(39)JR盛岡駅前広場の歌碑 (盛岡市)
啄木は明治35年10月27日、盛岡中学を退学、文学で身を立てようと上京を決意し、同年10月30日の夕刻、文学仲間などの友人に見送られ盛岡駅を発ちました。この歌碑は啄木50回忌にあたる昭和37年に建立され、東北新幹線開通にあわせ昭和57年に現在の場所に移されました。
JR盛岡駅前広場の歌碑
啄 木
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
(40)啄木であい道の歌碑(盛岡駅前開運橋上流)
啄木は退学前の明治35年10月1日発行の雑誌「明星」に、次の歌を発表しています。
啄木であい道の歌碑
血に染めし
歌をわが世の
なごりにて
さすらひここに
野にさけぶ秋
石川白蘋
啄木は明治35年3月から盛岡中学退学後の明治36年12月までは「白蘋」のペンネームで作品を発表しています。なお、「啄木であい道」は撤去され、現在この歌碑はありません。
(41)JR上野駅構内の歌碑
啄木は盛岡中学を退学、文学を目指し上京、11月5日、中学5年への編入を目指し、野村胡堂と一緒に神田近辺の中学をたずねましたが、欠員がありませんでした。この歌碑は東北新幹線上野乗り入れを記念して建立されました。東北新幹線は、昭和57年6月に盛岡駅-大宮駅間が開業し、昭和60年3月に上野駅まで延び、平成3年6月に東京駅に乗り入れ、盛岡・東京間の開業となりました。
JR上野駅構内の歌碑
ふるさとの 訛なつかし
停車場の 人ごみの中に
そを聴きにゆく
啄木
(42)好摩駅舎の歌碑(盛岡市好摩)
啄木は上京し、本郷の村井方に宿泊、一週間程で神田の養精館に転居しました。しかし、生活費も行き詰まり、また体調も崩し、明治36年2月27日、父に伴われ渋民村に帰ってきました。当時、渋民駅は無く、好摩駅を利用していました。この歌碑は平成21年の好摩駅の新築に伴い、ホームから駅舎の中に移設されました。木製の歌碑です。
霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の蟲こそ
すゞろなりけれ 啄木