啄木は東京行きを決意し、家族を小樽から函館の借家に迎え入れるため、函館にむかいました。酒田丸は岩手県の宮古経由の函館行きでした。
啄木寄港の地の碑 (岩手県宮古市)
啄木寄港の地の碑
「起きて見れば、雨が波のしぶきと共に甲板を洗うて居る。灰色の濃霧が限界を閉じて、海は灰色の波を挙げて居る。船は灰色の波にもまれて、木の葉の如く太平洋の中に漂うて居る。
十時頃瓦斯が晴れた。午後二時十分宮古港に入る。すぐ上陸して入浴、梅の蕾を見て驚く。梅許りではない。四方の山に松や杉、これは北海道で見られぬ景色だ。菊池君の手紙を先に届けて置いて道又金吾氏(医師)を訪ふ。御馳走になったり、富田先生の消息を聞いたりして夕刻辞す。街は古風な、沈んだ、かびの生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗った抜衣紋の女である。鎮痛膏をこめかみに貼った女の家でウドンを喰う。唯二間だけの隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習って居た。芸者にするかと問えば、“何になりやんすだすか”
夜九時抜錨。同室の鰊取り親方の気焔を聞く。」
明治41年4月6日の『啄木日記』が刻まれています。酒田丸は函館への途中、岩手県宮古に立ち寄り、啄木も宮古で降り、啄木最後の岩手県入りとなりました。なお、碑の写真は宮古市教育委員会の假屋さんから提供を受けました。