 下の橋の上から見た賢治詩碑

 

 

 岩手大学構内の賢治像

 

 

 白龍(パイロン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


啄木歌碑めぐり(42)

2018年06月08日 | 啄木歌碑

(42)「啄木ふる里の道」敷石歌(盛岡市渋民)   平成18年設置(『一握の砂』より)




                                                                                   石をもて追はるるごとく

                                                                                       ふるさとを出でしかなしみ

                                                                                       消ゆる時なし

 

明治40年5月4日、啄木は、追われるような気持で、妹・光子を連れて渋民村を出、好摩駅から青森へ、青森からは船に乗って、北海道に向かいます。斉藤家での渋民滞在は1年2か月でした。その後、啄木は、二度と故郷「渋民」の土を踏むことはありませんでした。この歌は、盛岡市立渋民小学校周りの歩道を「啄木ふるさとの道」と名付け、その敷石に記されています。


啄木日誌

明治40年5月4日                                                                 午后1時、予は桐下駄の音軽らかに、遂に家を出でつ。あゝ遂に家を出でつ。これ予が正に1ヶ年2ヶ月の間起臥したる家なり。この美しき故郷と永久の別れにあらじのかとの念は、・・予は骨の底のいと寒きを覚えたり。夜九時半頃、青森に着き、直ちに陸奥丸に乗り込みぬ。 あゝ、故里許り恋しきはなし。我は妻を思ひつ、老ひたる母を思ひつ、をさなき京子を思ひつ。我が渋民の小さき天地はいと鮮やかに限にうかびき。さてまた、かの夜半の蛙の歌の繁かりしなつかしき友が室を忍びつ。我はいと悲しかりき。三等船室の棚に、さながら荷物の如く眠れるは午前一時半頃にやありけむ

 


啄木ふる里の道には敷石に刻んだ啄木の歌が30基ほど埋め込まれています。