たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

上野駅構内の啄木歌碑

2021年10月20日 | 啄木歌碑

 

(39)JR盛岡駅前広場の歌碑 (盛岡市)

啄木は明治35年10月27日、盛岡中学を退学、文学で身を立てようと上京を決意し、同年10月30日の夕刻、文学仲間などの友人に見送られ盛岡駅を発ちました。この歌碑は啄木50回忌にあたる昭和37年に建立され、東北新幹線開通にあわせ昭和57年に現在の場所に移されました。

 

 JR盛岡駅前広場の歌碑

 

        啄 木

ふるさとの山に向ひて

言ふことなし

ふるさとの山はありがたきかな

 

 

(40)啄木であい道の歌碑(盛岡駅前開運橋上流)

啄木は退学前の明治35年10月1日発行の雑誌「明星」に、次の歌を発表しています。

 

 啄木であい道の歌碑

 

     血に染めし

             歌をわが世の

             なごりにて

             さすらひここに

             野にさけぶ秋

       石川白蘋 

 

啄木は明治35年3月から盛岡中学退学後の明治36年12月までは「白蘋」のペンネームで作品を発表しています。なお、「啄木であい道」は撤去され、現在この歌碑はありません。

 

(41)JR上野駅構内の歌碑 

啄木は盛岡中学を退学、文学を目指し上京、11月5日、中学5年への編入を目指し、野村胡堂と一緒に神田近辺の中学をたずねましたが、欠員がありませんでした。この歌碑は東北新幹線上野乗り入れを記念して建立されました。東北新幹線は、昭和57年6月に盛岡駅-大宮駅間が開業し、昭和60年3月に上野駅まで延び、平成3年6月に東京駅に乗り入れ、盛岡・東京間の開業となりました。

 

 JR上野駅構内の歌碑  

 

 

ふるさとの 訛なつかし

停車場の 人ごみの中に

そを聴きにゆく

       啄木

 

 

(42)好摩駅舎の歌碑(盛岡市好摩)

啄木は上京し、本郷の村井方に宿泊、一週間程で神田の養精館に転居しました。しかし、生活費も行き詰まり、また体調も崩し、明治36年2月27日、父に伴われ渋民村に帰ってきました。当時、渋民駅は無く、好摩駅を利用していました。この歌碑は平成21年の好摩駅の新築に伴い、ホームから駅舎の中に移設されました。木製の歌碑です。

 

 

霧ふかき好摩の原の

 停車場の

 朝の蟲こそ

 すゞろなりけれ   啄木

 

 

 


啄木中学時代の思い出の場所の歌碑

2021年10月13日 | 啄木歌碑

啄木は明治35年盛岡中学を退学しますが、中学時代の思い出の場所には、啄木歌碑が建立されています。

 

(32)岩手公園の歌碑

 

 岩手公園の啄木歌碑

 

不来方のお城の草に寝ころびて

空に吸はれし

十五の心

         啄 木

 

啄木が教室の窓より遁げて、よく来ていた盛岡城址は盛岡中学の近くで、現在は岩手公園(不来方城跡)になっています。不来方城は盛岡城とは厳密にいえば別の城のようですが、盛岡城の前身とか盛岡城の別名と呼ばれています。岩手公園は市民の憩いの場であり、平成18年、岩手公園開園100周年にあたり「盛岡城跡公園」と愛称を付けました。

 

(33)天満宮の歌碑(盛岡市新庄)

啄木は天満宮にはよく遊びにきていたようです。啄木が遊びに来ていた境内には、明治36年に造られた一対の狛犬が置かれていました。ここに啄木歌碑を設けることになり、狛犬に台座を設け、銅板に刻んだ啄木の歌を台座に埋め込みました。

 

(ⅰ)「阿形の狛犬」の歌碑(盛岡市新庄)  

 

「阿形の狛犬」の歌碑

 

夏木立中の社の石馬も

汗する日なり

君をゆめみむ

      啄木

 

『小天地(明治38年9月号)』に載っている歌です。『小天地』には「石川啄木」名で10首、匿名で8首を載せていますし、節子も投稿しています。しかし、『小天地』は1号のみで廃刊になりました。

 

(ⅱ)「吽形の狛犬」の歌碑

 

「吽形の狛犬」の歌碑

 

松の風夜晝ひびきぬ

人訪はぬ山の祠の

石馬の耳に    

      啄木

 

啄木が遊びに来ていた頃には、台座がなく、地面に直接置かれていました。啄木は狛犬を石馬と表現しています。天満宮

 

(34)「孤像」の歌碑

 

狐像の啄木歌碑

 

        啄 木

苑古き

木の間に立てる石馬の

背をわが肩の月の影かな

 

この歌は啄木が岩手日報に連載した『閑天地(明治38年7月18日)』の中にあります。天満宮の境内に平成4年に「狐像」一対が建立され、それぞれの台座に短歌と建立由来が記載されています。啄木は岩手日報には明治34年12月3日に、「石川翠江」の著名で歌6首を投稿して以来多くの歌を発表しています。

 

(35)望郷の丘の歌碑

 

盛岡市望郷の丘の啄木歌碑

 

          啄木

病のごと

思郷のこころ湧く日なり

目にあおぞらの煙かなしも

 

この歌碑は天満宮の境内から西側に階段を数段下ったところの「望郷の丘」に建立されております。盛岡中学は昭和5年に創立50周年を迎え、歌碑建立が進められ、昭和8年になって、この地に建立しました。東京にいても病気のように故郷を恋い慕う啄木の心がよく読み取れます。天満宮は盛岡市役所から1kmほどです。

 

(36)盛岡市大通りの歌碑

 

盛岡市大道りの啄木歌碑

 

新しき明日の来るを信ずといふ

自分の言葉に

嘘はなけれど-            啄木

 

盛岡大通りのこの辺は、啄木が通学していた旧盛岡中学の近くで、当時は不来方城菜園の跡地でした。昭和52年、盛岡の中心部のこの地に「北風に立つ少年啄木」の像を建て、その台座に啄木の歌を刻みました。像の作者は元岩手大学教育学部特設美術科の本田先生です。盛岡駅から開運橋を渡って進んで行ったところが大通りです。

 

(37)茨島の歌碑

 

茨島の啄木歌碑

 

茨島の松の並木の街道を

われと行きし少女

才をたのみき

      啄木

 

茨島は、盛岡から渋民へ向かう途中の地名で、「われと行きし少女」は節子の親友の板垣玉代で、茨島に住んでおり、啄木もよく遊びに来ていました。啄木は恋多き少年で玉代にも好意を寄せていたのでしょう。この歌碑は、銀河鉄道「厨川駅」から盛岡方面に400mほど進んだ国道4号線の道路沿いにあり、板垣家の人々が建立しました。

 

(38)帰帆場公園の歌碑(岩手県北上市)

 

 帰帆場公園の啄木歌碑

 

 わが恋を

 はじめて友にうち明けし夜のことなど

 思ひ出づる日

            石川啄木

 

啄木は盛岡中学退学直前の明治35年10月初旬、盛岡高等小学校、盛岡中学と同級生の小沢恒一を黒沢尻(現・岩手県北上市)の実家を訪れ、節子との恋の悩みを相談しました。啄木は後日、このことを感謝の念を込めて、日記(明治35年11月14日)に綴っています。北上市では啄木と小沢の友情にちなんだこの歌を選んで帰暢場公園に建立しました。

 

 

 

 

 


啄木中学時代の歌の碑(続)

2021年10月07日 | 啄木歌碑

(30)長浜海岸(宮城県石巻市)の歌碑

 

啄木は明治35年5月、中学5年の修学旅行で石巻を訪れ、長浜海岸を詠んでいます。

 

 

 

 砕けてはまたかへしくる大波の

 ゆくらゆくらに胸おどる洋

           啄木

 

この歌は、明治35年11月5日の啄木日記(秋韷笛語)にある歌42首の中に「石の巻を懐ふ」と題した歌2首あり、この歌と、もう1首は、次の歌です。

 

   「くるゝ雲をはてを何所としらずして   洋覆ふ幕に想ひ入りぬる。」

 

 

(31)惣宗寺の歌碑(栃木県佐野市)

 

明治時代の政治家田中正造は天皇に足尾銅山鉱毒被害による農民の窮状を直訴しました。盛岡中学の啄木はこの感動を「鉱毒」の題目で『白羊会歌会草稿』(明治35年)に発表しました。

 

 

夕川に葦は枯れたり

   血にまとう民の叫びの

    など悲しきや

         石川啄木

 

近代日本の先駆者田中正造翁は 明治34年12月10日第15議会開院式から帰る途中の明治天皇に足尾銅山鉱毒被害による渡良瀬沿岸農民の窮状を直訴する 当時盛岡中学3年在学中の啄木はこの感動を31文字に托した 奇しくもこの年創立された県立佐野中学校(第四中学)の生徒達にも鉱毒の惨状は強い衝撃を与え作文その他に残されている。

惣宗寺では、啄木生誕百年を記念して田中正造翁の墓の前にこの歌碑を建立しました。

 

なお、白羊会は啄木が盛岡中学の友人と結成した短歌研究会です。