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たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡市指定文化財(1)

2024年12月31日 | ぶらりぶらり

盛岡市に所在する文化財を掲載しております。これまでに、国指定・国認定・国登録・岩手県指定の文化財を載せてきました。今回は盛岡市指定文化財です。盛岡市指定文化財には、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、この他、記念物があります。今回は有形文化財の (1)建造物です。

 

盛岡市指定文化財

有形文化財

(1)建造物

(ⅰ)  彦御蔵                 盛岡市内丸(盛岡城跡内)

 

 

盛岡市では、市内に残されている数多くの文化財のうち、貴重なものを守り伝えるため、文化財指定を行っています。盛岡市指定有形文化財は8件あります。彦御蔵は旧盛岡城の土蔵です。平成元年3月までは、現在地から西に100メートルほど離れたところにありましたが、現在の位置へ曳家されました。建築年代は建物地下の発掘調査成果などから、江戸時代後期と考えられますが、詳細な建築年は不明です。木造2階建(土蔵造り)で、外壁は漆喰塗り仕上げになっています。この土蔵は、盛岡城の建造物として、城内に残っている唯一の建造物です。

 

(ⅱ)  明治橋際の御蔵                盛岡市南大通

 

御蔵は江戸時代後期に盛岡藩によって建てられた建物です。当時この付近は新山河岸と呼ばれ北上川舟運の拠点の1つとして藩でも重要視されていました。新山河岸は御蔵の他、番所や舟宿が軒を連ね、奥州街道も通っていた事から、多くの人や物資が行き交う活気のある地域でした。御蔵は土蔵、平屋建て、切妻平入り、瓦葺の建物で、高床や屋根に断熱層があるなど、湿気や温度に対応出来る工夫がされています。現在は「下町史料館」として一般公開され様々な資料が展示されています。

 

(ⅲ)  旧渋民尋常小学校 校舎               盛岡市渋民(石川啄木記念館中庭)

 

旧渋民尋常小学校校舎は啄木記念館の中庭に保存されています。石川啄木が少年期に学び、後に「日本一の代用教員」を目指して教壇に立った学び舎です。旧渋民尋常小学校は、明治17年、旧渋民村の愛宕神杜わきに建設されました。その後、大正2年に渋民小学校松内分校として移転し、昭和31年には統合によって好摩小学校の分校となりましたが、昭和38年に廃校となりました。廃校後は、松内地区公民館として地元住民に利用されたものの、解体されることになりましたが、住民や啄木研究家などの運動によって昭和43年、石川啄木記念館の中庭に移転復元されました。

 

(ⅳ)  啄木新婚の家                   盛岡市中央通

 

啄木は、明治38年5月、東京で処女詩集「あこがれ」を出版し、金策の必要から途中仙台に下車して友人と遊び、滞在すること10日におよびました。盛岡市帷子小路の借家には月末の30日に結婚式を挙げるべく婚約者の掘合節子がその帰宅を待ちわびていました。しかし、啄木は遂に姿を見せることなく、花婿のいない結婚式がこの家でおこなわれました。仙台を発った啄木は盛岡駅を素通りして渋民に行き、この家に顔を見せたのが6月4日で、はじめて新婚の夫婦と両親、妹光子の5人が揃いました。しかし、啄木一家がここにいたのは3週間で、6月25日には中津川のほとり加賀野磧町に転居しました。啄木が3週間過ごしたこの家は「啄木新婚の家」として、昭和59年7月1日、盛岡市指定文化財に指定されました。

 

(ⅴ)  原敬 生家                盛岡市本宮 

 

原敬生家は、茅葺屋根の木造平屋建てで一部2階建の住宅でしたが、祖父の時代に、当時の間取りに不便を感じ、改築され、現在は居間の直記の間、次の間、隅の間、女中部屋など当時の5分の1が残っています。武家屋敷らしく、長押には、鶴貝の彫刻の金具を釘隠しに使用しており、内部は非常に質素な作りで、天井も普通の竿ぶちで、構造的な特徴はありません。庭園に池もあり、風格がありますが、住宅から眺めるのに縁側もありません。原敬は安政3年(1856) に、この家で生まれ明治4年、15歳で上京するまで、この家で生活し、少年期を形成しました。

 

(ⅵ)  報恩寺羅漢堂                盛岡市名須川町

 

羅漢堂の仏像は、報恩寺第17世曇樹和尚が大願主として施入したもので、羅漢は最初500像納められましたが、現在は499像が保存されています。仏像は胎内銘によると、享保16年(1731)から享保19年の4年間に京都の大仏師法橋宗而重賢、駒野定英珍盈ら9人の仏師によって京都で作成されたことがわかります。羅漢堂は、享保20年8月の棟札があり、羅漢像の完成によって造営されたと考えられています。本堂はその後、「上棟相済云々」の銘板によると嘉永3年(1850)8月から嘉永4年7月にかけて、地元の大工棟梁戸沢甚助以下20余名により改建されています。なお、五百羅漢は昭和41年10月、盛岡市指定有形文化財(彫刻)に指定されました。

 

(ⅶ)  旧斎藤家住宅                 盛岡市渋民(石川啄木記念館中庭)

 

斉藤家住宅は江戸時代末期、奥州道中に建てられた町屋で、建物構造は、木造一部二階建ての妻入り直屋で、屋根は兜形に軒先を切り落とした寄せ棟となっています。建物規模は、間口三間半、奥行き八間半と細長く1階の片側に表から裏にぬける一間幅の通り土間を設けています。部屋の配置は、表側から床の間のついた座敷、常居、納戸、台所、一番奥には馬屋があり、表側の二階部分には十畳の板の間を設け、表側に張り出した縁は格子戸をはずして使いました。啄木が、明治39年3月から約1年間、渋民尋常小学校代用教員時代に家族とともに間借りしていた建物であることから、昭和45年に石川啄木記念館中庭に移築保存されました。小説「雲は天才である」・「葬列」などの作品はこの家で生まれました。盛岡市指定文化財の建造物は、この他、旧宇津野発電所もあり、上記7件とあわせて8件になります。

 

 


盛岡市所在文化財(16)

2024年12月08日 | ぶらりぶらり

盛岡市に所在する文化財を載せています。これまでは、国指定の、有形文化財、民族文化財、記念物、国認定文化財・重要美術品,、国登録文化財を、つづいて岩手県指定文化財を載せています。岩手県指定文化財には有形文化財(建造物、工芸、考古資料)、無形文化財民俗文化財記念物があり、これまで有形文化財、無形文化財、民俗文化財を載せましたので、今回は記念物です。記念物には史跡と天然記念物の2つがあります。

 

岩手県指定記念物

(1) 史 跡

(ⅰ) 上田一里塚                盛岡市緑が丘

 

 

奥州街道に沿う上田一里塚です。奥州街道は、江戸時代に整備された五街道の一つです。明治時代になると、明治9年と明治14年に、明治天皇が東北地方を巡幸されました。その際、馬車の通行を容易にするため奥州街道の道幅は2間(約3.6メートル)に拡幅されました。しかし、明治17年から始まった国道整備では、多くの区間で奥州街道と異なるルートで整備されましたが、古道が今日まで残っています。この他、小野松一里塚や宮古街道の川目地区にある「高畑一里塚」、大館町遺跡など、あわせて9件が岩手県指定記念物の史跡に指定されています。

 

岩手県指定記念物(史跡)

   種別     文化財     所 在 地
  1  史跡  上田一里塚  盛岡市緑が丘四丁目74-5
  2 史跡  小野松一里塚  盛岡市小鳥沢・松屋敷
  3 史跡  末崎川一里塚  盛岡市薮川字末崎川
  4 史跡  毘沙門堂平一里塚  盛岡市薮川字逆川
  5 史跡  塚の沢一里塚 盛岡市薮川字外山
  6 史跡  大橋一里塚  盛岡市薮川字亀橋
  7 史跡  新塚一里塚  盛岡市芋田字上芋田
  8 史跡  高畑一里塚  盛岡市川目3地割11-3
  9 史跡  大館町遺跡  盛岡市大新町10-11

 

(2) 天然記念物

(ⅰ) 山岸のカキツバタ群落           盛岡市山岸字大平

 

 

例年5月下旬から6月上旬が見頃になります。カキツバタは、ハナショウブ、イチハツ、アヤメとともに、アヤメ科の多年生草木で、このうち最も気品に満ち、美しいとされています。全国的に分布していますが、「山岸のカキツバタ群落」は数少ない単純群落の良い例として貴重なものです。盛岡は、江戸時代からカキツバタ原産地の一つとして有名であったと言われ、昭和46年には盛岡市のシンボルとして「市の花」にカキツバタが選ばれています。この他、玉山のシダレアカマツも指定されており、天然記念物は2件が指定されています。

 

   岩手県指定記念物(天然記念物)

         種別                文化財            所 在 地
  1 天然記念物  山岸のカキツバタ群落  盛岡市山岸字大平12
  2 天然記念物  玉山のシダレアカマツ  盛岡市玉山字祝の沢