たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

啄木生誕130年(4)

2016年02月04日 | 啄木歌碑
啄木結婚
明治38年、啄木は結婚式には間に合わなかったが、無事盛岡に着き、新婚生活をはじめた。住まいは盛岡の帷子小路の一軒家で、啄木家を含め3家族が住んでいたようです。現在、「啄木新婚の家」として公開していますが、啄木家は裏側にある玄関を使用し、啄木夫婦は四畳半での生活でした。



啄木新婚の家(表玄関)


啄木新婚の家(裏玄関)


啄木夫婦の4畳半


啄木には狭かったのでしょう、ここには3週間しか居らず、一家は加賀野の中津川沿いの一軒家に引っ越した。啄木はここで「小天地」を編集している。なお、当時の住居跡には、現在アパート「啄木荘」が建っており、その壁側に案内板が立っている。

 
小天地発行所跡

啄木「小天地」発行所跡(案内板)

明治38年、啄木が新婚の家から転居してきた地であり、「小天地」を発行したところです。ここに住んだのは翌年3月に代用教員になって渋民に行くまでの9か月でした。この地の感想は「閑天地」等に述べられている。
啄木荘の近くに、中津川にかかる歩道橋「富士見橋」があり、その欄干に啄木の歌が刻まれている。


富士見橋の啄木歌碑


岩手山秋はふもとの
三方の
野に満つる虫を何と聴くらむ

啄木


明治39年3月、啄木は盛岡を離れ渋民で生活することにした。父一禎は野辺地の方に行っているので、啄木、節子と母の3人だけでした。借家は斎藤さんの家でした。なお、当時の斉藤さんの家は現在、啄木記念館の庭に移転保存されています。


旧斉藤家


現・斉藤さん宅前の啄木歌碑


かにかくに渋民村は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川

石川啄木



斉藤家は渋民尋常小学校からすぐ近くで、小学校は愛宕神社がある愛宕の森の麓にあった。一禎も野辺地よりもどり、啄木も4月から渋民尋常小学校代用教員になりました。



愛宕の森の啄木歌碑

新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれどー

啄木


明治40年、啄木は渋民尋常小学校代用教員をやめることになり、同僚の堀田秀子を訪れた。


八幡平市平舘新山の啄木歌碑

かの家の
かの窓にこそ
春の夜を
秀子とともに
蛙聴きけれ

啄木



秀子を訪れた翌日、追われるような気持で、妹光子と渋民村を出、青森から船に乗り、北海道に向かった。斉藤家に滞在したのは1年2か月でした。



渋民小学校脇の歩道に刻まれた啄木の歌

石をもて追はるるごとく
ふるさとを出でしかなしみ
消ゆる時なし



函館までの船はだいぶ揺れがはげしく、妹光子の船酔いもひどかったようです。


青森合浦公園の啄木歌碑


船に酔ひてやさしくなれる
いもうとの眼見ゆ
津軽の海を思へば

啄木
  


盛岡は雪も少なく、比較的暖かく、いわて雪まつりは雪像もなく、子供用のソリ滑り台だけがつくられています。また、岩洞湖のワカサギ釣りも2月になってようやく解禁されました。


いわて雪まつり(小岩井農場)


雪まつりの子供用滑り台


小岩井農場の一本桜






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