盛岡での学校生活
啄木は渋民村(現・盛岡市玉山区渋民)の尋常小学校を卒業し盛岡高等小学校(現・下橋中学校)に入学します。学校は中津川沿いにあり、岩手山も見えるところです。
下橋中学校
下橋中学校の啄木歌碑
啄木は盛岡中学への進学をめざし、進学塾ともいえる育英学舎(現・江南義塾盛岡高等学校)に通っていました。育英学舎は現在の盛岡中央郵便局の傍にあったようです。現在の江南義塾盛岡高等学校は盛岡市前九年町にあります。
江南義塾盛岡高等学校
江南義塾盛岡高等学校の啄木歌碑
己が名を ほのかに呼びて
涙せし
十四の春に かへる術なし
啄木
啄木は明治31年盛岡中学(現・盛岡第一高等学校)に入学します。当時、盛岡中学には金田一京助、野村胡堂らが在籍しておりました。ここで、啄木は文学に目覚め、「翠江」、「白蘋」の号を用い新聞等にも投稿しております。
「翠江」での歌は「啄木であいの道」の歌碑にも刻まれています。
啄木であいの道の歌碑
当時の盛岡中学跡には現在、岩手銀行本店が建てられており、そこには、次の啄木歌碑が建立されています。
岩手銀行の啄木歌碑
盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ
石川啄木
岩手県立盛岡中学校濫觴の地
また、盛岡中学の図書庫跡には、岩手銀行に隣接し、岩手医大循環器センターが建っており、その玄関前に、次の歌碑が建立されています。
岩手医大循環器センター玄関前の啄木歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
啄木
盛岡中学の図書庫は、その後、岩手県宮古市に移され「寄生木記念館」として使用されました。
寄生木記念館
なお、「寄生木記念館」は平成22年に閉館となり、図書庫は再び盛岡市鉈屋町にある「もりおか町家」三喜亭の裏庭に戻っております。
鉈屋町「三喜亭」
旧盛岡中学図書庫
盛岡中学校は、その後、盛岡市上田に移り、盛岡第一高等学校として、県内一の進学校として、生徒は勉学に励んでいます。
盛岡第一高等学校
盛岡第一高等学校の啄木歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
啄木
啄木が学生時代に遊んだと思われる場所にも、啄木歌碑が建立されています。岩手公園は盛岡中学から近いのでよく遊んだのでしょう。
岩手公園の啄木歌碑
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
啄木
天満宮にも遊びに来ていたようで、ここにも啄木歌碑が建立されています。天満宮までは盛岡中学から歩いて10分ほどです。
阿形の狛犬
夏木立中の社の石馬も
汗する日なり
君をゆめみむ
啄木
吽形の狛犬
松の風夜晝ひびきぬ
人訪はぬ山の祠の
石馬の耳に
啄木
苑古き
木の間に立てる石馬の
背をわが肩の月の影かな
啄木
天満宮の境内から階段で下がっていくと、次の啄木歌碑があります。
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあおぞらの煙かなしも
啄木
茨島には節子の友達玉代が住んでいたこともあり、よく茨島にきて遊んでいたようです。茨島は現在のJR厨川駅から少し北側に進んだあたりです。歌碑のあるところは現在厨川1丁目になっています。
厨川の啄木歌碑
茨島の松の並木の街道を
われと行きし少女
才をたのみき
啄木
明治35年、啄木は盛岡中学校を退学し、上京します。啄木の中学時代の最後の歌は、盛岡駅前の開運橋の傍にある「啄木であいの道」の歌碑にも刻まれています。
啄木であいの道の啄木歌碑
血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野に叫ぶ秋
石川白蘋
啄木は渋民村(現・盛岡市玉山区渋民)の尋常小学校を卒業し盛岡高等小学校(現・下橋中学校)に入学します。学校は中津川沿いにあり、岩手山も見えるところです。
下橋中学校
下橋中学校の啄木歌碑
その昔
小学校の
柾屋根に
我が投げし
鞠
いかになり
けん
啄木
小学校の
柾屋根に
我が投げし
鞠
いかになり
けん
啄木
啄木は盛岡中学への進学をめざし、進学塾ともいえる育英学舎(現・江南義塾盛岡高等学校)に通っていました。育英学舎は現在の盛岡中央郵便局の傍にあったようです。現在の江南義塾盛岡高等学校は盛岡市前九年町にあります。
江南義塾盛岡高等学校
江南義塾盛岡高等学校の啄木歌碑
己が名を ほのかに呼びて
涙せし
十四の春に かへる術なし
啄木
啄木は明治31年盛岡中学(現・盛岡第一高等学校)に入学します。当時、盛岡中学には金田一京助、野村胡堂らが在籍しておりました。ここで、啄木は文学に目覚め、「翠江」、「白蘋」の号を用い新聞等にも投稿しております。
「翠江」での歌は「啄木であいの道」の歌碑にも刻まれています。
啄木であいの道の歌碑
当時の盛岡中学跡には現在、岩手銀行本店が建てられており、そこには、次の啄木歌碑が建立されています。
岩手銀行の啄木歌碑
盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ
石川啄木
岩手県立盛岡中学校濫觴の地
また、盛岡中学の図書庫跡には、岩手銀行に隣接し、岩手医大循環器センターが建っており、その玄関前に、次の歌碑が建立されています。
岩手医大循環器センター玄関前の啄木歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
啄木
盛岡中学の図書庫は、その後、岩手県宮古市に移され「寄生木記念館」として使用されました。
寄生木記念館
なお、「寄生木記念館」は平成22年に閉館となり、図書庫は再び盛岡市鉈屋町にある「もりおか町家」三喜亭の裏庭に戻っております。
鉈屋町「三喜亭」
旧盛岡中学図書庫
盛岡中学校は、その後、盛岡市上田に移り、盛岡第一高等学校として、県内一の進学校として、生徒は勉学に励んでいます。
盛岡第一高等学校
盛岡第一高等学校の啄木歌碑
学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名もしらず
啄木
啄木が学生時代に遊んだと思われる場所にも、啄木歌碑が建立されています。岩手公園は盛岡中学から近いのでよく遊んだのでしょう。
岩手公園の啄木歌碑
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
啄木
天満宮にも遊びに来ていたようで、ここにも啄木歌碑が建立されています。天満宮までは盛岡中学から歩いて10分ほどです。
阿形の狛犬
夏木立中の社の石馬も
汗する日なり
君をゆめみむ
啄木
吽形の狛犬
松の風夜晝ひびきぬ
人訪はぬ山の祠の
石馬の耳に
啄木
苑古き
木の間に立てる石馬の
背をわが肩の月の影かな
啄木
天満宮の境内から階段で下がっていくと、次の啄木歌碑があります。
病のごと
思郷のこころ湧く日なり
目にあおぞらの煙かなしも
啄木
茨島には節子の友達玉代が住んでいたこともあり、よく茨島にきて遊んでいたようです。茨島は現在のJR厨川駅から少し北側に進んだあたりです。歌碑のあるところは現在厨川1丁目になっています。
厨川の啄木歌碑
茨島の松の並木の街道を
われと行きし少女
才をたのみき
啄木
明治35年、啄木は盛岡中学校を退学し、上京します。啄木の中学時代の最後の歌は、盛岡駅前の開運橋の傍にある「啄木であいの道」の歌碑にも刻まれています。
啄木であいの道の啄木歌碑
血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野に叫ぶ秋
石川白蘋