(35)富士見橋の歌碑(盛岡市加賀野) 昭和56年4月建立(『一握の砂』より)
富士見橋の啄木歌碑
岩手山
秋はふもとの三方の
野に満つる蟲を何と聴くらむ
啄 木
啄木は帷子小路の新婚の家で3週間暮らし、明治38年6月25日、加賀野磧町に転居しました。ここでは、同年9月5日、『小天地』第1号が発刊されております。昭和56年、加賀野の家のすぐ傍を流れる中津川に富士見橋が造られ、橋柱に啄木の歌を刻んだ銅版をはめ、欄干は『小天地』の表紙のケシの花をモチーフにしました。啄木が住んだ住居跡には、啄木に関する案内板が立っています。
案内板
啄木「小天地」発行の跡
明治38年(1905)6月25日、啄木が新婚3週間目に転居してきたのがこの地であり、また、文芸雑誌「小天地」を発行したのもここであった。ここに住んだのは、翌年3月に代用教員となって渋民に帰るまでのわずか9か月間であるが、啄木の生涯において記念すべき時代であった。この地の感想は随想「閑天地」我が四畳半(八)並びに「江畔雑詩」のはしがきに詳しく述べられている。
橋の欄干は『小天地』の表紙のケシの花をモチーフにし『小天地』をイメージしております。歌についても『小天地』の中から選んでほしかったですね。例えば、
「みちのくや丘の公孫樹の金色の秋の雲にし鵠は巣くひぬ」
「小天地」は石川啄木が盛岡市で発行した唯一の文芸雑誌ですが第1号で廃刊になっています。啄木の長詩「佛頭光」、妻節子の短詩「こほろぎ」、金田一花明(京助)の小説「幻境」など郷土の文人のほか、与謝野寛(鉄幹)の長詩「森かげ」、正宗白鳥の「評論一則」などが収められています。
富士見橋は「上の橋」の上流にある歩道橋です。冬になると白鳥も見れます。
富士見橋
上の橋(かみのはし)
上の橋(手前の欄干)から見た富士見橋
上の橋は、中の橋、下の橋とともに昔から「盛岡三橋」と呼ばれてきました。盛岡築城と平行して架けられ、欄干を飾っている青銅製の擬宝珠(ぎぼし)はその当時のものです。これほど古い擬宝珠が残っている橋は日本で3箇所(盛岡 上の橋,盛岡 下の橋,京都 三条大橋)のみで、国の重要美術品に指定されており、盛岡の観光名所の1つとなっています。
「富士見橋」上流の中津川橋(歩道橋)