たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡市保存建造物(第22号 大慈寺山門)

2014年07月30日 | ぶらりぶらり
第22号 大慈寺山門  盛岡市大慈寺町5-6

大慈寺山門は明治38年に建てられており、木骨の下部に土壁で塗り上げられ、その上が木造瓦ぶきになっている。昭和45年に改修されている。










大慈寺本堂


大慈寺には原敬の墓所があります。原敬は爵位の受け取りを固辞し、爵位を持ない初めての首相 として「平民宰相」と呼ばれ、民衆からの支持を集めましたが、65歳のときに大塚駅の駅員であった青年に襲撃され、刺殺されております。岩手県出身の総理大臣は原 敬・斎藤 実・米内光政・鈴木善幸の4人がおり、米内光政の墓所も、すぐ近くの円光寺にあります。





原敬墓所




なお、保存建造物第9号の浜藤の酒蔵は、以前掲載した時には修復中でしたが、改修も済み、今後は舞台機能のあるホールとして利用するようです。


改修された浜藤の酒蔵


舞台機能のあるホール



改修中浜藤の酒蔵



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啄木の歌

釧路潟千鳥なくなる夜の波の此月影を忘れずと言へ

釧路新聞  明治41年3月19日 釧路詞壇(4首、その4)

署名 匿名であるが啄木の作品として扱われている
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盛岡・北上川ゴムボート川下り大会

2014年07月27日 | ぶらりぶらり
2014年盛岡・北上川ゴムボート川下り大会が7月の最後の日曜日の今日(27日)開催された。四十四田ダムから南大橋のゴールまでの11キロです。ただしタイムレースの計測は開運橋までの約8キロになります。





今年は、第38回大会になりますが、タイムレース部門に652艇、自由に川下りを楽しめるフリーレース部門に121艇の申し込みがあったようです。9時にスタートし、5分間隔に60艇ずつ出発しました。










数年前には、タイムレース部門で、スタートから1時間以内での「完走艇数」および「完走者数」でギネス記録に認定されたことがあります。川下り大会は毎年7月の最後の日曜日開催です。来年の参加をお待ちします。


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啄木の歌

一輪の赤き薔薇(そうび)の花をみて火の息すなる唇(くち)をこそ思へ

釧路新聞  明治41年3月19日 釧路詞壇(4首、その3)

署名 匿名であるが啄木の作品として扱われている
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旧盛岡中学の図書庫(としょぐら)

2014年07月26日 | 啄木歌碑
旧盛岡中学校の図書庫が盛岡に里帰り

「学校の図書庫の裏の秋の草黄なる花咲きし今も名知らず」と啄木の歌にも詠まれた旧盛岡中学の図書庫(ぐら)が、町家の並ぶ盛岡市鉈屋町へ移築され、8月末に公開される予定です。



盛岡に戻った図書庫


盛岡中学校の土蔵の図書庫は、明治25年に建造されましたが、大正6年に盛岡中学は現在の上田へ移転、跡地に残った図書庫は日赤が引き受け、書庫として利用していました。その後、昭和44年に宮古市が日赤から譲り受け、寄生木(やどりぎ)記念館として、活用してきました。寄生木記念館は作家・徳富蘆花の小説『寄生木』の主人公のモデルでもある宮古市出身の小笠原善平の遺品や写真等が展示されている施設です。



寄生木記念館


平成22年に寄生木記念館内の収蔵品を公民館へ移し、寄生木記念館の役目は終わり、今回の盛岡への里帰りとなった。
なお、盛岡中学時代の図書庫跡地は現在岩手医大の循環器センターが建っており、玄関前に啄木歌碑があります。



循環器センター前の啄木歌碑


学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名知らず
啄木


盛岡市保存建造物(第21号 川鉄) 

2014年07月23日 | ぶらりぶらり
第21号 川鉄  盛岡市大慈寺町4-3

今日の盛岡の最高気温は25度台で涼しく感じる日でした。東京の方は暑かったようですね。
盛岡市は、市内の由緒・由来のある建造物や歴史的建造物を保存建造物として指定しています。
川鉄は明治28年に建てられた数奇屋風の建物で池と赤松の庭に囲まれ、料亭として建てられたものです。






川鉄の入口門






盛岡町家 雛祭り


いつもは閉じられていますが、4月の「盛岡町家 旧暦の雛祭り」には公開されます。川鉄の隣には青龍水があり、同じ鉈屋町にある大慈清水、大通りにある御田屋清水と盛岡三清水と呼ばれる名水です。水槽は、1段目が飲み水、2段目が米研、3段目が洗い物、4段目が足洗と分かれています。






連休に大阪に出かけ、帰る日に大阪城により、空港に着くと、天候が悪くなり、欠航、翌日に帰ってきました。








大きな石ですね



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啄木の歌

冬の磯氷れる砂をふみゆけば千鳥なくなり月落つる時

釧路新聞  明治41年3月19日 釧路詞壇(4首、その1)

署名 匿名であるが啄木の作品として扱われている
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盛岡城跡(続々)

2014年07月18日 | ぶらりぶらり
盛岡城跡は現在、公園として、盛岡城跡公園または岩手公園として市民の憩いの場になっています。今回は城跡に中津川側から入ります。

中津川側から城跡に行くには次に示す池に架かる橋を渡って行くことになります。橋の前には宮澤賢治の詩碑「岩手公園」があります。





宮澤賢治の詩碑


岩手公園
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし

なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり

老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」

弧光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり

まちはしづかにたそがるゝ
賢 治


橋を渡ると左側に蛍の里があります。夜にはホタルが飛び交っているのでしょうかね。



さらにすすんで行くと右側に公園広場、まっすぐ進むと御廊下橋の下に出ます。今回は左側に階段がありますので、階段を上って行きます。


前方の朱色の橋は御廊下橋



階段の上は腰曲輪で桜の広場になっており、桜の時期には多くの人でにぎわいます。



さらにすすんで行くと宮野小提灯の碑の前に出、前回の菜園側入り口コースと同じになります。


宮野小提灯の碑


月待つや 
独り 
古城の松のもと


小提灯は盛岡の出身で、下橋高等小学校(現:下橋中学校)を卒業後、盛岡に住みつづけ、岩手俳壇(はいだん)の重鎮として多くの後進を指導しました。この碑の前に、次の方向案内板が立っています。、



今回は右側の腰曲輪の方から来ましたので、左方向に進むと二の丸の方向で、途中に榊山稲荷曲輪跡があり、右側に朱色の御廊下橋が見えます。なお、榊山稲荷神社はもともと、ここ榊山曲輪に鎮座していましたが、盛岡城は廃城になり榊山稲荷神社は遷座先がありませんでしたが、明治30年に再興し、現在地である北山に遷座されました。


榊山稲荷曲輪跡


御廊下橋


二の丸


二の丸には、新渡戸稲造、石川啄木の碑が建立されています。





願はくはわれ
太平洋の橋
とならん
新渡戸稲造


新渡戸稲造は盛岡の出身で、のちに国際連盟事務次長を務めております。新渡戸は英文学を学ぶ目的は、自分は許されるならば、太平洋の橋となりたいと思う。日本の長所を西欧に紹介し、西欧の長所を日本に紹介する橋渡しの役を務めたい。だから英語に精通する必要があるのです」とといわれたと伝えられています。


啄木歌碑





不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
啄木


啄木歌碑を見たら御廊下橋を渡って本丸へと進みます。この橋は当時を偲ばせる擬宝珠つき朱色の橋です。かつては屋根付きの立派な橋だったそうです



御廊下橋



御廊下橋を渡ると本丸になります。現在本丸には台座だけが、がっしりと建立されています。台座にはかって南部家42代南部利祥(としなか)中尉騎乗の姿があったようです。彼は日露戦争に従軍したが、明治38年に満州にて戦死(享年24歳)され、市民はこれを悼み明治41年この地(本丸)に銅像を建設しましたが、昭和19年、太平洋戦争の軍需資材として回収されて台座のみになっています。


南部利祥銅像の台座


台座の前から左の方向に進む(下って行く)と十字路の出ます。


台座から左方向の路



十字路


十字路を左折すると、御廊下橋の下の道にで、先ほどの新渡戸稲造の碑、啄木の歌碑のある二の丸に出ます。




十字路を右折すると公園広場、中津川方面、十字路をまっすぐに進むと三の丸となりますので、まっすぐ進みましょう。


三の丸


三の丸には烏帽子岩(兜岩とも呼ばれる)があります。



烏帽(えぼし)子岩


櫻山神社側からの烏帽子岩


三の丸からは大通の櫻山神社の東側出入り口に出ますと、通りの向かい側に神社の鳥居があり、鳥居をくぐると、じゃじゃ麺の「白龍の本店」がありますので、お寄りになってはいかがでしょう。食べながら、次の行き先を考えましょう。



白龍の本店は、岩手県盛岡市にある「じゃじゃ麺」の元祖のお店です。じゃじゃ麺、冷麺、わんこそば盛岡三大麺です。




盛岡城跡(続)

2014年07月17日 | ぶらりぶらり
盛岡城跡は現在公園になっており、市民の憩いの場になっています。盛岡城跡への入口は数カ所あり、前回は菜園側入り口からのコースでしたが、今回は大通り側にある櫻山神社脇からの入口から入ります。櫻山神社の東・西側に入り口があります。

イ. 櫻山神社の東側の入口

ここから入ると三の丸に通じます。入口の脇には亀が池があり、亀も住んでいます。


櫻山神社の東側からの入口


亀が池


亀が池と言うだけあって、亀が住んでいます。





三の丸


ロ.櫻山神社の西側の入口

ここから入ると公園広場にでます。西側入り口にも池ががあり、鶴が池と呼んでいます。


榊山神社の西側入口


鶴が池



こちらの池が鶴が池と分かるように、池の真ん中に亀の像が置かれています。



公園広場

広場を横切って上に見える建屋のある方向に進んで行くと三の丸に行きます。


三の丸



櫻山神社の東・西のどちらから入っても三の丸に出ますので、三の丸で烏帽子岩をみて、二の丸に進みます。



烏帽子岩


二の丸には、新渡戸稲造、石川啄木の碑が建立されています。



願はくはわれ
太平洋の橋
とならん
新渡戸稲造


新渡戸稲造は盛岡の出身で、のちに国際連盟事務次長を務めております。新渡戸は英文学を学ぶ目的は、自分は許されるならば、太平洋の橋となりたいと思う。日本の長所を西欧に紹介し、西欧の長所を日本に紹介する橋渡しの役を務めたい。だから英語に精通する必要があるのです」といわれています。


啄木歌碑




不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
啄木


啄木歌碑を見たら御廊下橋を渡って本丸へと進みます。この橋は当時を偲ばせる擬宝珠つき朱色の橋です。かつては屋根付きの立派な橋だったそうです



御廊下橋



御廊下橋を渡ると本丸になります。現在本丸には台座だけが、がっしりと建立されています。台座にはかって南部家42代南部利祥(としなか)中尉騎乗の姿があったようです。彼は日露戦争に従軍したが、明治38年に満州にて戦死(享年24歳)され、市民はこれを悼み明治41年この地(本丸)に銅像を建設しましたが、昭和19年、太平洋戦争の軍需資材として回収されて台座のみになっています。


南部利祥銅像の台座



台座の後ろの方に進むと次のように階段がありますので、階段を下って行くと、宮野小提灯の碑があります。


宮野小提灯の碑

月待つや 
独り 
古城の松のもと


小提灯は盛岡の出身で、下橋高等小学校(現:下橋中学校)を卒業後、盛岡に住みつづけ、岩手俳壇(はいだん)の重鎮として多くの後進を指導しました。この碑の前に、次の方向案内板が立っています。、




左の方向にすすむと啄木歌碑などがある二の丸に戻りますので、右方向の腰曲輪に進みます。ここは桜の時期には多くの人が集まるところです。


腰曲輪


ここをさらに進んで行くと階段があり下って行くと正面に公園広場、右側に進むと池に架かる橋があります。橋の手前にホタルの里があり、橋を渡ると宮澤賢治の次の詩碑があります。





岩手公園
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし

なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり

老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」

弧光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ

賢 治


この後、中津川にで、川沿いから城跡の北側に行くと彦御蔵があります。


彦御蔵



彦御倉の前を過ぎて、バス道路に出ると、宮澤賢治のちゃがちゃがうまこの詩碑に出ます。



ちやんがちやがうまこ
        宮 澤 賢 治 自 筆

夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ
夜明げがゞった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり


ここは賢治の学生時代の下宿跡のようで、賢治が使った井戸水が飲めます。のどを潤して次に向かいましょう。





盛岡城跡

2014年07月14日 | ぶらりぶらり
サッカー・ワールドカップはドイツの優勝ですね。アルゼンチンもご苦労さまでした。これからは高高校野球の観戦ですね。
さて、盛岡城跡は現在、公園として使用されており、盛岡城跡公園または、岩手公園と呼ばれています。盛岡市内を流れる中津川に沿いにあり、盛岡駅から市内循環バス「でんでんむし」の左回りで「菜園川徳前」または「盛岡城跡公園」で下車するとすぐです。盛岡駅ら歩くと15分ぐらいかかります。出入り口は大通りの櫻山神社の東、西からの二カ所と菜園側にあります。中津川からはどこからでも出入りできます。


菜園側入り口


菜園側入り口



なだらかな坂を上っていくと、宮野小提灯の碑があります。


宮野小提灯の碑


月待つや 
独り 
古城の松のもと


小提灯は盛岡の出身で、下橋高等小学校(現:下橋中学校)を卒業後、盛岡に住みつづけ、岩手俳壇(はいだん)の重鎮として多くの後進を指導しました。この碑の前に、次の方向案内板が立っています。、




右の方向に進むと腰曲輪で、桜の時期には多くの人が集まるところです。ここをさらに進んで行くと階段があり下って行くと公園広場に出ます。


腰曲輪



左方向に進むと二の丸の方向で、途中に榊山稲荷曲輪跡があり、右側に朱色の御廊下橋が見えます。


榊山稲荷曲輪跡


御廊下橋


二の丸


二の丸には、新渡戸稲造、石川啄木の碑が建立されています。





願はくはわれ
太平洋の橋
とならん
新渡戸稲造


新渡戸稲造は盛岡の出身で、のちに国際連盟事務次長を務めております。新渡戸は英文学を学ぶ目的は、自分は許されるならば、太平洋の橋となりたいと思う。日本の長所を西欧に紹介し、西欧の長所を日本に紹介する橋渡しの役を務めたい。だから英語に精通する必要があるのです」とといわれたと伝えられています。


啄木歌碑





不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
啄木


啄木歌碑を見たら御廊下橋を渡って本丸へと進みます。この橋は当時を偲ばせる擬宝珠つき朱色の橋です。かつては屋根付きの立派な橋だったそうです



御廊下橋



御廊下橋を渡ると本丸になります。現在本丸には台座だけが、がっしりと建立されています。台座にはかって南部家42代南部利祥(としなか)中尉騎乗の姿があったようです。彼は日露戦争に従軍したが、明治38年に満州にて戦死(享年24歳)され、市民はこれを悼み明治41年この地(本丸)に銅像を建設しましたが、昭和19年、太平洋戦争の軍需資材として回収されて台座のみになっています。


南部利祥銅像の台座



台座の前から左の方向に進む(下って行く)と十字路の出ます。



台座から左方向の路



十字路

十字路を左折すると、御廊下橋の下の道にで、先ほどの新渡戸稲造の碑、啄木の歌碑のある二の丸に出ます。




十字路を右折すると公園広場、中津川方面、十字路をまっすぐに進むと三の丸となりますので、まっすぐ進みましょう。



三の丸


三の丸には烏帽子岩(兜岩とも呼ばれる)もあります。



烏帽子岩



三の丸から公園広場の方に下り、中津川方面に進むと池があり、手前にホタルの里があり、橋を渡ると宮澤賢治の詩碑あります。




岩手公園
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし

なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大学生のタピングは
口笛軽く吹きにけり

老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中学生の一組に
花のことばを教へしか」

弧光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ
賢 治


ここからは、中津川に沿って上流方向にすすむと中の橋、下流方向に進むと下の橋に出ます。下の橋のすぐ傍には宮澤賢治のちゃぐちゃぎう馬コの詩碑があります。





ちやんがちやがうまこ
        宮 澤 賢 治 自 筆

夜明げには
まだ間あるのに
下のはし
ちやんがちゃがうまこ見さ出はたひと。

ほんのぴゃこ
夜明げがゞった雲のいろ
ちゃんがちゃがうまこ 橋渡て來る。

いしょけめに
ちゃがちゃがうまこはせでげば
夜明げの為が
泣くだぁぃよな氣もす。

下のはし
ちゃがちゃがうまこ見さ出はた
みんなのながさ
おどともまざり


この地は宮澤賢治の学正時代の下宿先のようで、賢治が使った井戸の水が飲める水飲み場があります。ここでひと休みし、次の目的地に行きましょう。

今回は菜園側入口から本丸までのコースでしたが、他の入り口からのコースは次回にします。

盛岡市保存建造物(第20号 武田邸)

2014年07月07日 | ぶらりぶらり

第20号 武田邸  盛岡市長田町19番1号

建物は木造2階建て入母屋造りで、屋根は赤瓦と銅板葺きになっています。比較的新しい建物ですが、風格のある建物です。


武田邸




武田邸の門




門から入ると左側が玄関につながり、新入禁止、右側に庭園への門があります。



お庭に通じる門



ここの庭は徳川末期に造られたといわれ、綺麗な庭です。盛岡市の保護庭園になっております。





 
庭園


この日も多くの見学者が来ていました。




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啄木の歌

物いはぬつれなし人とただ二人あれば日長し春ならなくに

釧路新聞  明治41年2月27日 釧路詞壇(4首、その4)

署名 匿名であるが啄木の作品として扱われている
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盛岡市保存建造物(第19号 明治橋の御蔵)

2014年07月04日 | ぶらりぶらり

第19号 明治橋の御蔵  盛岡市南大通三丁目12番30号

藩が作った米蔵を「御蔵」と呼び、大飢饉に備えた備蓄蔵でした。藩の米蔵で残っている所は少なく貴重な文化資産になっています。この場所は北上川に架かる明治橋の傍にあります。当時の橋は新山船橋といって舟24艘を鉄鎖でつないで厚板を敷いたものでした。



蔵入口


土曜日、日曜日にしか開かれず、いつもは閉時られています。







入口側



裏側(道路側で北上川側です)



御蔵は現在「下町史資料館」として利用されており、4月から11月の土曜・日曜(第1週は除く)に開館しております。館内には舟橋や北上川の舟運の史料や江戸時代からの生活用具などが展示されています。






川原町鉈屋町の丁印で、かつぐ形の漆塗りの屋台は明治の中頃まで八幡宮例大祭に随行していたようです。盛岡の有形民俗文化財第1号になっています。
なお、盛岡八幡宮例大祭は盛岡藩主が祭主となって行われる祭礼で、山車は飾りを毎年作り変えますが、丁印は山車とは異なり、町(丁)の印として,例年同じ屋台が飾られます。この例大祭に丁印は明治期まで随行していましたが、明治17年(1884年)の大火により大半の町が丁印を失ったと伝えられています



舟橋の主柱


舟橋は両岸に4本の主柱を打ち込み鎖を張って舟をさえていた。その当時の主柱の一つです。




啄木の歌も頑丈な額に入れて飾られていました。この歌の碑は盛岡岩山に建立されています。





石川啄木
汽車の窓
はるかに北に故郷の
山見えくれば襟を正すも

石川節子
光淡く
こほろぎ啼きし夕より
秋の入り来とこの胸抱きぬ




彩工芸会美術展

2014年07月02日 | ぶらりぶらり
第11回盛岡「彩工芸会美術展」が7月1日から3日まで開かれます。会場はエスポワールいわての1階展示室です。お昼やすみにでも、お寄りください。



展示室






会場(エスポワールいわて)



盛岡駅を経由して会場のエスポワールいわてに行く時は、まず盛岡駅前の啄木の歌碑を見ましょう。



盛岡駅



啄木歌碑




啄木
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな



歌碑をみたら、駅から開運橋をわたり、まっすぐ歩いて行くと大通りになり、丸藤菓子店前に啄木の銅像があり、啄木の歌が刻まれています。ここにも立ち寄りましょう。



啄木銅像







新しき明日の来るのを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど
啄木



さらに大通りを進んで行き、サンビル前の交差点を左折すると、会場に着きます。盛岡駅から歩いて10分ほどです。


啄木歌碑前からの大通り