たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡藩(3)

2021年07月27日 | ぶらりぶらり

 

盛岡藩4代目藩主・南部行信の墓   聖寿禅寺(盛岡三十三観音17番)   盛岡市北山

 

盛岡藩4代目藩主・南部行信の墓

 

盛岡藩主の墓は聖寿禅寺境内の140段の階段を上って行きます。最上段には盛岡藩12代目藩主・利済(南部家38代当主)の墓があり、少し下がった所に盛岡4代藩主・行信(南部家30代当主)の墓があります。聖寿禅寺には9人の盛岡藩主の墓があり、5人の盛岡藩主の墓は東禅寺にあります。また、15代盛岡藩主・利恭の墓は東京の護国寺にあるようです。また、盛岡城の築城を開始するが、その完成を見ず1599年10月5日に病死した信直(南部家26代当主)の墓所は青森県三戸郡南部町の三光院にあるようです。

 

 

盛岡藩4代目藩主・南部行信の墓(右奥が盛岡藩12代目藩主・利済の墓)

 

 

次に、首塚のある円光寺を訪ねます。

 

首塚  円光寺(盛岡三十三観音11番)       盛岡市南大通

 

 

本堂前に創建時に植えたと推定される、樹齢300年のカツラの大木が枝を広げます。雌雄であることから、「夫婦めおとかつら」と呼ばれますが、春先には紫色の花が木を覆い、紫雲山の名にふさわしい姿をみせるといわれます。境内には落ち着いた木肌をみせる観音堂が建ちますが、その脇に立派な「首塚」と記された石柱が立っています。

盛岡藩4代藩主・南部行信の奥女中・蓮子の父は材木商をしていましたが、キリシタンとされ斬首されました。蓮子はその夜、父親のさらし首を盗み出し、円光寺に生首の回向を嘆願、死者を弔うのは和尚としての役目と、腹をくくり、人の耳と目を恐れ鐘は鳴らしませんでしたが、首級をサクに納め、経をあげ和尚自ら埋葬してくれました。夜が明けて蓮子が自首をすると、おとがめとは逆に、藩主の行信はその親孝行をほめ、やがて側室にしました。その間に生まれたのが盛岡藩5代目藩主・信恩と伝えられています。円光寺には首塚が建てられ、お蓮の方は父の菩提のために観音堂を建立し、十一面観音像(別名、生目観音)を遷座したと伝えられています。

 

 

円光寺山門

 

 

 

 


盛岡藩(2)

2021年07月21日 | ぶらりぶらり

盛岡藩2代目藩主・南部重直の墓をたずねます。盛岡藩主については、南部藩主と同じと考え、初代藩主を南部信直(南部家26代当主)と考える人、実際に盛岡に来て活躍をした南部利直(南部家27代当主)と考える人がおります。ここでは、南部利直(南部家27代当主)を初代藩主と考えます。

 

盛岡藩2代目藩主・南部重直の墓    聖寿禅寺(盛岡三十三観音17番)    盛岡市北山

聖寿寺は現在の青森県三戸郡南部町にありましたが、慶弔3年(1598)南部家26代当主・信直が盛岡に築城を開始、南部家27代当主・利直(盛岡藩初代藩主)を経て、盛岡城が竣工したのは寛永10年(1633)、盛岡藩2代目藩主・重直(南部家28代当主)の時で、この時、三戸にあった聖寿寺も盛岡に移転しました。聖寿寺には、盛岡藩2代藩主南部重直の他、3代藩主・重信、4代藩主・行信、6代藩主・利幹、7代藩主・利視、8代藩主・利雄、10代藩主・利敬、12代藩主7・利済、14代藩主・利剛の墓の9藩主の墓があります。

 

 

盛岡藩2代目藩主・南部重直の墓

 

 

墓はこの階段の上

 

 

聖寿禅寺

 

「聖寿禅寺」は建長六年(1254)、南部家第二代・南部実光公により初代・光行公の菩提を弔うため、現在の青森県三戸郡南部町に創建されました。慶長3年(1598)南部家二十六代・信直公は現在の盛岡に築城を開始し、その子第二十七代・利直公を経て、盛岡城が竣工したのは寛永10年(1633)第二十八代・藩主重直公の時でした。築城にともなって諸寺院が北山周辺に集められ、三戸にあった聖寿寺も移転しました。明治時代になると幕藩体制が崩壊し、聖寿寺は衰退の一途を辿り、寺院の形をとどめないほど荒廃していきました。

明治八年(1875)、聖寿寺の広い境内地に桜山神社が移転してきました。神社は幕末まで盛岡城内に祀られていたものです。そのため聖寿寺は境内の片隅で如意庵という仮本堂に移され、正規の住職もいない被兼務寺院となってしまいました。明治三十三年(1900)、桜山神社が現在の盛岡城跡に移転することになりましたが、ついに寺院が再建されることはありませんでした。現在でもこの地を「旧桜山」と呼ぶことがありますが、明治時代の二十数年間、「桜山神社」が鎮座していたことによるものです。

現在の本堂は昭和三十四年に建立されたもので、本堂が八角形なのは、聖寿寺の再興を願って、聖徳太子偲んで建てられた奈良県法隆寺の夢殿を模したものです。

 

次に、”おかん” の墓を訪ねます。

 

“おかん” の墓       大泉寺(盛岡三十三観音26番)    盛岡市本町

 

おかんの墓

 

盛岡城が竣工したのは、盛岡藩2代藩主・重直の時でした。“おかん” の夫・三平は盛岡城築城のため働いていましたが、工事中に重症を負いました。組頭の高瀬軍太は“おかん”に思いをよせていましたが、三平の災難をきっかけにますます露骨になりました。夫の運命にも危機が及ぶと感じたおかんは、夫を殺すなら、身を任せると言って欺き、自ら夫になりすまして、高瀬の手に掛かって貞死しました。己の非を悟った高瀬は自ら仏門に入り、おかんの菩提を大泉寺で弔ったといわれます。おかんの墓は、石でたたくと不思議な音がします。その音は、おかんの泣き声とか、夫の三平の唱える念仏とか、不幸な夫婦二人の声が合わさっているとも言われていました。墓石を叩くための石(墓石の上部)が置かれている部分は、叩かれたために、自然にくぼみができています。

 

墓石のくぼみ

 

 

大泉寺

 

大泉寺本堂は盛岡市景観重要建造物に指定されています。盛岡市のホームページによると、次の記載があります。

山門真正面に本堂独特の宝形式反り屋根の木造平屋建の寺院が見える。始め瓦葺だったが修理して現在の銅板一文字葺になったと言う。車寄せ屋根は起り(むくり)破風であるので垂木は一本曲がりものでできているが,本堂は反り屋根,車寄せは起り(むくり)破風で対照が面白い。車寄せの柱梁はけやきで柱脚は礎石に乗っている。梁は虹梁(こうりょう)で彫刻文様があり,蟇股,斗拱(ときょう)の組合せの造りかたになっている。本堂は床高く,風通しよく考えられ,床束,柱,土台は御影石に据付けられている。
本堂内部は外陣は板張りの床だったが,畳敷きになっている。天井は竿縁(杉)で,簡単なものである。外部建具は硝子戸になっているが,古くは紙貼り障子に雨戸であったと思われる。雨戸は現在はないが平鉄をはった戸溝が残っている。内陣は3.5間×2間で共に天井は格天井(ごうてんじょう)で折上(おりあげ)部は簡単である。内々陣の南面,北面の中柱2本ずつはけやきの円柱がある。内々陣と内陣,その他隣室の長押欄間には見事な木彫の桃山風立体籠の彫刻がつけられている。裏側は板になっている。各内陣,内々陣その他隣室の長押梁には文様の木彫がされてある。
須弥壇の勾欄には唐様で親柱に鎌倉時代から出現した逆蓮柱になっている。
なお,車寄せの正面妻飾りが特徴があり懸魚(けんぎょ),母屋鼻かくし,蟇股等の木彫は興味を引くものである。

 

 

 

 


盛岡藩(1)

2021年07月09日 | ぶらりぶらり

前回は奥州街道を歩き小野松一里塚に到着しましたので、奥州街道の散歩を終わります。さて、奥州街道に一里塚が設置された頃、南部氏により、盛岡藩(南部藩)がおこされています。ここで、盛岡藩、岩手県の成立を振り返り、盛岡藩・藩主の墓をたずねてみます。

 

盛岡藩(南部藩)、岩手県、盛岡市の成立

南部氏は、南北朝時代のころより青森県三戸・九戸周辺に基盤をおき、室町・戦国時代にはしだいに勢力をのばして、奥州北部の有力大名に成長しました。1588年、南部家26代当主・信直は斯波氏を滅ぼし、1590年に豊臣秀吉から、南部七郡の領有を認められ、南部藩が成立しました。しかし、三戸や九戸は南部藩領内の北辺に寄りすぎていることもあり、 本拠を不来方(盛岡)に移すことになりました。藩主・信長(南部家26代当主)は1597年に、嫡子の利直を総奉行に鋤(すき)(鍬(くわ))初めを行い、翌1598年の正式許可の後、築城工事に着手しました。1599年、利直は父・信直が卒した後、南部藩2代目藩主として築城を進め、南部藩3代目藩主・重信のときに完成しました。南部藩は16代・利恭(南部家41代当主)までつづきます。しかし、南部藩は明治 3年( 1870年)、財政難により廃藩置県に先立って廃藩を申し出、 明治政府 により 盛岡県が設置されました。その後、盛岡県は廃藩置県によって明治5年(1872年)に『岩手県』へと改称されます。一方、伊達氏の一関藩は一関県となりましたが、明治9(1876)年に、岩手県と一関県の一部が合併して,現在の岩手県が成立しました。なお、盛岡市は明治22年(1889)の市制 施行により、成立しています。

南部藩は、南部氏の領地であったことから『南部藩』と呼ばれていましたが、文化14年(1817)、南部藩11代藩主・利敬(南部家36代当主)の時、南部藩を盛岡藩と改称する旨を幕府に届け、南部藩を盛岡藩に改めたといわれています。現在、盛岡藩初代藩主として、盛岡移転を計画、着手した南部藩初代藩主・信直(南部家26代当主)とするか、総奉行として、また、藩主として築城・まちづくりを進めた南部藩2代目藩主・利直(南部家27代当主)するのか、分かれています。この点につき、盛岡市教育委員会歴史文化課に問い合わせしましたら、初代を信直と考えるか、利直と考えるかは、考え方によるので、どちらも間違いでは無い、ということでした。

 

初代盛岡藩主・利直(南部家27代当主)の墓

 

初代盛岡藩主・南部利直(南部家27代当主)の墓

 

盛岡藩初代藩主・南部利直(南部家27代当主)の墓は東禅寺にあります。東禅寺は、無盡妙什和尚を開山として遠野附馬牛に建武年間(1334-1336)創建されたといわれます。南部家13代当主・守行が戦死した際に無盡妙什和尚が焼香師となり、南部家との縁が始まり、27代利直の焼香師を三世大英和尚が勤めたこともあり、盛岡城の築城に際して遠野より当地へ移転、寺領240石を受領、盛岡五山の一つと仰がれていました。東禅寺には盛岡藩初代藩主・利直の墓の他、5代藩主・信恩、9代藩主・利正、11代藩主・利用、13代藩主・利義の墓の5藩主の墓があります。

東禅寺(盛岡市北山)は国道4号線沿いに山門があります。利直の墓は山門から左側の道路を上って行くと間もなく案内板が立っていますので、すぐにわかります。

 

東禅寺山門

 

 

次に、南部利直公の正室 ”お武” の墓を訪ねます。墓は光臺寺(盛岡市名須川)にあります。

 

 

ムカデ姫の墓

 

光臺寺には、ムカデ姫の墓があります。氏郷の養妹“武姫(お武の方)”は、盛岡藩初代藩主・南部利直のもとに嫁ぐことになり、蒲生家の家宝「大ムカデ退治」に使われた矢を持参しました。ところが、お武の方が亡くなったとき、遺体の下の変色した形が、むかでのはいまわる姿に似ていたことから、「お武の方が持ってきた矢の根石の怨念にちがいない」と人々は驚き恐れました。利直公は、ムカデは水を嫌うことから、石垣でかこまれた墓を建立し、橋を架けましが、何度橋を架けても、むかでが出て壊してしまいました。お武はいつしか、「ムカデ姫」と呼ばれるようになり、墓を「ムカデ姫の墓」と呼ぶようになりました。

 

 

光臺寺

 

 

 

 

 


彫刻のまち盛岡(37)

2021年07月01日 | ぶらりぶらり

盛岡市内にある盛岡彫刻シンポジウム作品のほとんどを載せました。最後に、盛岡中心部から離れた大ケ生地区に多くの作品がありますので、載せていきます。



大ケ生

盛岡から遠野に通じる国道396号から大ケ生方向に向かうと396号線から2.5kmの所に理髪店があるので、その手前を右折して道なりに進んで行くと虫壁地区にたどり着きます。ここには、道路沿いなどに多くの作品が並んでいます。



① 静寂の門  有馬辰樹









② O  高橋典雄









③ 空  王岩(中国)





④ ワガミダユメ  柳田陽一




⑤ 生ー大地   山内正宣

 

 

⑥ 生ーⅢ  山内正宣


 



⑦ 生命の断片 No.7     藤川健



 


⑧ カンケイの形  有馬辰樹



 


⑨ 時の窓  高橋典雄



 


⑩ 褶曲   高橋典雄





 

⑪ 森の鼓動04-04   佐々木悦也
    

 


⑫ 奇跡の森   佐々木悦也
   





 

⑬ 旅日記 小山育



 


⑭ ミエテナイヒト 菅原睦



 


⑮ トルン  斎藤僚



 


⑯ 生命の断片Ⅱ 藤川健



 



⑰ echoes  藁谷収



 


⑱ 巡ってゆく記憶 斎藤かおり



 


⑲ 大地より芽吹くもの 芝田典子






⑳ 時のかけら 中島香緒里




 


21 黒い眠り   菅原睦




 


22 冬のぽつむじ風Ⅱ   菅原睦