たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

彫刻のまち 盛岡(4)

2018年09月25日 | ぶらりぶらり

(4)座標ー1979 三つの月   朽木隆  1979 上堂東児童公園

     「盛岡彫刻シンポジウム」作品です。


座標ー1979 三つの月












 

 

盛岡秋祭りも終わり、盛岡はこれから寒さに向かっていきます。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


盛岡市保存樹木(60番 仙北小のケヤキ群)

2018年09月13日 | ぶらりぶらり

 60番 仙北小のケヤキ群    盛岡市仙北二丁目19-1 

仙北町は盛岡市の南側にある町で盛岡駅から明治橋を渡って行きます。





仙北小のケヤキ群



仙北小のケヤキ群

 


 

 

 景観重要樹木

 

樹木の種類(名称)  仙北小のケヤキ群(8本)

42

指定年月日 平成27年4月1日

所在地 盛岡市仙北二丁目19-

樹木の樹容の特徴

樹容に優れ地域のシンボル的な存在であり,良好な景観の 形成に寄与している。【指定時推定樹齢85

平成27年4月から盛岡市の「景観重要樹木」になりました。

 


明治橋

明治橋は昭和7年に架設されましたが、それ以前の橋は明治6年に、今より50mほど下流の御蔵(おくら)の前に架けられた木造の橋でした。この木造の橋が完成するまでは、「新山舟橋(しんざんふなばし)」 といって数艘の船を両岸の大黒柱につないだ橋でした。この舟橋跡は盛岡市指定史跡となっており、当時の柱が残っておりおります。

 

 
現在の明治橋。手前の3本の柱が新山船橋の三本の柱(跡)です。

 


新山船橋跡の中州。 対岸(三本の柱側)にある白い建物が御蔵です



御蔵

 

 明治橋から見た盛岡駅方面です。左側に見える3棟のビルは盛岡駅前にあるマンションです

 

 


この地は新山河岸(しんざんがし)と言われ、御番所や船宿、御蔵などが立ち並び、舟運の要衝として藩政時代に栄えた町です。ここには蔵があり、明治橋際の御蔵(おくら)と呼ばれています。この明治橋御蔵は、藩政時代の建築とされ、往時を語り継ぐ貴重な建造で土蔵造り平屋建て、建物の長さは約30メートルにも及びます。この蔵は盛岡市保存建造物、同有形文化財になっております。
 
 
 
 
 
御蔵の案内板
 
 
 
 
 

啄木歌碑めぐり(50)

2018年09月04日 | 啄木歌碑

(50)小樽公園の歌碑                             昭和26年11月建立(『一握の砂』より)   


 

 

 

こころよく

はたらく仕事あれ

それを仕遂げて

死なむと思ふ

 

明治40年10月2日、啄木は、母・妻子を小樽によんで、花園町に居を構えました。仕事は順調でしたが、事務長の小林寅吉と、そりが合わず、退社を決意し、辞表を提出し、同年12月20日、退職しました。退社はしたが、条件の良い働き口はなく、白石社長が推薦する釧路新聞社(現在の北海道新聞社)で働くことにしました。

 

啄木日記

明治40年10月2日
 花園町十四西沢善太郎方に移転したり。室は二階の六畳と四畳半の二間にて思ひしよりよき室なり。ランプ、火鉢など買物し来れば雨ふり出でぬ、妹をば姉の許に残しおきて母上とせつ子と京と四人なり。札幌を都といへる予は小樽を呼ぶに「市」を以てするの尤も妥当なるを覚ふ。

明治40年11月6日
 花園町畑十四番地に八畳二間の一家を借りて移る。

 明治40年12月

11日 札幌に行き、小国君の宿にとまる                                                

12日 夕刻の汽車にて帰り、社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。退社を決し、沢田君を訪ふて語る。

13日より出社せず。社長に辞表を送る事前後二通、社中の者交々来りて留むれど応ぜず。

20日に至り、社長より手紙あり、辞意を入れらる。

25日 夜、澤田君来り快談数刻、 君、白石社長の意を伝へて、予を釧路新聞に入れむとす。予は社長にして予の条件を容れなば諾せむと答へたり。

26日 朝澤田君に手紙を送り、釧路新聞を如何に経営すべきかに関する予の意見を述べたり

 夜、奥村君を呼び、若し白石社長にして予の意見を容れなば共に釧路に入らむことを約したり


 

小樽公園には宮澤賢治も訪れています。宮沢賢治は岩手県花巻農学校の教員時代の大正13年5月、生徒を引率して、北海道へ修学旅行に行き、小樽公園にも立ち寄りました。学校に提出した「復命書」には、公園の様子を次のように述べています。 「公園は新装の白樺に飾られ北日本海の空青と海光とに対し小樽湾は一望の下に帰す」と。

 

宮澤賢治には「溶岩流」の詩があります。この焼走り熔岩流は、岩手県八幡平市にあります。岩手山中腹から流出した溶岩流により形成された岩原です。溶岩流の延長は約4キロメートルで、その中には散策路があり自由に見られます。なお、焼走り溶岩流が形成された火山活動の年代は300年ほど前といわれています。近くに温泉があります。高速道西根インターから車で30分ほどです。


岩手山と「溶岩流」



 宮澤賢治「溶岩流」

 

  溶岩流     宮沢賢治

喪神のしろいかがみが
薬師火口のいただきにかかり
日かげになつた火山礫堆(れきたい)の中腹から
畏るべくかなしむべき砕塊熔岩(ブロツクレーバ)の黒
わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原風の情調を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもつてゐた
けれどもここは空気も深い淵になつてゐて
ごく強力な鬼神たちの棲みかだ
一ぴきの鳥さへも見えない
わたくしがあぶなくその一一の岩塊(ブロツク)をふみ
すこしの小高いところにのぼり
さらにつくづくとこの焼石のひろがりをみわたせば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
雲はあらはれてつぎからつぎと消え
いちいちの火山塊(ブロツク)の黒いかげ
貞享四年のちひさな噴火から
およそ二百三十五年のあひだに
空気のなかの酸素や炭酸瓦斯
これら清洌な試薬(しやく)によつて
どれくらゐの風化(ふうくわ)が行はれ
どんな植物が生えたかを
見ようとして私(わたし)の来たのに対し
それは恐ろしい二種の苔で答へた
その白つぽい厚いすぎごけの
表面がかさかさに乾いてゐるので
わたくしはまた麺麭ともかんがへ
ちやうどひるの食事をもたないとこから
ひじやうな饗応(きやうおう)ともかんずるのだが
(なぜならたべものといふものは
 それをみてよろこぶもので
 それからあとはたべるものだから)     
ここらでそんなかんがへは
あんまり僭越かもしれない
とにかくわたくしは荷物をおろし
灰いろの苔に靴やからだを埋め
一つの赤い苹果(りんご)をたべる
うるうるしながら苹果に噛みつけば
雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
野はらの白樺の葉は紅(べに)や金(キン)やせはしくゆすれ
北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
  (あれがぼくのしやつだ
   青いリンネルの農民シヤツだ)