たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木歌碑めぐり(34)

2018年03月28日 | 啄木歌碑

(34)天満宮「孤像」の歌碑(盛岡市新庄)        平成4年7月建立(『閑天地(岩手日報)』より)


 「孤像」の歌碑


        啄 木

                                苑古き

木の間に立てる石馬の

 背をわが肩の月の影かな

 

この歌は啄木が岩手日報に連載した『閑天地』の『十一夜会の記』(明治38年7月18日)にあります。天満宮の境内に平成4年に狐像一対が建立され、それぞれの台座に短歌と建立由来が記載ざれています。啄木は岩手日報には明治34年12月3日に、「石川翠江」の著名で歌6首を投稿して以来多くの歌を発表しています。


『閑天地』には明治38年6月9日から7月18日までに21回投稿しており、その中には「落人ごころ」、「世の教育者よ」、「権威は勝利者の手にあり」、「我が四畳半」、「十一夜会の記」などがあり、「十一夜会の記」では歌2首を詠んでおり、もう1首は次の歌です。

「舟がゝりほとゝぎす待つ夜の江や帆もつくろひぬ篝(かがり)の影に」 


啄木は岩手日報には明治35年1月1日までは「翠江」のペンネームを用い、明治37年1月10日以後は「啄木」を用いています。なお、石川一(啄木)がペンネームに「啄木」を初めて用いたのは長詩『愁調』を『明星』に発表した明治36年12月のようです。『明星』には明治35年10月号から明治41年11月号(終刊号)まで数多くの歌を発表しています。


明星終刊号


啄木は明星終刊号に52首詠んでおり、次の歌もあります。

               「ふるさとの山を思へば一茎の草の香さへも親しまれつつ」

                                                      「恋ふらくは竈(かまど)のなかに渦巻ける煙よりけに胸の苦しき」


天満宮には階段を上っていきますが、階段を上るのが大変な方は裏側に駐車場もありますので、そちらを利用すると良いと思います。


盛岡天満宮入口


階段の上から見るとまっすぐな道路が10kmほど続き四十四田ダムまで続いています。途中、中津川に架かる「上の橋」、JR山田線の陸橋を通り、岩手大学、盛岡第一高校一校脇を通過、国道4号盛岡バイパスを横切り盛岡第三高校前、松園バスターミナル前を通り過ぎ四十四田ダムに着きます。なお、県立博物館は松園バスターミナルから歩いて10分ほどです。盛岡駅から松園バスターミナル行き(経由)バスが数多くの本数で出ています


天満宮の階段の上から


今朝の岩手山の頂上にはワシ形が現れていました。


岩手山頂上のワシ形(2018.3.28)

 

岩手山頂上(2018.3.24)


岩手山頂上のワシ形(2018.3.18)

 




啄木歌碑めぐり(33)

2018年03月24日 | 啄木歌碑

(33)「詩歌の散歩道」の歌碑(盛岡市役所裏、中津川河川敷)  平成5年11月建立(『明星』より)


中津川河川敷の啄木歌碑


中津川や月に河鹿の

啼く夜なり

涼風追ひぬ夢見る人と

      啄木         北流

 

この歌は、啄木・せつ子が結婚し、雑誌『明星』(明治38年7月号)に発表した歌です。この歌碑は盛岡市役所裏の中津川の河川敷の「詩歌の散歩道」に建立されました。歌碑では著名を啄木にしておりますが、啄木・節子の連名の歌です。なお、『明星』は詩人・与謝野鉄幹によって明治33年に創刊された文学雑誌です。

『明星』(明治38年7月号)には啄木・せつ子の連名で10首を発表しており、次の歌もあります。

「夏の月は窓をすべりて盗むごと人の寝顔に口づけにける」



明星』創刊号 



 

中津川の河川敷の歌碑

 

川の向こうの土蔵群は盛岡市の保存建造物に指定されている「茣蓙九」商店です。案内板によると「この建物は、江戸時代後期、明治中期、明治末期と次々に建てられたもので、藩政時代からの商家の姿を今に伝える建造物である。」とあります。


 

 盛岡市役所(歌碑は大木のふもとにあります)

 

盛岡市役所は中津川下流側の「中の橋」と上流側の「与の字橋」との間にあります。「与の字橋」の上流が「上の橋」です。

 

 

 

与の字橋

 

中の橋

 

 先日、箱根に雪が降ったとの報道がありましたが岩手山にも大分雪が積もり、春を告げるワシ形が消え、すっぽり雪に覆われていました。

 

岩手山(2018.3.24)


岩手山頂上(2018.3.24)


岩手山頂上のワシ形(2018.3.18)

 




啄木歌碑めぐり(32)

2018年03月20日 | 啄木歌碑

(32)「啄木新婚の家」の歌(盛岡市帷子小路)    『一握の砂』より           啄木19歳


啄木新婚の家の歌


                                      啄木

 ふるさとの山に向ひて

                                                                                          言ふことなし

              ふるさとの山はありがたきかな

 

啄木の上京中、盛岡の石川家では、節子との婚姻届けを出し、挙式を明治38年5月30日に決めました。しかし、啄木はこの日には帰らず、花婿のいない結婚式となりました。啄木は明治38年6月4日、盛岡に帰り、帷子小路の新居に入りました。両親、妹も同居で、啄木夫婦は4畳半の狭い部屋です。現在、この家は「啄木新婚の家」として公開されています。


啄木は節子との結婚式に出席のため東京から盛岡に向かいました。ところが、途中仙台に立ち寄り、盛岡では降りず、まっすぐ好摩(渋民)に行ってしまいます。結婚式に出るのに抵抗があったのでしょうか。書簡をみると、 

 

明治38年5月22日                                                   ふる里の閑古鳥聴かむと俄かに都門をのがれ来て、一咋夕よりこの広瀬川の岸に枕せる宿に夢の様なる思に耽り居候、月末までには再び都門に入るつもり、この落人の心のかずかず、うさたのしさハ凡て故里より申上げ候、                 金田一京助様             仙台にて  啄木

 

明治38年5月30日                                                  友よ友よ、生は猶活きてあり、二三日中に盛岡に行く、願くは心を安め玉へ。                       上野広一様              好摩ステーションに下りて   はじめ         

 

明治38年6月〇日                                                 この中津川の川音封じ込むる一書、恐らく兄は意外としたまふらむ、生の一家、双親と小妹と愛妻と、共にここに新居を営みてより既に夢の如く十数日を送り候、・・・小生は結婚いたし候、天下のログデナシのゴロツキの小生が、杜陵の青風に胸の塵臭吹き払はせて一家団欒のうちに無上の『愛』の宝巣をむさぼりつつあるとは、さても奇妙なる事に候、・・・         伊東圭一郎宛              盛岡より

 

啄木新婚の家には盛岡駅東口バスターミナルから盛岡都心循環バス「でんでんむし号」右回りに乗り「啄木新婚の家」前で下車ください。


でんでんむし号


啄木新婚の家


新婚の家の間取り


啄木一家がこの家に住んでいた時は3家族が住んでおり、啄木一家は赤色の部屋を使用しておりました。家の裏側の玄関を用い、4畳半が啄木夫妻、8畳に両親と妹が住んでいたようです。


新婚の家の裏側玄関


啄木はここに3週間住み加賀野に移ります。これについては岩手日報に投稿した閑天地の中の「我が四畳半」の中にあり、最後に次のように書かれています。今般帷子小路の四畳半より加賀野川原町四番戸に転居仕候 』と・・・僅か三週の間なりしとは云へ、我が半生に於ける最大の 安慰と幸福とを与へたりしかの 陋苦しき四畳半が、この追懐によりて今また重大なる経験と智慧と勇気とを恵んで惜まざるに感謝し、同時に、我が生涯をして停滞せしむる事なく、さながら最良なる教師の如く、常に刺激と興奮の動機を与へて倦まざるの天に謝す。かくて我は、我が家の貧と、我が心の富に於て、独り自ら帝王の如く尊大なる也。




岩手山

2018年03月18日 | ぶらりぶらり

今日(2018.3.18)は曇っていましたが岩手山はくっきりと綺麗に見えました。高松の池には昨日は白鳥が200羽ほどいましたが今日の午後は30羽前後しかいませんでした。昨日のうちにほとんどの白鳥は北帰行を行ったようです。

  

高松の池(2018.3.18)

 

高松の池(2018.3.18)

 

高松の池(2018.3.17)


岩手山は春を告げるワシ形が表れています。以前は4月に入ってからワシ形が表れていましたが、早くなってきたのでしょうか。東京は昨日桜の開花宣言でしたね。盛岡の桜も今年は早いような気がします。


岩手山のワシ形(2018.3.18)

 

岩手山のワシ形(2016.3.29)

岩手山のワシ形(2015.4.4)

岩手山のワシ形(2014.4.15)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


白鳥

2018年03月17日 | ぶらりぶらり

今朝、高松の池(盛岡市)に行ったら多くの白鳥が飛び立つ準備をしており、カメラを持った多くの人が白鳥の飛び立つ姿を待っていました。白鳥は数羽づつ飛び立ちますが、私はなかなか飛び立つ姿をとらえることは出来ませんでした。

 

                       高松の池(2018.3.17)

 

 

                          飛び立つ白鳥

 

                         飛び立つ白鳥

 

 

 

 

 


啄木歌碑めぐり(31)

2018年03月15日 | 啄木歌碑

31)上野商店街の歌碑(東京都台東区)           昭和61年3月建立(『一握の砂』より) 


 

上野商店街の啄木歌碑

 

石川啄木

ふるさとの訛なつかし

停車場の人ごみの中に

そを聴きにゆく

       春彦書

 

明治37年10月31日、啄木は東京に着き、詩集『あこがれ』の刊行に努め、明治38年5月に発行されました。しかし、本の売れ行きは思うようにはいきませんでした。一方、渋民村では、父一禎が宗費の滞納で住職罷免の処分を受け、明治38年3月2日、住み慣れた宝徳寺を離れます。


上野駅に行くとふるさとの訛りある言葉が聴けたのでしょう。平成3年に東北新幹線が東京駅に乗り入れるまでは、上野駅が終着駅でした。


明治37年10月31日に啄木が東京に着いたこと、明治38年5月に詩集『あこがれ』が発行されたことは、書簡に次のように記されています。 

 

明治37年11月1日                                                 兄よ、生は咋夕六時遂に都門に入れり、途中黒沢尻(現・岩手県北上市)に泊して、兄の故家より頼まれ物を持ちて来れり、生も訪問するけれど、取敢兄の御来游待つ、                                                                     小沢恒一様                    石川啄木

 

明治37年11月7日                                                 出発の際は熊々見送りを忝うして誠にうれしかった、丗一日の夕に着京したが殆ど茶をのむ暇もない程急はしいので、遂今日迄手紙もやらんで失敬した、我故郷はもはや一面の銀世界になったらう、当地今朝は全都に霜が降りたが、雪はまだまだ見る事が出来ぬ、遠からず閑静な下宿に移転する考へだから、その上で面白い本だの手紙は送る。君は充分に着実に勉強して、決して小成に安んずる様な考えを起こすな、よく努力する者には必ずよい報がある者だ。                     齋藤佐蔵殿                   石川啄木


明治38年5月11日                                                 兄にまで御心配かけたる段は真平御免、但し小生は天下の石川啄木に候、呑気と繁忙と取りまぜて大都をさまよひ廻り居候うちにこんな事が出来たの也。小生は笑ふ外無之候『あこがれ』やうやう昨日製本済みと相成申候、明日御郵送せむ。案外おくれたり、・・・                                                              上野広一様                 啄木生  


なお、小沢恒一さんは盛岡中学の同級生、齋藤佐蔵さんは渋民村の友人で啄木が渋民村で教員をしたときに齋藤家に間借りしています。上野広一さんは盛岡中学の1年後輩になります。

 

 




啄木歌碑めぐり(30)

2018年03月11日 | 啄木歌碑

(30)愛宕公園の歌碑(青森県野辺地町)   昭和37年5月建立(『一握の砂』より)


愛宕山の啄木歌碑(青森県野辺地町)


潮かをる北の濱辺の

砂山のかの濱薔薇よ

今年も咲けるや

      啄木

 

啄木は体調も回復し、上京を決意し、北海道の義兄に援助を求め、明治37年9月28日、好摩駅を発ち野辺地に立ち寄り、青森から船に乗って北海道に向かいました。啄木は軍資金を得て渋民に戻り、10月28日、渋民を離れ盛岡に寄り、東京に向かいます。今回の上京は詩集の発刊が目的です。この歌碑は啄木の50回忌にあたり建立されました。


2018年3月11日 盛岡は快晴で岩手山も綺麗に見えます。頂上には春を告げる「ワシ形」がくっきりとうかんでいました。


岩手山(2018. 3. 11 7時)


春を告げる岩手山頂上のワシ形 (2018. 3. 11  7時)


深い祈りの日を迎えました。岩手県内の死者・行方不明者が6千人を超える犠牲者がでた東日本大震災から7年です。2011年3月11日、突然襲った地震には本当に驚きました。私は宮城県松島町の駅前あたりをバスでホテルに向かっていました。バスのテレビ放送でしたでしょか津波が来るので高台に避難するようにとの注意があり、ホテルのバスは近くの高台の駐車場に向かいました。この日は寒く松島でも雪が降っていました。


 

松島の高台から撮影(2011年3月11日 17時頃)


松島には小島が多くあるため島が防波堤になり海水は道路まで上がりましたが、大き津波には襲われなかったようです。その日はバスの中に一泊、翌日はそのバスで山道を通り仙台に行きました。仙台駅は閉鎖しておりましたので仙台市役所まで送っていただきました。市役所には避難された方々でいっぱいでした。交通の便がなくその日は市役所で一泊、翌日盛岡の方がタクシーを見つけ見知らぬ4人で無事盛岡まで帰ってきました。翌年の3月11日4人で集まり食事をとりながら当時の状況を話し合いました。

岩手県の海岸地区も大きな被害を受けました。 各地で堤防の建設、土地の嵩上げを行っておりますす。高田松原の啄木の歌碑も流されましたが、私が訪れた時(2014. 5.10)には追悼施設の脇に新しい歌碑が建立されていました。


追悼施設


陸前高田の啄木歌碑


頬につたふ 
なみだのごはず 
一握の砂を示しし人を忘れず
      啄木



陸前高田・復興工事の土砂の輸送管と遠方の一本松は


復興工事も順調に進めており、嵩上げに使うために掘削された土砂を運搬するためベルトコンベアーを用い配管を通し作業をしてました。各被害地は「土地のかさ上げ」と「高い防波堤」の建築の作業ががあるので大変です。 

大槌町は特に大きな被害を受けました。街全体が低地にあったので街全体が流されるほどの大きな被害でした。私が訪れた時(2016. 4.9)にはかさ上げ工事の運搬車がひっきりなしに動いていました。現在、被害に遭った旧庁舎は震災遺構として保存するか、それとも解体するか、大槌町民の意見は二分しているようで、まだ決まっていないようです。

 

 

被災にあった大槌町役場(2016. 4. 9)

 

一方、大船渡市吉浜町は合併前の吉浜村の当時、明治時代の津波、昭和初期の津波と二度にわたって被災を受け、当時の村長は高台移住を実施し、今回の東日本大震災にはほとんど人的被害は無く、「奇跡の集落」と呼ばれました。啄木歌碑は海岸近くにあり、歌碑の直前まで波が襲ったということですが歌碑は無事でした。

 

 

吉浜の啄木歌碑


潮かをる

北の浜辺の砂山の

かの浜薔薇よ

今年も

咲けるや

                                                                             石川啄木


 




啄木歌碑めぐり(29)

2018年03月09日 | 啄木歌碑

29)篠木尋常小学校(現・滝沢市立篠木小学校)の歌碑 平成21年建立(『小天地』より)啄木18歳 


節子の歌碑


                       今日も又

                          夢は追ひつと人に云ひ 

                       かくれてききぬ

                          厨こほろぎ

      節 子

 

節子の歌です。啄木は心身ともに回復し、明治37年2月、節子と婚約しました。節子は盛岡女学校(現・盛岡白百合学園高校)を卒業し、篠木尋常高等小学校の代用教員をしておりました。啄木(石川一)はこの前後から「啄木」のペンネームを用い始め、明治36年12月、長詩『愁調』を「啄木」の著名で『明星』に発表しました。


滝沢市は人口5万人を超える滝沢村でしたが平成26年1月1日付で市制施行しました。盛岡に隣接しており、盛岡市との合併の話もありましたが、単独で市制をとりました。滝沢村の時代から盛岡に愛着を持っており? 盛岡大学、盛岡北高等学校、盛岡農業高等学校などと「盛岡」の名前がついています。

滝沢といえば6月第2土曜日に行われる「チャグチャグ馬コ」です。色とりどりの装束をまとった100頭近くの農耕馬が滝沢市の鬼越蒼前神社から,盛岡市の盛岡八幡宮までの約13kmを「チャグチャグ」と鈴の音を響かせながら行進し,南部盛岡地域の初夏を鮮やかに彩ります。





盛岡の街中を流れる中津川に架かる「下ノ橋」のふもとには宮澤賢治の詩「ちやんがちやがうまこ」の詩碑が建立されています。ここは賢治が盛岡農林(現・岩手大学農学部)の学生時代の下宿跡で、当時の井戸水がポンプアップされており美味しい水ですので、盛岡にいらした時には立ち寄ってください。




ちやんがちやがうまこ
        
治   自

夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ
夜明げがゞった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり。

宮沢賢治詩碑建立実行委員会
平成十一年一月吉日




 


啄木歌碑めぐり(28)

2018年03月05日 | 啄木歌碑

(28)「啄木であい道」の歌碑(盛岡駅前開運橋上流) 11建立(『書簡(野村胡堂宛)』より)


      

  

花びらや、

地にゆくまでの瞬きに、

閉ぢずもがもか吾霊の窓。

石川啄木

 

この歌は啄木が体調をくずし、渋民に帰省中に、野村胡堂に宛てた手紙(明治36年9月17日)の最後に、 ワグネルの像掲げたる窓に蟋蟀の歌きゝつゝ  白蘋拝

 菫舟大兄 御もとへ 「花びらや、・・・・・・」 

とあります。啄木は、明治36年12月頃までは「白蘋」のペンネームを用いております。



開運橋は盛岡駅東口から歩いて5分ほどのところの北上川に架かる橋です。


盛岡駅東口


下流の不来方橋から見た開運橋



 開運橋から見た岩手山



冬季オリンピックが終わり、パラリンピックが間もなくはじまりますね。さて、個人競技の選手とコーチ(監督)の関係は微妙ですね。レスリングの伊調選手にパワハラ行為があったのか、どうなのか。栄コーチにすれば子供のころから面倒・指導をしてきた伊調選手が、オリンピックで金メダルを獲得したらコーチを代えて東京へ。栄コーチにすれば腹の虫がおさまらず、一言・多言あったのでしょう。栄コーチはパワハラとは思わないのでしょうが、伊調選手はパワハラと思います。一方、オリンピックで金メダルをとるほどになると、選手の方がコーチより上?になるので、コーチを代えたりできるのでしょうが、代えられたコーチにすれば、パワハラ行為と受けるのでしょう。今回の騒動はお互いに責任があるように思います。オリンピックも2年後と迫っており、伊調選手のオリンピック参加に影響が出ますので、早く決着をつけてほしいですね。




啄木歌碑めぐり(27)

2018年03月02日 | 啄木歌碑

(27)「啄木の詩の道」の歌碑(盛岡市新庄、岩山)  平成9年建立(『一握の砂』より)


「詩の道」の啄木歌碑

 

ほたる狩 

川にゆかむといふ我を 

山路にさそふ人にてありき 

啄木 

 

啄木は上京しましたが体調をくずして渋民村に戻り、宝徳寺で詩や短歌を詠み、また、蛍狩りなどをして、のんびり暮らしていました。この歌は当時の様子を詠んでおり、明治36年7月発行の『明星』にも、当時の様子を詠んだ次の歌が「白蘋」のペンネームで掲載されています。


  「ほゝけては藪かけめぐる啄木鳥の  みにくきがごと我は痩せにき」




啄木詩の道

 

岩山啄木望郷の丘に啄木生誕111年を記念して平成9年(1997)に「啄木詩の道」がつくられました。道の長さは50mほどあり、その散歩道に歌碑10碑が設置されています。私が訪れた時には、小学生のクラスの勉強会?で先生が引率してきていました。 


小学生の勉強会


岩山までは盛岡駅からバスも運行(冬場は運休)されていますので、盛岡にいらした折には訪ねてください。岩手山も綺麗に見えますし、盛岡市内が一望できます。


岩手山

 

オリンピックが終了し9日からパラリンピックが始まりますね。フィギュアスケートの羽生結弦選手の国民栄誉賞贈呈の検討に入ったようですが主将として頑張った小平奈緒選手も検討していただきたいですね。

オリンピックを見ていて感じたことは、スケートやスキーの距離競技においては空気抵抗が思っていたより大きいことがわかりました。解説者や選手の話では、金メダルをとる作戦として、

1.先頭に立つと大きな空気抵抗を受けるので先頭の後ろについて体力を温存し最後に追い越す。

2.先頭は大きな抵抗を受けるので交互に先頭に立ち条件を同じにして争う。

この二つのようです。スキー競技でスタート直後に転倒し最後尾になりながら、そこから追い越して金メダルを獲得したノルウェーのクルーゲル選手のようにずば抜けて強ければ作戦などいらないのでしょうが。