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たかしの啄木歌碑礼賛(続)

啄木歌碑およびぶらぶら旅

盛岡の啄木歌碑

2019年07月28日 | 啄木歌碑

啄木歌碑    

以前、盛岡の「オームラ洋裁専門学校」前に啄木の歌碑があったと聞きますが、見つからないので、どうしたのかと思っていました。先日盛岡の啄木記念館に行った時に、聞きましたところ、閉校後、歌碑は高松の池畔、矢巾温泉「イーハトーブの森」前へと移転され、平成26年に現在の盛岡市中堤町の森さん宅の道路に面したところに移転された、ということでした。早速行ってみると、下記の歌碑が設置されていました。この歌碑が、以前「オームラ洋裁専門学校」前にあった啄木の歌碑のようです。


故郷の山二向かひて           啄 木

言ふこと那し ふるさと能の山はありが多起か那


 

7月も末となり、盛岡はだいぶ暑く、今朝の最低気温が24度ぐらいでした。今日は町内会のお祭りで20時から花火大会がありました。

花火は夏を感じますよね。

 

2019.7.28

 


2019.7.28



 

 


啄木歌碑めぐり(56)

2019年03月01日 | 啄木歌碑

啄木が釧路を訪れてから111年が経ちます。滞在は2か月半ほどでしたが、啄木は釧路の人は今も忘れず愛されており、歌碑などもたくさん建立されています。


(56)港文館前の歌碑(釧路市大町)      昭和47年10月14日建立(『一握の砂』より) 

 



 

             石川啄木のよめる明治41年1月21日釧路駅で

                   さいはての駅に下り立ち

                  雪あかり

                  さびしき町にあゆみ入りにき

                                 小奴

 

啄木は、明治41年1月21日、釧路駅に着き、翌日、釧路新聞社に出社、下宿を洲崎町の“関″さん宅にお世

になることにしました。この歌碑は幸町公園に設置していたものを、平成5年5月に現在の港文館敷地内に

したもので、恋人の小奴の揮毛による啄木の歌が刻まれています。


 

啄木日記(明治41年1月21日)   

       
午前六時半、白石氏と共に釧路行一番の旭川発に乗つた。程なくして枯林の中から旭日が赤々と上つた。

空知川の岸に添うて上る。此辺が所謂最も北海道的な所だ。 

石狩十勝の国境を越えて、五分間を要する大トンネルを通ると、右の方一望幾百里、真に譬ふるに辞なき

大景である。汽車は逶迤たる路を下つて、午后三時半帯広町を通過、九時半此釧路に着。


停車場から十町許り、迎へに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、幣舞橋といふを渡つた。浦見町の佐藤氏宅

に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて十二時過ぐる迄小宴。


石川啄木・釧路第一泊目の地にたつ碑


 (碑文面)停車場から十町許り、迎へに来た佐藤国司氏と共に歩いて、幣舞橋というを渡った。浦見町の佐藤氏

に着いて、行李を下す。秋元町長、木下成太郎(道会議員)の諸氏が見えて12時過ぎ迄小宴(1月21日 日記)









 


啄木歌碑めぐり(55)

2019年01月27日 | 啄木歌碑

(55)旭川観光物産情報センターの歌碑            平成24年4月建立(『一握の砂』より)


啄木は明治41年1月20日、小樽から釧路に向かう途中、旭川で一泊、旭川に関する歌4首を詠んでいま

す。

JR旭川駅構内の旭川観光物産情報センターに、この時の歌を刻んだ啄木像が、没後100年に当たる平成

24年に建立されました。


 旭川観光物産情報センターの歌碑





 

              名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の宿屋安けし我が家のごと 

               伴なりしかの代議士の口あける青き寐顔をかなしと思ひき  

              今夜こそ思ふ存分泣いてみむと泊りし宿屋の茶のぬるさかな  

              水蒸気列車の窓に花のごと凍てしを染むるあかつきの色



啄木日記

明治41年1月20日          

 曇天。十時半岩見沢発。途中石狩川の雪に埋もれたのを見た。午后三時十五分当旭川下車、停車場

前の宮越屋に投宿。旭川は小さい札幌だ。戸数六千、人口三万、街衢整然として幾百本の電柱の、一

直線に列んでるのは気持がよい。北海旭新聞を訪問した。日が暮れて白石氏も着いた。晩餐を済まし

て、“雪中行”第二信と手紙数本をかいて就寝。


 

啄木は停車場前の宿に一泊しました。以前、私が、旭川を訪れたときには、宿の跡地に西武デパート旭川

店が建っており、その一角に「啄木宿泊の地」の標柱が立っていました。現在デパートは閉店したようです

が、どのようになったのでしょう。


 

「啄木宿泊の地」の標柱

 

 

 

 

 


啄木歌碑めぐり(54)

2019年01月02日 | 啄木歌碑

(54)滝川公園の歌碑    昭和25年6月建立(『一握の砂』より) 

啄木は111年前の1月釧路駅に向かっていました。

 

滝川公園の啄木歌碑 

 

啄木

空知川雪に埋れて

鳥もみえず

岸辺の林尓人ひとりゐき

 

啄木は釧路に向かう途中、列車の中から「石狩川の雪に埋もれたのを見た」と日記(明治41年1月20日)にあります。この歌碑は昭和25年、滝川町開町60周年を記念して滝川市空知太の金刀比羅神社境内に建立されましが、空知大橋掛け替え工事のため昭和41年に滝川公園に移されました滝川公園は隣町の砂川市の住所になっていますが、この公園は滝川市で管理しているようです。

 

JR滝川駅前のバスターミナルから砂川方面行きのバスで10分ほどの滝川公園前停留所で下車バス停から少し戻って右折して空知川沿いに15分ほど歩くと滝川公園があります。公園の上を滝川バイパスが横切っているので、すぐにわかります。

 

啄木日記 

明治41年1月20日          
 曇天。十時半岩見沢発。途中石狩川の雪に埋もれたのを見た。午后三時十五分当旭川下車、停車場前の宮越屋に投宿。旭川は小さい札幌だ。戸数六千、人口三万、街衢整然として幾百本の電柱の、一直線に列んでるのは気持がよい。北海旭新聞を訪問した。日が暮れて白石氏も着いた。晩餐を済まして、“雪中行”第二信と手紙数本をかいて就寝。





彫刻のまち盛岡(6)

2018年12月26日 | 啄木歌碑

盛岡彫刻シンポジウム」作品を載せています。


6)天昌寺児童公園の彫刻

天昌寺児童公園は舘坂橋から秋田方向に進み天昌寺信号を左折信仰すると、手づくりだんごの店「ふるさとや」があります。美味しいダンゴです。そこを左折すると、まもなく天昌寺児童公園です。


 ① 斜    佐藤淳一     1980  天昌寺児童公園

  

 斜     佐藤淳一   (天昌寺児童公園)

  

 

 

 

 

 

 

 ➁ 転  荒井俊也     1980  天昌寺児童公園

 

 
転  荒井俊也  (天昌寺児童公園)


 

 

 

 

 

 


盛岡市保存樹木(65番 裁判所のモミ )

2018年12月19日 | 啄木歌碑

65番 裁判所のモミ     盛岡市内丸9-1

 










 

裁判所には国指定天然記念物の石割桜があります。

 



国指定天然記念物の盛岡地方裁判所の「石割り桜」


平成27年4月から盛岡市の「景観重要樹木」になりました。

景観重要樹木

樹木の種類(名称)  裁判所のモミ

27

指定年月日 平成27年4月1日

所在地 盛岡市内丸9-1

樹木の樹容の特徴

市街地の緑として貴重であり,樹容に優れ良好な景観の形 成に寄与している。【指定時推定樹齢:240年】





 

 

 

 


啄木歌碑ひめぐり(53)

2018年12月07日 | 啄木歌碑

(53)美唄駅前広場の歌碑                         平成15年7月建立 (『一握の砂』より)


美唄駅前広場の啄木歌碑


 石狩の美国といへる停車場の

 柵に乾してありし

 赤き布片かな

 啄木

 

啄木は、明治41年1月19日、小樽を発って、岩見沢に一泊し、翌日、美唄駅を通過し釧路に向かいました。この歌の中に「美国」とありますが、石狩地方には「美国」という駅名は存在しないため、「美国」といえる停車場は「美唄」駅を指すのだろうと、平成15年に美唄駅前広場に、啄木歌碑を建立しました。





啄木歌碑めぐり(52)

2018年11月18日 | 啄木歌碑

(52)法用寺境内の歌碑(福島県会津市)           昭和60年10 月建(『一握の砂』より) 

 



敵として憎みし友と

やや長く手をば握りき

わかれといふに

啄木

 

小樽日報の先輩であり確執のあった小林寅吉が、明治41年1月19日、釧路に向かう啄木を見送りに来た時の様子を詠んだ歌です。小林は会津美里町雀林出身で、晩年この法用寺の住職を務めました。そのような関係から、啄木生誕100年を記念して歌碑が建立されました。

 

啄木日記            

明治41年1月19日 

 午前十一時四十分汽車に乗る。雪が降り出した。 札幌で白石氏は降りた。午后4時岩見沢に下車、橇を駆つて此姉が家に着く。札幌の妹も来て居たが、夕方の汽車で帰つて行つた。凍れるビールをストーブに解かし、雞を割いて楽しい晩餐を済ました。此夜は茲で一夜を明かすのだ。“雪中行”第一信を二通書いた、日報と釧路新聞のために。


盛岡は寒くなり、今朝の気温は零度でした。今朝、気づきましたが、岩手山頂上付近は雪に覆われていました。そういえば、昨日はガソリンスタンドは冬タイヤ交換のため込み合っていました。


岩手山(2018.11.18)

  


蓋平館跡地の啄木歌碑

2018年10月23日 | 啄木歌碑

啄木が下宿した蓋平館(がいへいかん)あとは旅館太栄館が営業していましたが、2年ほど前に営業をやめ、跡地にマンションが建ったと聞きましたので、歌碑はどうなったのかと訪れました。バスで東大正門前で下車すると郵便局があり郵便局の脇の道を進んで行くと200mほどの所でした。確かに跡地にはマンションが建っておりましたが、歌碑は幾分移動されましたがマンションの前に無事残っていました。

 

 

 マンション前の啄木歌碑

 


 

石川啄木由縁之宿

東海の小鳥の 
磯の白砂に 
我泣き濡れて 
蟹とたはむる

 

 



 

 

 

蓋平館別館跡の啄木歌碑(以前の掲載分)


 
 東京は狭いので歩いて何処までも行けます。今回は啄木が下宿したといわれる蓋平館別荘跡を訪ねます。東大赤門付近の向かい側の道路を進んでいくと旅館太栄館に着きます。ここは啄木が金田一京助の世話になり明治41年9月から翌年6月まで住んだ2番目の下宿蓋平館(がいへいかん)跡で、現在は旅館太栄館が営業しています。啄木は、ここでは小説「鳥影」を執筆、また多くの短歌を作ったところです。玄関前に蓋平館別荘跡の説明板があり、啄木の歌碑が建立されている。

 






石川啄木由縁之宿

東海の小鳥の 
磯の白砂に 
我泣き濡れて 
蟹とたはむる





この歌は、明星(明治41年7月号)、創作(明治43年7月号)、拡野(明治43年9月号)、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されている。








石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別館跡
(東京都文京区本郷6-10-12 太栄館)

 石川啄木(一(はじめ)・1886~1912)は、明治41年(1908年)5月、北海道の放浪から創作生活に入るため上京し、赤心館 (オルガノ工場内・現本郷5ノ5ノ6)に下宿した。小説5篇を執筆したが、売込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。前の歌碑の「東海の………」の歌は、この時の歌である。
 赤心館での下宿代が滞り、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。3階の3畳半の室に入ったが、「富士力見える、富士が見える」と喜んだという。
 ここでは、小説『鳥影』を書き、東京毎日新聞社に連載された。また、『スバル』が創刊され、啄木は名儀人となった。北原白秋、木下杢太郎や吉井勇などが編集のため訪れた。
 東京朝日新聞社の校正係として定職を得、旧本郷弓町(現本郷2ノ388ノ9)の喜の床に移った。ここでの生活は9か月間であった。
 蓋平館は、昭和10年頃大栄館と名称が変ったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。

父のごと秋はいかめし
母のごと秋はなつかし
家持たぬ児に 

                       
                         (明治41年9月14日作・蓋平館で)


-郷土愛をはぐくむ文化財-
文京区教育委員会
昭和56年9月
 

 

 


啄木歌碑めぐり(51)

2018年10月01日 | 啄木歌碑

(51)小樽駅前の歌碑                            平成17年10月建立(『一握の砂』より)


小樽駅前の啄木歌碑  


子を負ひて

雪の吹き入る停車場に

われ見送りし妻の眉かな

                          

 

小樽日報の事務長小林寅吉と争論し、腕力を揮われ、明治40年12月20日、啄木は退社しました。わずか3ヶ月足らずの小樽生活でした。明治41年1月19日、釧路新聞社に勤務が決まり、釧路に向かう啄木を、節子が京子を負って送りに来た時の駅での情景を詠んでいます。






石川啄木と小樽駅



啄木日記(明治41年)

1月17日
 夕方、日報社の小使が迎ひに来たので、白石社長を訪ふ。釧路行は明後日の午前9時と決定した。

1月18日                                                                小樽に於ける最後の一夜は、今更に家庭の楽しみを覚えさせる。持つて行くべき手廻りの物や本など行李に収めて、四時就床。明日は母と妻と愛児とを此地に残して、自分一人雪に埋れたる北海道を横断するのだ!! 

1月19日           
 朝起きて顔を洗つてると、頼んで置いた車夫が橇を曳いて来た。ソコソコに飯を食つて停車場へ橇を走らした。妻は京子を負ふて送りに来たが、白石 氏が遅れて来たので午前九時の列車に乗りおくれた。妻は空しく帰つて行つた。予は何となく小樽を去りたくない様な心地になつた。小榑を去りたくないのではない、家庭を離れたくないのだ。
 白石氏の宅へ行つて次の発車を待ち合せ、午前11時40 分汽車に乗る。雪が降り出した。札幌で白石氏は降りた。